「「国家論」の方法」
 『社会科学の方法』 1982年2月号 御茶の水書房


 マルクス主義において、いわゆる上部構造の諸要素に関する諸学問は今なお未確立に残されており、政治学はその最重要な部域に位置する。ここでは、政治科学論の拠点たるべき近代ブルジョア政治についての本質論を「国家論」と指称しておき、その「国家論」の創造のためにはいかなる方法がとられるべきか、その基本的な問題の構制を探ってみたい。

 従前のマルクス主義政治学では、唯物弁証法ないし史的唯物論の適用がその方法とされるのが常であった。スターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』において定式化されたように、自然現象の研究方法としての弁証法と自然現象の理論としての唯物論を接着した弁証法的唯物論の諸命題を社会生活の研究に押し広げたのが史的唯物論とされ、その史的唯物論の公式の適用が、政治学を含めた社会科学の方法とされてきたのである。だが、そうした唯物弁証法ないし史的唯物論の天下り的適用方式は、自然の法則と社会の法則を基本的に同じものとして、自然科学の方法を社会科学の方法へと拡張する自然主義的一元論や、社会の法則については史的唯物論の公式的提題の教義的反復に終始して、政治など上部構造の諸要素の運動法則は何ら具体的に解明せず、それを結局は経済法則に還元する経済主義的決定論をもたらさずにはおかなかった。かかる通説的見解の批判的克服として、『資本論』の論理学の具体的活用、ならびにヘーゲル目的論の唯物論的改作というレーニン『哲学ノート』の提唱を手がかりに、『資本論』の方法との同一性における区別性として「国家論」の方法を追求するのが、本稿の根本視角である。端的に言えば、研究対象たる政治の固有の法則性に規定された「国家論」の方法の固有性、ここに究明されるべき問題の核心がある。

 『資本論』は、資本主義経済にあっては商品生産が普遍化して、経済過程が自立的で、しかも完全に物化された形で進行することを客観的な根拠として、社会諸関係のなかから経済的なそれを独立に取りだして物質的社会関係として抽象し、商品・貨幣・資本の物的な連関世界として経済的構造を解明した。そこでは、資本主義的生産の展開は「一つの自然史的過程」(『資本論』第一版序文)、つまり自然史の特定発展段階としての社会的な自然史として理解され、経済的法則性は、その社会的な自然法則としての性質、すなわち当事者の意識にのぼらずとも全面的に物化された事象連関として自己を貫き通す鉄のごとき必然性、換言すれは盲目的な必然性、のゆえに自然的な因果必然性の系列項と見なされ、機械論的な因果法則として理論化された。これに対して、ブルジョア政治の法則性は、政治的関係がイデオロギー的社会関係の一つとして抽象的に規定されるように、当事者の意識的行為を本質的な機因とする。政治過程は、政治の目的的イデオロギーとそれを達成する手段的機構として組織される国家を枢軸として存在する。政治の法則性は、一定の目的とそれを実現する手段としての目的論的関連を内に含んでいるのである。そして、こうした政治過程を理論化するには、因果論的な考察に加えて目的論的考察の取りいれが必要になる。

 この「国家論」の方法の開拓という見地からすると、マルクス主義との社会観(歴史観)のうえでの基本的対立にもかかわらず、ウェーバーの理解社会学の方法は、重要な問題提起の意味をもち慎重な検討に価いする。ウェーバー社会学はマルクス主義の経済主義的決定論的偏向への批判的反省を迫る意義を担っているが、のみならずその理解的方法は、政治など上部構造の諸要素の理論的研究については、行為の動機の探求あるいは意味の了解をつうじて社会的な行為連関を把握せんとする着想において当を得ているのである。ここでは、マルクス主義において未達成の上部構造の諸領域における人間の行為の固有の法則性の科学的解明をばウェーバー社会学の理解的方法をもって遂行することを説いて示唆に富む大塚久雄『社会科学の方法』の論点を批判的に検討しよう。

 大塚教授(以下敬称略)の議論によれば、自然現象と違って、意識をもって行動する生きた人間諸個人の営みである社会現象には、「人間行動における目的−手段の連関、いわゆるテレオロギーつまり目的論的な関連が奥深く含まれている」(『大塚久雄著作集』第9巻、44頁)のであって、そうした社会現象を対象としてどうしたら科学的な認識が成立しうるか、この難問に、ウェーバーは行為の動機の意味理解という手続きを介して目的論的関連を因果関連へ移しかえるという明快な解答を与えている。「ある日的を設定し、そのための手段を選び、そして決断しつつ行動することによって一定の結果をもたらすということは、われわれの主観においては、たしかに目的−手段の連関として意識されていますが、それを客観的な過程のなかに置いてみますと、……一つの原因−結果の関連ともなっている。ともかく、こうして目的−手段の関連をたえず原因−結果の関連に組みかえていけば、社会過程における客観的な因果関連が逐一たどっていけることになる」(45頁)。かかる理解的方法による「目的論的関連の因果関連への組みかえ」(同)が、ウェーバーにより形成された社会科学に独自な方法であるとされる。

 これは、傾聴すべき卓説ではある。しかし、次のような批判を呈しうる。まず、理解的方法が「社会現象のすべてを、それぞれの『固有の法則性』においてつかみえるような、そうした社会科学の方法」(50頁)として現出されていることについて、そうした論の構え方自体背理であろう。社会の諸事象それぞれに固有の法則性を把握するためには、その方法もまた固有性をもたねばならないからである。人間の行為の動機といっても、それが占める意味は、経済、政治、宗教などのそれぞれによって相違するのである。理解的方法によって一律にすべての社会現象を掴むというのは、方法論的画一主義を免れず、従ってまた対象に対する方法の優位を導くという点で、史的唯物論からの天下り的適用をおこなう通俗的なマルクス主義と内容的には反対だが形式的にほ同じ誤りにおちこむことであろう。

 次に、「目的論的関連の因果関連への組みかえ」という中心論点について、この組みかえほどのような事由で可能とされているだろうか。「ヴェーバーは……目的論的関連を人間諸個人を行動にまで押しうごかす一つの原因とみて、それを客観的な歴史の因果関連のなかに移しかえ、そして因果性の範疇を用いて社会現象を対象的にとらえていく」(32頁)と述べられてもいるように、目的−手段の関係を、動機の探求をとおして、原因−結果の関係と見なすことによってである。その際、動機が内部原因と認定される。人間の意志の自由がまつわりついている社会現象の因果論的認識は、至難であると一般に通念されているが、大塚=ウェーバーによれば、自然観象についてよりも一層の確実性をもっておこなわれうる。ドイツ歴史学派とその周辺において論説されたことだが、自然科学における単なる外部的観察とは違って、行為の意味の了解により対象の内側にはいりこみ内在的に認識できるからである。

 しかし、この見解には、重大な欠陥が存在する。右のごとき組みかえは、目的の定立および手段の選択が正しくおこなわれて、それがそのとおりに実現することで成り立つ。ところが、政治をはじめとした上部構造の諸事象は、それが目的論的合理性に貫かれている場合であれ、イデオロギー性を本質的属性にしている。また、そのイデオロギー性から、その行為の主観的な動機とそれがもたらす客観的な帰結との乖離が避けられない。この主観的意図と客観的結果のくいちがいという事態は、無論、大塚も熟知しており、別論文では、「エートスの内部で、無意識にもせよ想定されている理想達成への目的論的関連が、エートスを含めての社会的過程の錯雑のなかで整合性をもちえずに、いわば挫折し、さまざまな絡み合いのなかで、客観的にはそれとは異なった因果関連がつくりだされていく」(「思想史方法論」上掲書、519頁)というように、諸個人の間の対抗的な社会的連関という視点から説かれている。それで、目的論的関連は「一つの」原因−結果の関連とされているのでもあろう。ともあれ、上来の組みかえの主張は、目的論的思考の階級的制限性や虚偽意識性、そしてまた目的論的構想からの客観的到達結果のずれという看過を許されない固有な性質の論決について欠落を免れない。政治過程については、とりわけそうである。理解的方法による目的論的閑適の因果関連への組みかえという説は無理を伴っており、もしそうした組みかえを強行するとすれば、政治などに固有なイデオロギー的過程の真相は折出されず逆に遮蔽されてしまうだろう。

 ところで、大塚=ウェーバー説では、組みかえによって目的論的関連は因果関連に還元される。このかぎりでは、社会現象に関しても科学的考察は因果論的なそれしかありえないと明言したブハーリン『史的唯物論』と結論を共にする。大塚=ウェーバー説は、歴史学派の社会科学方法論を批判的に摂取して、社会現象に固有な目的論的関連を把握するために理解的方法を社会科学に固有の方法として示すが、他面では方法論的自然主義に与して、目的論的説明も因果論的説明に帰せしめてしまうのである。

 だが、目的論的関連自体を法則的に理解することはできないだろうか。その追究によって、政治過程をいわば因果関連と目的論的関連の組みあわせとして科学的に考察する、これを「国家論」の固有の方法として、以下に提起したい。大塚書の方法論議では、多分その念頭に主要な位置を占めていなかったからであろうか、政治学ないし国家論については内容との対応をまったく欠いている。しかし、方法は個々の学問の内容的展開の形式に関する。「国家論」の端初的な諭域である国家の発生過程について簡略に触れながら、それに即してその方法も明らかにするよう努めよう。

 「国家論」の出発点をなすのは、ブルジョア階級とプロレタリア階級との経済的対立関係であり、両階級間で繰り広げられる原初的な階級闘争である。政治現象の下向約分析の終局点にしてかつ『資本論』の上向的叙述の到達点たるブルジョア階級とプロレタリア階級の対立と闘争が、「国家論」の端初領域である。ブルジョア国家発生の根拠は、資本主義社会それ自体の内に、この社会の共同事務および二大階級間の闘争の問題として孕まれている。すなわち、土台として先在する資本主義社会によって、資本主義社会の共同事務の遂行およびプロレタリア階級の闘争の抑圧という、ブルジョア国家発生の二大要因が与えられている。この二大要因のなかで、国家の発生に決定的なのは階級闘争の問題である(さしあたり拙著『マルクス、エンゲルスの国家論』現代思潮社、291−2頁を参照)。ブルジョア国家発生の決定的要因である階級闘争は、物化された形態をとった経済過程の因果必然性の長い連鎖の最終結果であると同時に、政治過程の最初の原因、つまり起動因である。

 そして、労働日の限界をめぐる闘争、機械との闘争、労賃のための闘争といった諸姿態をとってブルジョア階級との敵対関係において不可避妙に湧き起り、のみならず階級関係そのものへの反逆を秘めて展開されるプロレタリア階級の闘争に直面して、経済的に支配しているブルジョア階級は、自らの利害の階級的共通性とプロレタリア階級との対立性を自覚し、階級としての支配の維持と貫徹を志向した政治的意識を形成する。階級闘争は政治的支配の欲求をつくりだす。ブルジョア階級は、この政治的意識を、所与の資本主義社会的現実についての認識=思惟活動をつうじて、政治的目的とそれを達成する手段についての実践的構想へと発展させる。かかる政治の目的と手段の体系的構想が、国家の構成原理としての政治的イデオロギーあるいは政治的規範である。具体的内容として挙げれば、最大多数の最大幸福を目的として、人民主権−普通選挙−最高立法議会−政府というシェーマで議会制民主主義国家の理念像を描く、ベンサム的自由民主主義の論理が、その典型的形態である。

 ブルジョア階級は右の政治的イデオロギーを対象的に実現する形での実践的活動によって国家を機構的に組織化していく。

 では、この国家の制度的成立の目的論的過程を法則的に認識することは、いかにして可能だろうか。三点ほどにわたって解明を試みる。

 第一点は、国家の成立を導く政治的イデオロギーの性格についてである。ロック−スミス−ベンサムの古典政治学に最も明瞭なように、ブルジョア階級は前提的に与えられている事実的諸関係の理論的反省の結果として政治的な目的を思い定めその目的にかなった手段を選びだすのであり、政治的イデオロギーには客観約世界が相対的に正確に反映され表現されている。換言すれば、プロレタリア階級との闘争に面してブルジョア階級が抱いた本能的な衝動あるいは動磯としての政治的意識は、場所的現実の認識=思惟をつうじて理性的な目的あるいは意志へと高揚せられるのであり、そのことは、当初の個別的、主観的な意識が目的と手段についての実践像として一般化され客観化されることを意味するのである。他方、この政治的イデオロギーの形成の動因となっているのは階級闘争であったがこの本来の起動力のことは知られずにおり、ブルジョア階級は「自由、平等、所有そしてベンサム」(『資本論』)の経済的社会規範を政治的イデオロギー形成の思考素材にする。この社会規範は、資本主義経済構造の外面をなす流通部面において商品交換の厖大な反復の所産として自生的にかたちづくられ、「何億回という繰り返しによって先入的判断の堅固さと公理的の性格をもつ」(『哲学ノート』)。こうした社会規範を加工して形成されることで、自由民主主義の政治的イデオロギーの場合には特に、階級性、虚偽性を有しながらも、流通部面に商品所有者として登場する人々に共通の社会的な意識形態となる。大塚=ウェーバーの説論では理解的方法によって探求されるのは諸個人の行為の動機でありその主観的に思われた意味であったが、「国家論」で取り扱う政治的イデオロギーは客観的な社会的意識形態であり、そうであることによって個々人の主観的意識を超え反対にそれを規定しつつ物質的な形態として表現されていくものなのである。

 第二点として、政治過程の実体的担い手の問題を押さえる。前提されているのは『資本論』で明らかにされた社会であり、ブルジョア階級(資本家階級と土地所有者階級)とプロレタリア階級の対抗という抽象的レベルで「国家論」も考察される。従って、諸個人は階級に包摂されたものとして扱われ、階級内部の対立は捨象される。諸個人ではなく、階級が主体である。この点でも、大塚=ウェーバー説との相違が生じる。そして、ブルジョア階級内での分業として、上記の政治的イデオロギーの下に結束し政治的支配に専従する政治家の集合体として、ブルジョア政党、その原政党が、資本家階級と土地所有者階級とをそれぞれ代表した進歩主義と保守主義の二大政党制をとって結成される。このブルジョア原政党が、政治的支配を担う階級の中核として政治過程の展開を統導する。こうして、経済的支配階級から政治的支配階級が分立していくが、政治的支配階級が政治的支配階級でありうるのは、所定の政治的イデオロギーの主体的担い手であるかぎりにおいてである。

 第三点は、政治の目的論的構想の実現過程の分析に進む。政治的イデオロギーは、資太主義世界の反省的認識に立っており、理論的意識として経済的な原因−結果の必然的過程の法則的把捉を含んでいたが、それだけではない。実践的意識としては目的を結果とし手段を原因とする形で構成される。目的論的構想においては、結果として生ずべき事態を目的として先取しその目的を結果としてもたらすような原因を手段として考量するのであって、目的−手段関係は原因−結果関係のひっくり返しである。目的論的過程は因果過程の逆を辿り、手段が原因となることによって目的は結果として成就される。こうした事柄は、ドイツ歴史学派の政策論研究において高調された。ウェーバーはそれを否定しさったのであるが、この知見は、歴史学派の社会科学論に点在していた一半の真理として汲みとられ止揚された形で生かされるべきではないか。そのことによって、目的論的関連も法則にかなった可測的なものとして捉えられてくるのである。本来的に言って、目的論的過程では「その目的は彼の知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであり、彼は自分の意志をこれに従わせなければならない」(『資本論』)。目的論的過程は、合法則的過程である。国家の制度的成立過程は、それの疎外された一形態である。政治的に支配せんとするブルジョア階級は、政治的イデオロギーに従って国家を機構的に組織する対象的活動を展開するのであるが、この合目的的過程は、ブルジョア階級によって理論的・実践的に認識された法則にのっとっている過程である。そして、この合法則的過程は、ブルジョア階級による法則的認識の制限性のゆえに、目的論的構想からの一定のずれをもって実現されるのである。

 政治過程の最初の原因である階級闘争に規定されたその結果として(本源的な)政治的イデオロギーが形成され、この目的論的イデオロギーに導かれそれを実現する形で手段的機構としての国家がうちたてられる。更にこれ以降、制度として成立した国家においては新たな形態での階級闘争を契機に法律的イデオロギーが(自乗的、三乗的などの政治的イテオロギーとして)生みだされ、またこの法律的イデオロギーを実現する合目的的活動によって国家が機構的に増強される。このように絶えず増幅する規模での国家形成の繰り返しとして、政治過程は固有な発展を遂げていく。これを総過程として見れば、因果関連と目的論的関連が交互規定的に織りあわさり、因果関連の連鎖のなかに目的論的関連が這入りこんで、国家を中軸にした政治構造をかたちづくっている。ここに、政治に固有の法則性が見いだされよう。因果論的考察と目的論的考察の組みあわせを、「国家論」の方法として提唱するゆえんである。

 そして、因果論的観点と目的論的観点の相補的考察によってこそ、政治の目的論的思考とその実践によってもたらされる結果のくいちがいも分析されるであろう。代表的な例を挙げると、政治的イデオロギーとしては議会の優越が唱えられるが制度的現実としての国家においては内閣=政府の優越に必然的に帰結する法則的傾向として、この問題を証明できるのではないかと考えている。

(大藪 龍介)