「明治維新史研究の方法的視座」
 2004年8月、大阪哲学学校・大阪唯物論研究会哲学部会・『季報唯物論研究』刊行会共催夏季合宿での報告


 近代日本史研究は、左翼からの断罪史観と右翼からの自尊史観のあいだで揺れ動いていると言えるだろう。そのなかで、戦後最有力であった講座派史学の崩壊が確実に進行している。 

 近代日本国家史に取り組むことは、私にとって長い間の念願であったが、いまやっと明治維新・明治国家史の研究に着手している。マルクス主義陣営では、明治維新についても、講座派と労農派の日本資本主義論争以来の厖大な研究の蓄積があるが、それらの先行業績を批判し乗り越えて、まったく新たな研究の地平を開くことを志向している。

 ここでは、明治維新史研究の方法的視座として、4つの論点を提示したい。

 1、史的唯物論(唯物史観)の公式に反する革命

 グラムシがロシア革命を「『資本論』に反する革命」と呼んだのにならうと、明治維新は史的唯物論あるいは唯物史観の公式に反する革命であった。

 @ 明治維新は、生産緒力と生産諸関係の対抗的矛盾、それに基づく経済的構造の変動から引き起こされたのではなかった。幕藩体制は衰退しつつあったとはいえその内部的崩壊の諸条件は未成熟ななかで、「西力東漸」の欧米諸列強の強大な外圧により開国を強いられて、資本主義世界システムに編入され、かつ躍入していくことから起きた。

 A 明治維新は、支配身分・階級に対する被支配身分・階級の闘争、いわゆる階級闘争、人民闘争によって推進され、その高揚、爆発として起きたのではなかった。圧倒的な力を持つ外国による半植民地化の深刻な危機に直面して、清国アヘンの覆轍は強烈な教訓であり、支配身分であった幕府、藩主、武士、天皇、公卿等が、列強への対応や幕藩体制の変革をめぐって、内部分裂し激しい抗争を繰り広げたのを基軸に、草莽、豪農商、民衆の被支配身分も、それぞれに独自の運動に立ち上がり、動乱の渦を広げたのだった。
 農民や都市貧民等の民衆は、生活の困窮や急転する不穏な世相に駆られて、一揆や打ちこわしを全国各地で次々に激発させ、幕藩体制の解体を加速する役割を果たし、また維新政府の統治に直接間接の影響を及ぼしたが、独立の政治的勢力を形成しえず、権力闘争の舞台に登場することはなかった。

 B 明治維新での経済的構造と国家との関係は、土台とその上に聳え立つ上部構造という関係ではなかった。経済的状態による緩やかな制約は存するとはいえ、その現状から突出して政治的な国家変革=新構築が進行し、その国家によって資本主義経済の育成がおこなわれた。経済的構造が国家を規定するのではなく、その逆になった。

 ところが、こうした明治維新史の個性的特質を、これまでのマルクス主義史学は、史的唯物論の公式をあてはめて切り盛りし、史実を内在的に把握することに欠けてきた。その教条主義の破綻が、いまではますます顕わになりつつある。

 2、複合的発展―後進国の近代化の特質

 後進国は、外部的環境の圧力の下に、先進国とは異なって、一方で国内外の諸力を、他方では歴史の諸段階を、複雑に独特に合成して近代的発展をとげる。

 @ 国内外の諸力の複合
 外から押し寄せる欧米諸列強の圧力とそれに対抗する国内の内発的な力が複合された。当時の日本と列強の力の妥協的均衡たる米・蘭・露・仏・英の5ヵ国との不平等な条約の締結や、列強との武力衝突(薩英戦争、下関戦争)を契機とした攘夷排外運動の開国和親運動への転回が、最も代表的な事例である。
 また、世界の今日的動向の移入と自国の旧来からの伝統の保持が複合統一された。欧米の近代政治制度の移植と天皇親政の形をとった古代王朝官制の復活の合成による新国家建設の開始、思想や文化での欧化とそれに反発する国粋化の併存を、代表的な事例として挙げることができる。
 こうした諸々の領域での国内外諸力の様々な複合によって、明治維新は進行し日本型立憲政体としての明治国家が築かれていった。

 A 歴史の諸段階の複合
 まず、封建制の久しき停滞は絶対主義段階の飛び越えと結びついた。江戸幕府の封建体制が300年間の長きに及んだため、欧米列強の来襲を機に近代資本主義世界システムへの、自生的発展段階をゆうに越える飛躍的参入を余儀なくされた日本は、絶対君主制を独立の段階として経過するいとまもなく飛び越えて、明治維新に突入した。
 明治維新においては、特に、王政復古、維新政府の成立から、戊辰戦争、五箇条の誓文の宣布、版籍奉還、廃藩置県、国民教育制・徴兵制・地租改正の三大改革へと続く明治初年に、絶対主義の形成とそのブルジョア的超出が重層的に複合して同時並行的に進展し構造化した。
 更に、憲法制定・国会開設を果たした明治維新後において、ブルジョア国家初期段階と絶対主義段階の複合として、絶対主義的要素を引き摺り、君主主義が極めて強力な初期ブルジョア国家が出現した。

 上述の1,2の論点を踏まえ、講座派史学に顕著な史論を批判しておきたい。
 一つは、単系的歴史観である。講座派的通説では、絶対主義国家→ブルジョア革命→ブルジョア国家(更には→社会主義国家)という発展は、「世界史の基本法則」とされ、この歴史的発展段階論の貫徹の検証として、明治維新史も分析されてきた。しかしながら、近代的発展に立ち遅れた国は、先進国と同じような段階を踏んで同じような道筋を辿り進むのではない。近代世界史の発展段階に規定され、外部的環境の圧力を受けて、一連の歴史的諸段階を飛び越えたり圧縮したりしながら、それぞれに特有の道を辿り、多様な発展行程を経て、近代へと移行する。近代的発展は多系的であり、必要なのは多系的歴史観である。

 いま一つは、革命の国内的必然性論である。講座派的通説では、明治維新についても、国内の経済的、政治的な矛盾、対立を基軸に据えてその必然性を捉え、対外関係はこれを加速的要因として外挿するにすぎない。だが、資本主義世界システムがそれとして形成された19世紀以降、後進国においては、対外問題は単なる外部的条件ではなく国内問題ともなり、国際的要因(外発性)と国内的要因(内発性)が相互浸透し融合して革命的変革を必然化する。そして、ドイツのブルジョア革命が基本的に内発的であったのに対して、明治維新は内発的よりも外発的であった。

 3、革命期の設定

 革命期とは、革命が始まってから発展し頂点に達して、後退し終結するまでの全過程を指す。イギリス革命については、1640〜60年、補足的に1688年、フランス革命については、1789〜99年、ドイツ革命については、1848〜71年が、広く認められているように、革命期である。

 一般に、ブルジョア革命は、近代ブルジョア国家成立の画期をなす、優れて政治的な大変革であるが、革命期の国家は、根本的転換の只中にあり、絶対主義的要素とブルジョア的要素が、双方の間に優劣関係がありながらも、二面的に並存、混在し、対立的矛盾に満ち、流動的である。この革命的な制度的転化の途上にある国家について、絶対主義国家かそれともブルジョア国家かを択一して一義的に決定することはできない。
 講座派とその系統の論者は、おおむね、廃藩置県による中央集権的国家機構の形成の時点を取って、天皇制絶対主義国家の成立を説く。この説には、様々な難点が所在するが、方法的には、革命期という問題設定が欠けているのである。

 明治維新については、王政復古、維新政府の発足から、廃藩置県を経て、「有司専制」のもとでの殖産興業、文明開化と自由民権運動の開始・展開・高揚、他方での士族の反乱へと続き、明治14年の政変の後、ドイツ・モデルの立憲政体の建設準備、自由党など諸政党の結成、激化事件や民衆騒擾の終息、そして憲法欽定・国会開設に至るまで、1867(慶応3)年〜1890(明治23)年を、革命期とする。

 この革命期の時期区分は、明治維新の目標は何であったか、それがどのように達成されたかの把握によっている。
 明治維新は、第一に、民族的、国家的独立を目標とした。インド、中国へと侵略を重ねてきた諸列強の強圧にさらされた弱小国として、何はさておいても民族的、国家的独立を確保すること、これは、挙国一致的な至上課題であった。
 そして、19世紀後半の世界にあって国家として独立し、欧米諸国と並び立つには、立憲制・議会制の導入が不可欠であった。その立憲政体の樹立を、明治維新は、第二の目標とせざるをえなかった。
 この国民的大課題である“独立と議会・憲法”という目標は、不平等条約改正の課題を残していたし、また立憲政体としては畸形的であったが、1890(明治23)年までに、一応達成されたのであった。

 四、「上から」の革命

 19世紀中頃以降の、ドイツをはじめとする後進国のブルジョア革命は、イギリス革命やフランス革命と対比すると、類型的に相違し、「下からの革命」に対し「上からの革命」(エンゲルス)という特徴をもつ。
 ところが、講座派史学では、多くの論者により、「下からの革命」かそれとも「上からの改良」か、というように問題構制されて、「上からの革命」はそもそもありえないものとして歴史上から抹消されている。

 「上から」のブルジョア革命とは何か。「下から」のブルジョア革命においては、新興のブルジョア階級を代表する諸党派が、議会に結集して、民衆と提携し、内戦や蜂起、テロによって、絶対君主制を打倒した。これと対質すると、プロイセン=ドイツで、1848年3月革命として始まった「下から」の革命が挫折した後、1866〜71年の「上からの革命」においては、絶対主義勢力から転身した保守派、ビスマルクが、政府を掌握して、鉄と血による対外戦争の勝利を通じて、「自由と統一」の目標を独特のやり方で達成した。手短に規定すると、政府が国家権力を手段として遂行する保守的革命、である。

 しかも、「下から」の革命と「上から」の革命という類型の相異は、その指導的党派、組織的中枢機関、手段的方法の相違に応じて、革命によって成立するブルジョア国家の類型の相違にそのまま連動する。すなわち、先進国の「下から」の革命では、議会中心、議会主義の国家が成立するが、後進国の「上から」の革命によって成立するのは、政府中心、君主主義の国家である。これを、近代ブルジョア国家形成の二つの道ということができよう。

 明治維新は、以下のような歴史的構造をなしていて、プロイセン=ドイツでの「上からの革命」よりも更に「上から」の性格において際立っていた。目標は、独立と議会・憲法。指導的党派は、下級武士出身の維新官僚層。組織的中枢機関は、一貫して政府。手段的方法は、クーデタと内戦、一揆や反乱の鎮圧。
 そして、維新により生まれ出た明治国家は、日本型立憲政体として、神権的天皇制や藩閥政府によって特徴付けられる君主主義的で政府中心主義的な国家であったが、まがりなりにもブルジョア国家としての最低限度の要件を備えていた。この国家について、ボナパルテイズムとする説も存在するが、フランスの復古王制と同じように、君主主義的立憲制と規定するのが適切であろう。

(大藪 龍介)