藤田社会主義社会論の批判(下) |
『現代と展望』37号、1994年5月 |
二、過渡期国家論の歪曲(続) 社会主義と人権という、しばしば論争の的となってきたテーマに移ろう。藤田には研究の積み重ねがあるが、比較的早期(1968年)発表の2論文、「社会主義社会と人権」、「ロシア革命と基本的人権」と10年余り後の『社会主義社会論』「社会主義と市民的自由」の章とでは、かなりの理論的変化が見られる。 早期の論文で、藤田は、人権と社会主義革命のかかわりあいについて、ソヴェト・ロシアの経験を基にしながら、次のように概観している。「A 身分的特権→人権(ブルジョア民主主義革命)、B 人権の止揚−(a)人権の否定とプロレタリアー卜の階級的権利の確立(プロレタリア革命、過渡期)、(b)プロレタリアートの階級的権利→社会主義社会の市民の権利、(c)社会主義社会の市民の権利→権利範疇の死滅という歴史的コースが一般的に想定されうる」(注1)。この「人権の止揚」のシューマはスターリン主義的であるよりもむしろレーニン主義的であるのだが、そこには根本的な諸点での過誤が所在している。 第一点として、「人権の否定→階級的権利確立のプロセスの論理」(注2)が依拠しているのは、プロレタリアート独裁の一体的反面としてのプロレタリア民主主義、すなわち勤労人民大衆にとって自由、民主主義を飛躍的に拡大するが、敵対する階級にたいしては自由を剥奪し民主主義から排除するというレーニン理論である。「階級的権利」として、権利は自階級=味方階級に限定され、敵対階級には与えられない。「そこでは、生産手段の私的所有者にとっては自由のない状態がつくりだされ〔る〕」(注3)。だがしかし、これでは、ブルジョア的な到達地点と比しても、自由で民主主義的な性格を欠いている。 近・現代のブルジョア的な権利、民主主義も、勿論、階級的性格を刻みこまれており、階級的地位のいかんによって、各人の権利、民主主義へのかかわりにも大きな隔たりがある。それでも、その階級性は、19世紀後葉からのブルジョア民主主義の制度的定着の段階以降、被支配諸階級にたいする権利の剥奪ではなくて権利の保障、民主主義からの排除ではなくて民主主義への包摂において貫かれる。対立する諸階級にも権利を認め、相対立する諸階級のあいだで民主主義はおこなわれるのである。こうした歴史的到達を継承し発展させて、プロレタリ階級は、自らのヘゲモニーのもとで、対立階級の権利の保障においても更に開放的であり、階級的対立をも一段と民主主義に包摂し解決する地平を拓いてゆかなければならない。権利、民主主義をプロレタリア階級(と同盟階級)の内部に限定することによって、権利、民主主義のブルジョア的性格を克服せんとするのは、倒錯であり歴史的な逆行である。 第二点として、この点もレーニンのプロレタリア民主主義論にそっているが、外=敵対階級にたいして閉ざされた「プロレタリアートの階級的権利」は、内=味方階級においては、集団主義的なものとして性格づけられている。すぐれて集団としての権利であって、個々人としての権利はそれに従位する。「プロレタリア階級全体とこの階級の個々の成員、個々のグループとの相互関係の編成のしかた」(注4)は「集団主義的形態を主要なものとする」(注5)のである。ところが、階級=集団としての解放によって、個人も自動的に解放されるというわけにはいかない。同じプロレタリア階級の内部にあっても、階級全体と個々人、また個々人相互のあいだに利害や要求、それに権利の対立は生起するのだから、集団主義をとることは、集団による個々人の権利の、また多数派による少数者の権利の封殺を正当化することを意味する。 従って、プロレタリア階級内部のそれであっても、異論的な少数者の思想、運動や組織は当然のこととして抑圧される。「人民主権に反逆する集団の組織が否定されることは、社会主義のもとでの民主主義の性格の当然のコロラリーである」(注6)。ブルジョア民主主義が被支配階級を包摂した民主主義であることによってそれなりに備えもつ多元性、寛容性、そしてまた少数派の権利への配慮といった柔軟性がそこには欠落している。かかる集団主義的権利はブルジョア民主主義の個人主義的権利以下である。 第三点は、「社会主義社会の市民の権利」についての国家主義的偏倚である。「社会主義社会における『市民の基本的権利・義務』は、人権カテゴリーのように、前国家的前憲法的な権利といった論理=フィクションを必要としない。それは……国家権力が具体的に法規範として規定することにより現成するもの」(注7)、従ってまた、そうした市民の権利は「対国家的権利としての性格をもたない」(注8)し、「国家権力の介入に限界を画するといった原理をもつものではない」(注9)。こう、藤田は説いている。社会主義社会における国家権力というのは、既述したように過渡期社会における国家権力のすりかえにほかならないが、それとは別に、権利と国家の関係について、権利を国家によって定立される法律的権利として位置づけ、国家を権利に優位させていることが、ここでの批判点である。 この歴史的地点でのプロレタリア階級をはじめとする人々の権利が、近代初期における自然権のごとき特殊歴史的なフィクショナルな表現を要しないこと、これは確かである。だが、「権利を前国家的かつ対国家的なものとする点〔は〕ブルジョア社会に固有のもの」(注10)ではない。資本主義経済とブルジョア国家が発達をとげ、いわゆる市民社会と政治的国家の分離が現出すると、市民社会の所産物である道徳的・政治的権利、規範が、国家に先立って存立し、国家や国家によって定立される法的規範、権利の地盤をなすことになる。社会主義への過渡期は社会による国家の再吸収の過程であるから、近代世界にもまして社会こそが国家にたいして決定的要素である。そこにおいては、社会生活の営みをつうじて形成される前国家的な道徳的・政治的規範が、国家とそれが定める法的規範・権利に優越する高次の存在として、国家と法の漸次的な消滅を展望しつつ、国家とその権力的作動を規定する。要するに、ますますもって権利の前国家的かつ対国家的な性格は強まり、民権が国家に優位するのである。 別の観点からすると、藤田の見解は、道徳と法という近・現代思想上の大問題を見失ってしまって、権利を法的権利としてのみ捉え、道徳的権利を抹消している。 権利と国家の関係についての国家優位主義、道徳的(・政治的)権利と法的権利の無差別的混同ならびに前者の後者への解消、そして前国家的、対国家的権利についての無理解は、近代市民社会が成熟せず、ツァーリズムの国家主義が圧倒的で、市民的、政治的自由を欠いていたロシアの歴史的土壌を受け継いでいて、レーニン理論やパシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』にも通底するソヴェト・マルクス主義の伝統的欠陥であった。藤田の見解は、それの踏襲であり、またソ連における経験的現実の無批判的な一般化である。 第四点として、「権利範疇の死滅」について触れよう。レーニンはそのように明言したわけではないが、彼の所論から権利カテゴリーそのものの死滅を読みとることは可能であろう。藤田によれば、「『市民の基本的権利・義務』は……高度の共産主義社会の実現のあかつきには死滅するものと想定されうる」(注11)。高度の共産主義社会にいたって人々の権利がどのような変化をとげるかを思い描くには未知数が多すぎるのだが、権利範疇の死滅の想定は、これまでに批判してきた諸過誤と不可分である。すなわち、権利の階級的にしてかつ集団主義的な性格、また国家によって与えられる、後国家的な性格ということからして、階級としての集団の除去、国家の消滅にともなった権利の消滅が推量されているわけである。 反対に、権利を自立的な諸個人が社会生活を営むうえでの利益の主張に基づく道徳的なものとして捉えるなら、人格的関係が自由な個人性によって歴史的に特徴づけられる社会主義・共産主義社会での権利の存在形態こそが推考されてしかるべきであろう。 ところで、68年のプラハの春の武力弾圧に続いて国内での異論派へのおぞましい抑圧や収容所群島の問題が覆い隠しがたくなり、1970年代にはソ連の「社会主義」は決定的にイメージ・ダウンし、ソ連型「社会主義」への追随はもはや不可能になっていた。この期問に、藤田の社会主義と人権に関する説論も新たな進展をみせている。『社会主義社会論』第四章「社会主義と市民的自由」には、ロシア革命とソ連などの歴史的経験について、およそ次のような諸点にわたる批判的見地がもられている。これは、藤田の着実な理論的研究の成果に数えられよう。 (1) ロシア革命の「勤労被搾取人民の権利宣言」(1918年)が、権利、自由についてのブルジョア的な個人主義的把握とは裏返しの「集団主義的把握」に陥っており、そこには「諸個人の権利と自由の問題を軽視する傾向が含まれていた」(注12)。 (2) 1936年憲法に明記されたような、自由権は勤労者の利益のためにのみ行使される、あるいはまた社会主義の敵にとっては言論、出版、集会、結社等の自由が存在しないのは当然であるということで、権利、自由を制限する「体制的制約原理」(注13)について、「『勤労人民の利益』という原理は、勤労者の思想・表現の自由にたいする権力的規制の根拠とされてはならない」(注14)。 (3) 言論、出版等の自由を自由実現の物質的条件の保障によって現実的に保障するということが、物質的諸手段が国家によって所有・管理されるなかで、国家による自由の規制をひきおこしていることについて、「物質的諸手段が勤労者全体(国家に代表される)に属する体制があるという〔こと〕を十分条件として認識してしまう傾向は、かえって表現の自由にとって制約になりうる」(注15)。 (4) 国家と市民の権利の関係について、「社会主義のもとでは国家と市民の対立が揚棄されているという考え方〔から〕市民の自由と権利が国家に対して保障されなければならないという側面は軽視される」(注16)。だが、「市民の国家に対する諸権利の体系としても保障されなければならない」(注17)。 社会主義の過渡期におけるそれが「社会主義のもとでの市民的自由の論理」と称されている通弊を正せば、これらの指摘は適切であり、ソ連などで自由、民主主義がまったく乏しい理論的根拠についてのそれなりの切開にもなっている。 しかしながら、この「社会主義と市民的自由」論も、理論的な転換過程の産物であり、決定的な限界を有している。これ以後公刊された『ソビエト法史研究』(1983年)には前記の「ロシア革命と基本的人権」が収録され、以下のような追記が付されている。「『人権』と社会主義革命とのかかわりあいについて理論的に想定した上述のシューマ、とくにBの(a)(b)は、少くとも法形態論のレヴェルでみるかぎりでは、ロシア革命の歴史的経験に即しすぎており、そのご考え直しているが、これに代るべき新稿を書くにいたっていない」(注18)。 藤田が説く「人権の止揚」のプロセスのシューマに所存する諸過誤をレーニン主義に基づくものとして批判した。藤田は、社会主義と人権の問題に関してはスターリン主義的逸脱の否定にとどまらずレーニン主義の再検討につながる批判に踏みこみながらも、レーニン主義に呪縛され続けている。レーニン主義の枠内でのスターリン主義批判、ここに藤田の理論的到達の決定的限界がある。 一国社会主義論や社会主義国家論とは対照的に、プロレタリア革命以後の権利、自由や民主主義の理論では、プロレタリアート独裁論とともに、レーニン主義とスターリン主義は連続性が強く、重なりあっている面が多い。社会主義と人権の問題での諸過誤を克服するには、レーニンのプロレタリアート独裁=民主主義論の解体が必要であり、従前の過渡期国家論の抜本的な組み直しが求められる。 三、ソ連「社会主義」の弁護論 その理論的影響力が最も高まったと思われる1970年代後半から80年代へかけて、藤田は、ソ連や東欧諸国の社会体制を「初期社会主義」とする規定を再三披瀝している。「ソ連=社会主義生成期」説は、ブレジネフ時代−スターリン主義体制の行き詰まりの時代−のソ連の現状についての「発達した社会主義社会」という公式見解にたいし、日本共産党が1977年の第14回党大会で打ちだしたものであり、ソ連にたいするそれなりの批判をにじませてはいたが、他面では、新左翼のなかに1970年代には定着したソ連についての「似而非社会主義」説、最も有力なところでは「(社会主義への)過渡期の官僚制的疎外形態」説に対抗して、旧来からの「ソ連=社会主義」説を守護せんとして打ちだされており、基本的に「現存社会主義」と俗称される現存スターリン主義体制の弁護イデオロギーにほかならなかった。ソ連離れ、日本共産党離れが進捗するなかでの「ソ連=初期社会主義」説の布教は、藤田の社会主義社会論の際立って忠実な「正統」派的性格を如実に示している(注19)。 藤田によれば、「現存社会主義」諸国の社全体制は、次の諸点で社会主義的性格をもつ。「(a)そこでは……生産手段の社会化形態(国家的所有、「社会的所有」〔ユーゴスラヴィア〕、集団的所有)とこれに依拠した経済の計画的運営(その形態は多様である)が国民経済においてドミナントな地位を占めている。(b)そこでは、私的資本または私的結合資本の自由な運動は許容されていない。……資本=賃労働関係の範疇的成立を認めることはできない。そこでの「賃金」形態は商品=貨幣関係の存在と結びついているが、それは労働力再生産の唯一の形態ではなく、本質上個人的消費に費される生産物の分配の一つの形態である。(c)そこでの特殊の公的権力は、いわば「社会主義的価値」(自由で平等な生産者のassociationまたは人間の社会的emancipation)の実現をその正統性の最終的基礎としている](注20)。 その社全体制は諸々の矛盾を内包しているが、それは「社会主義的社全体制ではあるがなお『初期的』段階・性格を脱しえていない」(注20)ことに伴うものであって、成熟した段階への自己発展とともに早晩克服される。現存する様々な問題点は、体制の歪曲や変質の現われではなくして、初期的段階という特殊歴史的形態または未成熟を示すにすぎない。こう認識されているのである。 右の(a)(b)(c)のうち、(b)はそれ自体としては消極的な規定であり、この社会システムが資本主義ではないことの理由となりえても社会主義であるという理由とはなりえない。積極的な規定としては、(a)と(c)を検討すべきことになる。 ここで、これまでの議論を振り返ろう。(a)(c)は藤田社会主義社会論で考察が集中されている「最も核心的な問題、すなわち所有と権力の問題」に相当するのであり、それぞれについてすでに二つの節で、国家主義的経済システム論、過渡期国家論の歪曲として批判を加えてきた。つまり、(a)の「生産手段の社会化形態」とこれに依拠した「経済の計画的運営」の内実は、生産手段の国家化形態とそれに依拠した国家による経済の命令的運営であり、(c)について言えば政治的な自由、民主主義を欠いた官僚専制国家の社会主義的イデオロギーによる虚飾なのである。(a)(c)に関連している個々の論点を吟味すれば、スターリン主義の社会主義的所有論や社会主義国家論に立脚しているまさにそのことのゆえに、実態から遊離して、過渡期社会の国家主義的な歪曲形態を「初期社会主義」として美化していることは明らかである。 不可分に、藤田は、ソ連がスターリン体制下で社会主義社会に到達したということを否定すべからぎる真実としてしている。「1930年代半ばのソ連において生産手段の社会化が全一的に達成され、農業を含めて私的所有というものが基本的に一掃されたこと、したがってまた私的所有者の諸階級が消滅したことは事実である。……資本主義的生産関係が排除され、生産手段の社会化にもとづく計画的経済が組織されるにいたったことからみて、そこに社会主義段階への入口をみることができる」(注21)。 過渡期が終了し社会主義社会にはいったとされる理由として、私的所有の一掃、私的所有者階級の消滅を今度は問題にしよう。私的所有が一掃され私的所有者階級が消滅しても、それだけでは、前出の(b)と同じように、資本主義社会ではないとしても、社会主義社会だとは言えない。資本主義社会の根本規定を生産手段の資本化とその反面をなす労働力の商品化に求めるなら、それを止揚する社会主義社会は生産手段の社会化−国家化では断じてない−とともに労働の解放が経済的メルクマールとされるべきであろう。加えて、あらゆる面で支配を揮う党=国家官僚層、ノメンクラトゥーラ層の存在については捨象している。生産手段の国家的所有は、その国家が官僚専制国家である場合、非労働者=官僚による集団的私的所有と規定することができるのではないか。 また、藤田は、1930年代に形成された「ソビエト型社会=政治体制」(注22)について、「第一次的構造」と「第二次的形成物」との区別・連関(注23)によって、総体の把捉の深化を試みている。「第一次的構造」というのは、「基礎構造」(注24)であり、「経済的諸関係の全一的社会化とそれの国家的・集権的計画化=管理」(注25)をはじめとして、いわばこの体制の合理的なものである。他方、「第二次的形成物」は、「いわゆるスターリン現象」(注26)であって、「党=国家癒着構造の中での集権制の……極限としての党首長の政治的独裁、および……首長のカリスマ化」(注27)以下、体制の合理性を破壊する性格のものである。そして、「第二次的形成物」は「『第一次的構造』の成立なしにはありえず、その上に派生するもの」(注28)だが、「『第一次的構造』は必然的にこのような『第二次的形成物』を生ぜしめるか、といえば、それは必ずしもそうではなく、こうした『第二次的形成物』なしにも存在しうる」(注29)それゆえ、「第二次的形成物」は遅かれ早かれ除去されて「第一次的構造」が成熟してゆく。このように、「ソビエト型社会=政治体制」の成立・展開を歴史的、重層的に把握するのである。 こうした把握には、しかし、ソ連型社会=政治体制についての弁護論的性格がつらぬかれている。第一に、ある社会=政治体制についてそのプラス面とマイナス面の絡みあいを分別してバランス・シートを示すのは常套的な方法であるが、「ソビエト型社会=政治体制」については、ポジが「第一次的」で「基礎」をなすのであり、ネガは「第二次的」で「現象」にすぎないというのが、藤田の論旨である。ところが、「第一次的構造」の冒頭に掲示されていた「経済的諸関係の全一的社会化」が国家(主義)化の社会化へのすりかえにほかならないように、スターリン主義に囚われなければ、「第一次的構造」自体がネガなのである。藤田のバランス・シートは、粉飾決算によってなっている。 第二に、「第二次形成物」たる「いわゆるスターリン現象」の除去によって「第一次的構造」が成熟するという道程の展望は、とうに半世紀近い昔、「ソビエト型社会=政治体制」の原型が成立した当時、スターリン主義と死闘したトロツキーが唱えた「古い支配の上衣だけを払いのける政治革命」、「第二補足革命」説の改良主義的模作にすぎない。しかもその際、トロツキーが説いた「堕落した労働者国家」規定は「初期社会主義」規定にとって替えられ、あわせて、ソ連の行方についての三つの可能性のうちの資本主義への後すべりは除却されてしまっている。 第三に、「第一次的構造」の一つとされる「『ソビエト民主制』による政治統合の正統化システム」(注30)と「第二次的形成物」として挙げられる「『ソビエト型民主制』・『ソビエト型法治主義』の破壊」(注31)とは、そのようなものとしては峻別しがたい。藤田は、「ソビエト民主制」について、公式の謳文句どおり民主主義に溢れたものと誤信している。しかし、「ソビエト民主制」は本来的に、擬似民主主義的であり、新しい民主主義の名による民主主義の圧殺に帰結する性質をもっていた。先年来のペレストロイカによって政治的な自由、民主主義の導入を試みるや、たちまちにして体制そのものが倒壊したことが示すように、擬似民主主義的な党=国家官僚専制が「第一次的構造」の重要不可欠なモメントとして布置されるべきだろう。 第四には、「第一次的構造」と「第二次的形成物」の区別立てには、スターリン主義の語を使用することを徹底して忌避し、スターリン主義を「スターリン現象」に矮小化し「第二次的形成物」として処理することにより、ソ連体制をスターリン主義体制として総体として否定的に把捉するのに反対するという意味合が込められている。ちなみに藤田の諸著のうち『ソビエト法史研究』と『概説ソビエト法』(1986年)には事項索引がつけられているが、いずれにもスターリン主義の項目はない。 そして、last but not least 、「この社全体制は、…・・・『革命的過渡期』(『収奪者の収奪』の行われる激動期)にある社会ではなく、『自己再能力』をもつ一つの社会システムとして確立されている」(注32)と、藤田は述べているが、「第一次的構造」でさえ社会システムとしての「自己再生能力」を欠くこと、ないしそれに極めて乏しいことは、歴史的事実によって証明されたのである(注33)。「初期社会主義」から成熟した社会主義への発達という想定とはまったく逆に、「ソビエト型社会=政治体制」はあっけなく崩壊するにいたったからである。 「現存の社会主義体制は、共産主義的な社会的有機体が自らを『総体制』へと成熟させてゆく長期の歴史的過程の初期段階にあるもの……『生成期』にある社会主義体制といってもよい」(注34)。今日では、こうした言説が空虚なイデオロギーであることは明らかであり、「初期社会主義」説は、「発達した社会主義」説ともども最終的な破産をとげたのである。ソ連体制については、その自己崩壊の可能性の諸条件を析出することが、今日の研究課題となっている。 実のところは、「ソ連=社会主義」説は、1936年のスターリンによる社会主義建設の勝利という託宣に淵源しているし、それを根拠とする以外にない。それにたいしては、マルクスでなくともエンゲルスやレーニンの見地からしても充分に反論可能である。だが、彼らの見地に立つかぎり、「ソ連=社会主義」説は論証することも実証することも不可能である。なんらかの「ソ連=社会主義」説に立脚して社会主義の正当性を解き明かすのが不可能事であることは、昨日までの「ソ連=社会主義」の信奉者達の多くがソ連崩壊の衝撃に襲われて社会主義そのものに見切りをつける道を選んでいることによっても、逆証されている。 藤田は「ソビエト型社会=政治体制」が過渡期にあるとすることを却けていたが、ソ連は社会主義への過渡期の歪んだ体制と捉えるはうが、理論に照らしても史実を踏まえても、比較にならないほど整合的である。ソ連では社会主義への過渡的な社会と国家の建設が至難な諸条件に制約され歪みを重ねることによって失敗し、遂には資本主義への過渡期に再逆転することになったのである。 1930年代に築かれたスターリン主義体制のオフィシャル・レトリックである「ソ連=社会主義」説の跳梁は、20世紀マルクス主義の救いがたい変質、頽退の最たる徴証であった。スターリン捏造の「ソ連=社会主義」の神話に呪縛されたマルクス主義者達は、人民大衆の解放を大義とした人民大衆への新たな形態の支配という犯罪、その苛酷さと巨怪さにおいてファシズムに勝るとも劣らないほどの現代史上の大罪に加担する結果になってきた。歴史の復讐を免れることができるはずがない スターリン批判以後の30数年間、スターリン主義擁護の防衛線は、現実の歴史の進行によって次々に突破されてきた。「初期社会主義」説を含め、藤田の社会主義社会論の豊富な知見と緻密な論理の運びには、さすがに卓越したものがある。ところが、ある程度の批判がまじえられているにせよ、そこに貫流しているのは、スターリン主義の守護である(注35)。スターリン批判以後の段階におけるスターリン主義理論の適応形態の学問化作業によって、藤田は崩壊過程を辿るスターリン主義の弁護論の構築でも第一人者格と活躍してきたのである(注36)。 歴史の女神の審判は、厳しくとも公正であるにちがいない。 <注>
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