「野上浩輔『最後のマルクス主義国家論』(三月書房、2003年3月)の論点について」


 野上浩輔といえば、『ロシア革命の歴史構造』(三一書房、1983年)の鋭い問題提起が印象深い。その前著は、題名どおり、ロシア革命からスターリニズム体制成立にいたる歴史の構造を分析して、ソ連崩壊とともに最後的に破産を遂げた数多の通俗的な著論とは逆に、今日あらためて検討すべき啓発的な論点を随所に含んでいる良書である。それに、個人的な感慨を加えると、60年安保闘争と新左翼運動の創生に情熱を燃やして学生時代を送り、以後工場労働者として闘いながら理論的研究にも取り組んでいるという、前著あとがきで触れられている著者の経歴に、重なり合う体験を有する私は強い共感を抱いた。

 その後も直接に出会うことなく20年が過ぎたことになる。そこに、こんどの新著『最後のマルクス主義国家論』の公刊である。 

 マルクス(主義)国家論研究は、以前にも稀少であったが、昨今のマルクス主義の凋落の時勢にあって、ほぼ姿を消してしまっている。この理論的空白状態に、野上書は問題を投げかける。すぐには望むべくもないが、こうした堅実な研究が細い糸となって次の時代に繋がっていくことを期待したい。

 新著は、「第一章 近代政治的国家とは何か」「第二章 国家本質論の展開」「第三章 歴史的『国家』の理論」「第四章 現代国家論」という編成をなしている。第一章で近代ブルジョア国家の構造的諸特徴を明らかにし、それを踏まえて第二章では国家の本質について論じる。第三章では補足的に前近代の諸国家を取り上げる。最後の章では帝国主義時代の国家と最近の国家との顕著な相違を明らかにし、帝国主義段階を歴史的に位置づけなおすとともに今日の国家の最新の動向について分析する。およそこのように、全体の構成を把握することができる。

 本書で引用、参照されている著作に照らして、我が国での国家論研究史とのつながりを見ると、1960〜80年代に、後期エンゲルスからレーニンを通して伝承されてきたマルクス主義国家論の定説を批判し、マルクスがなしえなかった国家論の建設を指向する流れが形づくられた。柴田高好『マルクス国家論入門』、同『マルクス政治学復権』、大藪龍介『マルクス、エンゲルスの国家論』、同『近代国家の起源と構造』等が主要な著作である。また独自に、吉本隆明『共同幻想論』が広範に大きな思想的影響を与えた。それに大谷瑞郎の『歴史の論理』や『世界史のなかの日本史像』が、政治史研究についても通説批判のユニークな見地を提出していた。これらを批判的に摂取しつつ新展開を試みたものといえる。

 かつてマルクス主義国家論創造の意欲に溢れ苦闘しながら著わした書が、批判的検討の対象として取り扱われるのは、大変に有難いことである。そこで、「第二章 国家本質論の展開」「第四節 国家の本質は共同精神である」の「8 大藪国家論の問題点」を中心にして、若干の私見を述べたい。

 1、 社会の共同利益の遂行と階級的な支配、抑圧という、国家の持つ矛盾的性格の把握に関して。

 一方で、国家は社会の共同利益を実現するとする「共同体国家論」、他方では、国家は階級支配のための機関であり公共性は仮象にすぎないとする「階級国家論」、この双方ともに、国家が体現する上記のアンヴィヴァレントな性格の的確な把握に失敗している。そのなかで、この矛盾的性格を、資本主義社会ではこの社会の共同利益そのものが資本家階級的性格を持っていることを明らかにして、統一的に把握していこうとする大藪の以下のような所説の新たな意義を、野上は評価する。「資本主義社会の共同利益は、‥‥資本主義の経済的論理に貫かれて資本主義的性格を刻印され、資本家階級の特殊利益の一部を形作る」「資本家階級は、その階級的利益が主たる国民的利益である、国民の支配的、指導的な階級であるから、資本主義社会の共同事務は、資本家的な階級的性格を刻み込まれていながら、国民的な共同事務として現われる。そして、この資本主義社会の共同事務の遂行を発生根拠としそれを体現することによって、ブルジョア国家は諸階級への分裂と対立を超越した国民的共同体として仮現する現実的基礎を得る」(『近代国家の起源と構造』)。

 そのうえで、大藪説の限界を、次のごとく指摘する。資本主義社会の共同利益が資本家階級的性格を持っているという場合、「<階級性>が<社会の共同利益>の後ろに隠れているのであり、その前面に出ている<社会の共同利益>の性格に<ブルジョア性>、或いは<ブルジョア的時代性>が刻印されているのである」(p.145)、と。

 この説明は、大藪説が資本主義社会の共同利益は、超階級的なものでは決してない、資本家階級の特殊利益の一構成部分を形作るのだということの強調にとどまっている点を越えて、資本家階級の特殊利益の階級性にたいして資本主義社会の共同利益が帯びる階級性の特徴的性質にまで踏み込んだ把握を進めている、といえよう。

 2、 ブルジョア国家の発生の必然性の解明に関して。

 大藪の所説は、こうである。「可能性―現実性―必然性というトリアーデを適用すれば、資本主義社会の共同事務〔貨幣の度量標準の確定ならびに鋳造、商品交換の規範の遵守、公共事業や公共施設、それに公教育〕がブルジョア国家の抽象的可能性、ブルジョアジーとプロレタリアートの闘争がその実在的可能性であり、この両階級の敵対的矛盾から生じる階級闘争を動力にして、可能性は現実性に転化する」(『マルクス、エンゲルスの国家論』)。これにたいし、「ブルジョア国家はブルジョア革命によって形成されたのであり、革命より五十年も百年も後に展開される<ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争>に国家形成の『実在的可能性』がある筈がない」(p.148)と批判する。

 この批判は、大藪の理論展開の捉え損ないに基づいている。大藪書はその始まり箇所で、「近代ブルジョア国家の発生を、『毎日われわれの目の前で繰り広げられている』場所的起源の論理的な考察とブルジョア革命という歴史的起源の過程的な考察」の二通りの区別・連関で究明すべきである。だが、本書では前者、ブルジョア国家の場所的起源の論理的考察を扱い、後者、歴史的起源としてのブルジョア革命の史的考察については別の機会に回すと明記(『近代国家の起源と構造』)しているからである。従って、なによりも、そうした方法的論理の妥当性、あるいは『資本論』で多用されている論理的・歴史的方法―資本の発生については第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化」と第7篇第24章「いわゆる原始的蓄積」―の国家発生論への適用の是非を問うべきであろう。

 野上書も「第三章 歴史的「国家」の理論」「第八節 近代国民国家の登場」の2と3で論じているように、ブルジョア革命によって成立した国家、「ブルジョアジーの共同体」と、産業革命の進展に基礎づけられてブルジョア的に成熟した国家、「国民的共同体」とは、発展段階的に相違にしている。ミネルヴァの梟の故事で喩えられるように、産業革命にともない全面的に発達を遂げた資本主義社会を基礎にして十全な意味でブルジョア化した国家を対象にして、ブルジョア国家の本質的構造は解明されうる。あるいは、「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」ということは、近代国家と前近代国家とについてだけでなく、近代国家のなかでの盛期ブルジョア国家と初期ブルジョア国家とについてもあてはまる。これが、大藪がとっている方法的見地である。

 勿論、経済学と違って、国家論では本質論は成り立ちえず、精々歴史的な発展段階論が可能であるにすぎない、という見解もありうる。しかし、野上は、ブルジョア国家本質論をブルジョア国家の歴史論とは別の主題として追求しているのである。国家本質論はブルジョア国家の歴史的な生成、発展の過程の論述と区別されるとすれば、その対象と方法はどのようなものであろうか。

 3、 国家本質論をめぐって。

 野上によると、「国家の本質は<客観的な共同精神>であり、国家とは精神を本質とする<精神成態>である」(p.108)。この命題には、国家を階級支配の機関(機構)とする伝来のマルクス主義国家論説を、「国家は幻想的共同体である」というマルクス説を継承して超え出んとする志向がこめられており、次のようなことを意味する。「政治的普遍性としての精神が自身に合致した『制度』を作り出して行く。その制度が人間関係とそれを強固にする物質的なものに裏打ちされた社会構造を確立してゆく、‥‥これこそ国家という政治組織の形成の論理である」(p.117)。

 これは、概説あるいは概論としては正しい。そして、かかる国家形成の論理を概説的に明確にすること自体、国家の本源的なイデオロギー的性格を無視するタダモノ論的な国家論が支配的であった、これまでのマルクス主義国家論研究史のうえで積極的な意義を有している。しかし、国家本質論としては、なお決定的な限界を持っている。

 方法として、上記の命題はブルジョア国家一般に関する概念規定として成っている。概念規定、ないし定義は、対象の複雑で多面的な構造のどの面を特徴づけて捉えるかによって様々に可能であり、かつまたその多様性は欠かせない。国家についての諸々の概念規定、定義の所在も、そのことを示している。だが、概念規定や定義は、エンゲルス、レーニンも言明しているように、科学以前のレヴェルにとどまる。国家本質論の存在価値は、それらの概念規定や定義を含みつつ総合的に止揚し、近代国家の政治的運動法則を科学的に解明するところにある。有論・本質論・概念論からなるヘーゲル論理学の唯物論的改作や、それを折りこんだマルクス『資本論』の方法的論理からすると、そのように思料される。

 拙著『近代国家の起源と構造』では、『資本論』の論理学に加え、レーニン『哲学ノート』のヘーゲル論理学の唯物論的転倒に学びつつ、19世紀後葉のイギリスの議会制民主主義国家を現実的対象に設定し、そこに実在する法則的傾向を析出する形でブルジョア国家本質論の建設への挑戦を試みた。

 「国家の本質は共同精神である」という命題は、国家本質論を示すのではなく、「政治的普遍性としての精神」と「物質的な」機構とが複合した重層的な制度的構造をなす国家に関して、前者に本源性、先位性がある特徴的性質を明らかにする概念規定であり、国家本質論研究にあたって立脚すべき前提的事項として了解できる。そのことは、「国家とは社会とは分離した存在である」という次節の命題についてと、同様である。

 野上書では、国家の概念規定をもって国家本質論としていることから、対象として抽象的にブルジョア国家が観念されるにすぎず、典型的なブルジョア国家を特定する手続きもとられていないし、対象的現実をなす典型的なブルジョア国家に即しつつその実体的構造に立ち入って分析することもなされていない。だが、実体論抜きに本質論を形成することはできまい。

 対応して、その内容としては、「政治的普遍性としての精神」の具体的な内実は何なのか? 例えば自由(主義的)民主主義だとすると、それはどのような論理か? 民主主義に関しては、「国家での政治的平等を根拠に、実体としての社会的階級支配を隠蔽する、近代の政治−国家意識が作りだした〔巨大な虚構〕なのである」(p.85)といった、旧来型の断罪の復唱で片付けられている。

 また、誰が、どのようにして国家を機構とし組織していくのか? 政治家や政党の位置は? 議会、政府、裁判所、官僚的・軍事的機構などの編成の仕組みは? 等々。これらの諸問題を含むブルジョア国家の批判的な解剖には、未だ手がつけられていない。

 そうした意味での国家本質論の形成は、まさしく『資本論』の創造以上に至難な学問的課題であり、巨大なほどの歴史的な意義を有する。アメリカ合衆国において発展し現在の我が国でも圧倒的な潮流となっている現代政治学は、国家についてはこれを所与のものとして肯定し不問に附す国家論なき政治学である。それだけではない。1世紀をゆうに越したのに、マルクスの後継者のうち誰一人として近代ブルジョア国家の本質論的解明を達成していないのだ。その大難問への取り組みへの労苦が一つ一つ着実に積み重ねられ、その成果が開示されるにいたるとき、マルクス主義国家論研究は新たな地平へと導かれるだろう。

 確かに、60年安保も新左翼もはるか遠くに離れ去り、闘いを担った青年達も老いてしまった。だが、それぞれに健闘を続けあって勇気をともにし、見果てぬ夢を最後まで追ってゆきたいものだ。

(大藪 龍介)