「明治維新史研究の現況と国民国家形成論について」
 2007年2月


 *明治維新史研究の現状況に関して
 拙著『明治維新の新考察』は、明治維新史研究に門外漢であるうえに、学会、専門研究者との交流も欠いたなかでの取り組みであった。それだけに、今日の学会の研究動向から懸け離れた独りよがりの論議に陥っているのではないかということは、大変に懸念してきたところであった。
 この拙著に対する永井和さんの書評に示唆されて、幾つかの文献に接し、戦後歴史学が、その重要な一翼としての明治維新史論ともども、ほぼ1970年代を境にして、大きく様変わりしていることを知ることができた。その様変わりは、戦後歴史学から現代歴史学への移行と総称されているのだが、私の推測をはるかに越えていた。そこで、明治維新史研究の現況の一端について触れ、次いで、最近流行の国民国家論からする明治維新史研究を代表する西川長夫「日本型国民国家の形成」について批評することにしたい。

 戦後歴史学において圧倒的地位を占めてきた講座派(および大塚史学)の理論的枠組み―近代史については、先進西欧の近代を理念的に美化し、後進日本の封建性を力説する―が最後的に崩壊する一方、社会史が隆盛し、世界システム論や国民国家論が進出し、歴史修正主義も台頭して、現在の歴史学研究はこれらの新たな方法的理論の多元的な並存の状況にあるようだ。

 このうち、社会史については、反ないし非政治史(学)としての特徴的性格を有していること、そしてまた近代以前、中世史の分野を中心にしていることからして、明治維新史研究に及ぼす影響は、研究対象の社会史的拡大などに限定されるだろう。明治維新史研究に極めて顕著な影響を与えているのは、永井さんの書評にあるように、国民国家論である。

 『岩波講座日本歴史』全26巻、1975―77年と、『岩波講座日本通史』全25巻、1993−95年とは、上述の歴史学の大いなる変容を非常によく示している。明治維新、明治国家について見ると、旧来の天皇制絶対主義論はすっかり姿を消し、近代的国民国家論が取って代わっている。この点は、推察の及ぶ範囲内だが、推測を越えているというのは、絶対主義論の否定と合わせて、天皇制についての重視も消失している点である。

 『日本歴史』をとると、その第14巻(近代1)の大石嘉一郎「近代史序説」は、近代史全体についての総説の位置を占めるが、「天皇制国家の確立と変容」を主要な論題の一つとして設定している。その他に、(近代)天皇制を題名(の一部)とする論文だけでも、第15巻(近代2)の芝原拓自「近代天皇制論」、第15巻(近代3)の安丸良夫「天皇制下の民衆と宗教」がある。近代に関する巻をとおして、(絶対主義)天皇制は大命題として定置されている。
 対するに『日本通史』では、その第16巻(近代1)の「通史的概観」、つまり総論である安丸良夫「1850−70年代の日本―明治維新」は、「ペリー来航から帝国憲法発布と帝国議会開設ごろまでの時期は、日本社会の全体が近代的国民国家へと編成替えされてゆくひとまとまりの転換期として把握しえよう」という視座を定立している。それを挟んで、第15巻(近世5)では藤田覚「19世紀前半の日本―国民国家形成の前提」が「通史的概観」を示し、第17巻(近代2)では「論説」として配置されている山室信一「明治国家の制度と理念」が、明治国家の国民国家としての特性を分析する。そうした反面、戦後歴史学であれほど偏重されてきた天皇制については、安丸論文では一度もでてこない。第17巻の「通史的概観」、大江志乃夫「1880−1900年代の日本―帝国憲法体制」でも、天皇制の語は教育勅語の説明に付随して一回用いられるだけである。

 国民国家論の盛行により、明治維新は日本の国民国家形成として論じられる。明治維新は絶対主義の成立か、ブルジョア革命かの、1930年代から繰り広げられてきた大論争にも決着がつくにいたったと見做せるが、ブルジョア革命という表現は排されている。ブルジョア革命あるいは市民革命の国民国家形成への読みかえが、この分野での戦後歴史学から現代歴史学への移行を示している。 

 戦後歴史学では、フランス革命やイギリス革命などブルジョア革命(市民革命)の研究が大テーマとして盛んに研究され、1960年代に産業革命へとテーマが移されたが、今日の歴史学では、ブルジョア革命(市民革命)論は消滅し、産業革命論にも疑念が呈されている。総じて「革命」という見方・考え方の否認が、学会のトレンドのようである。こうした動向は、特に東欧・ソ連「社会主義」体制崩壊とともに決定的となった、20世紀末葉からの時代相を映していると見ることができよう。

 歴史学会の動向としては、先に見た天皇制の扱いの極端な変化もそうだが、かつての講座派理論への度を越した追随の反動として、振り子が揺れるように、今度はそれに対する否定も清算主義的になって逆のゆきすぎに陥る理論的傾向も散見されるのである。

  *国民国家形成論に関して
 現今流行の国民国家論について、拙著ではそれとして検討し踏まえることができなかった。それを補うべく、国民国家論に関して若干の評注を試みる。
 国民国家論といっても、論者によって多様のようだが、理論的に最もまとまっており、日本近代史研究に及ぼしている反響が一番大きいのは、西川長夫さんの国民国家論であろう。
 学会の動向に疎く、不勉強であることを自己暴露することになるが、拙著を執筆する際には、国民国家形成論が最近の明治維新史研究のトピックとなっていることを掴むことができなかった。西川長夫「日本型国民国家の形成―比較史的観点から―」(西川・松宮『幕末・維新期の国民国家形成と文化変容』新曜社、1995年、所収)についても未読であった。この西川論文について論評して、拙著への追補としたい。

 西川論文は、「T 国民国家とは何か―フランス革命を参照体系として」において、「国民国家の原理的問題」としての基本的視座、そして「国民国家モデル」が提示され、「U 形成期における日本の国民国家」において、明治維新が「日本型国民国家の形成」としてスケッチされる、という構成である。

 まず押さえるべきは、桑原武夫編『フランス革命の研究』(1959年)や河野健二『フランス革命と明治維新』(1966年)などに代表される、京都大学人文科学研究所グループのフランス革命、更に明治維新などに関する研究成果を継承したうえで、それを組み込んだ新たな問題設定の構築として、国民国家の形成が立論されていることである。喩えると、しっかりと築かれた地盤、土台の上での新家屋建設と言えようか。この国民国家形成論によって、明治維新史研究は、戦後歴史学を支配してきた講座派的枠組みから最終的に脱出し、別の次元で展開される磁場を得たことになろう。その理論的貢献は大きい。

 本論文の積極的な意義を評価しつつも、特にTの諸論目の幾つかについて、異議を唱えたい点がある。

 「国民国家の原理的問題」として国民国家の諸特徴が考察され、その第2として、「国家統合のためのさまざまな装置(議会、政府、軍隊、警察、等々といった支配・抑圧装置から家族、学校、ジャーナリズム、宗教といったイデオロギー装置までを含む)」および「国民統合のための強力なイデオロギー」が挙げられている。「支配・抑圧装置とイデオロギー装置という区別」は、L・アルチュセールの「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(1970年)からの転用である。
 ところが、アルチュセールの国家論は、マルクス主義国家論史のうえでは、スターリン主義の「国家=抑圧装置」論を補修、拡充したもので、根本的欠陥に満ちていた。その核心として、@、国家を「抑圧装置」と「イデオロギー装置」に強引に二分割する。その単純な二分法のため、列記される国家装置から議会は抜け落ちている。また、「政府、行政機関」については「抑圧装置」として割り切っている。A、家族、公的・私的学校、法律、政党、新聞・ラジオ・テレビ、組合、教会、文学・美術・スポーツ、などを「国家のイデオロギー装置」と規定し、非国家的な政治制度のみならず、非国家的で非政治的な資本主義社会の諸制度をも「国家装置」に包括する。

 ちなみに、スターリン主義の国家論教科書、ソ連邦科学アカデミー法研究所編『国家と法の理論』(1949年)では、「国家=(暴力)機構」説に立脚したうえで、「広義の、言葉のより広い意味での国家機構と、言葉のより厳密な、狭い意味での国家機構とを区別」し、「広義の国家」は、「たんに特殊国家的な諸機関のみでなく」、それに接合している「社会諸組織(政党および政治的連合、生産的および文化的団体、教会等)」をも「包含する」、と説いている。こうした国家の定義は、ソ連国家をモデルにしていると解されるが、アルチュセールはその広義の国家を「国家の抑圧装置」と「国家のイデオロギー装置」との「二つの集合体」として焼直しているのである(詳しくは、拙著『現代の国家論』、1989年、217〜223頁参照)。

 西川論文では、アルチュセールの杜撰な論点は手直しされて、「抑圧装置」は「支配・抑圧装置」に改められ、議会も「支配・抑圧装置」のなかに位置づけられている。しかし、「「文明」や「文化」の概念を含めて国家のイデオロギーと呼んだほうが適切」との言に象徴されるように、国家概念を誤って拡張し異様に肥大化させたアルチュセール国家論への依拠が基本線として貫かれている。
 別の西川論文「国家イデオロギーとしての文明と文化」(『思想』1993年5月号)を検討しても、文明と文化を「国家イデオロギー」と呼ぶべき理由は明らかではない。むしろ、日本で文明という言葉の普及に最も功績のあった福沢諭吉の文明論の中心的な課題は「国民の創出」であったと論じられているごとく、文明と文化は‘国民イデオロギー’と呼ばれるべきであろう。

 拙著のなかでは、絶対主義国家と異なる近代ブルジョア国家の特徴を、国民国家、立憲国家、権力分立国家、人権国家、として挙げた。国民国家を第1の特徴としたことによって、明治維新を国民国家形成として捉える面を伴うことになり、その限りにおいて学会で流行っている国民国家形成論と1部分重なり合う結果を生んだ。

 西川論文に接して、ブルジョア国家を国民国家として代言し、ブルジョア革命を国民国家形成として論じるのは、それでよいと思う。ただ、その際には、文明や文化の概念のイデオロギー的な性格に注着するのと同じように、国民国家概念についてもそのイデオロギー性を問い質して使用すべきだろう。
 それにまた、国民国家(形成)として問題構制する場合でも、立憲国家、権力分立国家など、これまで広く議論されてきた近代国家についての他の諸特徴を、どのように押さえて分析に組み込んでいくか。その多様な視点を備えることの方が、アルチュセール国家論に依拠するよりも、国民国家形成の多彩な側面、様相をより適切に析出できるのではないか、と考える。

 国民国家の諸特徴の第3としては、I・ウォーラースティンの世界システム論を取り入れて、「世界的な国民国家システム(国家間システム)のなかに位置づけられ、それぞれに自国の独自性を主張しながらも、相互に模倣し類似的になる傾向」が指摘されている。国民国家についても、一国史観を排し、ヘゲモニー(覇権)国家をはじめとした他の諸国家との世界的な相互関連性において考察するのは、当を得ている。

 ただ、近代世界史に関するウォーラースティンの資本主義世界システム論のなかの国家間システム論と一国史に関する国民国家の形成論とは、研究の対象領域と視角が異なっている。世界システム論は大きなスケールで近代世界史の総体を把握するが、世界システムの周辺に包摂される個別的な国の歴史の分析においてそれを生かすには、視座の組み替えが必要である。「自生の国民国家が集まって国家間システムが形成されるのではなく、世界システムあるいは国家間システムが国民国家を生み出す」と要約されているウォーラースティンの議論にそのまま引っ張られてしまうと、資本の無国籍性と国家の国民(民族)性として対質される、資本主義経済とブルジョア国家の存在性格の本質的相違を見失い、資本主義経済形成よりもずっと国民的な独自性、多種多様性を刻みこまれる国家形成の特質を捉えきれないだろう。

 次の問題に移る。「国民国家モデル」に関し、「〔フランス〕革命期に実現されたさまざまな制度、国家装置、国民的シンボルなどをまとめて」、「国民統合の前提と諸要素」が表として示され説明されている。フランス革命研究の蓄積の成果であり、西川国民国家論の射程の広さをよく表わしていて、学ぶところが大きい。
 それでも批判すべき重要な点が所在する。

 一つには、(T)経済統合とその諸要素に続いて、(2)国家統合とその諸要素、(3)国民統合とその諸要素、というふうに構成されている。しかしながら、(3)のなかの「政党、新聞(ジャーナリズム)」が端的にそうであるように、政党や新聞などは国家(統合)に先在し国民統合、国家統合を推進的に担うのであり、国家(統合)に後続して位置づけられる存在ではないだろう。
 言い換えると、経済統合と国家統合の間には社会―経済社会ではなく政治社会あるいは市民社会―統合が設けられて然るべきであって、政党その他の政治諸団体、新聞・雑誌、非国教的な宗教団体、私立学校、など、非国家的な民間の諸々の組織はそこに位置づけられるべきであろう。そうであればまた、国家統合と国民統合の相互関係についても再考を要することになる。
 この論点は、なにもかも「国家装置」に包括してしまい、国家とは分離独立した(政治あるいは市民)社会の存在を解消しているアルチュセール国家論に照応している欠陥と言える。

 また一つには、「国家統合」の諸要素のうちに君主が位置づけられていない。フランス革命やイギリス革命では、革命の高揚の局面で君主制の廃止にいたったとはいっても、その後君主(制)に代替するものが求められてゆき、結局国民国家は君主政・帝政国家として形成された。そして、拙著のなかで主張したように、初期段階の国民国家においては、君主制は単に封建遺制としてではなく積極的に存在する必然性を有する。
 「国家のイデオロギー装置」を重視するのであればとりわけ、君主(制)を無視ないし軽視してはならないだろう。なお、アルチュセールが列挙する「国家装置」のなかにも君主は存在していない。

 日本型国民国家の形成論に進み、ここでは2つの事柄に関して批評する。

 第1に、フランス革命と明治維新の類似性が指摘され、「フランスの国民国家の国民国家としての典型的な性格」が説かれる。「フランス革命は、相対的な後進国によって行なわれた革命と国民国家形成の起点にあった」との認識は正しいのだが、「下からの革命」の高揚が「上からの革命」によって補完されたフランス革命、それによって形成されたナポレオンの第1帝政国家が示すのは、フランスの国民国家形成の非典型性であり、非典型だからフランスよりもっと後れた国での国民国家形成との類似性が少なくない、と捉えるのが適切だと思う。「リン・ハント〔『フランス革命の政治文化』〕が指摘しているように、政党―議会中心のイギリスに対して、フランスは執行権力中心であり、政党や議会に対する蔑視の傾向が認められる」と述べられているが、拙著はそのイギリスを典型と見做している。

 そうした拙論からすると、「日本の国民国家の国民国家としての典型的な性格」というのは解せない。「国家装置と国民統合の観点から考察する限り」とされているのだが、「国家装置と国民統合の観点から考察」してもそうである。徹底して「上からの革命」であった明治維新においては、「国家装置」では政府が首尾一貫して中枢機関として変革を主導して、議会は最後時に開設されたにすぎなかったし、「国民統合」も政府により、近代天皇制の形成を含めて、強権的に推し進められたからである。

 概して、明治維新について、「参照体系」とされるフランス革命との共通性を明示することに主眼がおかれている。これは、明治維新の西欧でのブルジョア革命との歴史的異質性の強調に終始してきた講座派なども旧来の所論への反動としてやむをえないのかもしれない。そのために、「日本型国民国家の形成」の「日本型」の内実が明瞭ではない。
 だが、明治維新については、服部之総『明治維新史』(1928年)が提言したように、そもそもの初めから、「いかなるブルジョア革命であったか」(傍点は原文)が問題だったのだ。ましてや今日の研究は、フランスであれ、プロイセン=ドイツであれ、ヨーロッパ諸国の国民国家形成との同類性は自明の前提として踏まえつつ、その種差性の析出をめぐっておこなわれるべきなのだ。

 第2としては、先行の時代との連続と断絶の問題として、「徳川時代を前期国民国家としてとらえる」必要が示されている。「おそらく徳川期にフランスの絶対王政に近い体制が確立していて、ある種の近代性が成熟していた」のはそうだとして、徳川時代を「前期国民国家」だとするのには疑問が生じる。
 一つには、「前期国民国家」とはどのようなものか、不明瞭である。国民国家、立憲国家、権力分立国家などの観点からすると、幕藩制国家のなかに近代ブルジョア国家へと推転する要素を見出すことは困難である。また一つには、歴史的な断絶性よりもむしろ連続性が押し出されることになる。しかし、先進欧米列強の外圧のもとで、世界史の進展との巨大な落差を埋めんとして敢行された明治維新は、内発的よりも外発的であり、国内での徳川時代との関係では連続性よりも断絶性がはるかに大きかったのだった。

 もっぱら批判点を列挙してきたが、最後に強調したいのは、西川論文の積極的な貢献は、国家形成論にもまして国民形成論にあるということである。国民の誕生が、「(T)空間の国民化」「(2)時間の国民化」「(3)習俗の国民化」「(4)身体の国民化」など、様々な側面での「国民化」として分析的に明らかにされ、新生面の開拓が果たされている。拙論にはまったく欠如している論域であり、自論がいかに視野狭窄であるかを痛感させられる。

 大薮龍介