「マルクス、エンゲルスのブルジョア革命論評について」
 「イギリス革命論の諸問題(1)」の注(18)
 九州大学政治研究室『政治研究』第28号、1971年3月
 一部加筆して『明治維新の新考察』に収録


 マルクス、エンゲルスによるフランス革命とイギリス革命に関する論評について要覧する。ドイツ革命に関する論評については、1850年代のマルクスによる「反動は革命の綱領を執行する」の言説から1880年代のエンゲルスによる「上からの革命」論まで、拙著『マルクス、エンゲルスの国家論』「第六章 マルクス、エンゲルスのドイツ国家論」を見ていただきたい。

 マルクスとエンゲルス、特に前者は、フランスの大革命と1830年七月革命の栄光を強くとどめた精神的雰囲気のなかで、思想的、理論的に生い育ち自己形成した。フランス革命に関する論評を、先に検討する。

 まず、フランス革命を最も急進的に推進したジャコバン(左)派=山岳派について、フランス政治史の研究を主題の一つとしてきた初期マルクスは、次のように批評する。「ロペスピエール、サン・ジュスト、および彼らの党が没落したのは、真の奴隷制の基礎のうえに立った古代の、現実的=民主主義的な共同体を、解放された奴隷制、すなわち市民社会にもとづく近代の精神的=民主主義的な代議制国家と混同したためである」(『聖家族』、第2巻、127頁)。こうした「テロリストの錯覚」(128頁)への批判は、フランス革命の実現後に新しく現れた自由主義派のB・コンスタンによるルソー国家論批判として先鞭がつけられていた。コンスタンは、ルソーやマブリの古代共和国をモデルにした政治体の構想は、産業の発達した近代には適合しないことを明らかにし、その古代的自由と近代的自由の混同を戒めたのであった。思想史の面からすれば、フランスの自由主義的ブルジョアジーの政治的精神をマルクスは踏まえているわけである。

 マルクスの右の思想史的評価は、次のようなフランス革命史分析に対応する。「ロベスピエールが倒れたあとに、それまで自分の力以上のことをしたがり、度外れになっていた政治的啓蒙が、やっと散文的に実現されはじめたのである。総裁政府の統治のもとで、市民社会は力強い生命の流れとなって奔出した」(同)。マルクスは、「テロリスト」ジャコバン派のいわゆる恐怖政治に、革命のゆきすぎの局面を見て取り、ジャコバン派の没落後の総裁政府時代に、資本主義社会の新たな発展の始動による、革命の正常な軌道の定着を見ている。

 あわせてマルクスは、「1830年になってやっとブルジョアジーはその1789年の願望を実現した」(129頁)という把握を示す。フランス革命の全経過とその彼の第一帝政、復古王政の実態を分析すれば、こうした見地には十分な理由がある。それとともに、フランス革命から1830年七月革命以後への政治史の発展を、「半分の政治的解放から全解放へ、立憲国家から民主主義的代議制国家に高まる」(120頁)過程として捉えて、フランス革命が歴史上に占める位置、その意義と限界を明らかにしている。

 少し後年になって、マルクスは、ジャコバン独裁の恐怖政治が客観的に果たした歴史的な革命的な意義、役割を次のように説いている。「フランスでは、恐怖政治は、その強力な打撃によって封建制の廃墟をフランスの土地からいわば呪文で追いはらうのにだけ役立たなければならなかった。臆病で用心深いブルジョアジーは、何十年かかっても、この仕事を完成できなかったであろう。だから、民衆の血なまぐさい行動だけが、彼らの道を開いてやったのである」(「道徳的批判と批判的道徳」、第4巻、356頁)。「あのフランスの恐怖政治の全体は、ブルジョアジーの敵である絶対主義や封建制度や素町人をかたづける平民的なやり方に他ならなかった」(「ブルジョアジーと反革命」、第6巻、103頁)。但し、これらの論評において、ジャコバン主義とサン・キュロット主義の区別はなされていない。

 エンゲルスは、若き日と晩年のそれぞれにジャコバン独裁をサン・キュロットの独裁として誤って把握している。「1763年の憲法とテロリズムとは、激高したプロレタリアートをよりどころとする党に端を発するものであったし、ロベスピエールの失脚は、プロレタリアートに対するブルジョアジーの勝利を意味するものであった」(「ロンドンにおける諸国民の祝祭」、第2巻、638〜639頁)。「パリの無産大衆は、恐怖政治時代のあいだにつかのまの支配権を獲得することができたとはいえ、そのことによって彼らは.当時の事情のもとではこの支配が不可能であったことを、証明したにすぎなかった」(『反デューリング諭』、第20巻、267頁)。こうしてエンゲルスは、ジャコバン独裁をプロレタリアート独裁の先駆に見立てて高く評価する説に道を開いている。

 他に、青年エンゲルスによるフランス革命とイギリス革命の諸党派の類比として、「ジロンド党、山岳党、エペール派ならびにバブーフ派に対応するのは、それぞれ長老派、独立派、平等派である」(「イギリスの状態 一八世紀」、第1巻、608頁)。この対応関係の設定は、全般的に不適切である。

 次に、フランス革命の土地変革について、マルクス、エンゲルスは、大土地所有を廃絶したと誤って認識している。「フランス革命は、土地の細分によって大土地所有を廃絶した」(マルクス=エンゲルス『新ライン新聞、政治経済評論』の書評」、第7巻、217頁)。「フランスでは、大土地所有があったにもかかわらず、小規模農業かおこなわれていた。だからまた、大土地所有は革命によって粉砕された」(マルクス『経済学批判要綱』、大月書店、20頁)。こうした誤認は、両者ともに終生一貫している。

 そしてそのうえに立って、「すべてのブルジョア革命の傾向、すなわち大土地所有を細分化させる傾向」(マルクス=エンゲルス「評論、1850年5-10月」、第7巻、456頁)という誤解もしている。それに関連して、1848年の諸革命に連動したポーランドの独立問題を論じたエンゲルスは、「農奴的農民や賦役農民を自由な土地所有者に転化する土地革命、1789年のフランス農村地方におけるとまったく同一の革命」(「フランクフルトにおけるポーランド討論」、第5巻、332頁)、「民主主義的土地革命」(358頁)を説いている。但し、ブルジョア革命は大土地所有を細分化するという誤解は、経済学研究に邁進して後、農業=土地問題を含めてイギリスを資本主義的発展の古典的な国として捉えたマルクスにより訂正されるにいたった、と見倣すことができるだろう。

 フランス革命による封建的過去との断絶の一面的強調も、右に類すると見てよい。「フランスでは、革命は過去の伝統との完全な絶縁をなしとげた。それは、封建制の最後の痕跡までも一掃した」(エンゲルス「『空想から科学への社会主義の発展』英語版への序論」、第22巻、308頁)。

 エンゲルスはとりわけ、総じてフランス革命を一面的に美化して捉える傾向を免れなかった。

 続いて、イギリス革命について、中期のマルクス、エンゲルスがおこなったF・ギゾー『イギリス革命はなぜ成功したか』(1850年)の書評は、彼らが残した分析の性格を窺い知るのに好適であろう。以後、経済学批判と『資本論』の完成に理論的研究を集中していったマルクスは、イギリス革命に論及することがなく、エンゲルスもまた晩年にこの論域に少し立ちいるにすぎないからである。

 当時、議会派の英雄的闘争を称揚して新しく台頭し支配的な地位を待つつあった、T・B・マコーリー『イギリス史』(1848〜61年)に代表されるウイッグ的な見解に対し、ギゾーのイギリス革命論──「イギリス革命」という述語は彼によって初めて用いられた──は、政治的な、また宗教的な党派間の争いをその基底にある社会的な諸階級の闘争として考察するという特徴を有していた。

 これについてのマルクス、エンゲルスの書評は、政治的事件と社会諸階級間の闘争を更に経済的な原因から分析しなおすところに主要な論趣と独自性があるといってよい。革命史の社会経済史からの論じ返し、これは、当時においては特に、不可欠の作業であった。だが、彼らはそれ以上に研究を進めるにはいたらず、革命政治史をそれとして分析することはなかった。結果的には、政治的、宗教的な闘争の社会経済的基盤を指摘することに終わったのである。

 この書評の一部であり、彼らによるイギリス革命についての論評として良く知られている次のような記述は、そうした大いなる限界を孕んでもいる。「イギリス革命の保守性の謎は、ブルジョアジーが大土地所有者の大部分と結んでいた長期にわたる同盟で説明できる。この同盟は、イギリス革命をフランス革命から本質的に区別するものである。というのは、フランス革命は、土地の細分によって大土地所有を廃絶したからである」(『新ライン新聞、政治経済評論』の書評」、217頁)。「保守性」の原因の説明として、経済的、社会的な事由は述べられているが、政治的なそれ──例えば、身分制議会の常時存在、「議会における国王」といったイギリス絶対君主政の特質──は挙げられていないからである。

 そもそも、「イギリス革命の保守性」という把握自体が、「フランス革命は、土地の細分によって大土地所有を廃絶した」という誤認に基づいていて、イギリス革命の政治史的過程の具体的な分析的研究の所産では決してないのであるし、適切とは思われない。

 その他、次のような別の諸論述も、極く大まかな特徴づけを表わしてはいるが、正確ではなく、革命史の実証的な分析としては一面性を免れない。「イギリスのチャールズ一世もまた彼の議会のことを彼の人民に訴えかけた。彼は、議会にたいして武器をとれ、と人民に呼びかけた。しかし、人民は国王反対を表明し、人民を代表しない議員をすべて議会から追い出した。そして結局、こうして人民のほんとうの代表者となった議会をつうじて、国王の首をちょん切らせた」(マルクス「『ライニッシャー・ベオバハター』紙の共産主義」、第40巻、211頁)。「1648年にはブルジョアジーは、近代的貴族と結んで、王権、封建貴族、支配的教会と戦った」(マルクス「プルジョアジーと反革命」、第6巻、106頁)。ブルジョア階級、それに民衆も革命と反革命の両陣営に分裂したことに、イギリス革命の具体的特質の一つが存したからである。

 ともあれ、今日の研究者は、イギリス革命やフランス革命についても、マルクス、エンゲルスと比較にならないほどの格段に豊富で具体的な実証的知見に恵まれているし、他方では、彼らの全著述、なかでも『資本論』から理論的研究の態度や方法を学びとることができる。それでいてなお、彼らによる甚だ限定的で誤りも含んだ記述に革命分析の尺度をおくのは、まさしくマルクスに反する態度であろう。

 大薮龍介