「『国家とは何か 議会制民主主義国家本質論綱要』あとがき」


 振り返ると、理論的な研究を始めたのは、30歳を過ぎてからであった。研究者としてはいささか変わった道を歩んできたので、私の理論研究の動機や経過を顧みて明らかにし、本書について理解していただく一助としたい。
 戦中・戦後の貧しい農村で中小農家に生まれ育った私は、日本が敗戦後の復興を経て高度経済成長を重ねる一方、反戦平和運動や労働組合運動が高揚した1950年代末から1960年代にかけて、学生・青年時代を送った。そして、その後の人生の原点を形成した。
 1957年に出身地福岡の九州大学に入学、学生自治会の再建を担い、反戦平和運動に加わり、初めてマルクス主義に接し、人間解放の根本思想に魅力を感じ共鳴して、活動家になった。社会正義を求め社会変革への理想をもって学生運動に熱中し、60年安保闘争では空前の高揚を示した大衆的学生運動の最前線で闘った。
 折しも、入学前年におけるスターリン批判、東欧諸国での反乱の勃発の衝撃を受けて、日本でもニューレフトの思想・運動が勃興する時期であった。その影響を受けて、私は思想形成した。既存の共産党、社会党への批判にとどまらず、当時左翼陣営の拠り所であったソ連「社会主義」は、社会主義にあらずして過渡期社会=国家の官僚主義疎外形態にほかならない、とする批判に立って、それらとはまったく別の社会主義、マルクス主義を創出すべきだとする思想であった。
 大学卒業後は、新左翼党派の一つに属して革命的労働者党創設の活動に従事した。福岡では、20歳過ぎの若者たちによるスタートであり、孤立無援で苦難に満ちていたが、無給の常任的活動家として懸命に取り組んだ。だが、8年ほどで、破綻をきたし、実践運動から退いた。
 進むべき道を探し求めて悩み続けたが、九州大学大学院に戻り、ともかく理論勉強にうちこむことにした。
 大学院では、(親)スターリン主義に立脚した教授たちへの思想的批判を学生時代から強くもっていたので、講座制からはみだして、独立独歩で過ごした。
 ただ、戦中に満鉄調査部にあって日独伊三国同盟を批判し獄中生活を送られた経歴のある具島兼三郎教授は、学生運動に明け暮れていた私が安保闘争で逮捕された際を含めて、何くれと配慮いただいたし、大学院に戻る際は政治学の専攻領域が違っていたが受け入れ教官になって下さった。その後すぐに定年退官されたが、とても懐が深く、オールドレフトとニューレフトの思想的ずれがあっても大変寛容に接していただいた。
 大学院に籍を置いたものの、大学教員になろうと決めたのではなかった。マルクス主義理論研究の場として、本来的に、大学はふさわしくない。九大の経済学部や法学部政治学科は、社会主義協会(系)を中心に共産党系を加えて、当時華やかであったマルクス主義研究の全国の拠点の一つであった。だが、それらの教員達のソ連「社会主義」を讃え俗流マルクス主義理論と労働組合などでの講演といった活動スタイルは、学問的研究はおろそかで実践も表層的であって、そういう大学教員になりたくないし、なってはならない。それに、同年代の全学連のリーダーを務めて大学教員になった人達のその後を見ると、大学内部のエスタブリッシュメントを突破し新たな理論研究を開拓することは、並大抵のことではできないようだ。このような思いが交錯し、内面の葛藤があった。
 丁度大学闘争の最中で、大学院でも闘争は高揚していた。けれども、全共闘の院生達も、講座制解体をとると総論賛成だが各論反対的なところがあったし、学問研究上の批判・乗り越えの構えは稀薄であった。
 私は、東大闘争において少数だが上昇を拒否ししっかりした研究に励む人達への共感も加わり、大学院を終えてからも、浪人生活を続けた。大学の同期生で学生運動に加わっていた連れ合いが働いて暮らしを支えてくれたので、何とか生活できた。当然、主夫業もかなり果たした。
 進路の模索のなかで、理論勉強を進めるにつれ、既成マルクス主義に代わる新しいマルクス主義を興そうという、20歳代の実践運動で培った確信的な問題意識を、理論研究場面に移して追求しよう、との気持ちが固まっていった。浮かび上がってきたのは、マルクス主義国家論の定説とされているエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』の当該部は方法的にも内容的にも根本的な難点が多い、これを批判して乗り越える国家論を創造するべきだ、というテーマであった。
 こうして、日本を含め世界で永らくマルクス主義国家論の定説として処遇されてきたエンゲルス国家論の超克を目指す、これが、理論研究の道に進む出立点となった。
 まずは、マルクス、エンゲルスの国家に関する諸著論を追思惟してその達成成果、限界、難点を見極める作業に取り組み、1978年に『マルクス、エンゲルスの国家論』として公刊した。この書について、杉原四郎、細谷昂、少し後年に西川長夫、大谷瑞郎、青木孝平といった方達がそれぞれの著論のなかで触れられ、私にとって大きな励みとなり次の研究への意欲となった。
 続いて、エンゲルス国家論批判を踏まえつつ、経済学での『資本論』に相当する近代国家本質論の創造への第一次挑戦として、1983年に『近代国家の起源と構造』を出版した。この書に関する批評としては、鷲田小弥太氏、鎌倉孝夫氏による評価が有難かった。
 しかし、浪人生活の頑張りは、限界にきていた。金欠病で本は買えず、研究書を手にするには苦労をかさねなければならなった。家庭では、子供たち3人が大きくなっていたし、父親が早々と戦死した後に一人っ子の私を苦労しながら育ててくれた母親のこともあり、私は貧窮に耐えてゆけそうになかった。
 そこで、『マルクス、エンゲルスの国家論』をまとめたのを機に、初めて大学教員の公募に応募した。が、不採用であり、以降、幾つもの大学の教員公募に書類を出したが、ことごとく駄目であった。
 幸いにも、1984年に富山大学教養部に採用された。すでに45歳になっていた。
 長い浪人生活を抜けると、そこは楽園であった。まず、生活の不安がない。研究・教育に専念できる。必要な書籍は公費で購入できるし、全国の大学の紀要も揃っている。補助作業をしてくれる(臨時)職員の人さえいる。但し、順調に研究者養成課程を経て大学教員になった人達には当たり前のことかもしれない。
 私は、恵まれた勤務条件を活用して、なによりも研究に力を注ぐことにした。以降、富山大学の教養部から経済学部に移り、更に福岡教育大学に転じて、大学教員として18年間を過ごした。
 その過程では、学生運動時代の初心をつらぬくことが果してできているのかの自省、注視し続けていた新左翼諸党派の運動が、一時期はかなりの勢力を築いたものの、旧来のマルクス主義党派の諸過誤を(拡大)再生産しつつ破綻するにいたったことへの深い思い、ニューレフトの思想を学問レヴェルで具体化し追求している大学研究者は全国でもまったく稀であり、貴重なチャンスを得た自分は頑張りぬかねばとの一種の責務感、こうしたものに駆り立てられて、才能の乏しさを実感しながら、一つ一つ理論的課題を設定し究明する思索を重ねることを図った。
 大学教員としては、特権に胡坐をかくことを絶対にしないように、安楽な方向に流れることがないように、自らを戒め律することに努めた。教育面では、講義は学生へのサーヴィスであり、政治学の教員は1人だけ一1時期のみ2人―だから、広く政治学の全領域から学生に興味や関心のありそうな、例えばナチズム、現代資本主義国家などを題目として設定した。マルクス主義関係をテーマにすることは、まったくなかった。従って、自らの理論的研究と学生への講義・そのために欠かせない研究とを完全分離せざるをえず、これは大きな悩みであった。また、大学(学部)内部での機構の改革や学生の勉学環境の改善など、できるかぎりの民主化に力を注いだ。
 さて、1989−91年に、ソ連、東欧の「社会主義」体制が崩壊した。1917年のロシア革命に劣らない歴史的大事件に遭遇して、私の研究も反省を迫られ心機一転を促された。
 ソ連が自壊の様相を呈し体制内部の頽廃が白日のもとにさらけだされてくる過程で、それまでのスターリン主義やソ連体制にたいする批判の限界を自覚し、ロシア革命について一面的に美化した認識に陥っていたことなどを反省せざるをえなかった。
 1991年頃からは、マルクス主義の内部革命を唱え、マルクス主義理論のパラダイム転換を目指した。
 資本主義体制は、今後なお、したたかな生命力を保って、新たな発展的変化を繰り返してゆくだろう。だが、金銭万能主義の蔓延、道義的退廃、貧富の巨大な格差、労働者大衆の失業や生活苦、政治的抑圧、性差別や民族的、人種的差別、南北格差の構造化、場合によっては戦争、更に地球の生態系の破壊、等などを繰り返すことも避けられない。それらのひずみや弊害は、解放と変革への志向と闘いを生みださずにはおかない。近・現代の諸々の支配=隷属諸関係を超える世界を造りだすことは、疑いなく人々の大いなる希望であり続けよう。
 人間解放の新たなる段階の世界に達する時代には、幾世紀をも要するとしても必ず到来するにちがいない。その来るべき新時代へ向う変革運動の理論的源泉の一つとして受け継がれるように、マルクス主義理論は内部革命されパラダイム転換されなければならない。そして、そのために、ソヴェト・マルクス主義を筆頭とした20世紀マルクス主義の歴史的破産を反省的に切開し、その限界や難点、過誤を明確にすることは、この時代に生きたマルクス主義の実践的運動家や理論的研究者が果すべき重責であるだろう。
 この課題に取り組んで、私は90年代の諸論著において、レーニンの民主主義論やプロレタリアート独裁論の根本的な欠陥を抉出し、マルクス、エンゲルスの社会主義論について従来の通説の誤りを摘示し見失われてきた環の再定立を進めた。他方では、新たなマルクス主義理研究へ、旧来の党派や学派を超える形で、全国の第一線で活躍するマルクス主義理論研究者達に交流と協同を呼びかけ、共編著として、大部の『エンゲルスと現代』や『マルクス・カテゴリー事典』などを刊行することができた。21世紀に入ってからは、日本の明治維新・明治国家研究についても新たな論を提出した。
 そして、今回、研究歴40年、近代国家本質論研究の第一次作業後30年にして、国家論研究に関して現在的な到達点を示す一書を世に問うことにした。
 マルクス主義の政治学・国家論は、経済学とは違って、創始者達以来、理論的な弱点をなしてきた分野である。国家論を専攻テーマとしたことで、マルクスの限界、エンゲルスやレーニンの偏向、ソ連「社会主義」国家の虚妄性、それらを粉飾する研究者達の欺瞞性、等々を看破することができた。しかし、そうした「発見」も、創造がなければ無きに等しい。なのに、今なお国家論の創造にはなお遼遠な地点を、とぼとぼ歩いている状況である。
 マルクス主義的左翼がロシア革命とソ連「社会主義」に依りかかって驕り高ぶっていた時代から、破産が顕わとなり、マルクス主義からの離反が潮流と化す時代へ、歴史的現実は劇的に変転した。この半世紀間の世界と日本のドラスチックな変動のただなかにおかれて、愚直に、批判的精神は一貫して堅持し、既存マルクス主義を批判し、新生の道を探求して、自らの非力を痛感しつつ、試行錯誤的に苦闘してきたことになる。
 欧米では、ソヴェト・マルクス主義とは異色の西欧マルクス主義の流れが存在するし、1930年代にはスターリン主義に対抗するトロツキー主義が一定の勢力をかたちづくった。だが、日本では、1920年代末以来スタ−リン主義の全一的支配が続き、やっと1950年代末に風穴があいた。日本のニューレフトは、あまりに後れて登場した。そのうえ、スターリン主義を弾劾してもレーニン主義は継承する立場であった。つまり、ソヴェト・マルクス主義の大枠の内にあり、世界史的視野のなかに位置づけると、最後のオールドレフトともいえる存在であった。そうした歴史的性格を、ニューレフトの矜持をもって取り組んできた私の理論的研究も帯びているに違いない。
 しかも、真のマルクスの発見によって新時代が拓かれるような地点を、歴史はすでに通り越しているだろう。マルクスの思想・理論も、あらゆる面から吟味し、『資本論』に代表される理論的業績を継承するとともに、脱構築をも交えて、内在的に超え出てゆく追求が求められる。そういう事柄を含めて、マルクス主義理論のパラダイム転換を目指している。
 本書の本論「議会制民主主義国家本質論綱要」には、国家論においてマルクス主義理論のパラダイム転換を実現する意味を込めている。
 そのことは、付論の4本の論文についても同じである。それぞれの論題に関して、従前の通説ないし有力説を斥けて、理論的な意義とともに限界、問題点を適示するとともに、新たな論点の開示に努めている。
 年来、インスタント・サクセスは眼中になく、論文執筆の意味があるかどうかは少なくとも10年経たなければわからない、これを持論としてきた。エンゲルス国家論批判を打ちだした時、21世紀の半ば頃には意義を認めてもらえるだろうなどと放言していたが、その時は思いがけず早く訪れたように思う。
 政治学関係の諸学会とは無縁なままであったし、独立独歩のささやかな異端的存在に終始したが、本書をはじめとする理論的研究を幾分でも受けとめてもらえることがあれば幸いである。