北山峻「『明治国家論』の新機軸」へのリプライ
 2012年 1月


 北山峻さんには、昨年4月2日に文京区民会館で開催された「座学シンポジュウム 明治維新はいかなる革命であったか―大藪龍介著『明治国家論』をめぐって―」でのパネリストの一人としての報告に続いて、今回は書評をしていただいた。御礼を申し上げ、有難く受けとめたい。

 実践運動を前線で担って闘ってきた活動家としての特徴が滲みでている書評だと思うが、前半で『明治国家論』の要点を紹介し、後半では「上からの革命」に関連させて現代世界の革命についての独自の見解を提示するという構成になっている。

 前半部の要点紹介は、後に(1)で指摘する点を除いて、うまくまとめられている。そのなかでは特に、明治国家について「立憲政府政」という新たな規定を提唱したことをめぐって、ドイツ・ビスマルク帝国をナパルティズムとする通説に代えて「立憲政府政」という新しい術語を創出したことと併せ、批評を願いたいところであった。だが、これについては専門的研究者にとっても難題であるだろうし、北山さんの所見が述べられていないのもやむを得ないだろう。

 そこで、主として書評の後半部から幾つかの重要な論点を取り出して、私見を記す。

 (1)、「上からの革命」とは何かについて。

 拙著は、明治維新―明治国家を分析して、これを「上からのブルジョア革命」―「立憲政府政」として総括的に規定する。北山さんは、この「上からのブルジョア革命」説を受け入れつつ、更に広く適用することを試みている。

 ところが、その際、「上からのブルジョア革命」を「権力の階級移動がない革命」と解している。これは、拙論からすると誤解である。

 前著『明治維新の新考察』において、1866−71年の宰相ビスマルクの鉄血政策によるドイツ帝国創建の革命事業の分析に基づいて、「政府が国家権力を手段として推進する保守的革命」と「上からのブルジョア革命」を定義した。そして、明治維新を上からのブルジョア革命の一つとして捉えた。

 イギリスやフランスの古典的な、「下から」のブルジョア革命では、新興のブルジョア階級が民衆を率いて決起し大衆的な力を爆発させる内戦や蜂起によって、旧来の国王以下の絶対主義勢力を打倒した。そして立憲的な国王あるいは皇帝を頂点とする新勢力が国家権力を担掌したので、政治権力の階級移動も明白であった。だが、プロイセン=ドイツのブルジョア革命では、ビスマルクに代表的なように、旧来の絶対主義君主・貴族・軍人などが、近代化の世界史の趨勢を認識するとともに、1848年2月革命以来の民衆の「下から」の革命を封殺せんとして、なしくずし的にブルジョア政治勢力、その保守派に転身し、国家の軍事権力を用いた対外戦争の勝利によって、革命の課題を達成した。以来、ドイツより一層後進的な国では、資本主義世界システムの外圧が更に強まるなかで、日本の明治維新など、従来の支配勢力でありながら近代化の成否に自国の存亡がかかっていることを覚識した部分が主力となり、国家権力を活用して「上から」、古い諸関係を温存しつつ、ブルジョア革命を遂行するのが、有力な流れとなった。

 「上から」のブルジョア革命においても、経済権力の階級移動はないとして、政治権力は階級移動する。ただ、その政治権力の階級移動が、「下から」のブルジョア革命の場合とは著しく異なるのである。

 『明治維新の新考察』のなかですでに明らかにしているように、ブルジョア革命における新たな政治的支配階級の登場には、大きく分けると、旧新の国家権力の担掌者・集団が入れ替わり交代するケースと、従前からの国家権力の担掌者・集団が政治的に鞍替えして転身するケースとの二つの類型があることになる。

 経済・社会と政治・国家が分離し、経済的(支配)階級と政治的(支配)階級もまた分化する歴史的な独自性をもつ近代においては、政治的支配者・集団は、社会的出自の如何を問わずに、国家のブルジョア的変革を課題とする政治的綱領・政策およびその実行次第によって形成される。ブルジョア革命はその歴史的発端にあたる。だから、北山さんが引いているエンゲルスの言述にあるように、「王権がやろうと、鋳掛け屋がやろうと、革命は革命である」ということになる。クロムウェル、ナポレオン、ビスマルクなどは、ブルジョア階級の出自ではなくても、それぞれの国に独自のブルジョア革命、ブルジョア国家建設のトップ・リーダ―としての役割を果たした、固有の革命家なのであった。明治維新について、それを推進したのが旧支配身分に属する下層武士・公卿であったことをもって、ブルジョア革命にあらずの有力な根拠とするのは、講座派(系)の謬論である。

 上記のプロイセン=ドイツの大国事劇や日本の明治維新において政治権力の階級移動がなかったのであれば、講座派(系)の論者達と同じように、それらはブルジョア革命ではなかったと説くべきだろう。

 (2)、1917年のロシア革命や1949年の中国革命もブルジョア革命と見做すことについて。

 ソ連や中国の共産党政権が、一種の「開発独裁政権の先駆」であること、そして、ソ連は、先進資本主義諸国がブルジョア革命や産業革命で達成した歴史上の諸課題さえ成功裏に達成したとはいえず、アメリカ合衆国に対抗する追いつき現代化を遂行できなかったこと、中国は、現在追いつき近代化・現代化に懸命の取り組みながら四苦八苦していることは、確かである。また、ソ連や中国が社会主義国だとか社会主義建設途上にあるとかの俗流的な観念や思想はイデオロギーにすぎず、ソ連や中国の「社会主義」が社会主義でないだけでなく社会主義への移行過程にあるのでないも疑いない。

 だが、史的経過として、ボリシェヴィキが、労・農・兵のソヴェトを基盤にして、国家権力を奪取して革命を実現し、プロレタリアート独裁と生産手段の国有化を基本路線として社会主義に向かっての建設に取り組んだこともまた、確かである。それは、通俗的なマルク主義のプロレタリア革命と社会主義の過渡期建設についての一般的な構想を、ロシアの個別特殊的現実において具現する意味を有するものであった。中国革命は、特殊性が更にずっと大きいとしても、およそ同じようなことが言えるだろう。

 そうした複雑な歴史を踏まえると、ロシア革命や中国革命が、「帝国主義列強の包囲の下で達成された後進国の大規模なブルジョア革命であった」と、初めからブルジョア革命だとするのは、清算主義的な、あるいは結果論的な、単純な割り切りにすぎる。

 加えて、北山さんの説述のなかには、1917年ロシア革命や1949年中国革命も「上からの革命」のうちに数え入れていると取れる箇所がある。しかし、双方の革命は「上から」なされたのではないし、「権力の階級移動なき革命」でもない。この点にも、無理がある。

 遂行された革命の結果が当初遂行しようと目指していた革命とは似つかないものになる事態を、エンゲルスは「歴史のアイロニー」と表現していたが、ロシア革命が国家主義体制ないし全体主義体制へと帰結したのは、「歴史のアイロニー」の史上最大の部類として扱うのがやはり当を得ているのではないか。

 北山さんがロシア革命や中国革命をブルジョア革命と見るようになったのは、どのような経緯なのか、分からない。私自身は、日本で1950年代末に生まれた新左翼の第1年代に属し、ソ連に関して、トロツキーの「裏切られた革命」、「堕落した労働者国家」の論に学びながらもその限界を批判して、過渡期社会・国家の歪曲形態として捉え、変革的打倒の対象と見做してきた。90年代初頭のソ連の倒壊によって、持論の限界も痛感せざるをえず、ソ連への批判を一段と深めなければならなかったが、基本的スタンスは従来と変わっていない。1917年の革命、そしてその後の過渡期の経済・国家建設のどこにどういう難点や誤りがあったかを反省的に析出することこそが肝心要である、と考えている。

 ロシア革命は、カーの「ボリシェヴィキ革命」、グラムシの「機動戦」革命、拙論では「党=国家中心主義革命」として特徴づけられるような、まさしくロシア的な特異性を刻みこまれていたが、プロレタリア革命の一種であった。そして、ロシア革命後の建設は、伝来の全般的な後進性、一国的孤立など、至難に満ちた内外の諸条件によって変容を余儀なくされながら、政治面でのプロレタリアート独裁と経済面での国家所有・国家経営・国家計画を基柱として進んだ。つまり、国家集権・国家主導(主義)の「上から」の過渡期社会・国家建設路線であった。ところが、この基本路線自体が、社会主義への方向とは反対の国家主義体制へ転結してゆく必然的傾向性を秘めていた。プロレタリア革命も社会主義への過渡期の建設も、国家主導の「上から」の変革とは本来的に相いれない。

 なお、北山さんは拙論が批判するコミンテルンの「党・国家中心主義革命路線」の構成要素として「計画経済による社会主義建設」を挙げているが、正確に表現すると「国家計画」であり、経済の計画に関しても国家が指令する国家主義的なあり方を批判するものである。

 (3)、現代は依然としてブルジョア世界革命の時代だという規定について。

 現代はどういう時代か。1917年のロシア革命を起点にした「資本主義から社会主義への世界史的移行期」という、かつて汎用された公式的規定は崩れ去った。マルクス主義者は、程度の差はあっても、自己批判を免れない。

 20世紀現代の世界史について、以前には、「戦争と革命の世紀」という規定が有力であり広く用いられた。この規定は、大小の戦争とそれに連動した革命が続発した20世紀の時代的特徴をよく捉えていた。但し、ロシア革命などのプロレタリア革命について言うと、「革命の世紀」よりも「革命の失敗の世紀」であった。

 私見としては、20世紀の世界史をアメリカニズムの世界制覇とパクス・アメリカーナの特徴的現実を最も重視して、「資本主義世界システムの爛熟の時代」(『マルクス派の革命論・再読』所収「20世紀社会主義の挑戦と破綻」)と規定していた。

 時代規定は、諸々の有力な歴史的潮流が対抗し競い合うその時代の複雑多岐な歴史の構造の把握として、どの動向を最も基本的と見做すかによって、幾つかが可能であるし必要でもある。

 北山さんは、最近の世界で進展する構造変動を押さえて、「中国やインドやイスラムなどが、強力に民族性を主張しながら、先進的な科学技術と機械制大工業を獲得して世界経済の中心地となり、さらにブラジルやアセアン諸国や南アフリカ共和国などのアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国が陸続と世界の政治・経済に進出してくるのを見るとき、少なくともあと50年〜100年は依然として世界はブルジョア世界革命の時代の中にあるのではないか」と説いている。

 現代は依然としてブルジョア世界革命の時代だと聞くと、意表を突かれる感もあるが、今日全世界的規模で顕著になり勢いを増している、いわゆる開発途上の諸国の目覚ましい発展に留目し、それを視軸にした現代世界の時代規定の提唱として、成程と思われるし、積極的に評価したい。

 幾つかの開発途上国は、社会主義を掲げ、社会主義への道を模索するだろう。しかし、20世紀においてそうした類の急進主義的な試みが挫折し破綻した歴史的経験が生きた教訓として存在するから、その繰り返しは結局選択されないのではなかろうか。

 (4)、「天皇制打倒」の方針は正しかったか

 拙著の明治国家に関する講座派(系)の天皇制絶対主義論を批判する章のなかで、コミンテルン「32年テーゼ」が天皇制の打倒を革命の第1の任務として掲げたことに関しても、1932年当時にあっては天皇制の民主化が方針として採られるべきと説いた。これに、北山さんは天皇制打倒の方針は正しかったと異議を唱えている。

 拙著は、明治国家を主題として、天皇制についても明治天皇制を対象として論じている。ただ、その一端として明治国家に関する先行の理論を批判的に検討に付して「32年テーゼ」をも取り上げ、天皇制に対する闘争のあり方に言及した。拙論では、あくまでも明治天皇制をどう捉えるかが主要であり、1930年代初め頃の天皇制に対する闘争はどうあるべきだったかは派生的な論点であるが、後述するように当時の昭和天皇制についての分析的研究を欠いたなかで天皇制に対する闘争方針について論説したのは、いささか不用意であった。

 しかし、北山さんの異議を機に、戦前戦中の昭和国家についてまったく不勉強なのだが、天皇制に対する闘争をどう進めるべきだったかについて、今後の研究課題を示す形で、敢えて触れてみる。

 『明治国家論』の明治天皇制の考察では、講座派(系)の絶対主義天皇制、軍事的=警察的機構としての天皇制の論に対し、古い歴史的素材を改編して新たな伝統として創り出された日本の近代ブルジョア君主制として捉え、政治的天皇制、宗教的天皇制、社会的天皇制としての多面的な性格を併せ持つことを分析した。特に重視したのは、日本独特の宗教のあり様とも絡みあったイデオロギーとしての天皇制であった。また、帝国憲法での天皇主権に関しても、絶対主義とする解釈を批判し、フランス復古王政以来の主権概念の近代的変容による君主主義の系列に位置づけた。

 こうした明治天皇制の特質は、大正天皇制を経て、昭和天皇制にも受け継がれたと思われるが、新たな変化も当然にともなっていただろう。まずは、そのあたりのことを含めて、1930年頃の天皇制の具体的な実状を析出することが前提的な課題である。

 他方では、大衆の天皇(制)についての意識、心情はどうであったか。拙著で、明治後期の一般的傾向として明治天皇がナショナル・シンボルとして国民大衆の心の拠り所として崇敬されるにいたった―これは事実認識の問題であって、北山さんが曲解気味であるような、それをもって良しとする価値判断を示すのではまったくない―と捉えたが、昭和時代にはいっても天皇・皇室尊崇にさほどの変化はなかったのでないだろうか。北山さんは天皇制打倒のスローガンは日本においても「民衆の腹からの叫び」であったとするが、そうした民衆はごく一部に限られていただろう。

 これらの事柄の実証的な研究をおこなったうえで、それでは、天皇制廃止を目指す闘いをどのように進めるべきであったかを、問題にすべきである。

 1920〜30年代の日本では、経済的にはすでに独占資本主義が発達し、政治的にも大正デモクラシーによって民主主義への発展の段階を迎えていた。だが、普通選挙制の漸くにしての実現が治安維持法の制定と抱き合わせであったことに象徴的なように、明治維新以来支配的な国権主義が根強く保持されたままであった。

 近代史を振り返ると、イギリスは、ブルジョア革命から1世紀半以上隔ててチャーチスト運動や第1次〜第3次選挙法改革によって民主主義の段階へ移行し、フランスも、ブルジョア革命以降7月革命、2月革命を経て1世紀近く後の第3共和政において民主化を実現した。 

 当代の日本は、そうしたブルジョア民主主義的変革達成の課題に当面していた。ならば、従来のマルクス主義者の発想では、ブルジョア民主主義革命をプロレタリア革命に発展転化させる、もしくはプロレタリア革命によってブルジョア民主主義的課題をも解決するという革命路線を採用すべきであったとなる。しかしながら、コミンテルンの「党・国家中心主義革命路線」の批判・克服、更には老エンゲルスやグラムシの「陣地戦」革命路線の継承という新たな革命論的観点からすると、別個の、当面はブルジョア民主主義的変革を徹底する革命路線が適切であったと思慮される。

 次に、天皇制打倒を方針とした場合、その推進主体はどのように実在したか。課題として、当時の共産党、無産政党、労働組合や農民組合の実態を把握しなければならない。ただ、これまでに得た知識では、共産党の勢力自体非常に小さかったし、無産政党や組合でも天皇制打倒の方針は浸透せず、その方針を掲げた共産党員の現場での活動は困難を極め、大衆的にはほとんど受け入れらない厳しい現実があったようである。天皇制の廃止へと向かっていくには、過渡的な媒介項が不可欠であった。

 当時の日本が直面していた民主主義的変革の具体的課題を表すものとして、1930年前後の無産政党が掲げた政策や行動綱領のなかに、「政治的自由の獲得」「言論出版集会結社の自由」とともに「枢密院の廃止、貴族院の廃止」「帷幄上奏権、参謀本部の廃止」「政治警察の廃止、弾圧諸法令の撤廃」などがある。天皇制の民主化としては、枢密院の廃止、貴族院の廃止、帷幄上奏の廃止に加えて、不敬罪や大逆罪の廃止、皇室財産の縮減などが固有の課題として挙げられよう。

 いま一つ、講座派(系)が天皇制絶対主義として天皇制を国家権力総体を総括するものとして位置づけたのとは異なって、拙著では天皇を前面に押し立てつつ(藩閥)政府の主導が強固につらぬかれたことを明らかにしたが、ブルジョア国家権力機構全体のなかで内閣=政府や軍部、官僚制との関係で天皇制が占めていた位置も見定める必要がある。1930年前後の国際、国内情勢、そして日本帝国主義の国家権力編制の実態からすると、果して、天皇制に対する闘争が反戦・反軍の闘争よりも第一義的に重視されるべきであったのか、これについても検討を欠かせない。

 このように拙論は、民主主義的変革、その一環としての天皇制の民主化なのだが、民主主義化とは一般に共和制化であるのに、天皇制の廃止ではなくその民主化を提起するのは何故なのかを、更に示さなければならない。

 欧米のキリスト教のように人々の社会生活に深く入り込んで内面を規制する宗教が不在ななかで、明治維新以来、天皇・皇室を政治的にのみならず社会道徳、宗教の代用も兼ねて二重三重に国民の精神的な支柱たらしめ、国民統合の象徴、国権確立の標章とする制度が創出され、それが日本的伝統として根付いたこと、かかる人心統御の機軸としての天皇制を切り崩して大衆の精神的自立を促すには、ブルジョア的性格のものであれ自由、民主主義の体得が欠かせないこと、これがそのおよその理由である。

 『明治維新の新考察』のなかでも述べていたように、「肝心なのは、天皇制の廃止を展望しつつもそれを可能にする諸条件を造出していく至難な運動の柔軟な形成であった」。