『資本論』と「国家論」の位相
 一 経済学プランにおける国家の問題
 『国家論研究』、論創社、19号 1980年3月


 経済学における『資本論』に相当する国家論、あるいはまた法理論は、いかなるものとして創造されるか?これは、多くの政治学者、法学者の胸中を捉えてきた国家論研究、法理論研究の根源的にしてまた至難な学問的問題である。従来はもっぱら法理論研究の側において幾つかの貴重な試論(1)を生みだしてきた、この学問的問いは、国家理論戦線の現状において理論的混迷から脱却して新地平の開拓へとむかう転回基軸として、巨大な意義を秘めて改めて浮かびあがってくる。

 この国家論研究の学問的拠点ともいうべき近代ブルジョア国家に関する本質的理論の創造を追求するにあたって、われわれは、二重の意味で、『資本論』を前提にする。すなわち、一つには、資本主義経済本質論としての『資本論』を内容的基礎とする。とともに、また一つには、「『資本論』という論理学」(2)を方法的基準とする。かかる基本的な追求視角に立ち、ブルジョア国家本質論 ── これを、以下においては「国家論」と略称する ── の可能根拠にかかわる諸問題を、『資本論』とのつながりにおいて討究するのが、本稿の主眼である。

(1) 代表的に、パシュカーニス「法の一般理論とマルクス主義』(1924年)、川島武宜『所有権法の理論』(1947年)。
(2) レーニン『哲学ノート』、岩波文庫、第二分冊、14頁。

  一 経済学プランにおける国家の問題

 マルクスのいわゆる経済学プランをめぐる論争の一つの焦点をなしている国家の問題について、従前の諸説の盲点を摘示することからはじめよう。但し、単なる文献解釈への埋没を克服すべきわれわれとしては、それ自体としては余り意味を有しないプラン解釈論議を操り返す必要はない。経済学プランにおける国家の問題の検討をつうじて、「国家論」を主体的に構想するうえにいかなる諸口を導出しうるか、ここに論点は絞られる。

 マルクスの経済学批判体系プランとそのなかに位置する国家の項目の変遷を簡単に辿るならば、周知のように、『経済学批判要綱』序説に示されたその最初の篇別構想は、次のようなものであった。「1 一般的・抽象的諸規定、したがってそれらは多かれ少なかれすべての社会諸形態につうじる……。2 ブルジョア社会の内部的仕組みをなし,また基本的諸階級が存立する基礎となっている諸範疇。資本、賃労働、土地所有。それら相互の関係。都市と農村。三大社会階級。これら諸級間の交換。流通。信用制度(私的)。3 国家の形態でのブルジョア社会の総括。それ自体との関係での考察。「不生産的」所階級。租税。国債。公信用。人口。植民地。移住。4 生産の国際的関係。国際的分業。国際的交換。輸出入。為替相場。5 世界市場と恐慌」(1)

 1857−58年当時のプランには多様な異稿があるが、簡略には「資本・土地所有・賃労働、国家・外国貿易・世界市場」(2)の六部編成として表記される、こうした当初のプランについて、以下のような諸点を確認することができる。第一点は「労働、分業、欲望、交換価値のような単純なものから、国家、諸国民間の交換、世界市場にまでのぼっていく経済学の諸体系がはじまった」(3)という、古典経済学体系の批判的改作として、すなわち、「経済学的諸範疇の批判 …言いかえるならば、ブルジョア経済学の体系を批判的に叙述すること」(4)として、このプランは案出されている。第二点は、その際、「全体が分割される六部をすべて一様に仕上げようというつもりは、さらさらない。そうではなく、あとの三部ではむしろ基本線だけが与えられるが、本来の経済学の基礎展開をふくむはじめの三部では、いたるところで詳論がさけられない」(5)。つまり、「近代ブルジョア社会が分かれている三つの大きな階級の経済的生活諸条件な研究する」(6)はじめの三部、「資本・土地所有・賃労働」が本来の論題とされ、あとの三部はそれとは区別されている。また、はじめの三部のなかでも、「ブルジョア社会のいっさいを支配する経済力」(7)であって「出発点となり、終結点とならなければなら」(8)ない「資本」の部に、最たる論軸がおかれている。そして、この「資本」の部は、それ自身、「(a)資本一般、(b)競争、(c)信用、(d)株式資本」の四つの篇に分けられている(9)。第三点として、「国家」の部について言えば、そこに列記された論目に示されるように、スミスやリカードの経済学体系の財政論の批判的継承として構案されている。そして第四点には、その「国家」の部は、ブルジョア社会「それ自体との関係での考察」であり、ブルジョア国家そのものの全体的考察ではない。換言すれば、経済学の諸原理にかかわるかぎりでの国家に関する論及が意想されている。要するに、当初のプランにおける「国家」の部は、経済学批判としての「国家」にしてかつ経済学批判としての「国家」という理論的性格のものと言える。

 かかる当初の経済学批判体系プランが経済学批判の進捗につれて漸次補正される過程について押さえなければならないのは、次のような事柄であろう。爾来、なによりも「資本」の部、直接には「資本一般」の編の内部構成の具体化と深化が進められ、「土地所有」ならびに「賃労働」の両部は、「資本」の部に並ぶ独立の部としては断念され、縮小的に限定されること、殊に「賃労働」の部については、その重要な論目を「資本一般」の新たな構造のなかに編入する方向がとられることである。例えば、1859年には「資本一般」の編を構成する三つの章のうちの「(1)商品、(2)貨幣」を論じた『経済学批判』が出版されるとともに、残された「(3)資本」について次のように拡充されたプラン草案が作成されている。「1 資本の生産過程。(1) 貨幣の資本への転化。α) 移行。β) 資本と労働能力とのあいだの交換。γ) 労働過程。δ) 価値増殖過程。(2) 絶対的剰余価値。(3) 想定的剰余価値。α) 大衆の協業。β) 分業。γ) 機械。(4) 原始的蓄積。(5) 賃労働と資本。U 資本の流通過程。V 資本と利潤」(10)

 こうして、のちの『資本論』の大綱、とりわけその第一巻の大筋が立案されるが、更に『剰余価値学説史』などの手稿を経て、1863年に、上記の「資本の生産過程」のプランは一段と発展的に精密化され、その「資本と利潤」のプランも、『資本論』第三巻のそれとして具体化される(11)。他方、後半の三部についてのプランは消失していくが、1862年のある書簡のなかの以下のごとき文言からすると、少なくとも「国家」の部については、当初のプランが限定的に縮小されつつやはり維持されているとみるべきであろう。「第二部はいまやっとできあがったところで…「資本一般」をふくむだけです。ですから、諸資本の競争や借用制度はそこにふくまれていません。イギリス人が「経済学原理」と呼ぶものがこの巻にふくまれます。これは(第一の部分〔『経済学批判』〕とあわせて)核心的部分で、これに続くものの展開は(例えば社会の様々な経済構造にたいする様々な国家形態の関係などを除けば)他の者でもすでに与えられているものを土台にすれは容易になしとげられるでしょう」(12)

 さて、永年の研鑽をきわめた学問的結晶でありながら、その第二巻以下については未完成にとどまった『資本論』について、それが経済学批判体系プランのどこに該当するか、したがってその場合に残されたプランは『資本論』といかなる関係に立つかをめぐって、説が分かれている。汗牛充棟の論文が費されている、このいわゆるプラン論争に立入るのは本稿の課目ではないし、またそうするにも及ばないであろう(13)。種々の論争的諸見解を通覧して、われわれが汲みとるべきは、プラン解釈が、つまるところ、『資本論』そのものについての内在的理解に、そしてまた『資本論』の現代的展開をめぐっての識見に規定されているという、この核心点に尽きる。マルクスによるプランの外面的な変遷経過の文献考証は与件であって、プランの有する理論的意義に関する説論は、根本的に、『資本論』の学問的体系に関する思索の内容、その思索の深遠さあるいは浅薄さによって決定されている。

 そして、こうした所論では、次節で取り上げる宇野経済学にあって、原理論−段階論−現状分析という独自の体系の創造的構築の一端として述べられている説が、われわれにとって最も含蓄に富む。「『経済学批判』の序文その他にあげられている所謂マルクスのプランなるものにおける「賃労働」なり、「土地所有」なりが、本来如何なるものを意図したものであるか否かには関係なく、『資本論』における賃金、地代の規定はこれを欠いでは『資本論』の理論的体系をなさないことになるのではあるまいか」(14)。「マルクスがここ〔『経済学批判要綱』序説の「3) 経済学の方法」〕で述べている所謂上向過程は、『資本論』のような原理論の範囲で一応完結されるものと考えている。いい換えれば三〔「国家の形態でのブルジョア社会の総括」〕以下の部分については、別の方法を考慮しなければならないと思うのである」(15)。第一に、「賃労働」「土地所有」についての基本的規定なしには、「資本主義的生産の一般的研究」(16)は成り立たないし、『資本論』は、当初のプランの前半の三部についての基本的諸規定をふくんでいることによって、経済学原理論として一応完結した体系をなしている、第二に、残された「国家」の部以下の後半の体系は、原理論としてではなく、別の方法により段階論的に研究される対象となる、というわけである。この第二の論点については、次節において批判的に吟味するとして、第一の論点は、正当なものとして承認してよいだろう。

 では、われわれが注目している経済学批判体系プラン上の「国家」の部については、どうだろうか? これまでの議論では、プラン不変更説の論者たちはもとより、プラン変更説の論者たちもすべて、「国家」以下の後半の体系が現行『資本論』の内部に位置せしめられていないということでは、等しく一致している。しかしながら、『資本論』において当初のプランにおける「国家」も内容的に変更されてふくまれている、とわれわれは考える。

 しばしば取り扱われているように、現行『資水論』のなかには国家や法に関する諸記述が散在している。それらは、確かに、当初のプランの「国家」の部に記された諭目ではない。だが、「資本主義的生産様式の内的編成を、いわば理想的平均において示」(17)す、すなわち、資本主義経済の内部構造を本質論的に解析するのに必要な範囲では、「国家」についての考察も果たされているのである。この点の解題は、まさしく、円熟したマルクスが『資本論』の後景に抱持していたブルジョア国家に関する構想がいかなるものであったか、その推究にかかる。われわれは、唯物史観の形成後のマルクスの国家論的軌跡に踏んまえ、『資本論』に点在する国家や法に関する断片的諸記述を綜合して、それを、ベンサムを頂点とした古典政治学の批判的継承と、経済的社会規範−階級闘争−国家−法の論理的諸階梯との論圏として析出しておいた(18)。経済学批判体系における国家の問題も、『資本論』のなかでの国家と法の理論的扱いのうちに揚棄されているのである。

 そうであるから、無論、当初のプランの「国家」の部の論目として挙げられていた「租税。国債。公信用。」などは、『資本論』の範囲外に残されている。そして、それらの題目が『資本論』との関係でいかに理論化されるべきかは、これをめぐっても論争が存するけれども、直接には明らかにしえないであろう。本稿第三節で扱うような『資本論』と「国家論」の関係に立脚して追求されるべきだと考えられる。

 ところで、『資本論』にある国家論的諸規定を、『資本論』にとっての「国家形態でのブルジョア社会の総括」に関する論示として整理すれば、およそ以下のように摘録できよう。

(1) 社会規範としての「法」(Recht)の国家制定法としての「法律」(Gesetz)への発展による商品売買の保障。例えば、「個々の当時者にたいして国家によって強制されうる契約」(19)など。
(2) 貨幣について、「価格の度量標準の確定と…鋳造の仕事は 国家の手に帰する」(20)
(3) 労働時間の制限、児童にたいする初等教育、清潔保健設備などに関しての、「工場制度への国家干渉」(21)としての工場立法。
(4) 資本の原始的蓄積の「一つの本質的な契機」(22)としての国家権力の利用。すなわち、「農業革命の暴力的槓桿」(23)や「植民制度、 国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度として体系的に総括される」(24)それ。
(5) 「社会的生産過程の一般的な条件」(25)に関して、「政府が生産的貨労働を鉱山や鉄道などに充用して産業資本家として機能するかぎりでは国家資本」(26)、ないしは「政府企業」(27)
(6) 中央銀行と公信用について、「たいていの国では、銀行券を発行する主要銀行は、国立銀行と私立銀行との奇妙な混合物として、事実上その背後に国家信用をもって」(28)いる。

 これらの諸要素が『資本論』の学問的な上向的叙述のうちに占めている位置は、論理的にも歴史的にも、一様ではない。大まかに区分しても、(1)、(2)、(5)は、資本一般という抽象の次元での論理的叙述に、(3)、(4)は、同じ次元での歴史的叙述にかかる。それにたいして、(6)は、諸資本の競争という抽象の次元での論理的ならびに歴史的叙述にかかっている。が、ともかくもここでは、資本主義的生産様式の史的生成期に関する歴史的記述においてのみならず、それが自ら運動しうるものとして確立した産業資本主義時代に関する論理的記述においても、国家による反作用に言及されていることを確認すればよい。

 これとは異なり、一致して認められているように、現行『資本論』において、「外国貿易」の部は捨象され、「世界市場」の部はそのなかに構想されていた恐慌についての一般的規定が部分的に取り入れられているのを除き、論域外におかれている。この二つの部は、「資本主義的生産のいっそう具体的な諸形態」(29)の理論的研究として、「もし続刊ができればそれに属する」(30)とされているのである。この点で、「国家」の部は、前半の三部とも、「外国貿易」、「世界市場」の両部とも相異する地位を占めているのであって、いわゆる後半の体系として後続の二部と一律の扱いをするわけにはいかない。

 かくして、『資本論』における国家や法に関する諸記述は、『資本論』にもとづいて「国家論」を探求するにあたって、それとともにまた「外国貿易」と「世界市場」の部に該当する諸理論、更に「租税」、「国債」、「公信用」などについての諸理論に取り組むに際して、重大な媒介的環節としての意義を有している。別言すれば、『資本論』体系の開かれた性格を集約的に表示している論点が、その国家への関説である。それでは、『資本論』に所在する国家論的記述と「国家論」とは、いかなる関係をなすのであろうか? これについて解明する前に、こうした問題について興味深い論説をうちだしている宇野経済学での独特の見識を検討して、われわれの諭旨を鍛えておこう。

(1) マルクス『経済学批判要綱』、大月書店 30頁。
(2) マルクス『経済学批判』、『マルクス=エンゲルス全集』、大月書店、第13巻、5頁
(3) マルクス『経済学批判要綱』、22頁
(4) マルクスからラサールへ、1858年2月22日付けの手紙、『全集』、第29巻、429頁
(5) 同上 1858年3月11日付けの手紙、432頁。
(6) マルクス『経済学批判』、5頁。
(7)(8) マルクス『経済学批判要綱』、29頁。
(9) マルクスからエンゲルスへ、1858年4月2日付けの手紙、第29巻、246頁。
(10) マルクス『経済学批判要綱』、969-979頁。
(11) マルクス「『資本論』第一部及び第三部プラン草案」、第26巻、第一分冊、526-527頁
(12) マルクスからクーゲルマンへ、1862年12月28日付けの手紙、第30巻、517-518頁
(13) さしあたっては、ロスドルスキー『資本論成立史』、法政大学出版局、の第一部におけるプラン解釈を参照。
(14) 宇野弘蔵『恐慌論』、岩波書店、197頁。
(15) 宇野弘蔵『マルクス経済学原理論の研究』、岩波書店、6-7頁。
(16) マルクス『資本論』第25巻、182頁。
(17) 同上、1064頁。
(18) 拙稿「『資本論』における国家と法」、『国家論研究』第6号。なお、右論文は、拙著『マルクス、エンゲルスの国家論』、現代思潮社、にも所収。
(19) マルクス『資本論』第25巻、423頁
(20) 同上、第23巻、163頁。
(21) 同上、517頁。
(22) 同上、964頁。
(23) 同上、944頁。
(24) 同上、980頁。
(25) 同上、501頁。
(26) 同上、第24巻、121頁。
(27) 同上、第25巻、556頁。
(28) 同上、507頁。
(29)(30) 同上、140頁。

 大藪龍介