「『近代国家の起源と構造』まえがき」
 1983年2月


 本書は、近代ブルジョア国家に関する本質論的研究の第一次的作業である。

 マルクス主義における国家論の不在という認識は、いま漸くにして広まりつつあるが、われわれも、マルクス、エンゲルスの国家論的著論を追思惟し解釈した前著『マルクス、エンゲルスの国家論』のあとがきで、次のように述べた。マルクスやエンゲルスの国家論は、達成されたかぎりでの成果に限界や謬点が所在しているとともに、手がつけられず空白に放置されている論題も多く存在している、という二重の意味で自足的たりえない。なかでも決定的なのは、経済学での『資本論』に相当する国家論作の欠如である、と。

 かの”スターリン批判”以後、マルクス主義国家論研究の基本的動向は、世界的に、スターリン(主義)国家論の直接的基礎とされていたレーニン国家論の批判的再検討に始まり、原典としてのマルクス、エンゲルスの国家論への遡源によるその再理解へと進捗してきた。そして、様々な理論的形態をとり多岐的に展示されているマルクス主義の創設者たちの国家論述に依拠して、それらを一面的に継受したレーニン国家論、そのレーニン国家論を更に偏曲したスターリン (主義)国家論に対する一定の批判的見地が築かれてきた。しかしながら、マルクスの永年にわたる研鑽を結晶させた学問的精華として『資本論』が厳として存在している経済学とは異なって、国家論の場合には、マルクス、エンゲルスに立ち返っても、そこに、レーニン国家論やスターリン (主義)国家論を超克しうる絶対的基準ともなる、確固とした科学的な理論が遺されているわけでは決してない。

 勿論、国家論に関しては、後期のエンゲルスの貢献が公認され、その著述がマルクス主義国家論の定説として伝承されてきている。成る程、後期から晩期にかけてのエンゲルスが、『反デューリング論』、『家族、私有財産および国家の起源』、『フォイエルバッハ論』などの代表的著作で展開した国家論は、マルクス主義の立場からする国家とは何かについての一般的な解説であり、平明で解りやすい利点をもっている。だがしかし、マルクスに代ってエンゲルスが、度々、概論した国家論は、予断に囚われることなく厳密に吟味すれば方法的にも内容的にも根本的な難点を含み、『資本論』と対照すればくらペようもなく貧寒であり、総じて科学的なレヴェルにまで到達していない。また、『資本論』の完成を終生の学問的事業にせざるをえなかったマルクスが抱懐していたであろう国家論的構想からも離反している。こうした後期エンゲルスの国家論の批判的検討については、『マルクス、エンゲルスの国家論』の第七章を、本書第T章第1節とあわせて、一読願いたい。レーニン国家論に受け継がれ、スターリン主義の確立とともに教典化されたのも、この後期エンゲルスの国家論に他ならなかった。マルクス主義における国家論の不在という頭記の摘約は、われわれの場合には明確に、今日までのマルクス主義国家論の通説、その原型としての後期エンゲルスの国家論への根本的な批判と表裏をなしている。

 マルクスの比類なき共同作業者であり、マルクス亡き後マルクス主義の発展と普及のために力を尽したエンゲルスの国家論が、科学として見れば、誠に遺憾ながら、極めて重大な制限を背負っており、非マルクス的なものにも堕していること、そしてその後のマルクス主義国家論の退行の源泉となっていること、この自覚は、マルクス主義国家論研究のコペルニクス的な転回を要請する。マルクス、エンゲルスの論説を絶対化する、また両者の理論的一体性を信じてかかる、教義学的思惟から袂別しなければならないのは無論のこと、マルクス主義国家論の現在的に新たな創造という巨大な課題に直面することになるからである。

 振り返ってみると、マルクス主義の確立以来一世紀有余、少なくとも国家論の分野では、一部の成果を除いては、業績を誇るべき発展はなく、むしろ後退と通俗化、遂には歪曲が支配的であったと断じてもあながち過言ではない。そして、今日依然として、マルクス主義国家論の正統的教説として全世界に君臨しているのは、スターリン時代に教科書的に編纂され支配のイデオロギーとも化した国家論の体系である。そうしたマルクス主義国家論の現代的展開の歴史については、別書を著したい。ともあれ、スターリン批判以後四分の一世紀を超す年月がすでに経過したが、各国に散見される現状打破への様々な理論的試行にもかかわらず、マルクス主義国家論研究の低迷はなお根深い。

 後期エンゲルスの国家論を原基とした国家論の水準をもってしては、マルクス主義は、自らが指し示してきた世界史の新しい時代への政治的進路を切り開いていくことは到底でき得ないであろう。現代世界の動静、とりわけ今日あらわになっているマルクス主義の危機的諸様相について語るのは、ここでは差し控えねばならないが、ただ一言するならば、近年相次いで生起している「社会主義」諸国での痛憤すべき政治的現実の数々の思惑的、理論的な背景的原因の主な一つとして、後期エンゲルス以来のマルクス主義国家論の永きにわたる停滞と卑俗化、そしてその極みとしてのイデオロギーへの転化を看取するのは、浅慮なる臆断にすぎないのであろうか。別言すれば、今日のマルクス主義の深刻なる混迷の理論的根源は、学問的創造性の全面的な枯渇にある。国家論の頽落は、その集中的な表現である。

 こうして、マルクス、エンゲルスの国家論的遺産の解釈主義的議論から理論的な創造へ、しかも後期エンゲルスのそれをのりこえた国家論の創造的な建設へ、これが、世界史の現状からしても喫緊な、現段階におけるマルクス主義国家論研究の根源的問題でなければなるまい。かかる国家論の創造的建設は、マルクス主義理論を労働者階級の自己解放の闘いを嚮導する科学として革命的に再生させる突破口ともなろう。だが、言うまでもなく、この一大事業の遂行には、マルクスの『資本論』の創造のための驚嘆すべき学問的苦闘をうわまわる刻苦勉励が、政治学批判、政治史研究から弁証法的論理学に及んで、誠実に積み重ねられなければならない。

 それでは、確固たる科学的な国家論の創造的構築という難題にいかに迫っていくべきか。本書は、後期エンゲルス以来のマルクス主義国家論の伝統からは別れ、『資本論』を二重の意味で前提にして、すなわち、資本主義経済本質論としての『資本論』を内容的基礎にするとともに「『資本論』という論理学」(レーニン)を方法的基準にして、『資本論』に後続すべき近代ブルジョア国家の本質的論理を究明することを根本視座とする。今日におけるマルクス主義の理論的不毛性は、一つの観点からすれば、マルクスが心血を注いで樹立しマルクス主義を科学たらしめた当のものである『資本論』の学問的精神の軽視ないし無視に由来する。『資本論』に学んだ科学的な理論の創出の追求は、従来は非「正統」派的な法理論研究において幾つかの貴重な試論を生みだしたにすぎないが、国家論研究の現状において、混迷から脱却し新紀元の開拓へと向かう転回基軸として改めて浮かびあがってくるのである。

 不要な誤解を招かないように付言しておくが、近代国家のみならず、前近代の諸国家、また資本主義から社会主義への過渡期の国家も研究対象とされ科学的に解明されるべきである。ただ、それらの歴史上の諸々の国家は、近代ブルジョア国家の本質論的究明を礎石とし、それに立脚して理論的に把握される。経済学における『資本論』にあたる近代ブルジョア国家本質論を理論的拠点としながら、一方では、帝国主義段階の国家や近・現代の日本国家など、近代国家の歴史的、現実的諸形態を、他方では、近代国家に先行した古代や中世の諸国家や、とりわけそれに後続する社会主義への過渡期の国家を、それぞれ独自に分析的に研究しなければならない。

 本書での近代ブルジョア国家に関する本質論的研究は、第T章 国家の起源、第U章 国家のイデオロギー的構成原理、第V章 国家権力機構という構成をなすが、全体として、ブルジョア国家の生成の内的な連関構造の論理的究明という、ブルジョア国家の最も基底的な論理の掌握を試みている。この発生的=批判的考察をつうじて目指しているのは、この国家の成立過程に内在する法則的に必然的な諸傾向の解明である。国家の必然性の論理として言えば、第T章は、国家の可能性 − それ自体、抽象的と実在的とから成る − を、第U章と第V章は、その可能性の現実性への転化を叙述するが、しかし、その必然性も、単なる因果必然性としてではなく、政治過程として固有な、目的論的関連に媒介された因果必然的過程として、解明を図っている。

 本書は上述の如き問題意識に立っているが、設定した課題に応えるには、ここで提示する研究の成果は余りにも拙なく貧しい。解明を果しえなかった論日も多く残しているし、記述したかぎりでの論点に錯誤も少なくないだろう。しかしながら、今日のマルクス主義国家論研究に必要なのは、政治的上部構造の相対的独立性に関する唯物史観の公式的命題の教条主義的反復やマルクス、エンゲルスの国家論述の解釈主義的再構成では断じてない。決定的に要請されているのは、後期エンゲルスの国家論をも踏み越えた地平において、科学的な研究の段階を新規に開拓し、国家の固有な運動諸法則を実地に発見し論証することであり、それによってまた、唯物史観そのものを、『資本論』に続いて、科学的に基礎づけて発展的に豊富化することである。そうしたマルクス主義国家論研究の新時代への暁鐘をいささかでも撞いているとすれば、本書の企図は達せられる。期せずして、今年はマルクス没後一世紀を迎えるが、マルクス主義の革命性格を甦らせていく重要な理論的環節としての国家論の現在的な創造的建設へ、本書が一つの問題提起となることを希求したい。

 この小著は、五、六年来の構想を具体化して成っているが、理論研究の道に進んで以来のおよそ一五年間、もっぱら独立独歩で過してきたとはいえ、多くの人たちからの教示や助力、激励に浴している。特に、新しい世界への理想に燃えて学生運動に明け暮れていた時代以来、いろいろと御高配を下さった、九州大学具島兼三郎教授に、この機会を借りて感謝の念を表させていただきたい。

 厳しい出版事情のなかで公刊を引受けてくれた創論社 森下紀夫氏にも、お礼を申しあげなければならない。

 最後に、国家論の創造的建設というまさしく巨大な課題に、まったくの非力を省みす敢えて立ち向わせてきたのは、わたしの母や妻を初めとする身近に暮してきた人たちもその一員であるところの労働者大衆と、真底において連帯するインテリゲンツィアたらんとする密やかな思いである。拙劣であるけれども新たな未来への躍進の熱意をこめてはいる、この研究書を、日本の労働者階級に、なかんずくその最先頭にあって否定的な諸相を深める現代世界を根底的に変革すべく闘い抜いている人々に、捧げたい。

 1983年2月末日

 大藪龍介