「飯嶋廣・阿部文明・清野真一『アソシエーション革命革命』を読んで」
    ―著者ヘの手紙―
 「ワーカーズ」421-2合併号、2010年8月1日


 まずなによりも、永年の研鑽の積み重ねを1書に集成して公刊されたことに、慶祝の意をお伝えします。加えて、労働者自らが労働者階級の解放の事業を担うことが原則だと考えますから、現役労働者の手になる労作として本書が成ったことに敬意を表します。

 本書も、最近の新しい社会主義像の探求としてのアソシエーション革命論の開拓のなかにあって、その流れを強め、広げるのに貢献するでしょう。

 アソシエーション革命論の追求において、私自身も基本的志向を同じくしているのですが、ここでは理論上の主要な相違点を取り上げて、私見を記します。研究の更なる前進になにか資するところがあれば幸いです。

 @、「原始共産制」の高次復活という問題構制が本書の基軸をなしている。「マルクスは、未来社会で打ち立てられるであろう共産主義社会を、かつての共同体社会がより高次のものとして復活するものだと理解していた」(68〜9頁)。そして、「原始共産制」(105頁)の高次復活にかかわる論考に、本書の3分の1を占める「U われわれはどこから来てどこへ行くのか?」―「協同社会の史的展開」(103頁)―があてられている。

 しかしながら、マルクスは原始社会=共産主義と本式に立言したことはないし、原始社会の高次復活として将来共産主義社会を位置づけてもいない。マルクスは現存する資本主義社会の諸条件のうちに未来の共産主義社会への発展の展望を探りだす見地で終生一貫していた。かの「個人的所有の再建」論も、資本主義的生産様式の成立過程で生み出された個人的私的所有との関係論議であり、原始時代を振り返って歴史的に関連づけを図ったものではない。

 「原始共産主義」、そしてその高次復活という問題構制は、モルガン『古代社会』を無批判的に受容したエンゲルスに由来し、スターリンの史的唯物論の社会構成体の発展段階論において定式化された。

 「資本制社会に代表される階級社会に対する、太古の協同社会の優位性を承認する歴史観」(69頁)は、マルクス的では決してない。

 こうした点では、共産主義社会をアソシエーションとして構想する場合、「アソシエーションという概念にはすでに、自立した個人、自発性、自由という内容が込められてい」て、「原始社会にアソシエーションが全くなかったわけではありませんが、この社会を『原始アソシエーション』と呼ぶことが不適当なのは明らか」であり、「アソシエーションは現代に胚胎するもの、未来に成長するものであることを表現する」(阿部文明「『アソシエーション社会』への道」5頁)という正当な見地から、かえって後退している。

 A、所有(論)中心主義が本書全編をとおしていま一つの基軸をかたちづくっている。「所有についての理論は、マルクスの思想と理論の全体の焦点、核心をなしている」(2頁)。

 これは、廣西理論の継承として研究が進められてきたことによるのであろう。そして所有論に関して所有と占有を中心論点として立ち入った考察が果たされている。 

 ところが、マルクスの論考を通観すると、初期の『共産党宣言』段階における所有の問題から、一方で資本主義生産過程の研究に邁進し他方では「国際労働者協会」に関与した中期以降には労働の問題へと、資本主義体制の認識と変革の根本問題の重点を移している。共産主義社会への展望としては、「私的所有の廃止」という所有論的アプローチに加えて、「労働の解放」という労働論的アプローチが存在するのである。

 対比すると、エンゲルスは終始所有論的アプローチである。スターリンは、生産関係の基本として生産手段の所有形態を最重視し、そのうえで、社会主義の所有形態を社会的・国家的所有とした。

 こうした事柄をも考慮しつつ、生産論あるいは労働論と所有論の関係を問い詰める作業をせずに、所有論が「全体の焦点、核心」に据えられているようである。

 マルクスの「協同社会」の構想においても、「協同組合生産」「協同組合労働」と協同組合的所有が連動されているのだが、本書では所有の問題に絞りあげることによって、生産・労働との関連を含めて、経済の動態的な全体構造が不分明になっている感がある。

 B、パンフレット「アソシエーション革命をめざして」(2001年)では、アソシエーション革命によって成立する国家の像が見えなかった。プロレタリア革命後の過渡期の国家に関して、象徴的にプロレタリアート独裁をどう扱うか、またソヴェト国家建設の理論と実践をどう総括するかは、緊切であるが難題であり、「ワーカーズ」では一致した明快な説をなかなか打ち出せないでいるのではないかと推測していた。

 この国家の問題に踏み込んで「過渡期の国家像」(30頁)についての理論的見解が明らかにされたのは、本書の大きな前進と言えよう。

 だが、前進はなお中途半端と言わざるをえない。端的にプロレタリアート独裁をめぐって、マルクスが「国家の支配関係の……本質的、究極的な概念として、資本制国家をブルジョアジーによる階級独裁だと捉え、その体制を揚棄する者としてプロレタリア独裁を対置させている」(28頁)とされている。しかし、あらゆる国家の本質を独裁と規定し一般化したのは、レーニン『国家と革命』(第2版)であった。マルクス、それにエンゲルスの独裁概念の本筋は、革命独裁―革命的変動の渦中での非常事態での一時的なもの―であって国家の本質―国家的支配の全時期にわたる常時的なもの―ではない。

 マルクスは、最後までプロレタリアート独裁に拘泥したとも言えるが、それは他面での民主主義論の弱さとも不可分であって、国家や民主主義に関してはさほどの優れた理論的業績を達成できなかった限界との関係で理解すべきものであろう。

 生産手段の国有化とプロレタリアート独裁とは、20世紀マルクス主義の革命理論の基柱であった。生産手段の国有化についての脱構築が図られている反面、プロレタリアート独裁につての脱構築にはなお抵抗があるようだ。

 それでも、パリ・コミューンの分析を介して過渡期国家像を探る前進的試みがある。パリ・コミューンをプロ独とするエンゲルスに端を発する通俗説は斥けられているようだし、パリ・コミューンの実態の把握に努め、マルクスによる理論的な抽象と捨象を丹念に追跡するなら、レーニンのコミューン型国家論を含めた通説とは異なる論が導き出されるに違いない。

 ともあれ、プロレタリアート独裁などの通説の共有から、通説の見直しへと漸進していることを評価したい。

 ロシア革命後の新国家建設の分析に関しても、同じ様なことが言える。

 C、「過渡期の国家像」に対応する過渡期の経済像に目を転じる。

 通俗論への反論にあたって、「共産主義=国有・国営経済」(19頁)という集約が見られる。そして、共産主義=「協同組合の連合社会」の将来社会像が対置的に示されている。だが、ソ連などを社会主義とする通俗論を批判するには、ソ連などの実態は後進的な国の、一国的規模での社会主義への過渡期の歪曲形態であったという現実を踏まえて、「共産主義への過渡=国有・国営経済」こそが根本的に再審されるべきだろう。

 つまり、目標としての、長期的な未来の「協同社会の理論と展望」が主題とされ提示されているものの、その目標を実現する道筋としての、現在と未来が交叉する中期的な「協同社会」への過渡期の経済はどう編成されるべきかについては、問題として検討されていない。

 共産主義社会への過渡期の経済構造に関しては、マルクスもエンゲルスもほとんど論及していない。それだけに理論的開発には、破綻した20世紀社会主義の経験の総括から貴重な教訓を導出する必要があるだろう。 

 社会的総生産について計画と市場のミックス奈何、所有については協同組合的所有、自治体所有、国家所有、私的所有などの多元的な所有諸形態の相関、その他、「協同社会」構想と比べてより身近で切実な諸問題の解明が、広く待ち望まれている。

 マルクスにも理論的限界や欠陥が当然ながら所在する。「マルクス、エンゲルス問題」を考慮する、そしてエンゲルス理論の難点を把握するのみならず、マルクス理論の絶対視から抜け出すことが求められる。21世紀において、マルクスを受け継ぎ甦らせるには、マルクスの絶対化からマルクスの「揚棄」への、主体的な批判的精神と創造的挑戦が欠かせないだろう。

 C、本書は、「いまを生きる私たちにとってのリアリティーのある社会変革の思想と理論を形成していく」(5頁)真摯な理論的研究の第1作であるだろう。『アソシエーション革命宣言』の書名により一層ふさわしい姿をとって、21世紀に入った世界の経済、政治の現状に基づきつつ、現実により一層密着したアソシエーション革命の中長期的な構想が練られていくことを期待する。なかでも、日本でのアソシエーション革命に道筋を明らかにした点で先駆的で類例のない、パンフレット「アソシエーション革命をめざして」を増補改訂した新版を特に望みたい。

 大薮龍介