「ドイツ帝国の国家体制をどう捉えるか」
―ボナパルティズムか君主主義的立憲政か、それとも立憲政府政か―
 2007年12月


 明治維新以来の日本が近代的国づくりの手本としたのは、やや先んじて近代化を達成し強国として躍進しつつあるプロイセン=ドイツであった。日本の近代国家の原型である明治国家の建設にあたって、大国フランスを戦争で撃破し鉄血宰相として名をはせたビスマルク率いるドイツ帝国がモデルとなったことは、良く知られているところである。

 それでは、ドイツ帝国、その前半期のいわゆるビスマルク帝国(1871−90年)の国家体制を、どのように捉えるべきだろうか。

 これまで一番多く見受けられ有力であるのは、マルクス、エンゲルスからドイツ社会史派を代表するH−U・ヴェーラーまでの「ボナパルティズム」説であった。
 特にわが国では、多くの論者によって、マルクス、エンゲルスのそれを基本的に継承したうえで、幾らかの手直しを加えつつ、「ドイツ帝国=ボナパルティズム」説が復唱されてきた。山田勝次郎『日本資本主義分析』、平野義太郎『日本資本主義社会の機構』、松田智雄『近代の史的構造』、大野英二「ドイツ資本主義の歴史的段階、ビスマルク・レジームの性格規定」、上山安敏『憲法社会史』、柴田三千男『近代世界と民衆運動』、木谷勤『ドイツ第二帝制史研究』、篠原一『ヨーロッパの政治』第4章第1節、等々、枚挙にいとまがないほどである。

 しかしながら、マルクス、エンゲルスの「ドイツ帝国=ボナパルティズム」説には、大きな難点がある。
 マルクスは、フランス第2帝政のボナパルティズムを移植した「模造品」としてドイツ帝国に言及し、それを受けてエンゲルスは、絶対君主政から転移した「ボナパルティズム君主政」の諸特質について考察した。その詳細は、拙著『マルクス、エンゲルスの国家論』「第6章 マルクス、エンゲルスのドイツ国家論」の「2 ドイツ・ボナパルティズム論の展開」「3 上からの革命の概念的把握」で明らかにしているので、ここではいま少し巨視的に捉えよう。

 第1に、再三論じてきたように、マルクス、エンゲルスの国家論研究は、全体として決定的な理論的限界をもっていた。彼らが生きた時代の近代ブルジョア国家の諸形態に関しても、それなりにまとまった分析をおこないえたのはフランスの第2共和政と第2帝政、それにドイツ帝国にとどまり、フランスの第1帝政、復古王政、7月王政、第3共和政、イギリスの名誉革命体制と後続の議会制民主主義体制、などについては固有の対象として取り上げて研究することはなかった。従って、近代国家体制に関して「立憲君主政」「民主共和政」「ボナパルティズム」程度の僅かな理論的概念しか持ち合わせておらず、その狭い論圏で、ドイツ帝国を「ボナパルティズム」概念を転用して把握したのだった。

 しかも第2に、その「ボナパルティズム」概念も、当時広く用いられていたシーザー主義の語に対する独自性の表明であったが、前記拙著「第5章 マルクスのフランス第2帝制・ボナパルティズム論」、「第7章 後期エンゲルスの国家論」で明らかにしたように、特にエンゲルスにおいて理論的欠陥を免れていなかった。

 これらからして、マルクス、エンゲルスの「ドイツ帝国=ボナパルティズム」説には与しがたい。
 前記の山田勝次郎書をはじめとする諸説論は、それぞれの特徴を備えているものの、通俗的マルクス主義に付き従う権威主義的発想に囚われ、程度の差はあるものの、既成のボナパルティズム観念に安住していることでは共通しているのである。

 他方、ヴェーラーは、1890年までの帝国について、「カリスマ的、人民投票的、および伝統主義的諸要因を独自の形で混合する」(『ドイツ帝国』未来社、102頁)ことを指摘しつつ、「人民投票的に強化されたボナパルティズム的独裁統治」(106頁)と規定している。マルクス、エンゲルスの所論の影響を蒙りながら、彼独自の論点を加えた、「ビスマルク帝国=ボナパルティズム」説の提示である。

 しかしながら、そのカリスマ的指導者による政治的独裁という核心的な論点は、エンゲルスの「ボナパルティズム的半独裁」や他の論者の「宰相独裁」の言説の援用によって補強されているのだが、ビスマルク帝国の史実に合致していない。
 ビスマルクは、ドイツ帝国随一の政治的巨人に相違なかったが、ナポレオン1世のようなカリスマ的独裁権力を揮いえなかった。

 まず、ビスマルクは、老皇帝ヴィルヘルム1世との間に築いた特定の関係―皇帝が君臨し宰相が統治する―にあって最強権力者たりえていた。そのことは、ヴィルヘルム1世の死去と新皇帝ヴィルヘルム2世との確執にともなうビスマルクの失脚によってあらわとなった。対照的に、ナポレオン1世は、皇帝として君臨かつ統治し、言うなればヴィルヘルムT世とビスマルク、それにモルトケをも、一身に体現していたのであった。宰相ビスマルクの権力はナポレオンのごとく全権的では決してなかった。

 加えて、宰相ビルマルクの統治は強権的であったが、独裁ないし準独裁ではなかった。1862−66年の憲法紛争期におけるような議会の多数派を無視した専断専行の強行突破は鳴りを潜めた。端的な証例として、一つには、幾つもの重要法案が議会によって否決され重要政策が骨抜きにされたし、法案・政策を実現するには議会多数派の形成に多大の努力を傾けなければならなかった。また一つには、「帝国の敵」とされたカトリック教徒、社会主義者、少数民族がそれぞれに、厳しい弾圧にさらされながらも、政治的反対勢力として公然と、根強く対抗していた。

 憲法調査のためにドイツ滞在中の伊藤博文がその一機会に遭遇して書き送っている(『伊藤博文伝』中巻、271〜頁、明治15年5月24日付、松方宛)が、ビスマルクは、施策がうまく運ばないと、1875年6月〜11月、1877年3月〜78年2月、など、度々保養地に引きこもっている。このことも、カリスマ的指導者の独裁説に反証する補助的材料となるかもしれない。 

 また、戦勝によるナショナリズムの高揚、成年男子普通選挙制の導入や帝国創建による絶大な名声にもかかわらず、その後は時がたつにつれ、ビスマルクとその政権の牽引力は弱まってゆき、その国民大衆的支持基盤はさほど強大ではなかった。ビスマルク帝国末の一時期を除いて、ビスマルク与党は帝国議会の過半数に満たなかった。普通選挙制は、彼の企図とは逆に、むしろ政権に対する大衆の反抗をもたらしたのであった。国民投票的な大衆の支持という点からしても、ボナパルティズムの特徴を備えているとは見做しがたい。

 ヴェーラーはまた、ボナパルティズムの支配技術としての側面を重視して、「進歩的‐近代的諸要因と保守的‐抑圧的諸要因との際立った結合」「国内の緊張を対外政策へ誘導すること」「一定の軍事的衝突ないし海外膨張により威信を獲得しようとする試み」(「ボナパルティズムとビスマルク・レジーム」)、などを挙げ、ビスマルク帝国をボナパルティズムとしている。

 しかし、これは、次の点からして、ボナパルティズムとしての支配技術とはどういうものかについて的を射ておらず、首肯できない。第1に、彼が挙げている支配諸技術は、多かれ少なかれ他の政治・国家においても共通していて、ボナパルティズム特有のものとは言えない。第2に、フランスのボナパルティズムでは、すべての階級に対して巧みに立ち回ってそれぞれを惹きつけて操作し動員する、また対外的な攻略、帝国建設により国民的な栄光を高める、といった特徴的な支配技術がとられた。だが、そうした支配技術は、ビスマルク帝国では、「帝国の敵」の設定などで「負の統合」と呼ばれるように、また対外政策の目標をヨーロッパの現状維持におき海外植民地獲得には積極的ではなかったように、いずれもむしろ欠けている。 

 本ホームページ所載の「ボナパルティズムをどう捉えるか」において、今日的な研究の到達を踏まえ、ボナパルティズムについて、「カリスマ的指導者による、軍事的、官僚的国民国家を構築し、資本主義社会の発展を上から推進する、国民投票的支持に立脚した独裁的統治」と再定義した。この定義に照らすと、ドイツ帝国の国家体制は、「軍事的、官僚的国民国家」と「資本主義社会の発展を上から推進する」ということでは、ボナパルティズムと言えるけれども、「カリスマ的指導者による」「国民投票的支持に立脚した」「独裁的統治」ということでは、ボナパルティズムとは異なる。ドイツでボナパルテイズムに類するのは、1917年10月革命後のM・ウェーバーの、人民投票によるカリスマ的大統領の指導者民主主義の構想であろう。

 そこで、その理論的限界が明らかな既成概念を襲用するよりも、ビスマルク帝国について、ボナパルティズム概念の利点を凌駕する選択肢を求め、史実の解明に基づいた国家論的開拓として新たな概念規定に挑戦するべきであろう。

 そうした見地からすると、望田幸男の「君主主義的立憲制」説は、その堅実で精確な近代ドイツ史研究に立脚していて、高く評価されて然るべきである。望田はすでに早くから、「ドイツ帝国=君主主義的立憲制」説を提唱している。「君主主義的立憲体制とは、あくまで立憲体制であるという点において、絶対主義体制とは区別され‥‥また、君主主義的(君主大権の存在)という点で、議会主義的立憲体制(議会主権の確立)とも区別されるカテゴリーである」(『比較近代史の論理』、1970年、『近代ドイツの政治構造』、72年)。「制度的には、帝国の政治的重心は皇帝ならびに諸邦国君主の影響下にある連邦参議院にあり、帝国の統治体制は君主主義的立憲制に立脚していたといえよう」(「第2帝政の国家と社会」、成瀬治他編『世界歴史大系 ドイツ史2』、1996年、所収)。

 「君主主義的立憲制」概念は、ドイツ国法学(ハルトゥング゙『ドイツ国制史』など)から承継され、憲法典における君主主義と議会主義との対抗を視軸にし、憲法体制の論理として示されている。憲法が君主主義を基本にして議会主義を副次的に組み込んだ2元的構造をなしており、その二つの原理をめぐっての解釈、運用の対立抗争が、憲法紛争として展開され、ドイツ帝国においても政治、国家の重要な動因の一つとなったのは、望田が説くとおりである。
 それでも、「君主主義的立憲制」概念は、ドイツ帝国の政治・国家体制の実像をいま一つ的確に表わしえていない。

 振り返ってみると、3月革命以来の伝統的な君主制原理と台頭する西欧的議会制原理との対立、衝突は、憲法紛争において頂点に達し、「上からの革命」によるその現実的な解決形態として立憲的な政府中心(主義)の政治・国家の創出にいたった。そして、ドイツ帝国では、君主主義の憲法の下で、議会の多数派の取り込みに努めながら、ビスマルクが統率する政府中心(主義)の統治が持続した。基本的な政治的対抗関係は、君主と議会のあいだにはなかった。政府と野党や「帝国の敵」のあいだにあった。それは、先に望田書から引用した文中の「君主主義的立憲体制」でも「議会主義的立憲体制」でもなく、君主主義を押し立てる一方、対抗する議会主義の潮流を包括した、政府主義的立憲体制とでも言うべき政治・国家体制であった。

 「君主主義的立憲制」の規定の難点は、@、歴史的に、憲法紛争における君主主義と議会主義の基本的対抗をもってドイツ帝国におけるそれともしていること、A、論理的に、憲法体制と政治・国家体制の区別と連関の考察を欠いていて、憲法(体制)に偏位していることにある。創建された帝国の政治・国家体制にあっては、君主主義は、とみにイデオロギー的性格を濃化するにいたり、ビスマルクの権力政治の後ろ盾としての立ち位置を占めたのであった。

 別の機会に、フランス復古王政において、君主主義憲法を掲げ、国王が首相・内閣とともに統治した、つまり国王が名実ともに国家の第1人者であったことをもって、これを「君主主義的立憲政」と規定した。望田の問題提起に学びつつ、「君主主義的立憲制」を、憲法が君主主義的であるだけではなく、政治・国家においても君主が中枢を担う体制として再構成したのであった。

 その「君主主義的立憲政」とも区別して、それでは、ビスマルク帝国をどう概念的に表現するか。

 これまでにおこなってきたイギリス名誉革命体制、フランス第1帝政、フランス復古王政、ドイツ帝国それぞれの分析に基づき、それらの初期ブルジョア国家としての異同を、四つの視座から明らかにしよう。その一は、公的イデオロギーにおける主権の所在である。その二は、「国家元首」と「政府の首長」の分化、別言すると君主からの首相ならびに内閣=政府の自立化の歴史的傾向である。その三は、国家権力の機構的編制について、三つの可能性、すなわち君主中心(主義)、議会中心(主義)、内閣=政府中心(主義)の存在である。その四は、統治の担い手の主力について、政党、君主、官僚の区別である
 四つの視座からすると、それらの国家体制を以下のように特徴づけることができる。

 表 初期ブルジョア国家の諸形態
イギリス名誉革命体制 国民主権国家元首と政府首長の分離議会中心政党政治
フランス第1帝政 国民主権国家元首=政府の首長君主中心君主政治
フランス復古王政 君主主権国家元首と政府首長の分離君主および内閣中心君主・政党政治
ドイツ・ビスマルク帝国 国家主権国家元首と政府首長の分離政府中心官僚政治
注@、名誉革命体制についてはウオルポール時代をとる。
 A、ビスマルク帝国における主権の所在について。第2帝政の支配的憲法学であるラーバント憲法学は、国家法人説に立ち、君主主権か国民主権かの選択から転じて主権を国家自身に帰属させる新しい道をとった。

 この表から、ビスマルク帝国は、フランス第1帝政と相違していて、ボナパルティズムと規定できないし、また、フランス復古王政との相違からすると君主主義的立憲政とも規定しがたいことを、確認できる。

 ビスマルク帝国について、「ボナパルティズム」か「君主主義的立憲政」かのどちらかに無理に押し込むよりも、いずれとも別の、より適切な概念の開発を試みたい。

 1871〜90年のビスマルク帝国のドイツ型の政治・国家体制としての個性的な特徴を再確認しよう。
 「上からの革命」によって構築された国家では、一方で君主主義に依拠し、他方では政治の大衆化状況にあって議会の多数派の取り込みを策しながら、宰相=政府中心主義の統治がおこなわれた。国家権力機構の編制として、議会(多数派)に基づいて形成される議院内閣=政府制は排され、帝国議会は、主権的な権能はもとより、政府形成に対する影響力をもちあわせなかった。宰相および官房府各省の長官からなる帝国政府は、帝国議会が関与しえないところで決定された。それに、政策決定の指導権は政府の掌中にあり、政党や議会は政策決定過程に直接に参与することができなかった。様々な面から議会に対する政府の独立性が確保されていて、議会は政府の政策を抑制しうるにとどまった。こうして、帝国政府が国家権力機構の最中枢の地位を占めた。

 それは、議会と異なる基盤に拠って立つ宰相と帝国政府が、皇帝の強大な権限を役立てるとともに、議会主義化への流れを封じ込めながら、政治を主導するシステムであった。

 更に、「ビスマルク帝国=立憲政府政」説の提唱を補強する論点を加える。

 ドイツでは、18世紀以来の官僚主導の国家の歴史があった。その歴史的流れのなかにあって、ビスマルク帝国は、「3月前期」のプロイセンの官僚絶対主義体制の近代的発展転化形態にほかならなかった。官僚絶対主義―上からのブルジョア革命―ビスマルク帝国という繋がりである。

 ビスマルク帝国は、推進的担い手から見ると官僚政府政であり、前代の官僚絶対主義が、1848〜71年のブルジョア革命での立憲制、議会制の導入によって近代的に発展転化した形態であった。シュタイン=ハルデンベルクの改革以来、19世紀前半をつうじて定着してきた官僚政府主導主義の政治・国家は、憲法の制定、議会の開設によって近代的に編成され直して、ドイツ帝国に受け継がれた。
 そこでは、かつて絶対的であった国王・軍部・行政官僚層の権力は、憲法と議会によって制限されたが、依然として国家における最強権力であり、他のものに取って代わられることはなかった。大権を保持する国王を支える軍部や行政官僚層が新体制にあっても相変わらず政府の中核であり、その首脳部は新たに登場した議会政党の上にあった。伝統、格式を背負った貴族主義の軍事・行政エリートは、大衆によって選出された議会エリートよりも社会的に優位する地位にあったのである。

 このようなことからすると、ドイツ型国家体制の歴史的伝統の近代的転形としてビスマルク帝国を捉えるほうが、フランス型国家体制たるボナパルティズムの移植あるいは模倣としてそれを捉えるよりも、当を得ているに相違ない。

 ビスマルク帝国の政治・国家体制の概念規定にあたっては、その何よりの特徴である政府中心(主義)、あるいは政府の他の国家諸機関に対する優越を表わす必要がある。君主中心(主義)あるいは君主の他の国家諸機関に対する優越を表わすのに、君主主義、また議会中心(主義)あるいは議会の他の国家諸機関に対する優越を表わすのに、議会主義の術語が広く使用されてきた。それに倣うと、政府主義となる。

 ところが、政府主義の学術用語は存在していない。それは何故なのかは、一つの考察に値する問題であるが、ここでは、政治的な存在、現実の分析よりも、すぐれて政治的な当為、理念の主張を旨として、建前によって実態を隠蔽し虚飾する政治理論、国家論の、特段のイデオロギー的な存立性格を指摘するにとどめる。 

 こうした政治理論、国家論のイデオロギー性への批判の意味をも込めつつ、ビスマルク帝国の国家体制を、その存在構造に即位して、立憲政府政、あるいは政府主義的立憲政と規定したい。

 さてそれでは、ビスマルク帝国に倣って建設された明治国家をどう規定するか。これが次の課題となる。

 大藪龍介