「近代国家−その成立と構造」
 『Tradepia』日商岩井株式会社 1998年10月号


資本主義経済の興起とブルジョア階級の台頭

 17世紀から18世紀にかけてのイギリス、アメリカ合衆国、フランスでの近代国家の出現は、その契機であったピューリタン革命、 独立革命、大革命とあわせて、世界史の新たな時代への進展を画然たる事実たらしめた。近代国家の成立を促したのは、 なににもまして資本主義経済の興起であり、ブルジョア階級の台頭であった。

 封建制から資本主義への移行過程で、衰退する封建制の再編成として、領主権力を全国的に統一した絶対王政が登場した。 絶対王政は、行政組織と常備軍を従えた中央集権的権力として機構的には近代的であったが、国王の臣民に対する統治機構であって 原理的にはなお前近代的であった。資本主義経済とブルジョア階級のさらなる興隆につれ、絶対王政は危機を深め、 王権神授説を唱えて政教合体の専制政治を断行するにいたって、ブルジョア革命あるいは市民革命が必然的であった。 経済的、社会的構造変動に対応する絶対王政の換骨奪胎的な革命によって現出した近代国家は、経済的基礎との 関連では資本主義国家、社会階級的主柱とのつながりではブルジョア国家と規定される。

 近代国家は、それ以前における経済、社会と政治、国家の未分化的合体の解体にともない、経済や社会から分離して、 それ自身の固有な原理や構造、機能を有して存立する。資本主義の仕組みでは、有産者と無産者、もしくは資本家、 土地所有者と賃労働者といった階級分裂が現存するし、無産者大衆は自らと家族の生計を維持するには、 労働力を資本家に販売して彼の指揮命令どおりに働くことを強制される。そこでは、不平等と不自由、支配=服従関係が明瞭である。 これに対して、国家は各人の自由と平等を根本原理として設立される。そして、経済に制約されながらも独立自存し、 反転して経済の安定、発展にも所定の役割を果たす。

正統な存在理由は天賦人権、民賦国権

 人間の自由、平等の原理に立つ近代国家は、前近代国家とは異なり、経済的に支配される階級をも成員として包摂する 国民国家として編成される。とはいえ、国家が存立していくには、国家権力を担掌して統治に従事する職業的な 政治家の結社としての政党が、さらにまた官僚や軍人の一群が不可欠であり、これらのプロフェッショナルな 政治的エリートの集団と日々労働に追われて時遇の選挙に加わるだけの国民大衆とのあいだに、政治的な支配=服従関係 が固有に造出される。なお、人間の自由、平等と上述したが、その人間とは男性のみで女性を除外していた点について、 今日的には注記が必要であろう。

 また、近代国家は、宗教とも合体しその力を活用していた前近代国家とは違って政教分離を原則とするから、 独自の政治的規範=憲法によって正統性を備え、国民の支持の確保にあたらなければならない。それぞれの ブルジョア革命で華麗な権利章典や人権宣言が謳われ、それに導かれて新国家が構築されていったように、 各人の自由、権利──その真髄をなすのは私的所有権である──を目的価値とし、それを保全する手段的機構治として 位置づけられることで、近代国家は正統なる存在理由を与えられる。つまり、天賦人権、民賦国権を本義とする。 ただし、国家が存続を重ねるなかでは、目的と手段の転倒が起き、官僚主義や軍国主義が発生することが避けられない。

近代国家が果たすべき独自の任務とは

 近代国家は、機能的には立法・執行・司法の、機構的には議会・政府・裁判所の権力分立のシステムをとり、 それらの中央集権的統一によって、その歴史的出現時にリヴァイアサンなる不死身の怪獣に喩えられたごとく、 これに匹敵するものなき巨大な権力を保有する。その国家権力は、通常は、制定された法に則って発動され、 張りめぐらされた行政機構をつうじ、国家や法が有するイデオロギー的強制力たる権威によって説得的に服従をかちえる。 しかし、政治的権威の効力には限界があるので、統治をつらぬくには、警察、軍隊の軍事機構によって 有無を言わせず命令に服させる物理的強制力たる国家暴力がなければならない。国内での叛乱、暴動や外国との 戦争といった非常事態に際して赤裸々に現出するが、支配にとっては国家暴力、武力が最後の切り札である。

 こうした近代国家が果たさなければならない独自の任務は、最小限、A・スミスが説いたように、3つに大別されよう。 第1は、社会全体の便益である公共事業や公共施設──公道、橋、鉄道、郵便、公教育施設など──の設営、 第2に、私有財産とその所有者の保護、そして第3として、外敵に対する防衛である。近代国家は、一見相反的なこれらの 任務を、公共的機能や階級的=抑圧的機能として遂行する。

 古来、国家は双面神ヤヌスに擬せられてきた。国家とは何ぞやについて一義的な解答をくだすのは、至難である。 しかも、国家の相貌は近代においてますます多面的になった。近代国家は、その一面をなす国民性や公共性に止目すれば、 17世紀のブルジョア革命期に Common wealth と呼称されたように、古代のポリスやキヴィタスの復位としての共同体 として観念される。反対に、他の面をなす階級性や抑圧性を重視すれば、近世初頭にマキアヴェリが従前の伝統を 打破して創唱したスタトを承け、資本主義経済の本格的発展の時代を迎えた18世紀後葉には一般化した語 state が 意味するように、統治機構として観念される。その頃、J・J・ルソーは富者の貧者に対する統治機構として既成国家を捉え、 その論は思想的立場をそれぞれ異にするスミスやK・マルクスにも受け継がれて有力な説となっていった。

 背反的な矛盾的性格を一身に体現しているのが国家の事柄の真相であるが、あえて定義を試みるなら、国家とは、 国民的共同性を備えて財産の守護にあたる統治体、とでも言うべきであろうか。

(大藪 龍介)