「トロツキー永続革命論の再検討」
 社会主義理論学会(第36回)研究会報告 2002年10月5日 文京区民センターにて


 この期間マルクス主義理論のパラダイム転換の作業に取り組んできたのですが、このたび革命論を対象にして、『マルクス派の革命論・再読』を公刊しました。第一部のマルクス、エンゲルスの革命論再考のなかの後期マルクスの社会革命論や晩年のエンゲルスの陣地戦革命論も重要な論項ですが、ここでは、時間が限られているので、第二部の第4章として収めているトロツキーの永続革命論の再検討に論題を絞ることにします。
 公刊後すでに半年経っていますので、本日の出席者の方には一応目を通してもらっているものとして、報告は簡単にとどめ、その後の討論に時間をかけるようにしたいと思います。
 最初にトロツキーの永続革命論の特色に関して、当代のロシアでのプレハーノフの非連続二段階革命論、またレーニンの労農民主独裁論との相違などに触れなければなりませんが、これについても割愛せざるをえません。
 この論文の狙いは、従来20世紀後進国(直接にはロシア)における革命論の傑作として高い評価を与えられてきたトロツキー永続革命論への新たな切り込みです。トロツキー永続革命論のこれまで不問に付されてきた諸難点の抉出こそが、眼目です。そこで、それらの難点を、当該章の二節から六節までに対応するのですが、以下、明らかにしていきます。

 (1)プロレタリアート独裁への決定的依存   
  ―永続革命論の第一の側面、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への直接的発展に関して−

 プロレタリアート独裁は、永続革命を永続革命として可能ならしめる決定的ポイントです。「プロレタリアート独裁なくしては民主主義的諸課題さえ解決されえないであろう」(『永続革命論』)。ブルジョア民主主義的諸課題の解決を任務としてはじまった革命が、社会主義革命へと連続的に成長転化するのは、ただプロレタリアート独裁の樹立によってのみです。
 だが、永続革命論の核心を衝く問題を投げかけなければなりません。民主主義的な道を経ることなく樹立されたプロ独は、はたしてブルジョア民主主義的諸課題を解決しうるか、そしてまたブルジョア民主主義をこえる民主主義的な体制へ進みうるのか。
 まず、ロシアにおいて歴史的に未達成のブルジョア民主主義的課題を解決するためには、ソヴェト権力は、とびこえたブルジョア民主主義の空席を遡及的に満たさなければなりません。だが、そうした問題意識はレーニンにもトロツキーにも存在しませんでした。そのことを示す代表的な歴史的事例が、あの憲法制定議会の強制解散です。また、これもよく取り上げられるのですが、10月革命に際してのカデットなど反対党派の出版の自由の強権的抑圧です。権力を奪取するや、レーニン、トロツキーのソヴェト政権はブルジョア民主主義的課題を抹消したのでした。
 これは、プロ独はブルジョアジーに対しては独裁であってもプロレタリアートにとっては民主主義であって、このプロ独=プロレタリア民主主義こそはブルジョア民主主義よりもはるかに民主主義だという、レーニン、ボリシェヴィキの理論によっています。こうしたプロ独=プロレタリア民主主義論が、近・現代民主主義についての曲解に立つ誤りであり、ブルジョア民主主義よりもかえって後退であることは、拙著『国家と民主主義』などで明らかにしてきました。トロツキーは、レーニンにもましてプロ独を強調する一方、民主主義の理解ではレーニンに付き従っています。
 次に、そもそも、プロ独によって民主主義的な体制を築くことができるのかという問題です。これについては、拙著『マルクス社会主義像の転換』のなかでマルクス・バクーニン論争をめぐって扱っているのですが、結論的に言うと、独裁によって政治的な自由、民主主義を建設することはできないのです。 
 かくして、トロツキーが論定する永続革命は、権力の奪取とともに、プロ独によって民主主義を達成しなければならないというアポリアを抱え込み、独裁と民主主義に関する過誤のゆえに、課せられている民主主義的諸課題をはたすことができないのです。のみならず、独裁の永続化による専制へと転結する危険性さえ有しています。 

 (2)国家主導主義的過渡期建設 
   ―永続革命の第二の側面、「社会主義革命の永続性」(同上)に関して−

 トロツキーが唱える永続革命は、プロ独の樹立とともに、生産手段の全般的な国家的所有化、そして国家経営、国家計画という国家集権、国家主導の経済建設に一体的に連動します。永続革命の道程としての社会主義への過渡的な経済建設は、全面的な国家主導主義につらぬかれます。
 国家主導主義的過渡期建設路線は、トロツキーに終始一貫したものですが、戦時共産主義の年代にあっては、「社会主義への道は、国家の最大限の強化の時期を通る」(『テロリズムと共産主義』)と尖鋭に主張しています。10年程のちのスターリンの「国家の死滅のための国家の最大限の強化」説と共通するところがあります。
 こうした国家主義的偏倚形態を過渡期建設の当初段階での本来形態と錯認していることでは、レーニンもトロツキーも同じです。生産手段の全般的な国家的所有化、国家経営、国家計画の国家集権・国家主導主義的経済建設が過渡期の当初の本来の路線だとすれば、後進国ロシアの特殊な永続革命は、革命による国家権力の奪取後は世界的に普遍的な過渡期建設に収斂することになります。ここに、トロツキー自身の永続革命論についての確信に溢れた提唱、それにこれまで続いてきた永続革命論への高い評価の秘密があると言えます。しかし、それは考え違いに基づいているのです。
 国家が政治権力のみならず経済権力をも集中して−プロ独プラス国家的所有・国家経営・国家計画―かつてなく巨大化し、そして国家主導主義の経済建設をとるならば、主観的な意向とは別に客観的な事態として、やはり前記拙著などで再三説いているように、社会主義とは反対の国家主義への道を辿り進まざるを得なくなるのは必至です。

 (3)農民革命との衝突
   −永続革命におけるプロレタリア革命と農民革命の複合性に関して−

 レーニンの労農民主独裁論にたいし、トロツキーは「農民に依拠するプロレタリアート独裁」(「われわれの意見の相違」)を掲げ、「権力に就いたプロレタリアートは、農民の前に、彼らを解放すべき階級として立ち現われるだろう」(「総括と展望」)と展望しました。その基本的方策が、全般的な国家的所有化路線の重要な一環としての土地の国家的所有化であり、農業の集団化でした。ここでは、はたしてプロ独権力は土地の国家(的所有)化によって農民を解放できるか、これを問わなければなりません。
 今日では広く認められているように、1917−18年の農民的土地革命は、レーニン、ボリシェヴィキの「土地国有化(=国家化)」綱領に反して、エスエルの「土地社会化」綱領にしたがって達成されました。ボリシェヴィキは、レーニンがかつてストルイピン時代にその破産を宣告したエスエルの「土地社会化」綱領を採用して、労働者・兵士の革命と農民革命を結びつけ、左翼エスエルと連立して、10月革命を勝利に導くことができたのでした。
 ところが、その間の革命の進行の苛烈な情況についてここで立ち入ることはできませんが、1918年には食糧徴発問題でボリシェヴィキと左翼エスエルの対立が激化して決定的になります。そして、「土地の社会化」はボリシェヴィキ政権により「土地の国家化」へ取り替えられてしまうことになります。1918年1月の「勤労被搾取人民の権利宣言」は未だ「土地の社会化の実現によって、すべての土地を全人民の財産とし」と謳っていたのですが、1919年2月の全ロシア・ソヴェト中央執行委員会は「すべての土地は、単一に国家フォンドとみなされる」と変更、決定したのです。
 10月革命時に農民革命と提携し農民の支持を得るべく一時的に「土地社会化」綱領を借用したボリシェヴィキは、ボリシェヴィキ権力と農村共同体の対立の尖鋭化のなかで、1年後にはそれを捨て去り、「土地国家化」綱領に再転換してその路線を確定したのです。
 食糧徴発問題で、ボリシェヴィキは農民の生活への国家の強権的介入によって強制徴発を推進し、他方左翼エスエルは農民の抵抗を支持し農民の自律的運動に与するという、当時の両党の政策上の深刻な対立の基底には、「土地国家化」か「土地社会化」か、土地所有が帰属するのは国家かそれとも人民かの根本的相違が存在しているのです。
 この点では、土地の国家(的所有)化は、農民を解放するものではなく、農民的土地革命の国家主義的包絡、農民運動の国家集権主義的抑えこみを意味します。また、マルクスの土地所有思想(参照、拙著『マルクス社会主義像の転換』pp.46−51)とも異なっています。むしろ、左翼エスエルの方に思想的にも政策的にも正当性があったと思われます。
 ロシアで極めて大きな比重を占める土地=農業問題、農民問題は、甚だしい後進性を背負っており、その解決には長期にわたる取り組みを通じて変革を積み重ねていく漸進的な過程しかありえません。つまりプロレタリア革命と農民革命との複合、あるいは労農同盟は、永続革命と撞着をきたします。ロシアの土地=農業問題、農民問題の解決のためには、トロツキーが設定した永続革命とは別の枠組みが必要です。

 (4)西欧革命との離間
   −永続革命の第三の側面、国際革命の永続的過程に関してー

 後進国ロシアの革命は、西欧革命の導火線になりその撥ね返りとして西欧先進諸国革命の援助を得ることによってのみ、つまり全ヨーロッパ的革命の一環としてのみ、勝利を打ち固めその後の建設の道を進むことができるだろう。こうした見通しをトロツキーは、レーニンと同様、正当に一貫して堅持しました。
 死活問題である西欧革命との結びつきに関して、10月革命以降、レーニンとともにトロツキーは、コミンテルンを結成し西欧革命のチャンスをうかがいながら、西欧革命が起こるまでソヴェト・ロシアを世界革命の砦としていかに持ちこたえるかを追求します。
 ところが、(1)、(2)として挙げたプロレタリアート独裁、国家主導主義的経済を革命と建設の本道と確信して、ロシア革命とソヴェト体制をコミンテルンの世界革命運動のモデルに定めてしまい、世界的な普遍性と誤信した後進国ロシアの特異性を西欧先進諸国の革命運動に押し付けることになります。これにより西欧革命はかえって離反します。
 それにまた、ソヴェト・ロシアの、とりわけ政治的な民主主義の問題領域での否定的な諸様相が、西欧への革命にマイナスの反響を及ぼします。焦点になったドイツなどでの西欧革命の離反には、しかるべき当然の理由がありました。
 ロシア革命が西欧革命を呼び起こすだろうというのは、永続革命を唱えたトロツキーの信念でした。その際、トロツキーは、自らの構想にそって実現されたロシアでの革命が西欧への革命の波及に逆効果をもたらすことがあることを、まったく考慮にいれことができませんでした。一つの難点です。

 (5)「複合的発展の法則」による永続革命論の基礎づけの盲点

 ロシアは、後進国としての「歴史的立ちおくれの特権」により、「一連の中間的段階をとびこえ」て、先進諸国の達成を取り入れ、世界最新の諸要素と自国の旧来の諸要素を独特に結合する。トロツキーは、『ロシア革命史』において、かかるロシアの歴史的発展の特殊性を「複合的発展の法則」として定式化し、この法則を「ロシア革命の根本的な謎を解く鍵」と呼んでいます。
 この創造的な業績に関しても、踏み込んで考察をしてみます。
 歴史の複合的発展としてトロツキーが明らかにしているのは、すでにマルクスが論じていた経済の領域での工業化についてです。だが、経済の領域でも、農業についての複合的発展は困難です。また、工業化と政治の領域での民主化とでは違いがあります。工業化と比べて民主化での複合的発展は、格段に困難です。
 更に、資本主義化の場合と社会主義化の場合とでは違ってきます。近代にいたるまでのそれぞれの国の歴史的発展は一様で単系的ではなくて多様で多系的であって、資本主義化では大小の発展段階のとびこえや滞留が多々存在してきました。しかし、社会主義化は、資本主義時代に築きあげられる世界史的到達成果―簡単に言って高度工業化と高度民主化―に基づいて世界的規模でのみ可能になるという、普遍的な性格を有しています。
 社会主義社会への発展にあたっては、資本主義をとびこえることは、世界史的には無論、各国史的にもできないでしょう。つまり、社会主義への非資本主義的発展は不可能だと原則的に考えられます。
 こうして、後進国でのプロレタリア革命とその後の建設では、資本主義時代に達成されなかった諸課題をも重層的に解決しなければならないという、歴史的発展の複合性が明瞭な姿で現われます。資本主義的発展を十分に遂げないままに先進国に先駆けてプロレタリア革命を実現した後進国は、資本主義が世界史的に準備する、だが自国には欠けている高度工業化や高度民主化を、社会主義への過渡期建設において達成しなければならず、そのための特別の任務をはたさねばなりません。そうした特別の課題は、ソヴェト・ロシアでは、民主主義問題と農業問題で、鮮烈に現出したのです。
 「複合的発展の法則」により1917年の革命において飛躍あるいは急進したロシアは、同一の事情によってその後の建設においては漸進あるいは停滞を余儀なくされます。ソヴェト・ロシアでの社会主義への過渡期建設は、多大なる困難に満ちていて、漸進的に、徐々におこなわれざるをえません。そうであれば、「複合的発展の法則」は、永続革命論を基礎づける反面、永続革命論の見直しをも要請します。
 以上で報告を終わりますが、参考までに、『マルクス派の革命論・再読』第一部では、後期のマルクス、エンゲルスによる1848革命期の永続革命論の克服についても取り扱っていることを述べておきます。

(大藪 龍介)