「『マルクス・カテゴリー事典』はじめに」
 共編著『マルクス・カテゴリー事典』 1998年3月


 21世紀も間近に迫り,世界も日本も大きく揺れ動いています。このような時代こそ,マルクスのような根源的な思想と理論が大切に省みられてよいはずです。他方,先頃の東欧・ソ連の既成社会主義圏の崩壊は,従来のマルクス主義にたいしても抜本的な反省と革新を迫っています。わたしたちはいまマルクスを新鮮な時代関心のもとで,読みなおし学びなおさなければならないでしょう。

 本事典編集委員会は青木書店の協力を得て,マルクス再読にむけ,ここに本書『マルクス・カテゴリー事典』をみなさまにお届けすることになりました。本書は,第一線で活躍中の日本のマルクス研究者多数の参加を得,その協同作業によってマルクスの基本概念の徹底的な洗いなおしをおこない,それを結晶させて,新しいマルクス像を提示し,ひいてはマルクスの思想と理論の21世紀的展開の方向性を探ることを目的としています。

 本事典の第1の特徴は,マルクス主義事典ではなくマルクス基本概念事典(カテゴリー集)だ,ということです。

 マルクス没後すでに110年をこす星霜を経ましたが,その年月の間,マルクス主義の理論と実践は紆余曲折を重ねながらも,世界の歴史に多大な影響を与えてきました。その足跡のうちに,いまなお継承すべきさまざまの成果が含まれていることは疑いのないところです。しかし現在,多様なマルクス主義の潮流のうち,「正統派」とされた「マルクス=レーニン主義」がすでに本質的な点で生命力を失ったこともまた明らかです。いま必要なことの一つは,いわゆる「ソ連型社会主義」を正当化する教条化された形態であった「マルクス=レーニン主義」から,マルクス自身を解放し,とらわれない眼でマルクスを読みなおすことによって,マルクス自身の思想と理論を解明することではないでしょうか。マルクスという原点にいったん立ち戻ることによって,再出発のための足場をあらためて確かめよう,ということです。こうした観点に立つならば,衆知を集めてマルクスの基本概念集を作成することが最適であると考えました。

 第2の特徴は,新しいマルクス像の提示を目指すということです。

 本事典を可能な限り,マルクス研究の今日的な到達点や,これまでのマルクスを巡る論争の成果を結集する場としたいと考えました。再出発のためには,旧来の伝統的なマルクス像の打破が不可欠なことはいうまでもありませんが,そのための材料は整いつつあると考えられます。とくに1960年代以降今日まで,欧米で,またわが国でも,諸々の形でのマルクス再興の理論的挑戦が遂行され蓄積されてきました。新メガ(MEGA−原典新版マルクス・エンゲルス批判的歴史的全集)の刊行によって,資料的にみてもマルクス研究の水準は飛躍的に高まりました。なにより,マルクス研究者のなかで権威主義が凋落し,批判精神が復活しつつあることは好ましい主体的条件です。こうして,マルクスの思想と理論を21世紀的に展開させる道は,厳しいながらも,伏流としてこれまでさまざまの形で準備されてきたといえましょう。わたくしどもは主として1956年のスターリン批判以後に育った世代に属しており,また共通して1989年から91年にかけての歴史的大事件を経験しています。この世代を中心とした研究者の協同作業によって,21世紀を射程に入れた新たなマルクスの全体像を形成することを志向しました。

 第3の特徴は,21世紀に突入しようとしている現実に即してマルクスを聞いなおす,ということです。

 現代に必要とされるマルクス研究のためには、たんにマルクスを祖述するだけでは足りません。今日なお,わが国を含む世界の主要部分は資本主義市場経済にとらわれ,その不安定性や抑圧が基本的な問題を生じつづけています。マルクス理論の最大の功績が,この資本主義市場経済の批判的分析と,それからの民衆の解放の展望にあったし,現にあることは十分に認めなければなりません。しかし,現代の問題がさらにいっそう多様で複雑な様相をおびて展開していることもまた確かです。エコロジーの危機,フェミニズムの台頭,労働運動の再生の試行や市民運動の展開,周辺部の従属と民族紛争の激化,中国をはじめとするアジア地域の経済的発展と構造変化,「ソ連型社会主義」の挫折,資本主義のグローバリゼーションと新しい危機,といった重大な事象があいついで現れています。この間,コミュニケーション論,ポスト・モダン論,経済人類学,世界システム論などの思想や理論も登場し論議されてきました。われわれが生きているこうした現代の地平に,マルクスの批判理論と解放理論をどう繋ぐか,マルクスを現代にどう生かすべきか,そうした新展開への基本的筋道が,現在のマルクス研究には問われています。マルクスの歴史的限界の指摘や,批判的洗いなおしも必要になるでしょう。本書の編集にあたっては,マルクスを教条的に擁護するのではなく,マルクスを現代と厳しく突き合わせる姿勢をできるかぎり貫こうと努めました。

 第4の特徴は,思想的・理論的な多様性を前提とした協同を追求するということです。

 本事典はこれまでのマルクス主義とは別種の,もう一つの「一枚岩」的マルクス主義を目指すものではありません。立場や研究領域を異にしてきた多様なマルクス研究者が持ち味を生かして力を合わせることによって,多彩でニュアンスの違ったマルクス像を発掘し,こうして各自の違いをかえってプラスに転じたいと考えました。各項目の叙述内容は,それぞれの執筆者の責任において書かれています。その結果,場合によっては関連する項目の内容や強調点が相互に矛盾することも生じています。しかしそれは,マルクス自身が幾通りにも読みうることの反映でもあります。あわせて,本書における立場や傾向の相違を超えた協力作業が,マルクスを学び研究するうえで広く開かれた交流の発展に寄与することを期待するものです。

 『マルクス・カテゴリー事典』は以上の趣旨に沿って,基本概念を厳選し,それに重要な国名,人名を加えて,大項目主義をとり,教科書風の用語解説ではなく執筆者による論考として編纂されました。そして,当初の企図をほぼ実現しえたのではないかと,いくらか自負しております。

 本書が多くの読者に迎えられ,マルクスが提示した諸概念理論およびその思想についての理解が深まり,議論の活発化が進み,こうして今日的問題意識に根ざしたマルクス研究の一層の発展に資するならば,これに勝る慶びはありません。

 1998年3月
マルクス・カテゴリー事典 編集委員会
石井伸男・伊藤 誠・大藪龍介
田畑 稔・正木八郎・渡辺憲正