「マルクス、エンゲルスの革命論の今日的再審」
 社会思想史学会年報 『社会思想史研究』 NO.25 2001年9月


1848年革命期の永続革命論とその克服

 『共産主義派宣言』に示されているように、この時期の革命論は、なによりもまず政治権力を奪取する、そしてあらゆる生産手段を国家所有化するとともに中央集権化された革命国家の主導で新社会へ向かって建設を進めるという、国家中心主義的政治革命論であった。革命の的は国家権力の転換に絞られており、社会革命を政治革命に集約する、いわば政治革命主義という基本的な特徴に彩られていた。

 周知のように、晩年のエンゲルスは、48年革命の当時陥っていたプロレタリア革命間近しの主観主義的願望について自己批判する。では、革命幻想を取り除き、後進国ないし中進国革命論として位置づければ、永続革命論は継承さるべきか。否であろう。以後、マルクスは、思想的、理論的成熟につれ、政治革命論から社会革命論へと転じる。エンゲルスもまた、後進的ないし中進的なイタリアへの『共産主義派宣言』の応用に際して、ブルジョア民主主義革命からプロレタリア革命への連続的な発展転化ではなく、当面するブルジョア民主主義的変革の達成の段階を踏んだうえでプロレタリア革命へ向かって陣地戦を持続的に発展させるという長期的な戦略を説く。

 マルクス、エンゲルスが1848年革命の時期に打ち出した永続革命の展望は、産業革命により資本主義経済が飛躍的発展をとげつつも政治的にはなお民主主義化が達成されていない、19世紀中葉の世界史的時代状況にあって、後進的なドイツではブルジョア革命、ブルジョア民主主義的変革、プロレタリア革命の三重の課題を、中進的なフランスではブルジョア民主主義的変革、プロレタリア革命の二重の課題を、一挙的に連続して実現せんとする急進主義的な革命運動を表現する定式であった。経済的、政治的進歩も労働者階級の発達も、革命的変革を可能にするほどの水準には達していないなかで、政治力学的にプロレタリア革命の勝利を追求することから、ブランキズム的傾向に流れ、革命的国家主義をとりプロレタリアート独裁を必然化する特徴を備える。1870年代以降、世界史的にブルジョア民主主義体制の時代に入ると、永続革命論は、先進諸国では存在意味を失う。のみならず、後進国や中進国でも民主主義的に転形されねばならなくなる。プロレタリア革命とその後の建設を成功的に遂行するには、現存するブルジョア民主主義の達成を乗り越えることが必須的に求められるからである。20世紀初葉の後進国ロシアでのトロツキーの永続革命論は、ロシア革命を先導する役割を果した独創的な業績であるが、その民主主義的再構成を欠いているという難点を有する。

後期マルクスの社会革命路線の追求

 革命の過程と方途の各国ごとの多様性の積極的な是認の反面、マルクスは、各国に共通する基本原則としてブルジョア国家にたいするプロレタリア革命の根本的関係を明確にした。「労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために役立てることは出来ない」。パリ・コミューンの経験から導き出されたコミューン(地域自治体)国家論に照らすならば、常備軍、警察、官僚制、などの中央集権的な位階性に編成された諸機関の体系からなっていて、労働者階級の抑圧にあたってきた、できあいの国家機構が労働者階級の解放のための機構たりえないのは、明白であった。ブルジョア国家はそれとは異質で性格も構造もまったく異なる国家へと抜本的に変革されねばならない。だが、その具体的実現形態が、平和的か暴力的か、徐々であるか急激であるかは、それぞれの国の事情による。

 レーニンは、先の基本原則を、「『できあいの国家機構』を粉砕し、打ち砕くべき」ことだと解説して、暴力革命の不可避性とコミューン型国家への置き換えを説き、暴力的粉砕型とでも呼びうる革命戦略を組み立てた。その際、レーニンがマルクスのコミューン型国家(地域分権、派遣制 delegational system 、権力分立制)をそれとは似て非なる公安委員会型国家(中央集権、代表制、権力統合制)に改編していることを見落してならない。他方、レーニンの革命論に反対する社会民主主義者のなかでは、イギリスでの平和革命に関するマルクスらの見通しは、議会で多数派を占めるのを自己目的化しブルジョア国家の変革をないがしろにしてしまう、議会主義的戦略を正当化するのに用いられてきた。

 しかしながら、それらの受けとめは、マルクスの真意を捉えていない。マルクスは、アソシエーションとしての未来社会構想の新展開に対応するかたちで、生産協同組合をはじめとする、諸々の協同組織の強化発展や、労働時間の短縮などによって、来るべき社会の経済システムの基礎的諸条件を造出するとともに、普通選挙権などの政治的自由、民主主義を活用してコミューン国家への換骨奪胎的な変革へと接近するという、社会革命路線の発展的具体化を追求した。マルクスが構想したのは、暴力的粉砕戦略でも議会主義的戦略でもない戦略であった。

晩年のエンゲルスの「陣地」戦の探索とゆらぎ

 最晩年のエンゲルスの「マルクス『フランスにおける階級闘争』への序文」は、いわくつきの歴史的文書として、後世の論争の的となってきた。

 この”政治的遺書”に示されている革命論は、晩年のエンゲルスが追求してきた革命路線の到達点に位置する。まず、多数者革命路線の確立が前提されている。その多数者路線の具体化として、エンゲルスは、過酷な迫害のもとで成長をとげ、発展の道を切り開いているドイツ社会主義労働者党の経験を踏まえつつ、「陣地」戦を提唱する(1884年11月8日、カウツキー宛手紙)。そして、「陣地」戦から「塹壕がたえず押し寄せ続ける」「包囲戦」へ、更には「砲撃により突破口を開き突撃に移る」「突撃」戦へ、という革命の道筋を展望する(1887年3月19日、シュリーター宛手紙)。この戦略を「陣地」戦戦略と呼ぶことにしよう。

 「陣地」戦、「包囲」戦の最も華やかな展開は、ドイツ社会主義労働者党(やがて社会民主党)の議会選挙闘争での躍進につぐ躍進であった。エンゲルスは、一方で、楽観主義的にその飛躍的発展を称え、急速度に革命に近づいていると予想した。しかし、他方では、「半絶対主義的な」制度が存続しているドイツの政治的現状では、平和的な移行の道は幻想にすぎないことを強調した。一方における議会選挙闘争での相次ぐ躍進による革命のチャンスの急接近、他方における平和的な革命の不可能という、エンゲルスのドイツ革命についての見通しは、容易に解決できない矛盾を有していたし、その一面に偏し固執するならば、議会主義的な道か暴力的粉砕の道のいずれかに分解したり、双方の道のあいだで動揺し続けたりする危険にさらされていた。

 エンゲルスのドイツ革命に関する最晩年時の課題は、「陣地」戦 ─「包囲」戦での議会選挙を中心にした闘争の勝利を「突撃」戦へといかに移動させるか、そして「最後的な勝利を確保する強襲」をどのように遂行すべきかの探索であった。

 ”政治的遺書”では、従来明らかにしてきた「陣地」戦の革命路線を集成するとともに、「突撃」戦についても一応の解答を示すにいたる。「一度の打撃で勝利を獲得することは思いもよらず、厳しい、ねばり強い闘争によって一陣地より一陣地へと徐々に前進しなければならない」。最も目覚ましいのは議会選挙だが、他の様々な部署においても「陣地」戦は成果を収め、着実に陣地と塹壕を構築してきており、革命の勝利の域へと近づいている。他面、「バリケードによる市街戦は、はなはだしい時代おくれとなっていた」。かく認識しながらも、エンゲルスは言う。「では、将来においては、市街戦はもうなんの役も演じないというのか?断じてそうではない」。追い詰められた支配階級が合法性を自分でぶちこわし暴力を行使するのを機に、革命を最後的に勝利させる「公然たる攻撃」として、蜂起による市街戦がなお役割を演じることがあろう。

 革命の舞台に移るまでは、「陣地」戦 ─「包囲」戦の不断の発展強化により、多数派と決定的な勢力の形成に励む。そして「突撃」戦の決戦中の決戦の戦術として市街戦を位置づける。こうした革命のコースをエンゲルスは描いたのである。

 多数者革命の基本路線としての「陣地」戦戦略、その展開の行程としての「陣地」戦 ─「包囲」戦 ─「突撃」戦の設定は、マルクス、エンゲルスの革命論追求の到達であり、当を得ていよう。また、20世紀にあっても継承されるべき革命路線であっただろう。一つの核心問題である「突撃」戦の戦術をめぐって言えば、革命が勝利を画するには反撃から転じての決定的な攻勢がなければならないことは、そのとおりであるにちがいない。だが、ドイツでのその戦術として市街戦が果して適切であるのか、疑問であり、「陣地」戦戦略の補強とあわせて検討を重ねるべき論点である。

 以上のような要旨の報告をおこない、それにたいして倉田稔、松岡利通、伊藤成彦、保住敏彦の各会員から質問をいただいた。

(大藪 龍介)