「『日本の社会主義百年』研究集会報告へのコメント」
社会主義理論学会研究集会 2005年4月29日 全水道会館


 日本の社会主義について、門外漢であり、コメンテーターとして不適ですが、本日の研究集会のテーマ「日本の社会主義百年」が私の提案を受け入れて決められたという経緯からして、行きがかり上、コメントに努めます。

 日本の社会主義の歴史について、従来、ロシア革命を境にしてほぼ二分する見方が取られてきました。すなわち、ロシア革命以前の初期社会主義の時代とそれ以後のマルクス主義が中心的な位置を占めるようになった時代とへの区分です。
 だが、現在的には、それに加えて、ソ連の崩壊をもって三分する見方が必要になってきていると思います。それとともに、これまでの通説の根本的な見直し、書き直しもまた必至です。

 今日、日本の社会主義はかつてない深刻な危機に陥っていますが、日本の社会主義の歴史的特質はどういうものかという問いを念頭におきながら、その100年余りの歴史の前半をあらためて批判的に振り返ってみよう。こういう観点から、3人の講師の報告について、感想を交えながら、幾つかの質問をおこなうことにします。

 山泉進報告「日本の初期社会主義について」

 初期社会主義、もしくは明治(期)社会主義について、20年以上前から、日本の社会主義の実像の発見、再興という研究を進められてきたのは、大変に先見の明があり、時機にかなったことであり、共感します。

 初期社会主義は、日本の社会主義の源流をなすわけですが、社会主義もまた、黎明期にあってわが行く途を模索する時代でした。そのなかに日本の社会主義の原像を探るとすれば、それはどのようなものでしょうか。これについての山泉さんの考えを伺いたい。
 というのは、ロシア革命以後のマルクス主義が主流となった日本の社会主義は、とりわけ正統流派として扱われることが多かった日本共産党系統の社会主義は、コミンテルンの強引な働きかけとそれに呼応したマルクス主義者の権威主義的追従によってデフォルメされたものであって、原像はそこにはない、と思うからです。

 社会民主党や平民社に結晶した初期社会主義は、まずキリスト教社会主義派と唯物論的社会主義派とに分裂し、次いで唯物論的社会主義派が幸徳秋水らの直接行動派と片山潜らの議会政策派に分裂したように、各種各様でした。日本の社会主義の原像を特定するのは、大変難しいことです。このなかのいずれかの派に、あるいはいずれかの思想に、日本社会主義の原像を求めるというのではなくて、各種各様の流派が、思想的に未成熟であるものの、社会民主主義を基調にして社会主義、民主主義、平和主義の大綱領で結集していたことを原像として捉えたい。どうでしょうか。

 次は、明治40年の日本社会党第2回大会での運動方針をめぐっての、直接行動派と議会政策派の衝突についてです。1905年のロシア革命や大会直前の足尾銅山の大暴動など、国内外の諸事件の影響もあって、そこでは、台頭中のアナルコ・サンジカリズム的な直接行動論に立って、議会政策を否定し普通選挙運動を排するとした幸徳秋水案が、優位にたつ勢いでした。それに対し、議会政策を有力な運動方法の一つとし普通選挙運動を進めるとした、議会政策派の理論的指導者田添鉄二の案は、まったくの少数意見でした。しかし、大正デモクラシーへと動いていく歴史の流れとの交わりで社会主義運動の発展を追及するとすれば、多くの論者によって説かれているように、田添案の方に可能性が秘められていたことは確かでしょう。この点は、どうでしょう。

 いま一つ、初期社会主義においてキリスト教社会主義が大きな役割を果たしました。社会民主党の創立者(6人)は、幸徳秋水を除いてことごとくキリスト者でした。以来、キリスト教社会主義は、日本の社会主義の一つの有力な潮流として存在しました。これをどう考えたらよいでしょうか。この点も山泉さんにお尋ねしたい。
 一方で、明治維新以来人心を統御する機軸として天皇が神格化されただけでなく、他方では、その天皇制と最も厳しく対決した共産主義者がマルクス主義を信仰する傾向に陥ったという、近代日本の特異な精神的風土において、社会主義と宗教という問題はもっと重視されてしかるべきではないかと思います。 

 加藤哲郎報告「20世紀日本における社会変革」

 加藤さんのコミンテルン史研究に連関した日本共産党史研究は、豊富な史料に基づいて新たな論点を拓いてきており、大変啓発的です。

 今回の新史料「1922年9月の日本共産党創立綱領」の発掘は、わが国で自主的に結成されようとしたマルクス主義に立脚した政党がどのようなものであったか、その実像を明らかにして、日本での共産党創生に関するコミンテルン=日本共産党の通説の虚構性を浮き彫りにするものであり、極めて重要な意義をもっています。
 ここでは、その「1922年9月の日本共産党綱領」にしぼって、加藤さんの紹介によりながら、幾つかの問題を取り上げたい。

 まずは、「1922年9月日本共産党綱領」と初期社会主義の社会民主党宣言の関連についてです。加藤さんは、社会民主党宣言の延長、継承であると「1922年9月日本共産党綱領」について説明されました。しかし、それには異論があります。
 「1922年9月日本共産党綱領」はその冒頭で、「第3共産主義インターナショナルの支部」、「非合法のプロレタリア政党」であり、その目的は「ソヴェト権力を基礎としたプロレタリアート独裁樹立を通じての、資本主義制度の打倒」だと謳っているからです。
 当綱領は、はっきりとソヴェト権力・プロレタリアート独裁を旗印としたボリシェヴィズムを受容しており、社会民主党宣言との断絶を示しているのです。社会民主党宣言の継承の面が存在するとしても、それは副次的にすぎず、主要なのは断絶の面でしょう。

 この綱領の起草者は山川均だと加藤さんは推定されていますが、初期社会主義時代の直接行動派からロシア革命の影響下でボリシェヴィズムを受けいれマルクス主義者となった山川のこの当時の思想に、この綱領は合致しています。この綱領のなかでは「議会制度は社会革命の妨害物」だと表明されていますが、社会民主党の精神を引き継いだ吉野作造の民本主義に対し山川が厳しく批判的であったこととも、符号します。

 つまり、労働組合や社会主義に対する国家権力の弾圧が苛酷を極めていた日本の地にあって、衝撃的なロシア革命を受けとめるなで、山川を筆頭にして、日本の社会主義者の多くは、ドイツ社会民主主義よりもロシア・ボリシェヴィズムを基本路線として選び取ったのです。それは、社会民主主義を基調とした社会民主党宣言からの断絶=一大転換でした。

 このように、ロシア革命の影響をうけ、マルクス主義が日本の社会主義の中心的位置を占めるようになるのですが、それはボリシェヴィズムの導入、受容として、にほかなりませんでした。日本のマルクス主義は、コミンテルンを介して、レーニン主義、スターリン主義の定着として形成されたのです。そして、これ以降の長い時期、およそ1970年頃まで、日本の社会主義は、レーニン主義、スターリン主義に親しく、親ソ連のマルクス主義が優勢であるという特質をもつこことになりました。

 日本の社会主義の特質ということで付け加えますと、欧米先進諸国の思想や制度の移植は、近代日本の伝統的特質であり、初期社会主義もまた同様の性質を避けられませんでした。ところが、そうした舶来品の輸入という性格は、コミンテルンの働きかけによる日本共産党の結成、再建の過程を通じて格段に強まり、「32年テーゼ」においてその極みに達しました。  
 明治維新の指導者達は、先進諸国の思想や制度と自国の歴史的現状との大きな断層をいかに埋めるか、洋才と和魂をいかに統一するかで苦心惨憺しました。だが、モスクワ製のテーゼをいわば鵜呑みにした再建共産党の関係者達は、その自主性、主体的自立性において、彼らが指弾する明治維新政府の指導者達にはるかに及ばなかった、と言わざるをえません。

 1920年代からの日本の社会主義は、このようにレーニン主義、スターリン主義の優勢、それにソ連社会主義への権威主義的追随を有力な特質とするようになりました。そうした特質は、1956年のスターリン批判まで圧倒的でした。

 次に、第一次共産党の解党後、「無産階級運動の方向転換」を打ち出し「共同戦線党論」を唱えて前衛党としての共産党の再建に反対した山川イズム、広くは労農派をどのように位置づけるか、これを問題にしたい。
 加藤さんは、これまでの通説にならって、山川をはじめとした労農派を日本の社会民主主義として捉えています。しかし、いま少し再検討の余地があるのではないでしょうか。

 山川は、確かに、前衛党を拒否して「共同戦線党」を主張し、またコミンテルンや日本共産党が最重要視した「君主制廃止(天皇制打倒)」を無視した点では、ボリシェヴィズム的ではなく社会民主主義的でした。だが、その反面、ソヴェト制やプロレタリアート独裁に賛成し、またブルジョア民主主義に否定的で、カウツキーを批判しレーニンを擁護した点では、ボリシェヴィズム的で社会民主主義的ではありませんでした。このように、山川イズムは矛盾的な両面性をもっていました。なお、山川自身は、自らを社会主義、マルクス主義と称して、民主主義とは決して称しなかったようです。
 それに加えて、労農派の今一人の指導者、猪俣津南雄の立場は、山川よりもずっとコミンテルン、レーニン主義に近いものでした。

 このように、山川イズムや労農派は、社会民主主義の枠をはみだしたところがあります。これを、コミンテルンとは別系統の社会民主主義としてよりも、コミンテルンの枠内での反対派ないし修正派として考えてみることも必要になるのではないでしょうか。実際、コミンテルンでは諸々の反対派、修正派が出現しました。ここでは、一番分かりやすい例として、イタリア共産党のグラムシ主義を、コミンテルン内修正派として挙げることにします。

 山川イズム、労農派は、特殊日本型の社会民主主義、その左翼であり、同時代のオーストリア社会民主党のような、社会民主主義として異例の存在か、それともコミンテルンには所属しなかったが、特殊日本型のコミンテルン修正派としての甚だ特異な存在か。これが問題になります。但し、世界の構造も日本の体制も一変した第二次大戦後の山川や労農派については、また別の視点を加える必要があるでしょう。
 私自身としては、これからの検討課題ですが、いずれににせよ、山川イズムや労農派の社会民主主義の枠をはみだした、非共産党ボリシェヴィズム的な特異性に注目したいところです。

 他方、第2インターナショナル系列、社会民主主義右翼の日本版として、ボリシェヴィズムに反対し、議会主義、改良主義の路線をとり、日本共産党や労農派に対抗した社会民衆党やその系列の労働組合が存在し、かなり大きな勢力をもちました。初期社会主義の基調であった社会民主主義とのつながりで見ると、労農派をどのように位置づけるにせよ、コミンテルンや日本共産党との対抗関係で、社会民主主義もまた大きく変容したということになります。

 そこで、世界的に見て、コミンテルン内の反対派や修正派のなかに労農派のような党派が他に存在しなかったかの質問を含めて、以上述べてきた問題についての加藤さんの見解を伺いたい。

 石河康国「26〜27年時期の論争と「労農派」の形成」

 日本社会党の流れを継ぐ人たちが、かつての労農派形成時の事柄について、現在的にどのように歴史的に総括しているのか、社会党が健在であったころの歴史的総括とどのように変わっているのか、あるいは変わりがないのか、興味を惹く問題です。

 石河さんには、一つは、加藤さんの場合と同じように、山川イズム、労農派は、日本型の社会民主主義なのか、日本型のコミンテルン修正派なのかという、先の問題について、意見を伺いたい。

 いま一つは、天皇制に関してです。山川も猪俣も、両者間に若干の違いがあるものの、大旨、帝国主義ブルジョアジーが政治権力を掌握するにいたった現在、その支配権力に天皇制も抱合され同化している、天皇制は封建遺制として残存するにすぎないと捉えて、プロレタリア革命戦略に天皇制に対する闘争を包含させ、独自の闘争課題として設定しませんでした。

 私見では、近代天皇制は、明治維新によって形成された君主主義的立憲制国家の頭部を占める特殊日本型のブルジョア君主制であり、国内の人心を統御するイデオロギー的な機軸として、ならびに帝国主義的な対外的な対抗と進出に当たっての軍事的な機軸として、強大な権力を担っていました。そして、当時、当面の主題として目指されるべきであった民主主義的変革の重要な環として、天皇制の民主化が闘争課題とされるべきでした。すでにブルジョア化している国家権力に対しての民主主義革命の指針は、矛盾しているではないかという批判があるかもしれませんが、イギリスでいえばチャーチスト運動や第1次、第2次の選挙法改正、フランスでいえば1848年の2月革命や1871年のパリ・コミューン(共和主義的反乱)に相当する民主主義的変革に、当時の日本は当面していたと考えられるのです。
 そうした見地からすると、山川や猪俣の天皇制への対応は、国家論的分析として、天皇制を封建的絶対主義的なものとして捉える点では共産党と同じ誤りに陥っていたことになります。また、革命論的指針として、天皇制に対する独自の闘争を無視ないし軽視した点では、「天皇制打倒」を第1のスローガンとして掲げた共産党の対極的な誤りを犯していたことになります。
 こうした捉え方については、どうでしょうか。

 今日的には、再建日本共産党と労農派のどちらに正当性があったかという従前の問題設定は、不生産的であり意味を失っていると思います。現在的に求められているのは、何よりも新しい視点から日本共産党についても労農派についても再評価をおこない、それぞれが体現していた限界や欠陥を摘出して、今後への教訓を明らかにすることでしょう。

(大藪 龍介)