『明治国家論』の「まえがき」 |
2010年5月 |
明治維新は近・現代日本の歴史的起点であり、明治国家は近・現代日本国家の原構造をかたちづくった。 明治時代の日本は、「西力東漸」の近代世界史の波動に対応し、「万国対峙」や「富国強兵」「殖産興業」などを国是として、国家の主導で近代化革命に取り組み、新しい国づくりに邁進した。そして、アジアの諸国に先駆けて立憲国家を建設するとともに産業革命を遂行、日清戦争と日露戦争に勝利し、対外的独立を達成して、わずか半世紀の間に、欧米列強の圧迫にさらされた極東の小国から駆けあがって先進列強の驥尾に付すにいたった。 前著『明治維新の新考察』に続けて、波瀾に富んだ近・現代日本の歴史にあって生成と躍進の時代を統括した明治国家の全体像を光と影ともども描出し、その歴史的な位置と存在性格を明らかにするのが、本書の課題である。 まず第T篇で、明治国家の建設にあたって基準として参照されたイギリス、フランス、ドイツの初期ブルジョア国家を分析し考察して、議論の基礎になる近代初期の国家についての認識を確かなものにする。歴史学研究において近代日本との比較対象とされる近代ヨーロッパが理念的に美化されてきたことへの批判と反省がなされてから、すでに久しい。だが、明治維新・明治国家の考察に近代ヨーロッパ史の実証的な研究成果が取り入れられ生かされているとは、いまなお言えない。 イギリス名誉革命体制、フランス第1帝政および復古王政、ドイツ帝国ビスマルク時代のそれぞれの国家について、歴史的な経過を追い構造上の特質を訊ねて実像の掌握に努める。そして、@公的イデオロギーにおける主権の所在、A国家元首と政府首長の関係、 B国家権力機構の編成における中枢機関、C統治を担う主勢力、という4つの論点を設定して相互比較する。 そうした比較政治史的研究により、イギリスの名誉革命体制を議会主義的君主政、フランスの第1帝政をボナパルティズムと規定する。そのボナパルティズムについては、これまで罷り通ってきたエンゲルス以来の通説を批判して退け、ボナパルティズムの原型である第1帝政の実体に即して、「カリスマ的指導者による、軍事的、官僚的国民国家を構築し、資本主義社会の発展を上から推進する、国民投票的支持に立脚した独裁的統治」と再定義する。フランス復古王政については、これを君主主義的立憲政と規定する。また、ドイツのビスマルク帝国について、ボナパルティズム国家とする通説的見解を吟味し、ボナパルティズムしての諸特徴を備えているとは捉え難いことを明らかにする。そのうえで、実体を表す新たな概念の開発を試み、「立憲政府政」と規定する。 第U篇においては、明治国家に関する先行理論を検証する。かつて圧倒的に支配的であった講座派(系)の天皇制絶対主義論について、1970年代における最後的な展開形態を取り上げ、その根本的な諸過誤を批判する。研究史を振り返ると、講座派とその系統の天皇制絶対主義論は、およそ1930〜70年代、日本のマルクス主義的左翼がスターリン主義に囚われていた時代の所産物として捉え返すことができる。 少数異論として存在したボナパルティズム説についても取り上げ、その不適切さを明らかにする。 本論である第V篇で、明治国家についての分析的考察をおこない、その歴史的、構造的に独自な特質の解明をおこなう。 最初の章では、三つの方法的視座を設定する。一つは、後進国として、国際的環境の圧力のもとで、一方で国内外の諸力を、他方では歴史の諸段階を、独特に合成する複合的発展の視座である。これにより、戦後歴史学を支配した一国主義的資本主義論、単系的・単型的発展史観を克服し、各国の近代化は特有の道を通って多系的・多型的に展開するという観点をとり、ヨーロッパモデルの移入とわが国の伝統の継承をいかに有機的に統一するかのディレンマにつらぬかれながら築かれていく日本的近代の個性的特質に迫ろうとする。 また一つは、西欧的な自由主義の原則が歪められ矮小化されて国家主義が支配的となった近代日本の歴史的現実に客観的に起因するとともに、天皇制絶対主義対自由民権のブルジョア民主主義革命運動という講座派マルクス主義の問題構制が定説化され普及してきたことで、近代初期の政治・国家の把握に不可欠の鍵概念である(政治的)自由主義が、これまでの研究では見失われてきた。そこで、自由主義を然るべく復位させて、自由主義(化)と民主主義(化)の区別・関連を明確にする。 更に一つ、多様な見地から「明治憲法体制」の語が汎用されているように、明治憲法を切り口にした明治国家へのアプローチが広くおこなわれている。だが、憲法中心的アプローチでは、憲法規範(建前)に引き付けられてしまって、それとは多かれ少なかれ乖離して展開する実際政治(実態)を把握するうえでの限界と欠陥を免れない。これを克服して明治国家の全体像を掌握するべく、政治(体制)と国家(体制)と憲法(体制)をそれぞれに固有に存立しながら連接し交叉するものとして位置づける。そして、それらの重層的に連関した総体を、広角的で多角的なアプローチを採り、結節環である国家(体制)を中軸にして分析する。 続く三つの章において、明治国家が近代初期段階の立憲国家、国民国家、君主制国家としての性格をどのように備えているか、その内的構造と位相を考察して、日本型の初期ブルジョア国家の固有性の解明に努める。 「立憲国家の建設」、「国民国家の造型」、「天皇制国家の相貌」の各章の論旨については本文での記述にゆだねるが、とりわけ枢要な論題である帝国憲法(明治憲法)、明治天皇制、国民国家に関して、本書で強調せんとする論点の幾つかを示しておきたい。 1889(明治22)年に制定・公布された帝国憲法は、最大の特徴として、天皇に圧倒的に強大な権力を集中するとともに、憲法の条規によりこれを行使することを定めた。これは、君主が絶大な権力を掌握するがその権力の行使にあたっては憲法に従うという、フランス復古王政憲章、それを継受したプロイセン憲法やドイツ帝国憲法の系流に連なって、君主主義的立憲主義を基本的性格とするものであった。 帝国憲法で主権は天皇にあるとされており、これを根拠として天皇制を絶対主義とする有力な主張が存在してきた。しかしながら、フランス復古王政において君主主権が甦えらせられたのであったが、その主権概念は、ブルジョア革命を経過した近代国家の生成発展の時代にあって、絶対君主制の時代の絶対性や不分割性の属性を失い、権力分立した国家機構にあって最高の地位を表すものへと、近代的に転回し変容していた。天皇主権もまた、立憲主義および国家権力の分立と連接していて、近代的意味合いを担っていた。 対照的に、内閣について機関自体としての規定はなく政府についても僅かに言及しているにすぎないのも、帝国憲法の重要な特徴であった。 帝国憲法制定過程から捉え返すと、1885(明治18)年の内閣制の創設とともに、宮中(天皇・皇室)と府中(政府)が分離されて、内閣=政府が国家権力機構の中枢にあって統治を主導するとともに、天皇は統治の現場から離れるという、天皇と内閣=政府の関係が再確定されていた。そうした既定事実を踏まえつつ憲法制定を推し進めた藩閥政治家・官僚は、憲法上至高の天皇に絶大な権力を集中しておいて、実際政治においては内閣=政府が天皇の名において実権を揮う国家体制の恒常化を目論んだのであった。 帝国憲法における天皇の超越的な地位と強大な大権の顕示と反面での内閣=政府の瑣末な扱いに、憲法のイデオロギー的性格の一半を看取するとともに、「君主主義」の憲法を定めて、「議会主義」を封殺し、内閣=政府の主導をつらぬく国家体制の構築を見透かすことができる。 天皇制に関しては、維新革命のなかで、大久保利通は天皇のありかたについて、「国内同心合体一天ノ主」となるべしと提言し(「大坂遷都の建白書」)、伊藤博文は帝国憲法草案審議の場で、日本では仏教も神道も欧米でキリスト教が果たしているような人心を帰向させる力がない、「我が国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と明言した(『枢密院会議議事録』)。民間では福沢諭吉が、天皇・皇室を現実政治の局外において「民心収攬」の中心に据えることを唱えた(『帝室論』)。 新国家の旗印として擁立された天皇に何よりも求められたのは、新たな国づくりに不可欠の国民的統合のシンボルたることであった。そのために、維新政府は、全国各地への度々の天皇巡幸、帝国憲法の発布式など、数々の荘厳な公式儀礼を挙行したり、紀元節や天長節などを国民挙げて参加すべき祝祭日に定めて国家祭祀として実施したり、また神道の布教を推進したり、民衆の信仰を集めていた伊勢神宮を天皇家の祖神を祀る神社とするとともに歴代の天皇を祭神とする神社を創建したり、様々な方途で「万世一系」の歴史的伝統を誇る神聖なる天皇のイメージを国民へ浸透させ、超越的な存在としての天皇への崇敬心を涵養することを図った。 帝国憲法制定・帝国議会開設を前にしての国家権力の拡充再編のなかで、天皇制も制度として強化拡大されて定着し、明治国家の発展、興隆につれて、天皇への国民の讃仰も徐々に広がった。 宗教面では、帝国憲法で信教の自由が認められる一方、公認宗教制が採られ、国家祭祀としての神道を回路として天皇尊崇が促された。日本の特殊性として、欧米でのキリスト教のような人々の内面の求心力となる宗教が不在であったから、宗教の一種の代用品として天皇崇拝が受け入れられた。社会面でも、学校に下付された教育勅語、「御真影」を介して、天皇崇敬が浸透させられていった。政治面では、日清戦争をつうじて天皇の権威は飛躍的に高まった。特に連戦連勝の帝国陸海軍を率いる大元帥というイメージが新たに作られ、戦勝の熱狂のなかで国民のなかに根を張った。 このようにして、天皇と国民はかつてなく強く結びつき、天皇は崇敬の対象として仰ぎ見られるようになり、不動のナショナル・シンボルとして定着するにいたったのだった。 他面、天皇親政の名分や帝国憲法における天皇の絶大な地位と権力の宣明にもかかわらず、天皇の実際政治への関与は極めて限定的であった。官吏任免、軍の統帥などいずれの大権に関しても、天皇は、元老会議、内閣=政府、参謀本部とは別の、独自な政治的意思決定をせず、輔弼と協賛、上奏などにしたがって「親裁」し、調停や調整、裁定で実際政治に関与するにとどまった。天皇の関与は、元老を頂点とした藩閥政治家・官僚の統治を保全する体のものであった。 近代イギリス、フランス、ドイツの国家の最初の君主と比較すると、国家の元首であるのみならず内閣の長として行政・軍事を統率した国王ウィリアム3世、国家元首と政府首長を一身に体現しカリスマ的権力を揮った皇帝ナポレオン1世に、明治天皇が担った地位と役割はとても及ばなかった。随一の政治的実力者として統治した宰相ビスマルクとのコンビで憲法上最高権力を有する国家元首として君臨した皇帝ヴィルヘルム1世に、明治天皇は似通っていた。だが、老皇帝ヴィルヘルム1世よりも実際政治に容喙した。 続いて国民国家に関して、五個条の誓文において民衆をも包含する国民的一体性をもつ新国家の創設の方向が打ちだされ、明治初年における「四民平等」政策の実施、私的所有権の法認、義務教育制や徴兵制の発足などにより、国家の構成員として権利・義務を担う国民の創出も始まった。しかし、新政反対一揆が示すように、民衆は上からの国民化に抵抗した。 他方では、襲来した欧米列強の強圧によって開国し不平等条約締結を余儀なくされた後進国日本は、治外法権を認め関税自主権を失っており、国家としての独立性を欠いていた。 明治国家が名実ともに国民国家として確立するには、産業革命の経済的躍進と日清戦争の勝利の大変動を経た明治後半期を俟たなければならなかった。 1887(明治20)年前後からの産業革命の開始、進展によって、工業が興隆し、交通・通信・流通手段が発展して、全国を一体の圏とする国民経済が一段と発達し高度化した。また、1894〜95(明治27〜28)年の日清戦争における挙国一致の戦争遂行によって、国民の政治的結束・一体化はかつてなく強まった。民衆も日進戦争の遂行を担い戦勝を支えて、上から進められてきた国民形成へ下から呼応した。ほぼ時期を同じくして、法律、道徳、言語などでも、国民的な共通性が造出された。それに、幕末からのナショナリズムの律動の第3波として、日清戦争から日露戦争にかけ、民衆をも巻き込んだ天皇尊崇・好戦的愛国のナショナリズムが高揚した。 かような対内的な国民の統一、大衆の国民化の達成に加えて、日清戦争の前夜にイギリスとの間で条約改正交渉が成り、治外法権の撤廃、関税自主権の一部回復を実現したのを突破口にして、永年の宿願であった対外的な国家的独立も成就した。 こうして、「大日本帝国」の国名にふさわしい、日本中心のナショナリズムを土台とし天皇をシンボルとする、政府主導主義につらぬかれた、国民と臣民の二重構造を内包した国民国家が構築された。 終りの章では、明治国家は君主主義的立憲政か、それとも立憲政府政かについて比較政治史的に検討し、フランス復古王政よりもビスマルク帝国との共通性が多いことに基づいて、立憲政府政と規定する。そのうえで、立憲政府政としての明治国家の個性的特徴をビスマルク帝国と対比して明らかにする。 前著『明治維新の新考察』では、「政府が国家権力を手段として推進する保守的革命」と「上からのブルジョア革命」を規定し、その一つとして明治維新について論じた。明治国家を日本型初期ブルジョア国家としての立憲政府政とする論に立って前著の所論を省みると、上からのブルジョア革命――立憲政府政という一体的な連動性において、明治維新・明治国家を捉える事ができる。そこに、21世紀の現在まで近・現代日本の伝統的体質として受け継がれてきた、強固な国家主導・政府優越の原型が見出される。 本書は、多くの先学の研究の成果を学んで成っている。各章で個々に参照して注記した著論、また章末に掲示した参考文献をはじめとして、本書の執筆にあたって検討した先行の研究を供していただいた数多の方々に感謝する。 本書の執筆の直接の動機は、かつて日本のマルクス主義を代表して社会思想・社会科学に巨大な影響を与えてきた講座派(系)や労農派(系)の明治維新・明治国家論を超克する新たなる考察の提示にある。今日ではマルクス主義はすっかり地に墜ちているが、日本の左翼陣営がこぞって礼讃していたソ連「社会主義」の虚妄性を看破し「正統」マルクス主義を告発したニューレフトの第1年代として、私自身は思想形成した。そして、理論研究の道に進んでからは、国家論や革命論、社会主義論を再考し新編成することを追求し、近年はマルクス主義理論のパラダイム転換を標榜してきた。前著とともに本著は、ニューマルクス主義の立場からする明治維新・明治国家についての、あまりにも遅れてやってきた研究である。 幾つかの新しい問題提起はおこなえたかと思うが、専門外のテーマに、近代日本史の専門的な学会、研究会、研究者との交流なしに、相変わらず独立独歩で取り組んだので、気付かないままに犯している過誤が多いことを懼れる。特に専門的研究者の方たちから忌憚ない批判を頂ければ、幸いである。 最後になったけれども、今回も、本書の元になった論文のほとんどを掲載していただいた『季報唯物論研究』の田畑稔さんなど関係者の方々、出版を快く引き受けていただいた社会評論社松田健二さんに、心から御礼を申し上げる。 2010年5月8日 大薮龍介 |