『国家と民主主義』の「はしがき」
 1992年5月


 年来、マルクス主義国家論の革命を標榜してきた。要するに、後期エンゲルス以来の定説をのりこえたマルクス主義国家論の創造的建設の主張である。

 ここでは、1990年、「フォーラム90S」発足の際、その機関誌に投じた「国家論の革命へ」と題する一文を掲出したい。

 「スターリン主義的正統説に多少とも親しい人達には特に異議のあるところだろうが、すでに1970年代から、マルクス主義国家論研究は、西欧でも日本でも期せずして併進的に、根本的な転回を遂げてきた。スターリン主義国家論との対決から、レーニン国家論の再検討を介した後期エンゲルス国家論の批判への遡源、そして国家論を根底から創り直す試行の興起が、それである。

 後期エンゲルスの貢献として、第二インター、レーニン、スターリンの各時代をつうじて定説としての地位を公認されてきた国家論は、欠陥だらけだが、なかでも、資本主義の本拠地である欧米のブルジョア議会制民主主義国家の理論的解剖──これこそ、マルクス主義国家論研究の本来の中心的主題であり、資本主義の中枢諸国の革命的変革の展望の定立にも直通する──か、まったく貧寒で低水準である。また、マルクスもエンゲルスも民主主義について本格的に研究するにいたらず、レーニンのブルジョア民主主義批判は極めて一面的であり、プロレタリア民主主義論の展開も構造的歪みをもっていた。政治の領域に関しては、近代ブルジョア世界において歴史的に築きあげられた諸成果を内在的に超克する批判と摂取の過程を、マルクス主義は踏んでこなかったのである。既存のマルクス主義国家論をもってしては歴史を導くことはできないことは、もはや明らかであった。

 昨89年のソ連、東欧の激変は、スターリン主義の内部的類廃を白日のもとにさらしてそれを最後的に瓦解させただけではなく、マルクス主義の歴史的達成の限界と今日的な危機をも鮮烈に照らし出した。国家の消滅を自指しコミューン型労働者国家を立論したマルクス主義の創始者達、それを継いでロシアの地で悪戦苦悶したレーニンと、コミューン型国家を理論的にも実践的にも抹殺してエセ民主主義、一党独裁の官僚専制国家を「社会主義国家」として擬制したスターリン(主義者)との問には、勿論、断絶面がある。しかし、後期エンゲルス以来一世紀余りの永きに及んで、現実の国家が強大化の一途を辿るのとは対照的に、国家論の俗流化、卑小化を重ね、それを空想から科学への発展として自讃してきた怠慢と傲慢のツケを一挙的に支払わねばならない難境に追いこまれている面を、看過すべきではない。

 スターリン主義批判、トロツキー主義復権、レーニン主義の相対化の階梯を辿ってきたマルクス主義再興の志向は、エンゲルス主義ののりこえ、マルクス主義そのものの革命へと高進すべきときである。昨今の歴史的大事件に促進され、国家論新構築の探求も進捗し、後期エンゲルス国家論が世界的に共通の確認として批判的に回願される時代を、いずれ迎えるにちがいない。90年代は、国家の革命の前提たる国家論の革命へ向かって、開墾と種蒔の作業を着実に積みあげるべき期間であろう。わたし自身はマルクス主義の自己革命を追求するが、マルクス主義に与しない立場からのそれであれ、縦横無尽の問題提起、大胆な挑戦が待望されている」。

 国家論の革命を重要な環節とするマルクス主義の内部革命は、1991年8月、ソ連「社会主義」が遂に倒壊したことによって、ますます切実な要請となっている。

 本書は、社会主義への過渡期の国家、プロレタリアート独裁、および民主主義を論題として、マルクス主義の根本的一新の必要性と方向性を開明することを企てている。

 第一篇では、マルクスが国家論に関して遺した最高の業績といえるパリ・コミューン型国家論ののりこえを目指し、マルクスに欠落していた諸事項の補充に努め、またレーニンによる継承の問題点を摘示して、社会主義への過渡期の国家論の再構築を図っている。

 第二篇では、20世紀マルクス主義の鍵概念の一つをなしてきたプロレタリアート独裁をめぐって、マルクスによってそれが提唱された際の問題性格を把握し、レーニンによりマルクス主義者であるか否かの試金石としてその承認を迫られた所論の諸欠陥を放出する。更に、プロレタリアート独裁をどう位置づけるべきか、原点にかえって思考する。

 第三篇は、レーニンの民主主義論について討究する。民主主義なしに社会主義はありえないという根本的志向にもかかわらず、種々の事情のゆえに、民主主義は現にどういうものであり、これからどうあるべきかの究明に、レーニンは失敗した。そのブルジョア民主主義論やプロレタリア民主主義論に内在している偏向や誤謬を明らかにし、それとともに、あらためて民主主義の見地からロシア革命を捉え直す。

 他に、マルクス、エンゲルスの国家論上の達成の多大なる限界について述べた旧編を、補論として加えた。

 全篇をつうじて、レーニン理論の再審に多くの頁を割いている。今では、れっきとしたスターリン主義者を含め、誰でもが、スターリン主義に批判的態度をとってきたかのように過去を繕う。スターリン主義責任のすりぬけを許してはならない。だが、同時に、スターリン主義を弾劾して出発した新左翼も、日本にあってはレーニン主義に囚われつづけ、そのことによってスターリン主義も超克できないまま破産を遂げた。レーニン主義についての批判的総括は、新左翼として目指したマルクス主義の新生を達成しえずにきた者達に課せられている歴史的責務であろう。わたしの前著『現代の国家論』でのレーニン国家論にたいする批判も、一定の限界を有していた。本書におけるレーニンのパリ・コミューン型国家論、プロレタリアート独裁論、民主主義論の検討にあたっては、この点での自己反省をこめている。

 レーニン主義への厳しい論判はスターリン主義の免罪にいささかでもつながるものではない。レーニン主義でさえこうであったのだから、それを更に歪曲し変質させるにいたったスターリン主義の社会主義的性格など論外だということを示唆するにすぎない。実際、スターリンが社会主義の完全な勝利を託宣したソ連の社会=国家体制は、現在、あまりにも惨憺たる、社会主義など問題にもなりえようがない真相をさらけだしながら、驚くほどあっけなく崩壊し、再資本主義化への道を辿っているのだ。

 レーニン主義は勿論、エンゲルス主義をもこえてマルクス主義の新紀元を開くには、マルクスによるマルクス主義の形成に匹敵する一連の思想的、理論的創造の苦節がなければなるまい。そして、そのための真摯な研鑽は、幾世代かを経て、よしんばマルクス主義でなかろうとも、あらゆる面で深刻化する矛盾を抱えこみ行き詰まりの諸相を呈している現代世界からの解放を求めて必ず生起してくるにちがいない新しい変革の理論へと受け継がれていくだろう。そのことを念じながらマルクス主義にあくまでこだわり、かの「内部で掘りつづけるもぐら」になりたいと思う。

 本番に収めた諸論稿は、補論を別として、1989年初頭から1991年末にかけて執筆した。ソ連解体の昨年8月革命の時点までには、素稿のままであった一部分を除いて、すでに発表済みであった。一書にまとめるにあたり、章別編成をあらため、一部加筆した。

 最後になったが、今日の時流にあわない、いかにも堅苦しい研究書の公刊を引き受けていただいた社会評論社、松田健二さんに心からお礼を申しあげる。

(大藪龍介)