「共産主義(U)」
 『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998年)の執筆項目


【テキスト】
「われわれが共産主義と呼ぶころのものは、現在の状態を止揚する現実的な運動である。この運動の諸条件は今日現存する 前提から生ずる」(『ドイツ・イデオロギー』廣-37)
「この共産主義社会[の第1段階]は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、その共産主義社会が生まれでてきた母胎たる 旧社会の母斑をまだおびている。……個々の生産者はこれこれの労働を給付したという証明書を受け取り、この証明書をもって 消費手段の社会的貯蔵のうちから等しい労働量が費やされた消費手段を引きだす。個々の生産者は自分が一つのかたちで社会に与えたのと 同じ労働量を別のかたちで返してもらうのである。ここでは明らかに、商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと 同じ原則が支配している。……ここでは平等な権利は、まだやはりブルジョア的権利である」(『ゴータ綱領批判』19-20)
「共産主義社会のより高度な段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の 対立がなくなったのち、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の 全面的な発展にともなって、またその生産力も増大し、協同的富のあらゆる泉が一層豊かに沸きでるようになったのち──そのとき 初めてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる──各人はその能力に 応じて、各人にはその必要に応じて!」(同上19-21)
ソ連崩壊とマルクス共産主義論

 昨今の有力な主張のように、ソ連の体制的倒壊によってマルクスの社会主義論は歴史的に破産をとげたと考えるべきであろうか。 歴史の審判は確かに厳しいものであったが、しかし、ソ連の体制とマルクス理論との関係いかんをめぐっては、社会主義と公称されてきた ソ連体制はいったい何であるかの永年の論争と不可分に、見解が幾つにも分かれてきたのも事実である。従来圧倒的に支配的であったのは、 「マルクス=レーニン主義」の立場からマルクスの構想を実現した社会主義社会としてソ連を称える公式論であったが、それに抗して、 「マルクス=レーニン主義」やソ連「社会主義」をマルクス理論に違背すると厳しく批判する異論も所在してきた。古典マルクス主義と レーニン主義、スターリン主義の関係、さらには「マルクス、エンゲルス問題」など種々考慮するならば、ソ連の崩壊をもって マルクス共産主義論の破産を結論づけるのは短絡に過ぎるであろう。なお、以下では、共産主義と社会主義の概念的異同をめぐる問題には 立ち入らず、双方はほぼ互換可能なものとして扱う。

現存世界を覆す運動としての共産主義

 共産主義の基点 唯物論的歴史観の形成と並行して共産主義の思想的立場をかため独自の共産主義論考に踏みだしたマルクスは、共産主義をすぐれて 現状を止揚する運動として了解する(テキストA)。そして、その後の再三の明言が示すように、あらかじめ則るべき理想を掲げ その型に運動をはめこむのではなく、現に存在する資本主義社会そのものの内部に既成社会の解体契機と新社会の形成要素を 見いだすという態度を、終始堅持する。将来の共産主義社会についても、現存社会の内部に胚胎している新しい社会の諸要素を 開放するという方向で歴史的現実の発展動向にそって構想する。自由主義などと同様に共産主義も理念と運動と体制の三位一体を なすとするなら、現状を止揚せんとする自発的な運動としての共産主義にキー・ポイントをおくのがマルクスの根本的な構えであった。

 世界的性格 現存世界を根本的に覆すことは、「二つの実践的な前提」のもとでのみ可能である。客観的条件として、「生産力の普遍的な 発達とそれに結びついた世界交通」、主体的条件としては、あらゆる国民のなかに出現しながらすでに国民性の解消を体現している階級たる 「プロレタリアート」の存在である。すでに資本主義そのものが世界システム的に存立するのだから、それを止揚する共産主義は 「世界史的なあり方でしか存在しえない」必然性にある(廣-37〜39)。こうしてマルクスは、「万国のプロレタリア団結せよ!」 (4-508、16-11)と唱道するが、それに加え、「地方的共産主義」(廣-39)は共産主義の存在性格からして建設不可能であると ──スターリンの「一国社会主義」論に導かれたソ連「社会主義」の結末をも視野に収めていたかのごとく──確言している。

共産主義社会のパースペクティブ

 未来社会の発展工程 歴史的現実の展開と自らの理論的研究の進展につれてマルクスは人間社会史の未来についての構想を具体化してゆき、『ゴータ 綱領批判』では、資本主義社会→過渡期→共産主義社会(第1段階→高度な段階)という発展工程を想定するにいたる。 資本=賃労働関係や諸階級の対立、国家などを廃絶した共産主義社会は、旧社会を新社会へ改造する「長い生みの苦しみ」(19-21) の時期たる過渡期を経たのちに到達する地平である。その共産主義社会自体を、テキストB、Cのように、「第1段階」と「高度な段階」 にマルクスは発展段階として内部区分する。これは重要な理論的前進であった。テキストCのごとく、「分業の廃止」、「第一の生命欲求」 としての労働、「個人の全面的な発展」、「各人にはその必要に応じて」等、初期以来中期をつうじて思念されてきた共産主義社会の 諸目標は、「高度な段階」、すなわち「それ自身の土台の上に発展した共産主義社会」(19-19)の達成物として置き直され、 そうしたあるべき姿に接近するうえでのありうる姿が「第1段階」、すなわち「ようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」 (同上)として追求されることになるのである。未来社会構想を段階を追ってスケール・アップしていこうとする方法的姿勢と構想の 内容的具体化とをそこに看取することができよう。

 自由の根本原理 マルクスはアソシエーションをキー・ワードとして共産主義社会を構想する。だが、この論点については関連諸項目に譲り、 マルクスの共産主義社会像は通説的な原始共産主義社会の高次復活という共同体イメージではなく、それへの批判をこめて近年抬頭した 市民社会の歴史的高次化という市民社会イメージでもなかったことのみを記すにとどめる。アソシエーションは個々人の主体的な 自由の発揚を核心点にしており、共産主義社会は「自由な個人性」(草1-138)によって歴史的に特色づけられる。マルクスは 共産主義社会について、「個々人の独自の発展が決して空文句でない社会」(3-475)、「各個人の十分な自由な発展を根本原理とする より高い社会形態」(23b-771)等々と特徴的に規定している。「個人的所有」(23a-995、17-319)の揚言も、同じ論脈のなかに 位置する。平等もまた重要不可欠であるが、平等はさらに複雑で微妙な原理であり、マルクスの扱いはきわめて慎重であった。

 労働の解放 マルクスの論考を追思惟すると、共産主義社会への体制変革の根本課題として、私的所有の廃止=社会的共有という所有論的 アプローチと疎外された労働の廃棄=労働の解放という労働論的アプローチが並存し交叉している。時期によって論調に変化があり、 『共産党宣言』段階においては、所有の問題に根本をおき、端的に「共産主義者は、自己の理論を私的所有の廃止という一語に まとめることができる」(4-488)と言明している。だが、資本主義的生産=労働過程の分析的研究を深めた中期以降になると、 労働の問題に重点を移し、「労働の解放」(16-10、16-21、17-517)とその解放の形態の解明を第1の基本的目標として定めている。

 協同組合の連合体による計画的生産 「もし協同組合の連合体が共同計画に基づいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の 宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わられるとすれば……、それこそは共産主義、『可能な』共産主義でなくて なんであろうか!」(17-319〜320)。マルクスのヴィジョンによると、「協同組合の連合体」が「協議した連合体にしたがって」 (『フランス語版資本論』法政大学出版局、上巻、54頁)生産を組織し、生産過程は生産者達の意識的計画的な統制のもとにおかれる。 新しい社会的生産形態は協同組合を生産単位とする──レーニン『国家と革命』以来の通説のように全社会を一つの工場のように 編成するのではない──のだが、しかしながら、そこにおいて協議による計画がいかにして策定されるのか、計画的生産が どのようにして需要と供給の均衡を保ちつつ組織化されるのかについては、マルクスは明らかにしていない。他方で、「資本主義的 生産様式が維持されるかぎりでは、価値規定は……依然として重きをなす」(25-1090)。だが、資本主義社会での価値法則に代わって、 どんな法則的形態で社会的総労働は適正で合理的計画的に比例配分されるのであろうか。これについてもマルクスは解明に及んでいない。 共産主義社会での生産システムについてそれを「[実現]可能な」姿で描きだすことは、今日なお究明されてはいない大テーマの一つである。

 労働に応じた分配 マルクスが最も詳述しているのは、共産主義社会の「第1段階」での各人にはその労働に応じてという分配原則についてである。 テキストBのように、各人への消費手段の分配は等量労働交換としておこなわれる。その尺度は労働時間である。この交換に際して、 各人は「共同労働における生産者の個人的参加分と共同生産物の消費充当分に対する彼の個人的請求権とを確証する」「労働証明書」 (23a-126)を社会から受け取り、「この証明書をもって消費手段の社会的貯蔵のうちから」消費手段を引きだす。貨幣に代えて 「労働証明書」がこの社会では用いられる。

 提供した労働に等しい分の消費手段を手に入れるという点での各人に「平等の権利」を、マルクスは意外にも「ブルジョア的権利」 と規定している。この権利が「ブルジョア的」とされるのは、個人的天分や給付能力においても生活諸事情においても不平等である 諸個人に、消費手段の分配という特定の一面に関して、等量労働交換という同一の尺度を一律に適用することが、資本主義社会での 商品等価交換と相同的であるからである。しかし、この権利を「旧社会の母斑」として「ブルジョア的」と性格規定するのは 当を得ていないであろう。さらにマルクスは、こうした歴史的限界は生産力の限りない発達に基づいて共産主義社会の 「高度な段階」で踏みこえられると──生産力主義や産業優先主義の時代的な制約性を免れずに──想定している。

 国家にあたるもの 国家の消滅も、マルクスが当初から主張していた共産主義社会の一大標識である。『ゴータ綱領批判』でマルクスは、「国家制度は 共産主義社会においてどんなふうにかわるか?……そこでは今日の国家機能に似たどんな社会的機能が残るか?」(19-28) と設問するが、回答を示してはいない。けれども、それに先立つ行で、共産主義社会で社会的総生産物から控除されなければ ならないものの一群を列挙し、「直接に生産に属さない一般管理」、「学校や衛生設備等々」、「労働不能者等のための[福祉]」 (19-19)などの社会的共同事務の遂行にあたる機構の存在を黙示している。この社会では、階級対立は除去されていて、 資本主義社会までの階級社会に不可欠であった階級抑圧にあたる機構は不要であり存在しない。他面、社会的共同事務の遂行は 「なんらの支配も生じない実務上の問題となる」(18-644)。かつてマルクスは、とりわけサン・シモンの構想を摂取して 「国家は単なる生産管理機関に転化する」(4-505)と展望したが、正確には、共産主義社会において生産の経営管理機関= 機構として生産当事者達によって自主的に運営される協同組合とその連合体が存するのだから、それとはまた別の社会管理機構に 転化するのである。なお、『国家と革命』のレーニンは、共産主義社会の「第1段階」について、前出の「ブルジョア的権利」を 無批判的に広く一般化したうえで、権利は国家なしにはありえないという国家本位主義の見地から「ブルジョアジーなきブルジョア国家」 の存在を導く混乱に陥っている。

 今日的継承 マルクスは共産主義社会についてその輪郭と幾つかの断面を素描するにとどまった。それに、彼の構想は「科学的社会主義」 という自己充足的で特権的な性格を有するのでもない。だが、その原像は、むしろエンゲルスの論考を継受した20世紀の 定説的なマルクス主義社会主義・共産主義論に対して根本的な諸点で視座転換を迫っているし、今後もなお未来を照射する 思想的光源の一つとしての輝きを失わないであろう。
(大藪龍介)

【関連項目】アソシエーション、過渡期、共産主義(T)、分業
【参考文献】
レーニン『国家と革命』(1917)第5章
対馬忠行『クレムリンの神話』こぶし書房、1997年