「過渡期時代とアソシエーション」
 五 アソシエーションと革命路線
 田畑・大藪・白川・松田編『アソシエーション革命へ』 社会評論社、2003年3月


(1)社会的破局と革命

 協同組合型志向社会と地域自治体国家を過渡として社会主義体制への移行が想定されるとすれば、体制転換の発端的画期をなす革命は、どのようなものとして展望されるだろうか。

 ここで言う革命とは、現代資本主義社会の社会主義社会、もしくはなんらかの新社会への全体制的な根本的転換を指しており、伝統的な革命論がアソシエーションの理論的見地からするとどのような見直しを迫られているかを、従来の革命論の全面的な再検討は別著(*21)にまわして、さしあたり基本的な革命観の変更として明らかにしたい。

 資本主義経済の内部矛盾の爆発である恐慌という破局と結びつけて、体制変革の革命を予測したのはマルクスであった。だが、19世紀から20世紀に進むと、資本主義体制が危機に瀕する破局を生んで革命の客観的な条件となったのは、恐慌よりも戦争であった。

 20世紀が戦争と革命の世紀としばしば呼ばれるように、第一次大戦の渦中のロシア革命、第二次大戦直後の中国革命など、総じて20世紀の革命は、資本主義世界システムの中枢ではなくその半周縁、周縁の国々で、戦争がらみで生起し、戦時的性格を刻印された。

 20世紀における革命を代表するロシア革命についてみると、帝国主義諸列強間の世界支配をかけた戦争によって資本主義世界が危機に陥ったなか、社会的にも政治的にも深刻な矛盾が累積していて戦争による破局が最も甚だしかったロシアでは、「帝国主義戦争を内乱へ」のレーニンの革命路線に導かれて、武装蜂起による国家権力の奪取により、ソヴェト・ロシア誕生の突破口が開かれ、その後の厳しい内戦・干渉戦をくぐりぬけて革命の最後的な勝利がえられた。それにともない、革命の過程とその後の建設は、全般的な後進性に戦争による破壊と混乱が折り重なることによって困難が倍加され、プロレタリアート独裁は軍事的性格を帯び、国家集権・国家主導的性格を更に濃化することになった。ロシア革命は、すぐれて帝国主義世界戦争の所産であった。

 20世紀には戦争という大破局に連動して革命は起きたが、21世紀に生起しうる社会的破局としてどういうものがあるだろうか。

 経済恐慌は起こりうるだろうし、それが社会的破局を招来する可能性もある。しかし、20世紀後半の歴史的経験から推測するなら、資本主義体制が更なる変容を重ねることで自壊状態への転落をくいとめ、破局への突入から免れる可能性はますます大きくなると思われる。 戦争については、第三次大戦が起きることになれば、世界的規模で壊滅的な破局が避けられない。地球環境の破壊も凄まじくなる。世界戦争の阻止は、21世紀の至上命令である。

 先進国と開発途上国の間、開発途上国相互の間での局地的な戦争は無くならないが、先進資本主義諸国間での全世界をまきこんだ戦争は、EUに象徴される国際的な競合の進展、NGOなどの民主主義的パワーの強まりによって、回避されうるだろう。もし第三次大戦が勃発してその戦火のなかでの革命ということになれば、近・現代史で経験されてきたそれとは非常に異なった性格の革命とならざるをえまい。

 可能性が高いのは、地球環境の修復不可能なほどの悪化による社会の破滅の危機である。生態系の破壊や地球温暖化が加速度的に進行して、これまでの歴史になかった社会的大破局として、人間世界が死活の岐路に立たされる時点が到来することがありえよう。地球の破局がいよいよ火急の問題になれば、資本主義体制は決定的な変容を迫られ、いかなる体制をとるべきか、その選択は緊切な課題になるだろう。

 いずれにしても、社会的破局は、19世紀は無論のこと、20世紀におけるそれとも異なった形姿をとるだろう。そして、破局と革命の結びつきも、往来とは違ったものになるにちがいない。

(2)革命路線の諸特徴

 先進資本主義国での革命はどのような形態をとるか。その戦略的路線の転換に関して、すでに1960年代にイギリスのニューレフト(*22)のあいだで議論がおこなわれた。

 E・P・トムスン「革命について」(1960年)(*23)は、一方で、既存の制度の延長線上で小刻みな改良を加えていって、また議会への進出に頼って、どこかの地点で革命的変革にいたるという「進化」型、他方で、既存制度を激烈な正面衝突の階級闘争によって暴力的に粉砕し、その廃墟のうえに新体制を打ちたてるという「破局」型の、二つの革命モデルを批判する。それらに代わるものとして示唆したのは、人民の成熟と積極性を強めることに基づきながら、現行体制への全社会的な対決を高めていく民主的な革命であった。

 P・アンダスン「社会主義戦略の諸問題」(1965年)(*24)は、レーニン主義的な「暴動的な道」と選挙に勝ち議会で多数を占めるのにすべてをかける、フェビアン主義的な「議会主義的な道」との、一見まったく対照的な路線がともに、戦略を国家に集中しており市民社会の領域を除外しているという、基本的な類似性を有していると批判する。そして、双方の戦略を超克し、新たなヘゲモニーを発揮する大衆的な社会主義政党を中心環にして、国家に偏らせてきた戦略の体系を逆転させることを説いた。

 こうした先行の所論を踏まえながら、新たな革命路線の基本的特徴の幾つかを挙げてみよう。

 第一は、政治革命中心ではなく社会革命中心、もしくは国家中心ではなく社会中心の革命である。先に述べたように、新社会は国家権力の転換を画する政治革命をまって生成するのではない。晩年のエンゲルスやグラムシが言う「陣地戦」として、あるいは「制度のなかの長征」(ドゥチュケ)として、あるいは形容矛盾の「長い革命」として、資本主義体制の内部に、それに対抗する拠点をなすとともに将に来るべき社会の基礎システムに発展転化しうる経済的、政治的、文化的な諸々の要素をいたるところで創り出していくことが、必要であり可能なのである。そして、社会革命、政治革命、文化革命などを複合した総体としての革命が旧新の体制転換の画期として定置するのは、人民大衆、社会への国家権力の吸収のヴェクトルである。革命は社会革命へと収斂する。つまり、社会革命が政治革命に先行し先位し、政治革命は社会革命の結節環として生起し、社会革命の挺子としてその進展を加速する。これが、社会革命と政治革命の正常な関係性であろう。

 新たに起こりうる革命は、政治革命を軸にドラマチックな大革命として達成された従前の革命の再現というよりも、徐々に進展する社会改革を集大成する革命という性格を濃厚にするだろう。それとともに、改良の位置づけは、レーニン主義での改良は革命の副産物″から改良の集大成としての革命≠ヨと変わるだろう。

 第二に、対抗する異質の権力体系の攻防・競合として革命過程が存在するだろう。革命は、資本主義の支配諸権力の総体、あらゆる領域に張りめぐらされ、複雑多岐に分節しながら、中央集権的に、だが柔構造に編成されている経済的、政治的、文化的な権力複合体に代えて、対抗・代替権力を構築する過程である。旧新二つのシステム、二つの生活様式が全社会領域、全生活分野をつうじて対立し、具体的にして根本的な争点をめぐって、現実にさしせまった選択として決定をくだすかたちで、革命は進展していくだろう。政治革命としては、議会主義型でもソヴェト型でもなく − 双方は党・国家中心主義であり代表制をとることでは共通 − 、代表制議会の派遣制評議会への換骨奪胎である。

 そこに、過渡的に二重権力が存在する。ロシア革命での二重権力は、専制政治の歴史的伝統を背負い、ツァーリズムとボリシェヴィズムの双方が対立階級を排除し暴力的に抑圧する、相互排他的な二重権力であった。そのために、二重権力状態は武装蜂起によるプロレタリアート独裁の樹立によって突破されることになった。そうした事例とは違って、ここで言うのは、議会制民主主義の基礎体験の共有を基にして、対立階級の民主主義的な包摂、統合をつうじて解除されてゆく二重権力である。

 弁証法のテーゼでは、レーニンが強調した対立物の闘争よりも、彼が軽視した対立物の相互浸透、統一として表されるような革命過程である。

 第三に、革命は、資本主義体制下での民主主義を受け継ぎながら造り替えて更に高度の民主主義に向かう高次民主主義革命という性格をもたねばならないだろう。既述のように、代表制民主主義の派遣制民主主義への改作、直接民主主義のできるかぎりの導入、政治的民主主義の社会的民主主義、経済的民主主義への拡張と深化、そして、市民参加型民主主義から市民主役型民主主義への発展、等が、その主な内容である。民主主義の社会的な定着、そのルールの国民的浸透は、革命に際してもその在り方に影響を及ぼさずにおかない。革命の過程は、排除性、抑圧性ではなく包括性、寛容性を特質にする民主主義によって導かれ、革命の結果は、暴力の組織化の規模ではなく、民主主義の成熟度によって決定される傾向を強めよう。

 資本主義体制の支配階級が手をこまねいて革命的変革が進行するのを許しておくと考えるのは甘すぎるだが、旧来の支配階級の反抗をうちくじく、あるいは反乱をうちくだくピープルパワーは、なによりも革命を推し進める側の民主主義的ヘゲモニーの発揚にかかるだろう。

 この点では、20世紀の末葉に民主化の第三の波を被った幾つかの国での革命、すなわち1986年のフィリッピンの「黄色い花の革命」、1989年からの旧チェコスロヴァキアや東ドイツなどでの「市民革命」が、強権的な権威主義体制にたいして、非武力、市民フォーラム、大衆集会、デモ行進、ラウンド・テーブル等の手段で勝利したことは、21世紀における革命の重要な一面を予示しているのではないだろうか。

 第四として、革命の主体は、資本と国家によって支配され抑圧され、それに抗し変革の意思をもって闘っている多様な運動を結集して、労働者、市民を中軸に、国民の多数派たるべく、複合的に輻輳してかたちづくられよう。

 現代の先進資本主義諸国では、階級化、階層化の構造が極めて複雑になっている。中間的諸階級の比重が増大し、労働者階級も労働者階級として一括りしがたくなっている。同じ階級、階層であつても、利害が多様化しているとともに共通の意識をもつのも難しくなっている。その点で、理念化されたプロレタリアートに革命の主体としての地位を与える旧套の公式はもはや成り立たない。

 意識的な革命行動が革命の主体的要因をかたちづくる。これまで革命の主体としてのプロレタリアートについて述べる場合でも、それは即自的な階級としてではなく、対自的な階級としてであった。革命の担い手に関して、意識的、精神的要素の重要性は、かつて予想できなかった「豊かな社会」が実現し、脱工業化の時代を迎えている今日では、ますます高まっている。グラムシが鮮明にした「知的、道徳的ヘゲモニー」とそれへの同意が、革命の陣営の形成と強化の決定的なほどの要因になるだろう。

 他面、新たな社会・国家では協同組合と地域自治体が編成軸をなして個人−中間集団−社会・国家という三層構造がかたちづくられることからすれば、中間集団としての協同組級(アソシエーション)と地域社会(コミュニティ)が戦略的拠点となり革命的変革の推進母胎としての役割を担うだろう。

 そこでは、多くのNPO、NGOが積極的な役割を果すにちがいない。なかでも、株式会社の協同組合企業への変革、反革命に対抗する必要が生じた場合のゼネラル・ストライキの決行など、重要な闘いを担うべき労働組合が労働者大衆のエネルギーを組織化しうるかどうかが、一つの鍵を握ると思われる。20世紀前半の政治的解放に続く20世紀後葉からの社会的解放によって漸く女性の地位の向上をかちとり、なおその途次にあるフェミニズム運動と結びあうことも不可欠である。エコロジーと資本主義を両立させる追求が限界に達し地球環境問題が体制転換の決定的契機として現出するような場合には、労働者、市民に加えてもっと幅広い階級、階層からの革命的変革への合流が増大するにちがいない。

 要するに、古くからの労働組合問題や協同組合運動などと新しい社会運動、市民運動などを総結集する国民的多数派の形成が鍵である。

(*21) *21 拙著『マルクス派の革命論・再読』社会評論社、2002。
(*22) *22 ニューレフト スターリニズムをはじめとする既成左翼を批判して、1950年代後半から、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、日本などでさまざまな解放運動として生起し、1968年革命では、ベトナム反戦、大学批判など先進資本主義世界を揺るがす急進主義運動を展開した。
(*23) *23 E・Pトムスン編『新しい左翼』原著1960、福田歓一・河合秀和・前田康博訳、岩波書店、1963、に所収。
(*24) *24 P・アンダスン、R・ブラックバーン編『ニュー・レフトの思想』原著1965、佐藤昇訳、河出書房新社、1968、に所収。

推薦書
 共同社会研究会ブックレットNo.1『『共同社会』とは何か』、1995年
 宮本憲一『日本社会の可能性』岩波書店、2000年