![]() 三 『資本論』と「国家論」の関連 |
『国家論研究』、論創社、19号 1980年3月 |
三 『資本論』と「国家論」の関連 マルクスの経済学批判体系プランや『資本論』における国家の理論的扱いのなかにマルクス(主義)国家論形成の手がかりを求めている論者達にあっては、通常、経済学プラン問題に関しては、いわゆる前半の体系から国家をはじめとする後半の体系への直線的上向が想定され(1)、あるいは『資本論』のでの国家論的諸記述の拡大延長として国家論が思念されている。だが、そうした観想は、経済学批判ないし『資本論』としての国家の扱いとブルジョア国家本質論としての「国家論」とのあいだの断絶、両者の認識過程的構造ならびに成立の論理的次元の差異を見失った謬見に他ならない。「国家論」は、経済学プランの前半の体系から直線的上向として、あるいは『資本論』における国家論的諸規定に直結して、展開されるのではない。その意味内容を、最初に認識方法論、次いで対象の客観的存在構造という両面から解明していこう。 『資本論』体系からの直接的な連続として「国家論」の展開を想定するのは、「国家論」の創造には不可欠の前提として対象についての下向的分析過程がなくてはならないことを閑却している。改めて言うまでもなく、研究対象として与えられているブルジョア国家、この現実的対象の直接性の表象を端緒として分析的に認識を深化させていき、こうした具体的なもの、複雑なものから抽象的なもの、単純なものへの研究過程を経てはじめて、「国家論」としての科学的な上向的展開は可能になる。「概念的に把握するためには、概念的把握、研究を経験的にはじめ、経験から普遍的なものへとのぼっていかなければならない。泳ぎをならうためには、水へはいらなければならない」(2)。このような下向分析的研究を欠如して、『資本論』体系に直接に「国家論」を連結しようとするのは、下向法を抹殺した上向法の形式主義的あてはめであり、「国家論」を認識=抽象する場所的な立場と過程を喪失しているのである。 こうした通俗的見解の誤謬性を明瞭にするうえで、梯経済哲学において、『資本論』の「開かれた体系」(3)としての性格の意味として、他方での『資本論』から『帝国主義論』あるいは現代資本主義論への連続的延長とならべて提出されている『資本論』から政治学への連続的拡大という説を瞥見し、その観念性を批判しておこう。
『資本論』から「国家論」への直接的連続説は、梯経済哲学における叙上の見地と同じように、『資本論』からのヘーゲル主義的な上向的演繹という誤謬を多かれ少なかれ共有している。しかも、それは、学問的思弁において深遠な梯経済哲学とは違って、安直なる文献解釈主義と不可分な、その所産に過ぎないのである。 ところで、国家論研究に唯物史観を適用するということは、『資本論』に立脚して「国家論」を探求するということをも意味するのであるから、「国家論」は、一方では現実的対象の下向的な分析、他方では『資本論』による基礎づけ、という二つの方向から、その固有の領域を限定される。この観点から、『資本論』と「国家論」の接触地点について明らかにしておこう。 『資本論』の最終章は「諸階級」であるが、「発展した資本主義社会の三つの大きな階級 ── 土地所有者、資本家、賃金労働者 ── とそれらの存在とともに必然的に与えられている階級闘争」(5)が、『資本論』の上向的綜合の到達領域であるとともに、「国家論」の下向的分析の終局領域、したがってまた、「国家論」の上向的展開の端初領域であると言えよう。この地点で『資本論』と「国家論」の対象は領域的に重なりあうのであって、この諸階級関係ならびに諸階級闘争が両者の境界領域である。但し、対象領域としては重なりあっても、『資本論』において取り扱う場合と「国家論」において取り扱う場合とでは、理論的研究の場所的な立場と分析=叙述の視角の変換がなければならないし、更には、続いて論じるように、論理的抽象の次元も相違する。なお、附言すれば、「国家論」において、諸階級関係ならびに所階級闘争は下向の論理的限界であって、下向の歴史的限界はブルジョア国家の史的発生としてのブルジョア革命である。 それでは、『資本論』と「国家論」が、それぞれの研究対象の客観的な存在構造の差異に規定され、論理的抽象の次元を異にして成立するというのは、いったいどういうことか? これは、普通に言われる資本の無国籍性にたいする国家の国民性ないし民族性という問題の解明にかかる。 資本は、その「開化的側面」(6)として、生産と交通のあらゆる地方的、局地的障害をのりこえ、全地球をその市場をとして征服しようとする。「資本の普遍的傾向」(7)は、内包的に価値を増殖する産業労働を一般化すると同時に、外延的には世界市場を定立するのである。「資本はたんに資本の生産諸条件をもっているのにすぎないのであるから、《資本》は流通の諸前提、流通の生産的中心点をなすすべての地点で、これらの地点を自己に同化させようとする、すなわち資本化する生産または資本による生産へ転化させようとする資本の一般的傾向を満足させ、また実現しようとつとめること。この布教的(文明化的)傾向は ── 先行する生産諸条件とは異なって ── ただ資本にだけ固有のもの」(8)。このように、資本は、地域的制限をすべてとりはらうコスモポリタニズムをその性格として有する。 他方、資本の一体的な反面をなす賃労働は、地域的な限界性を蒙る。そのことは、労働力商品の価値規定のうちに示される。労働力の価値は、基本的には労働者に必要な生活手段の価値によって規定されるが、特殊に、「他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な、精神的な要素を含んでいる」(9)。労働力の価値規定に加わるその他の要素としては、労働者の家族に必要な生活手段費以外にも、「人間をとりまく自然」(10)たる「その国の気象その他の自然的特色」(11)、「その国の文化段階」(12)などが挙げられるが、ここで特別に考量しなければならないのは、後者の二つである。すなわち、一つには、外的な自然条件の違いによって食、住、衣などの第一次的生活必需品の大きさが、また一つには、文化水準の違いによって「一定の労働部門で技能と熟練を体得して発達した労働力になるようにするために〔必要な〕一定の養成または教育」(13)が、異なるのである。こうしたことから、自然環境的にまた文化環境的に、労働の商品化は、地域的に限界づけられる。賃労働は、地域的な障害を越えて平均化されつつも、なお地域的な限界性を免れないことになる。 資本主義経済は、その基軸的根拠をなす資本と賃労働の如上の属性にしたがって、世界的であると同時に国民的な性格を刻みこまれている(14)。『資本論』は、かかる資本主義経済の存立構造を、それが最も典型的に確立したイギリス産業資本主義を対象にとりつつ、資本の普遍化傾向にそって、「全商業世界を一国民とみなす」(15)抽象の次元で本質論的に純化して叙述している。それゆえ、『資本論』では、労働日や労賃、また剰余価値率、利潤率などが、「様々な地域的な障害によって妨げられるとしても、それでもなおこの平均化は、資本主義的生産が進歩してゆきすべての経済関係がこの生産様式に従属していくにつれてますます実現されていく」(16)ものとして、「国民的労賃」(17)、「国民的剰余価値率」(18)、「国民的利潤率」(19)などはどこでも同じで不変だとされ、国の相違によるそれらの相違は問題にされないのである。 さて、ブルジョア国家についてはどうか? ブルジョア国家は、労働力商品の地域的限界性、したがって労働市場の地域的限界性にもとづいて、地域性をとる。何故なら、労働力商品の売買がおこなわれる労働市場こそ、資本家階級と労働者階級が相対立して、ブルジョア国家発生の決定的要因となる両者間の階級闘争が繰り広げられる場に他ならないからである。極く単純化して言って、資本主義社会の共同事務の遂行とプロレタリアートの闘争の抑制という二大方面から、ブルジョア国家の発生、したがってまたその機能を捉えるのが、マルクス、エンゲルスの国家論上の根本発想であるが、われわれは、ブルジョア国家の発生に関し、前者 ── 資本主義社会の共同事務の遂行が抽象的要因であるのにたいして、後者 ── プロレタリアートの闘争の抑圧は実在的要因であり、ブルジョアジーとプロレタリアートの敵対的な階級闘争を動力として資本主義社会からブルジョア国家が分立する、というように理解している(20)。このブルジョア国家発生の決定的契機たる階級闘争が展開されるのは、まさしく労働市場においてであり、この労働市場の地域的限界性こそ、ブルジョア国家の存立基盤をかたちづくるのである。 こうして、ブルジョア国家は、国民性をその性格にする。ブルジョア国家が文化的諸要素による(逆)規制をもうける点を含めるならば、その国民性は民族性と呼び換えてもよい。という場合、経済的、政治的にのみ分析された民族が、国民である。そして世界市場が、「資本主義的生産様式の基礎をなしその生活環境」(21)だとすると、ブルジョア国家の基礎であり生活環境をなすのは民族である。このようなものとして、民族は、国家に先んじてではなく、ブルジョア国家の解剖の後に、その理論的研究を与えられよう。 ブルジョア国家の存在性格が国民的であるのだから、「国家論」において、”全政治世界を一国民とみなす”ごとき次元での抽象は、恣意的な抽象として、なしえないことは明らかであろう。換言すれば、ブルジョア国家の国民性は、他の国家との関係を措定する。ブルジョア国家は、第一義的には資本主義社会の内部から発生する、内にむかってのそれであり ── このゆえに、「全商業世界を一国民とみなす」『資本論』においても、国家に論及されうる ── 、このかぎりの考察では、国家の対外的関係は捨象されうる。けれども、第二義的に「外側にむかっての国家」(22)でもあり、『資本論』における外国貿易の捨象とは異なり、「国家論」のあっては、他の国家との関係も考察の範囲に加重されることになろう。 ともあれ、「国家論」が可能としても、それは、『資本論』とは抽象の次元を異にして成立する。こうした『資本論』と「国家論」の論理的抽象の階梯的差異を、前者の普遍的抽象にたいしては後者の特殊的抽象というように表現することもできるだろう。 かくして、認識論的な過程的構造からしても、対象の存在性格に規定された論理的抽象の次元においても、『資本論』からの直接的な連続として「国家論」は展開されるのでは決してない。両者のあいだには、理論的研究上の切断があり、「国家論」は『資本論』にたいして、いわば非連続の連続という関係に立つ。 そして、かかる「国家論」の場所的な創造の追及において、『資本論』に散在する国家や法に関する諸記述も、ブルジョア国家発生の経済的諸要因、したがってまたその国家の作用の経済的諸契機 ── これらを、われわれは、資本主義社会の共同事務とその遂行として、総括的に規定する ── の示唆として位置づけなおし、その理論的展開のうちに組みいれる必要がある。但し、既に注意を促してきたように、『資本論』における「国家形態でのブルジョア社会の総括」に関する叙述の国家論的再構成も、ブルジョア国家発生論、また国家機能論にとって、論題の反面の原材をかたちづくるにすぎない。さしあたり、国家発生論を形成するにも、『資本論』において書き残された諸階級論、諸階級の関係ならびにそれらのあいだでの階級闘争についての理論的研究が、そして更に国家発生の二大要因をいかに統一的に論じるかの弁証法的論理の創造が、なければならない。 これまでに論じてきたことから、マルクスの経済学プランにいう「外国貿易」と「世界市場」の部についても、また「国家」の部に記されていた「租税。国債。公信用」についても、『資本論』からの直線的な上向的発展として展開されるわけにはいかないことも明らかであろう。それらがいずれも、「国家」を前提としそれに媒介されているかぎり、『資本論』と「国家論」のあいだの断層が、『資本論』とそれらに関する理論のあいだにも介在していると考えなければならないからである。 最後に、次のことを改めて強調したい。『資本論』体系から「国家」の部をはじめとする後半の体系への上向的展開という説は、マルクスの経済学プランに依存した純然たる解釈主義的思考の産物であり、こうした主体的な思索を欠く方法的態度からの袂別こそが、国家論研究にとっては何よりも必要である(23)。けだし、マルクス、エンゲルスによって達成された国家論の解釈的構成に安んじているかぎり、「国家論」の創造はありえないからである。 近代ブルジョア国家本質論の形成は、果たして可能か? これは、最初の質問であるとともにまた最後の回答でもなければならない。本稿では、もっぱら方法論的な面から、今後の内容の展開に見通しを与えたに過ぎない。
大藪龍介 |