「グラムシの国家論」


1、序
 グラムシは「ヘゲモニー(装置)」論の開発と接合して独自の国家論を創出した。
 『獄中ノート』の「ノート6」において、「国家の一般概念には、(国家=政治社会+市民社会、すなわち強制の鎧を着けたヘゲモニーと言えるであろうという意味で)市民社会概念に帰着すべき諸要素が入っていることに留意すべきだ」(§88)。「国家とは、統治機構としてのほかに、ヘゲモニーや市民社会の『私的』機構としても理解すべきである」(§137)。
 そのユニークさは、国家概念を拡張して、「統治的―強制的装置としての狭義の国家」(§136)にとどまらない、「広い意味での国家(固有の意味での国家プラス市民社会)」(§87)「統合的意味、つまり独裁プラスヘゲモニーという意味での国家」(§155)を論示したところにあった。
 獄中からの手紙の一つでは、「国家は、普通、政治社会(あるいは独裁、あるいは所与の時代の生産様式と経済に従って人民大衆を順応させるための強制装置)として理解されていて、政治社会と市民社会(あるいは教会、組合、学校、等々のような、いわゆる私的な機関をつうじて国民社会全体に対する社会的集団のヘゲモニー)との均衡としては理解されていません」。
 支配階級は資本主義経済的諸関係の強制や政治的な強力によるばかりではなく、市民社会に分節している政党、教会、学校、新聞・雑誌、労働組合等の装置を介し、道徳的、政治的、文化的なヘゲモニーを行使して従属諸階級の同意を獲得し組織化し、包括的な階級支配を形成している。
 グラムシは、その社会的、政治的支配のヘゲモニーと同意のメカニズムに焦点を据えて、国家を支配階級の独裁あるいは強制機構とする通俗論にとどまることなく、市民社会と国家を一体的に連接させ、より広い意味の国家の概念を提示したのであった。「国家は、指導階級が自己の支配を正統化し維持するだけでなく、被統治者の能動的な同意の獲得に成功する実践的理論的な活動の総体である」(Q15・U§10)。
 こうした国家概念の拡張と刷新によって、市民社会と連繋させつつ、指導と支配、同意と強制、説得と暴力、イデオロギーと機構、道徳と政治と宗教等々の複合として国家を捉え、古来ヤヌス神に擬せられてきた国家の複雑多岐な構造に迫る、広角的で多相面的な考察の地平を設定した。これは、マルクス主義国家論の歴史としては、マルクス、エンゲルスが果たしえなかった、またレーニンに欠けていた、新たな境位を拓くものであった。

2、ファシズムの国家体制・イデオロギーとの対決
 国家概念を拡張して広義の国家論を問題構制するという、独自の、マルクス主義としては異例とも言える論法をとったのは、何故だろうか。その理論的成り立ちを検討することから始めよう。
 なによりも緊切なのは、イタリアを支配するファシズムとの実践的対決であり、そのためのファシズムの現実的動向の分析であった。
 第一次大戦後の革命的に高揚した労働運動や社会主義運動が退潮するのと入れ替わるように、ファシズムが興隆した。1921年末に国民ファシスト党を結成したファシストは、大衆的戦闘行動を重ねてまたたくまに勢力を増強し、22年10月の「ローマ進軍」の示威行動によって政権を奪取しムッソリーニ政権を樹立した。
 ムッソリーニ政権は、議会では小勢力であり連立政権として発足したのであったが、議会から政府への全権委任、新選挙法に基づく総選挙での勝利などによって、全権力をファシスト政府へ集中した。そして、24年夏の統一社会党書記長マッテオッティ殺害事件で陥った危機をものりきると、出版・表現の自由の抑圧、結社の規制、治安維持法、国家防衛法、特別裁判所の設置などを次々に定めた。25年から26年にかけて、党と国家の主導権争いがおこなわれ、国家の側が勝利してファシスト党も労働組合も国家の統制下に組み込まれる形で、26年11月には全面的な独裁体制に移行した。
 経済史のうえでは、ムッソリーニが政権を獲得した22年から景気回復が進行して好況期に入っていたが、ムッソリーニ政権は25年からはそれまでの自由放任主義政策に代えて国家介入主義政策を採用した(丸山優「イタリア資本主義とファシズム」、ファシズム研究会編『戦士の革命・生産者の国家』)。
 『獄中ノート』が綴られ始めた29年には、政党、労働組合はもとより文化サークルにいたるまで、いっさいの政治的、経済的、文化的諸団体を国家活動に合体させた全体主義国家体制が確立していた。国家が経済や社会を組織化する全般的国家化が当代の世界史的な動向であったが、その一つの極としてイタリアでは、市民社会と国家の関係を再組織してファシズムの国家主義体制が構築されたのである。
 このウルトラな国家主義体制への転移過程で、イタリア思想界を代表する傑出した知識人の一人であり、発足したムッソリーニ政権の文相に就任し、ファシズムの代表的イデオローグとなったジェンティーレは、25年4月にファシズムを支持する知識人を集めて「ファシスト知識人宣言」を提唱し体制翼賛のキャンペーンを張った。
 ジェンティ−レは、ファシズムの教義として、国家は至上で、絶対的であり、道徳も宗教も国家に服属し吸収される、国家はありとあらゆる価値を総合し統一すると説き、国家そのものに倫理性を賦与する「倫理国家」論を唱導した(竹村英輔「イタリア・ファシズムにおける国家の神話」、東大社研編『ファシズム期の国家と社会7』)。
 「すべては国家のために、国家の外に何もなく、国家に反して何もない」というムッソリーニが定式化したファシズム・イデオロギー―この定式は『獄中ノート』のなかにも引かれている(Q26§6)―、ならびにジェンティ−レの国家至上主義思想の批判は、アクチュアルな焦眉の課題であった。 
 他方、イタリアの最大の思想家でありオピニオン・リーダーの役割をも担っていたクローチェは、1923−24年に国内の秩序回復と安寧の観点から一時ファシズムを支持したものの、「ファシスト知識人宣言」に反旗を翻してファシズム批判に転じ、ジェンティ−レの「倫理国家」論を、倫理と国家を一体化して現行国家崇拝を図る御用理論として指弾した。
 彼は、国家を超える、より高次の道徳の世界に倫理的価値としての自由を求める自由主義的哲学に立脚し、精神の学としての哲学を体系的に展開していたが、「経済−政治史と倫理−政治史」では、歴史叙述の領域についてこう論じている。「国家とか国家の統治とか国家の膨張ばかりでなく、国家の外にあるものをもまた、……自己の対象としなければならない。すなわち、宗教的諸制度や革命的党派をも含めて、人々の情念と習俗、そしてまた実践的な傾向と内容をもつ幻想や神話をも含めて、最広義における道徳的諸制度の形成をそれは対象とすべきなのである」(〔上村忠男訳〕『クローチェ政治哲学論集』)。
 クローチェとジェンティ−レは、以前には近代イタリアの知的伝統を汲んだ観念論=理想主義哲学を築いて支配的思想潮流を形成し、こよなき協力関係にもあった。グラムシも両者の影響下で思想形成をとげてきており、二人の大御所の論戦はとりわけ切実な意味を有した。
 かかる情況にあってグラムシは、同じ「ノート6」の「国家=政治社会+市民社会」の立言に先行する覚え書のなかで、論判する。「ジェンティーレにとっては歴史とは国家の歴史にほかならない。……ヘゲモニーと独裁は切り離せず、暴力もまた同意にほかならず、政治社会と市民社会を区別することは不可能であり、存在するものは国家だけ、しかももちろん国家−政府だけである、等々がジェンティ−レの意見なのである」。更に続けて言う。ジェンティ−レとは反対に、「クローチェにとっては歴史は『倫理的−政治的』なのだ。つまりクローチェは、市民社会と政治社会の区別、ヘゲモニーと独裁の区別を保っておこうとしているのだ」(§10)。
 ジェンティ−レの国家のうちに市民社会を糾合する説論をひっくり返し、クローチェの所論を取り入れて、「国家=政治社会+市民社会」が定式化されていることは、明瞭である。
 特にクローチェの「倫理−政治史」論の影響は大であった。
 史的唯物論の経済決定論への還元を批判する一方、グラムシは、クローチェの哲学を「本質的には『経済主義』や宿命論的な機械主義に対する一つの反作用」(Q10・T§12)として受けとめつつ、その精神哲学と理論的に格闘して、従前のマルクス主義の水準を突破して進取的に、歴史における道徳、政治、文化の価値を力強く評価しその役割を解明することを図った。そして、クローチェの「倫理−政治史」論から、道徳、文化などのイデオロギーの諸形態と緊密に脈絡づけて政治、国家について考察する論座を承継した。「実践の哲学は倫理−政治史を排除しないばかりか、この哲学の最新の発展局面は、まさにその国家概念において、……不可欠のものとして、ヘゲモニー的側面を要求することのなかにあるということができる」(Q10・T§7)。
 グラムシは、レーニン主義的な革命闘争におけるプロレタリアートのヘゲモニーの問題を踏まえつつ現に支配しているブルジョア階級のヘゲモニーに転回させて、「ヘゲモニー(装置)」論を開拓し、それを国家論と接合したが、その功績はクローチェ理論を批判の篩にかけその積極的な論点を摂取して達成されたのであった。
 同時に、グラムシは、クローチェがジェンティ−レとは反対の偏向に陥っていることも適切に看て取っていた。「クローチェは、歴史=政治的活動のなかで、力の、強制の、立法的、国家的、あるいは警察的干渉の契機と区別するために、政治において、合意の、文化的指導の『ヘゲモニー』と呼ばれている契機だけをもっぱら強調しているということができます」(獄中からの手紙)。
 叙上のように、ファシズム支配体制における極度の国家強大化の現実、ならびにジェンティーレの国家至上主義やクローチェの「倫理−政治史」論との実践的、思想的対決が、グラムシの国家概念の拡張の機因をかたちづくっていると解することができる。
 グラムシが国家について定立した命題が、ファシズム期イタリアの実情に基礎をおき、その具体的状況の重みを背負っていることを明らかにした。『獄中ノート』でファシズムに直接言及することは慎重に避けられているが、「国家=政治社会+市民社会」も、眼前で進行するファシズムによる国家による社会の再組織の具体的現実と切り結びつつ打ちだされたのであった。
 グラムシが提出したカテゴリーの大部分は、マルクス主義理論の解釈としてではなく、当代のイタリアの実践的な諸問題と取り組んで作定されている。彼の思想・理論はイタリアの歴史、過去と現在のなかに深く根をおろしている。グラムシの思想・理論を評価するには、彼が現実に直面した諸課題を彼が生きた時代に投げ返し、問題の解明と解決のために彼が活用した知的諸資源について省察することが不可欠である。

3、ヘーゲル的な国家主義的問題構成
 更に、いま一つの要因が重なる。市民社会と国家を包括して議論し総合的に構成する理論的枠組みを、グラムシはヘーゲルに求めた。
 何故ヘーゲルか。リソルジメント以降の近代化の推進に当面したイタリアでは、ドイツ観念論が移植され、ナポリ・ヘーゲル学派が台頭するなど、ヘーゲル主義が隆盛した。当時哲学といえばヘーゲルであった。爾来、ヘーゲル観念論哲学の継承が、強力な思想的潮流をかたちづくってきた。そうした知的風土にあって、グラムシもまたヘーゲル理論を媒介として自らの理論をかたちづくることになった。
 グラムシは『獄中ノート』で頻繁にヘーゲルに言及した。
 「ノート6」での国家概念の拡張に先んじて、「ノート1」ではこう批評している。「国家の『私的な』編成としての政党と結社に関するヘーゲルの学説。……被治者の同意による、だが、選挙のさい確認されるあいまいで漠としたものではない、組織された同意による統治。すなわち、国家は同意を備え、そして同意を要求するが、更に政治的・組合的な結社によって、この同意を『教育する』こともある。ところが、これらの結社は、指導階級の私的な発意に委ねられた私的な機関である。ヘーゲルはある意味では、こうして、単なる立憲主義をすでに乗り越え、彼の議会制国家を政党制度によって理論化する」(§47)。
 グラムシの趣意は、当代の国家を把握するうえでのヘーゲル『法哲学綱要』の「市民社会」論に所在する先見性を汲み取る点にあった。「市民社会」の「職業団体」などの諸結社を中間団体として介在させて「国家」について論じたヘーゲル法哲学に準拠することで、グラムシは、自由で平等な諸個人から直接に国家を論決した近代初期の自由主義政治学を「越え」、「政党と結社」によって媒介された、つまり組織化された諸集団の活動によって政治過程が牽引される特徴をもつ、当代の国家の実相に迫ることができた。
 上の引用文中の「政党(制度)」について言えば、ヘーゲル「市民社会」論、「国家」論には政党の位置づけはなかったから、読み込みであったとも言えるが、「(狭義の党組織、選挙−議会の場、ジャーナリズム組織といった)諸党派の領域」(Q13§23)、「ある一つの新聞……、ある一つの雑誌……、こういうものもまた『党』であり『党分派』であり『党機関』である」(Q17§36)などの章句から察知されるように、広義の「政党(制度)」を指すものであった。
 ヘーゲルの個々の論点の読み替えにとどまらなかった。「政党と結社」が「国家の『私的な』編成」として位置づけられているように、グラムシは『獄中ノート』執筆の当初以来、ヘーゲル国家論に依拠し広義の国家概念に立っていたのだった。
 ところが、その場合、ヘーゲルの「国家」と「市民社会」の国家主義的関係づけには批判の眼を向けなかった。
 公知のように、ヘーゲル『法哲学要綱』において、「欲求の体系」・人倫的理念の喪失態たる「市民社会」に対し、「自由の現実態」・最高の人倫的共同体として「国家」は位置づけられた。そして、「市民社会」は「外面的国家」とも規定され、「国家」のもとに包括されていた。その国家主義的問題構制をも、グラムシは引き継いだ。
 ドイツにおいて、後進的な近代的発展の特質を体現して、国家を実現された自由の王国として称える国家主義思想・理論がヘーゲルにより構築されたが、ドイツより一まわり後進的なイタリアにおける政治思想・理論の形成もまた、特異なものであった。
 ボッビオによると、「ほとんどまったく無視されたのはロック、コンスタン、トクヴィル、ベンサム、ミルの著作である。……近代国家(イタリア国家を含め)誕生の母体となった自由主義・民主主義の思想の偉大な伝統は完全に無視された」(〔小原耕一他訳〕『グラムシ思想の再検討』)。それに代わって、近代的発展の後進国ドイツのイデオロギーを代表するヘーゲル理論が極めて大きな影響を揮ったのだった。
 グラムシによるヘーゲルの国家主義的問題構制の援用は、近代のイタリア政治思想・理論が先進的なイギリスやフランスの自由主義、自由民主主義の政治学とは没交渉であったことの一体的な反面にほかならなかった。
 19世の後葉以来、イギリスやフランスでは自由主義の民主主義的改革により自由民主主義の体制的制度化の時代に移り、ドイツでもビスマルク帝国の興亡をつうじて国権的自由主義とその民主化とが交錯していた。しかし、イタリアでは自由主義はいびつなままであり、第1次世界大戦後の激動のなかで社会主義による攻勢にさらされ、次いでファシズムによる攻撃をうけて死命を制せられる状況にあった。
 ジェンティ−レ(派)は、ナポリ・ヘーゲル学派を継承して、ヘーゲルの「人倫的理念の現実態」としての国家の実現を志向した(上村忠男『クリオの手鏡』、E・トラヴェルソ『全体主義』)。その国家至上主義は、ヘーゲル国家論の改作としての意味を有していた。
 他方、ジェンティ−レ(派)を論難したクローチェは、同時に、国家をば道徳性を超える存在として称えるヘーゲル理論をも否定した。「ドイツ哲学の古典的時代にヘーゲルが開始し、イタリアにおいてもスパヴェンタその他によって受け継がれて、今日その学派のなかで盛んにおこなわれているところのあの国家の称揚……この説を唱える人々の誤りは、道徳的な生をそれにふさわしくない政治的な生および国家という形態において把握してしまったことにあった」(「政治学綱要」、『クローチェ政治哲学論集』)。それによると、人間の最も高い志向は、自由を本質とする「道徳的な生」にあるのであり、国家にあるのではないのだ。
 ジェンティ−レなどの国家崇拝への批判が、彼らが起源として依存するヘーゲルの国家主義理論に対しても向けられるのは当然であった。ところが、グラムシは、ファシズムの後ろ盾にもなっているヘーゲルの国家主義に批判を向けずに、逆に拠り所とした。何故なのか。 
 グラムシによれば、「ヘーゲルの思想は、ブルジョアジーの拡大発展が無限であるように見え、したがって全人類がブルジョアになるであろうといった、ブルジョアジーの倫理性と普遍性が強調された時代に特有のものである」(Q8§179)。
 これは、的外れの誤認であった。へーゲルの思想は、国家権力の主導によって近代的発展を切り拓いていかんとする後進国ドイツに特有なもので、「ドイツ・イデオロギー」の典型的な表明であった。世界史的にブルジョア階級が普遍的な利害と道徳を体現していた時代を代表する最先進国イギリスでは、ヘーゲルの思想とは真逆に、国家は「必要悪」として観念され、「最小の政府」が求められた。
 グラムシは言う、「マルクスは、ヘーゲルの歴史的経験を越える(少なくとも大幅に越える)経験をくぐることはできなかった」(Q1§47)。イギリスに移り住み、資本主義の本国の実情を踏まえながら、『資本論』などの理論研究だけでなく、国際労働者協会に加わって実践的経験も積み、哲学的紐帯を確保しながらもヘーゲルから離陸し、経済学のみならず国家や革命に関する論考でも最先進国に相応するように躍進的転換に努めて、西欧化するとともに成熟した後期マルクスを見失ったままのようである。国家論考についてヘーゲル法哲学を拠り所とするのは、近代イタリアの知的伝統に倣うとともに、マルクスについての極めて偏面的な理解にも基づいている。
 また、グラムシはレーニンの「マルクス主義の三つの源泉」を解釈的に敷衍するかたちで、ドイツ古典哲学とイギリス古典経済学について「実践の哲学は、ヘーゲル・プラス・リカードに等しい」と述べるとともに、フランス政治学についてはロベスピエールの名前を挙げている(Q10・U§9)。古典政治学についての理解がここでの問題であるが、グラムシは、ボリシェヴィズムに倣い、マルクス主義の政治学の源泉として、ジャコバン主義を高く評価してそれを継受する立場をとっている。
 しかし、マルクス主義には、確たる政治学ないし国家論の不在という重大な空隙が存在してきた。別の表現をすると、ロックの自由主義からベンサム、J・S・ミルの自由民主主義にいたる古典政治学の批判と継承を、マルクスもエンゲルスもまったく欠いていた。爾来、それがマルクス主義の伝統として根付いていた。この致命的なほどの欠損を、上述来のイタリアの思想的風土にありコミンテルン・マルクス主義のなかに位置したグラムシも、当然のように受け継いだのである。
 グラムシの広義の国家概念は、当時のイタリアの思想的伝統、土壌に立地するとともに、近代の古典政治学の摂取を欠如したマルクス主義政治学・国家論の悪しき伝統に倣うことで、二重に自由主義的民主主義の批判的継承を放擲し、ヘーゲルの国家主義的論理に無批判に構制されたのだった。
 広義の国家論が国家(主導)主義によって活路を切り開いていこうとする体制において唱導されていることを、ヘーゲル『法の哲学』、グラムシ『獄中ノート』、そしてスターリン主義国家論教科書としての『国家と法の理論』は、そろって示している。

4、国家論上の功績と欠陥
 ここでは、グラムシの国家論をより抽象的な理論のレヴェルで国家論史のなかに位置づけつつ検討する。
 グラムシの国家論は、その内実を吟味すると、革新と保守、功績と欠陥の両面を併せもっている。
 理論的な革新、功績から入る。
 マルクス主義国家論史を顧みると、レーニンは、『国家と革命』に見られるように、「国家=暴力装置」論に偏倚した「国家=機構」論を展開して、国家のイデオロギー的性格を抹消したが、マルクスは「『経済学批判』序言」の唯物史観の定式において「上部構造」の諸要素を「イデオロギー諸形態」と別表現し、エンゲルスは『フォイエルバッハ論』で「最初のイデオロギー的権力」として国家が挙げて、ともに国家の本源的なイデオロギー性を説示していた。
 いわゆる上部構造の諸要素、国家、法、宗教、文化、哲学等々を、精神的な生産と交通の所産物として捉えるのが、マルクス、エンゲルスの見地であった。しかし、彼らは、国家をはじめとして、どの要素についても科学的な分析的研究を達成するにいたらなかった。 
 このマルクス主義の理論的空隙を突く形で、19世紀末葉以来、主にドイツで、ディルタイの「精神科学」、新カント派の「文化科学」や「目的科学」など、価値や当為によって特質づけられる人間社会を主題的に扱う理論が生成した。この思潮はマルクスへの、そしてまたレーニンヘの卓抜な対抗者であるウエーバーの理解社会学において一つの頂点に達した。イタリアではクローチェが精神哲学の体系をうちだした。巨視的にはこうした新思潮のうねりのなかで、マルクス主義の陣営からする貴重な応対として、グラムシの「ヘゲモニー」論は位置づけられよう。
 そして、グラムシは、マルクスの唯物史観の定式に着目して、国家などの上部構造の諸要素の生成について開発的追求をおこなった。「『経済学批判』の序言に含まれている、人間はイデオロギーを地盤として構造の矛盾を意識するという命題は、認識論的価値をもった主張とみなされるべきであ[る]」(Q10・U§12)。この見地から、「たんなる経済的(あるいは利己的・情欲的)な契機から倫理的・政治的契機ヘの移行、言い換えれば、人びとの意識において構造を上部構造に仕上げる」(Q10・U§6)と立言して、これを「カタルシス」という用語で表わした。
 更に言う、「この領域において、実践の哲学へのイリイチの最大の理論的貢献を探求すべきである(Q10§12)。そのレーニンは、従来注目されることのなかった論点だが、『哲学ノート』において記している。「人間の意識は、客観的世界を反映するだけでなく、それを創造しもする」。「観念的なものが実在的なものに転化するという思想は深い。歴史にとって非常に重要である」。
 グラムシの論理を汲むならば、経済の世界における矛盾を自覚しそれを解決せんとする活動を発条として、意識やイデオロギーの生産を媒介にし、経済的構造から上部構造が躍出し、政治の世界へと躍入する。こうした観点は、国家発生の理論的究明に欠かせない根本的な基礎視座である。
 理論的保守、欠陥に移る。
 まず、「狭義の国家」について、「国家=独裁」あるいは「国家=強制装置」の定説が保持されている。すなわち、「固有の意味での国家」、その内部構成に関しては、理論的な刷新はおこなわれていない。
 端的に「独裁プラスヘゲモニー」のように、「狭義の国家」は「独裁」とされ、「独裁」は「ヘゲモニー」との相関項として定置されている。その「独裁」に止目すると、あらゆる国家の本質を独裁として一般化し、非常事態における臨時性を本義とする独裁概念から逸脱したのは、『国家と革命』第2版のレーニンであった。爾来、「国家=独裁」論はコミンテルンの公式をかたちづくってきた。それに従って、以前「すべての国家は独裁である」(「《首領》」、石堂清倫編『グラムシ政治論文選集3』)と論じていたグラムシは、『獄中ノート』でも、「狭義の国家」についてレーニン主義、コミンテルンの定式たる「独裁」論を踏襲しているのである。
 もし「狭義の国家」「固有の意味の国家」に関して、これを独裁と規定する公式の内在的な克服を追求するならば、国家概念の刷新は、外延的な拡張の方位には向かわず、別の形をとるだろう。
 次に、広義の国家に関する「強制の鎧を着けたヘゲモニー」あるいは「独裁プラスヘゲモニー」の規定、「市民社会」は「ヘゲモニー」・「指導」・「同意」の場であり、「政治社会」は「独裁」・「支配」・「強制」の場であるという把握は、明快であるが、図式的に単純化されている。
 実際には、「狭義の国家」も、議会、法律の制定・施行、裁判所、また君主などをつうじて、ヘゲモニーを行使し同意をつくりだす。近・現代にあっては、ヘゲモニーをともなわない国家的支配はありえない。ファシズムやナチズムの独裁さえ国民大衆の支持のうえに築かれていたように。すなわち、「狭義の国家」そのものが、「強制の鎧を着けたヘゲモニー」にほかならない。
 グラムシの規定では、「狭義の国家」自体が備えているヘゲモニーの態様が十分に分析されない結果になる。グラムシにも「狭義の国家」のヘゲモニー(装置)についての言及は所在する。だが、ありきたりであり、踏み込んだ論点はない。
 他方、「市民社会」もヘゲモニーのみならず強制の機能を営む。ノンコンフォーミティを困難にして人々の思想と行動を均一型に帰せしめるというJ・S・ミル『自由論』の「世論の圧制」が、最も一般的な例である。グラムシ自身も、「ヘゲモニー」の作用とあいまって、人々が支配的な思想と行動に順応する動向を捉え、「現代世界における順応主義の傾向、つまり思考様式と行動様式の標準化が、諸国民、諸大陸に拡大している」(Q7§12)と摘示している。
 ヘゲモニーと強制の二分法ではなく、「市民社会」と「固有の意味の国家」のそれぞれにつらぬかれるヘゲモニー・同意と強制の特質、そしてそれらの有機的な総体編成の解明こそが、肝心であろう。
 グラムシによる国家論への「ヘゲモニー」論・「ヘゲモニー装置」論の導入による広義の国家論の提示は、コミンテルンのなかでは出色であった。しかし、道徳的、政治的「ヘゲモニー」によって特質づけられる支配のメカニズムの全体的構造を把握するには、必ずしもグラムシがおこなったごとく国家概念を拡張して広義の国家を論立する必要はない。

5、拡張された国家概念の射程
 「国家=政治社会+市民社会」論が示すのは、優れてイタリア・ファシズムの現実であり近代イタリアの思想史的伝統・土壌であったが、それらに世界史的背景として20世紀初葉からの全般的国家化の動向が加わっていた。
 1914−19年の前代未聞の世界戦争・戦時経済、29年からの世界大恐慌、更に第二次世界戦争など、国家総力戦遂行や大恐慌対策によって、資本主義体制において国家権力の増強、国家の役割の拡張が顕著になり、経済や社会への国家の介入が全面的になり恒常的になった。
 つまり、1920−30年代のイタリアでは、国家を至上とするファシズム体制やヘーゲル的な国家主義思想の支配に加重して、世界的な全般的国家化の趨勢が作動していた。
 これらの三重の重なりによって、グラムシの「国家=政治社会+市民社会」は、「介入主義国家」と呼ばれる20世紀初葉以来の国家化の時代に関する規定として解釈される傾向が支配的であるように、全般的国家化の段階にも妥当する面を有する。
 とはいえ、その妥当性は時代的に限定される。国家化の時代は、およそ1970年代までである。
 のみならず、地域的にも限定される。
 獄中のグラムシは、世界で最も先進的なアメリカのフォード主義やテーラー主義として特徴づけられる資本主義体制について強い関心を抱き、アメリカニズムを研究主題の一つとした。それは、現代世界の動向の焦点として「アメリカニズムは、現在の歴史的危機の中間段階でありうるのか?」(Q1§61)を探るとともに、ファシズムはフォード主義やテーラー主義を導入して実現できるだろうかというイタリアの行方を掴むうえに不可欠であった。
 アメリカニズムの国家は、拡張された国家あるいは「国家=政治社会+市民社会」とどう関係するのであろうか。そのなかに包括されるのだろうか。それとも逆に区別されるのだろうか。
 「ノート1」での第一次的考察の推敲・再論としてアメリカニズムとフォード主義をテーマとする「ノート22」には、次のような行がある。「アメリカ化は特定の環境、特定の社会構造、そして特定の型の国家を必要とする。その国家は、自由貿易主義や実際の政治的自由という意味での自由ではなく、自由な創意および経済的個人主義(『市民社会』として自らの史的発展を通して固有の手段で工業的集中と独占の体制に到達する)という、最も基本的な意味での自由主義的国家である」(§6)。
 アメリカニズムは、生産と経営を徹底的に合理化し、スト破りやスパイなどによる労働組合の破壊と高賃金、消費的享楽などによる労働者の説得的な懐柔を巧みに能率よく併用して、フォード・システム化された工業に労働者大衆を順応させ、彼らの全生活を統御した。ブルジョア階級は生産を軸として他の諸階級を統率し、経済世界における決定的な位置と機能によって社会的威信と国民大衆の同意を手に入れた。だから、「ヘゲモニーは工場から生まれ、ヘゲモニーの行使にあたっては、政治とイデオロギーの専門的媒介者は最小限の数しか必要ではない」し、「『構造』が上部構造をより直接的に支配し、その上部構造もまた『合理化』(単純化、少数化)される」(§2)。下部構造の支配の浸透として、企業の所有・経営者たちは、経済的な決定的支配力を築くとともに市民社会における優越した指導性をも固めていた。そこに存立するのは、「特定の型の国家」「最も基本的な意味での自由主義的国家」であった。  
 上の「自由な創意および経済的個人主義」の「自由主義的な国家」というアメリカ国家の把握のすぐ前の行で、グラムシは、イタリアでは「国家がつねに果してきた経済的役割」があり、ファシズム下でも「『経済警察』という消極的要素の方が、旧い産業主義の枠内ではあれ、国の経済−社会構造を近代化することによって、それを刷新するような新しい経済政策の要請という積極的要素に優越してきた」(§6)と、双方の国家の対照的な相違を明らかにしている。
 別の覚え書では、イタリアで大恐慌の襲来を受けて銀行、私企業が危機に陥ったのにたいして、国家資金を投入して設立された産業復興機構(IRI)が救済にあたり国家の持株会社の方式で金融・産業構造の再編を進めるという、国家の経済の領域への介入の拡大深化の様相について取りあげている。これも、私的イニシアティヴと「市民社会」の力が大きいアメリカと差異していた。
 論点を補強する。大恐慌の勃発に見舞われた資本主義諸国では、恐慌、不景気などの破局的な浸入に抵抗する非常に複雑な構造が築かれていて、経済的危機の政治的危機、更には体制的危機への進行をくいとめる防衛体系となっている。これは、グラムシの秀逸な分析である。その分析を検討すると、グラムシは、防衛体系として「市民社会の堅固な構造」(Q13§16)、「市民社会の諸々の上部構造」(Q13§24)や「国家諸組織としても、市民生活における諸組織の総体としても」「現代民主主義の盤石な構造」(Q13§7)を適示している。そこでは、「市民社会」が「ゼラチン状」であったとする「東方」との対比で、なによりも「市民社会」を重視し、「固有の意味の国家」が危機の緩和、制御のうえで発揮する経済力を含む諸力を捉えていない傾きがあるとはいえ、もっぱらアメリカに即して考察をおこなっていることが明らかである。
 彼の所論から汲みとると、大恐慌の危機への対処として「市民社会」と「固有の意味の国家」のそれぞれが果たす役割の関連如何に関しても、アメリカとイタリアでは違いがある。対質すると、前者は「市民社会」主導、後者は「固有の意味の国家」主導である。
 グラムシは、一応の到達点としてイタリアの国家とアメリカの国家について型の相違を具体的に析出してはっきりと類別し、イタリア国家を、いわば「西方」世界の「周辺」国にしてファシズムの国家至上主義的体制にあるそれとして特定して位置づける視座を築いた。そこでは、以前の「ノート6」での拡張された国家概念に関して、対象の特定性、その理論的射程の地域的限定性が示唆されるにいたっている、と読解することができる。
 史実としても、第1次大戦、大恐慌を経て、1930年代に確定的になる資本主義体制の経済、社会と政治、国家の絡み合い・癒着、別言すると全般的な国家化の動向には、国に応じて振幅があった。「西方」の「周辺」国にしてファシズムの支配体制のイタリアの国家は、ウルトラ国家主義的であり、一方の極であった。他方、最「中枢」国のアメリカでは、フォーディズムや民主主義の構造と結びあって、なお経済や社会による国家への規定性がつらぬかれ、全般的国家化には限度があった。1930年代からの資本主義国家は、共通して、国家介入の構造化あるいは全般的な介入主義を発展段階的特質とするけれども、そのなかにあって、一方のイタリアのファシズム国家と他方のアメリカの自由民主主義国家とには対照的な型的相違があった。
 大恐慌後のニューデイールの展開によるアメリカニズムとその国家の変貌過程を、獄中にあって充分に掌握できなかったところはあっても、グラムシは、イタリアとアメリカの国家の存在性格の相違はしっかりと看取したのである。
 「国家=政治社会+市民社会」論の射程は、歴史的にも、地域的にも限定されている。
 「国家=政治社会+市民社会」をめぐって批判的に論じてきたが、グラムシの国家論考も彼が生きた時代と国の国家主義的状況に深く規定されていたことを重ねて強調したい。そのように捉えなおすことによって、広義の国家に関する「強制の鎧を着けたヘゲモニー」の規定については、これを「固有の意味での国家」に関するものとして再定立して、近・現代国家の全般に妥当する名句として継承することができるし、拡張された国家概念も、後進的な近代イタリアの国家、とりわけファシズム国家に関しては適切なものとして確認できる。