「公民」
 『新マルクス学事典』(弘文堂、2000年)の執筆項目


 ヘーゲル法哲学を超克しヘーゲル左派を乗り越えんとする途上にあって、若きマルクスは市民社会と政治的国家が分離した近代における人間のありようについて考察した。そこでは、公民とは、当時の理論的了解通りに、市民社会の成員とは区別された国家の成員、もしくは自然状態における人間に対する国家状態における人間であった。

 当初の「ヘーゲル国法論批判」で、マルクスは、近代における市民社会と政治的国家の分離、二次元的一体性に即応する市民と国家公民への人間の自己分割、市民の国家公民への化体をヘーゲルの所論から摂取した。その際、「欲求の体系」たる市民社会に対し「人倫的理念の現実態」として国家を位置づけ、人間の本来的な真のあり方を国家公民たることに定めたヘーゲルの問題構成になお引きずられて、「国家成員としての規定が……彼の人間的規定として現れる」(1:321)という見解を示していた。続く「ユダヤ人問題によせて」では、B.バウアーを批判して近代の「政治的解放」の限界を見極める人権論議のなかで、マルクスは、フランス革命の「人間および公民の権利宣言」やアメリカ独立革命の人権宣言の論理を吸収してあらたな見地を獲得していった。「政治的解放」は、一方では市民社会の成員、現実的で利己的な独立した個人への、他方では政治的国家の政治的国家の成員、抽象的な公民への人間の分裂であった。だが、それらの人権宣言では、「公民は自己的な人間の召使と宣言され・・・・・・公民としての人間ではなしにブルジョアとしての人間が本来の真の人間だと考えられた」(1:403)。かかる公民に関する把握の転換は、真の政治的共同体としての国家から幻想的な共同体としての国家へという国家観の転回に照応した。近代の正統的な自然法学を具現するフランスやアメリカの人権宣言の研究を介して、マルクスは、ヘーゲル法哲学の国家公民論のドイツ的倒錯性を覚識し、また人権宣言で表明される公民の人為的で非本来的な性格をもつかんでいった。同時に、近代における人間の自己分裂を止揚する展望を「現実の個人的人間が抽象的な公民を自分のうちに取り戻す」(同:407)という方位で打ち出すことになった。

 マルクスの公民観念は、ヘーゲルの国家主義的な国家公民からフランス革命の人権宣言などでの自由主義的な公民へと転回した。しかし、その公民観念は、citoyenをStaatsburgerをして訳解したドイツの伝統と、個人と国家のディコトミーをとり中間集団を排除した近代の正統的自然法学とに二重に制約されて、いささか狭隘であった。ただ、ひとつには、マルクスのいくつかの著述から、burgerliche Gesellschaftのブルジョア社会と市民社会への分化を読み取ることも可能である。またひとつには、経済と国家を接合する中間領域としての「社会的生活過程」(経済学批判,13:6)についての踏み込んだ分析的研究は乏しかったが、それでも後期のマルクスは、諸階級が結成する諸々の集団として(株式)企業、労働組合、協同組合、政党、新聞社などについても注目し分析の対象とした。これらを踏まえて、国家に限らずに政治社会、市民社会をも視野に収めて公共性の範圏を拡充し、初期マルクスの公民概念を再定立する必要があろう。

文献
 福田歓一「<市民>について」『近代政治原理成立史序説』所収、岩波書店、1971
 J.ハーバーマス(細谷貞雄訳)『公共性の構造転換(第2版)』未来社、1994

(大藪龍介)