「グリュックスマン『グラムシと国家』について」
 2011年 9月


 本書は、1975年に執筆され、グラムシの国家論をめぐって、隣接諸論域と連関づけながら、豊富な文献の検討を交えて克明に分析し、その全体像と達成地平を討究した大部の力作である。当時にあってグラムシ国家論研究を大きく前進させ、それまでにない段階を築いた書として記念されるだろう。現在の日本のグラムシ理論研究にも多大な影響を及ぼしている。

 しかし、レーニン主義の堅守やアルチュセール理論の継受を明言しているように、ソヴェト・マルクス主義が未だ栄光をとどめていた最終的な時期の産物であり、マルクス主義に処するスタンスは保守的で、歴史的先見性を欠いており、特定の思想的立場からするグラムシ国家論の読みこみが色濃い。今日的には、本書で提示されている論の批判的乗り越えが求められていると考える。

 グラムシ国家論研究としての本書の最大の特徴は、理論的基調として、グラムシによる国家概念の拡張、「統合的国家」論について極めて高く評価し、その画期的意義を説き明かすことに努めていることにあろう。

 「国家の拡張は自由主義国家の危機とファシズムの到来によって作り出された新しい経験に、オルガニックな解答を与えるものである」。「しかしながら国家の拡張は、それ自身の起源における文脈を超え出ている。というのは、グラムシはマルクス主義的な国家論、したがってあらゆる国家についての理論に関わる理論的・演算子的諸概念を駆使するからだ」(151頁、傍点あり)。したがってまた、「国家の拡張」は「社会主義の政治、つまり過渡期の国家を考えるうえで必要な理論作業である」(92頁)。

 このように、国家概念の拡張を、当代の国家の把握としてのみならず、プロレタリア革命後の過渡的国家を理解するうえでも、大きな理論的寄与として位置づける。「統合的国家の概念が、双極性・両面機能をもつのは、それがファシズム分析と社会主義国家および国家の死滅というプロブレマテイックとを同時に根拠づけるからである」(160頁)。

 そうした「双極性・両面機能」のうち、まずは、1920〜30年代の歴史的経験の把握の次元について検分しよう。

 何故国家概念の拡張なのか。その所以を「自由主義国家の危機とファシズムの到来によって作り出された新しい経験」に求めているのは、当を得ていよう。

 ただ、その内実に立ち入ると、「自由主義国家の危機」に主要因を求め、自由主義国家批判に主眼を置いて捉えている。「自由主義に固有のものである政治社会と市民社会の分離を斥け」「グラムシは、国家の拡張というテーゼを反経済主義的・反自由主義的テーゼとして提出する」(138頁、傍点あり)。反面、「ファシズムの到来」との関係を掘り下げて、国家介入主義的経済政策の採用、国家によるファシスト党や労働組合の統制の確立などのファシズムのもとでの国家(主導)主義的な体制の再組織という、イタリアで進行した歴史的現実と切り結ぶものとして、グラムシの拡張された国家概念を捉え返すことを欠いている。また、工業的最先進国アメリカの経済・社会体制については大きな関心を払って分析しているが、そのアメリカの国家への注目は乏しく、グラムシ自身が明記したファシズムの国家とアメリカニズムの国家の型の相違にも関心を払っていない。つまり、1920年代に進展した国家(主導)主義的な体制再編の歴史的動向の分析よりも、国家と市民社会の分離(狭義の国家)とは反対に双方の接合(広義の国家)を旨とする「反経済主義的・反自由主義的テーゼ」の定立に力点を置いて、「国家の拡張」「統合的国家」の論拠づけをおこなっているのである。

 ともあれ、グリュックスマンによると、「国家の拡張」による「統合的国家」論はすぐれて「反自由主義的テーゼ」として成っている。しかるに、グラムシは当代の最先進的なアメリカニズムに大いに注目し、アメリカの国家について、これを「自由主義的国家」(『獄中ノート』Q22§6)と規定している。グリュックスマンの説に従うと、グラムシはアメリカニズムについての分析と背理して「統合的国家」論を提示していることになる。グリュックスマンによる「統合的国家」論の意義づけと根拠づけには、アメリカニズムの国家に関するグラムシの論説を包括しえない欠陥がある。

 続いて、「国家の拡張」が1920年代の国家の特殊具体的現実性という「それ自身における文脈を超え出て」「マルクス主義的な国家論、したがってあらゆる国家についての理論」に関わる基準的役割を果たすと主張するが、何故そうなのか。

 グリュックスマンが拠り所にしているアルチュセールの国家論が威力を発揮する。アルチュセールは、マルクス主義の通説的な「国家=(抑圧)装置」論に「国家のイデオロギー装置」論を付加して「国家=抑圧装置+イデオロギー装置」論に拡充し、国家論の新展開を図った。それは、グラムシ国家論との関係では、広義の国家論、「国家=政治社会+市民社会」テーゼを、@、地域的、時代的な限定性を取っ払って一般理論化したうえで、A、「ヘゲモニー装置」を「国家のイデオロギー装置」として読み替え、B、「国家=装置」論として一貫させて改編するという意味を有していた。グリュックスマンは、そのアルチュセール国家論を投射してグラムシ国家論を解釈し敷衍するのである。アルチュセール国家論に照らすことによって、グラムシの拡張された国家、「統合的国家」は、イタリア・ファシスト国家把握の直接性を超出して、国家一般につうじる真実相を表しているものとされる。つまり、「アルチュセールからグラムシへ、そしてその逆の関係」「新しい積極的な関係をアルチュセールとグラムシのあいだで確立すること」(92〜93頁)が、本書の通奏低音として流れている。

 グリュックスマンによる如上の「反経済主義的・反自由主義的テーゼ」としてのグラムシ国家論の読み込みとアルチュセールの「国家=抑圧装置+イデオロギー装置」説ヘの依拠とは、もちろん一体的な両面関係にある。

 次に、革命後の過渡期の国家、国家の死滅に関する考察の検分に移る。「国家の拡張」はこの次元でも要諦をなす。

 1970年代、アルチュセール派は、プロレタリアート独裁守護の論陣を張ったことが象徴するように、ソ連の「社会主義」に関して、したがってまたレーニン主義過渡期国家論について、歴史的見直しの気運に抗しつつ、依然として無批判的であった。そうした立場において、グリュックスマンは、グラムシの「統合的国家」、「国家=政治社会+市民社会」と、ソヴェト・ロシアでの前衛政党の指導下に労働組合、協同組合、言論・出版・報道団体、文化・芸術団体などを結集した、国家(主導)主義的な過渡期の経済・社会・文化の建設の現実、それを集約的に定式化したレーニンの「プロレタリアート独裁の体系」論とを、重ね合わせにするのである。先述のアルチュセールの「国家=抑圧装置+イデオロギー装置」論自体も、ソヴェト・ロシアの国家による社会の権力主義的編成の機構的構造を一つの範型と見做すことを含意して成っていた。

 こうした過渡期国家に関する「統合的国家」の理論は、第1に、マルクス『フランスにおける内乱』の「社会による国家権力の再吸収」やコミューン型国家の説論や、グラムシ自身の「政治社会の新社会への再吸収」(『獄中ノート』Q5§127)の確言を無視して、その彼岸において展開されているし、第2に、「プロレタリアート独裁の体系」と称されたソヴェト・ロシアの過渡期国家の国家(主導)主義的歪みをまったく察知できていないことを意味している。

 確かにグラムシの「国家=政治社会+市民社会」とレーニンの「プロレタリアート独裁の体系」との構図の共通性は注目に値する。だが、両定式を二重写しにする傾向がグラムシ自身にもあった―その可能性は否定できない―とするならば、それはグラムシの国家論の長所ではありえず短所をかたちづくる。

 更には、グリュックスマンによると、グラムシは拡張された統合的国家のうちにその死滅の条件を見ていたとされる(366頁)。「グラムシにとって、社会主義の政治には複雑な諸上部構造の最大限の発展が必要である」(373頁)。スターリンの国家の最大限の強化をつうじての国家の死滅への説とは区別だてしているとはいえ、それに似通った「諸上部構造の最大限の発展」を説くことになっている。「社会による国家権力の再吸収」あるいは「政治社会の市民社会への再吸収」筋道をつうじての国家の死滅とは、ベクトルがまったく逆の発想である。

 以上、グリュックスマンの書について、グラムシ国家論について発掘している豊富な知見に学ぶところは多いが、理論的討究の基軸について叙上のように厳しく批判せざるをえない。

 [この小文は、『季報唯物論研究』第115号に発表した拙稿「グラムシの「国家=政治社会+市民社会」をめぐって」に付随した稿である。上記拙稿の併読を願う。]