「政体」
 『新マルクス学事典』(弘文堂、2000年)の執筆項目


【T】初期における論判
 およそ19世紀前半までの近代政治史は、絶対君主政と立憲君主政の対立、それと並んで立憲君主政への共和政や民主政の対抗という二重の区分線を内包して織りなされていた。そこでは、プラトンやアリストテレス以来の伝統である君主政、貴族政、民主政という政体の分類が、幾分なりと変形されながら踏襲されるとともに、他方ではアメリカの独立革命やフランス革命を機に実現した共和政が、民衆、労働者階級による現行体制変革の志念の意味合いを強く帯びるにいたっている民主政と交錯していた。こうした時代の通念に従いながら、マルクスは政体、あるいは国家形態(Staatsform)について関説した。

 立憲君主政を近代国家のモデルとして設定したヘーゲルを批判することから出発したマルクスであったが、彼によれば、近代における君主政か民主政かといった争いは、市民社会を基盤とした政治的国家の内部での一対立に過ぎず、本質的な同一性を有していた。「民主政と貴族政と君主政の間の抗争・・・・・・等々は、様々な諸階級間の現実的な闘争がとるところの幻想的な諸形態たるに過ぎない」(『ド・イデ』廣35)。他面ではしかし、それらの政体の間に現実的に差異性が存することも彼は了解していた。君主政が封建時代の名残をとどめているのに対し、共和政は近代の先端であり進歩的であった。したがって、政体をめぐっての闘争は無意味ではありえなかった。プロレタリア階級の闘争、革命の利益からすると、「最も良い国家形態とは、社会的対立をして自由な闘争をさせ、それによって解決に到達させる、そういう国家形態である」(「六月革命」,5:131)。マルクスが言及したことのあるヴァージニアの権利章典の中では、政体は各様だが最大限の幸福を達成するのが最善のものと宣明されていた。マルクスは専制概念も頻繁に使用したが、専制というのは総じて無法の支配であり、立憲主義の反対を意味した。彼はオーストリア、イタリア、スペインなど、ブルジョア革命を未達成の国々の政体、それに加えてナポレオンの第一帝政を、それぞれの特徴に彩られた専制として規定した。

【U】48年革命期における理論的難点
 1848年革命は近代政治史の新段階への移行の開始を意味していた。フランス第二共和制から第二帝政への進行過程を対象としたマルクスの分析は、プロレタリア革命早期到来の主観主義的観望に災いされて難点が少なくなかった。政体に関しても、「王政復古か、それとも赤色共和政か」(「パリの状態」,6:207-208)の二者択一として展望を立て、「ブルジョア共和政はひとつの階級のほかの諸階級に対する無制限の専制を意味している」(『ブリュメール18日』,8:115)と主張するなど、的はずれの論議が含まれていた。ブルジョア民主共和政の成立、そしてボナパルティズムへの転変は、マルクスにとって不意打ちの、期待と予想に反する成り行きであった。新たな歴史的事態の進展に直面して、既存の政体論の枠組みでは対応できないことが露呈したのだと言えよう。なお、この時期のマルクスは、フランスの政治的現状の分析に際して、専制とともに独裁の概念を濫用した。専制と独裁の異同に関しては、非常事態下での臨時的な独裁が一時的ではなく長期化すれば専制と化すというのは、ルソー『社会契約論』以来の通念であった。

【V】新事態への理論的アプローチ
 1860年代には、イギリスでの第2次選挙法改正、フランスでの第二帝政の「自由帝政」への進化、ドイツでは「上からの革命」の進行など、近代政治史の新たな発展段階への推転を告知する重要な出来事が相次ぎ、政体をめぐっても新しい様相が顕出していた。イギリスでは、すでに、「王権は単なる名目上の権力」(「議会情報」9:252)となっていたが、しかし、国王は内外に向かって国民的統合を象徴するイデオロギー的機関として定着していた。貴族もまたブルジョア階級の中に同化して、「旧来の貴族的伝統が最も近代的な社会の中へ入り込んで栄えている国」(「醜聞」,15:493)が現出していた。産業ブルジョア階級を代表する党派としてブルジョア共和政を掲げて伸長したマンチェスター派は、旧来の党派を母胎とした保守党、自由党への政党の再編成の進行のなかで後退を余儀なくされた。イギリスは依然として王国であったが、ブルジョア精神がいたるところに浸透し議会制民主主義の体制が築かれつつあった。ヨーロッパ大陸では、産業的躍進を達成したフランス第二帝政がもてはやされ、ドイツなどではそれにならった同類国家の建設が進められていた。フランス第二帝政は、「少なくともヨーロッパ大陸においては、近代の階級支配の国家権力そのものである」(「『内乱』第二草稿」,17:579)。第二帝政ボナパルティズムについて、マルクスはなお「専制帝政」の面のみを強調することから脱しえなかったが、「内実の専制主義とみせかけの民主主義」(「フランス=プロイセン戦争についての国際労働者総評議会の第一の呼びかけ」,17:5)と言うごとく、民主主義の要素が取り入れられていることも認めざるをえなくなっていた。

 王政、帝政と一体化した構造でのブルジョア民主主義化の進捗、議会から内閣もしくは政府への国家権力の中枢の移動、さらには政党をはじめとした非国家的政治組織の進出によって、旧来の君主政か共和政かといった対立は形式的なものに化し、かつての意味を失うにいたった。ありあわせの概念装置ではもはや現実をとらえることはできず、政治や国家の実相に迫るにはあらたな理論的枠組みの開発が不可欠であった。しかしながら、マルクスはもとより、エンゲルスによってもそうした理論的作業は果たされることがなかった。

 近代政治史の発展的展開につれて、政体あるいは国家形態から「政治的諸関係」(「『資本論』第1版序文」,23a:9)の全体へと豊富化されてきたマルクスの論説を発展的に継承して、(1)政治的イデオロギー、規範、(2)政党、その他の政治集団、(3)国民代表制、選挙制、(4)議会と政府を二大機関とし、官僚的、軍事的装置を備えた国家権力機構(5)国家形態、などにわたる政治の全体的な構造を分析的に解明する必要があり、それを例えばマルクスが使用した「社会システム」(『要綱』,草1:402)の語にならって政治システムとして総称的に概念化することができよう。さらに、それぞれの時代と国によって異なる政治システムの多様な存在形態を、ボナパルティズム、議会制民主主義、議会寡頭制(イギリス名誉革命体制など)、君主主義的立憲制(フランス復古王政など)、などとして具体的に研究し理論化していくべきであろう。

文献
 ソ連邦科学アカデミー国家・法研究所(藤田勇監訳)『マルクス=レーニン主義 国家・法の一般理論』日本評論社、1973(第5章「国家の概念」)
 大藪龍介『マルクス・エンゲルスの国家論』現代思潮社、1978

(大藪龍介)