「レーニン主義へのノスタルジー」
 ─ 書評 いいだもも『20世紀の<社会主義>とは何であったか』、論創社、1997年 ─
 『福岡教育大学紀要』第48号 1999年2月号


 20世紀社会主義についての歴史的総括は、左翼であれば特に、興趣深い、また避けることのできない今日的大テーマである。この課題に取り組んだ力作が、スターリン批判以前の時代経験を有する世代の中から、これまでの持論を集成し、「個人的総決算」(p.1165)の意味をこめて提出された。その鋭意専心の理論的作業を、内容的に多くの異議があるとしても、大いに評価し歓迎したい。

 広範多岐にわたる題目を論じて14章にも及ぶ、通常の書数冊に匹敵する大部の著作である。随所に示される博識に感心させられるし、縦横無尽の講談で読ませる。ただ、論点の拡散や重複も少なくなく、きっちりとまとめられてはいない。それに、長文にすぎる引用を含め、総じて諸他の研究成果のダイジェストの成果が濃い。

 数多の論目のなかから、まず、第1章の標題をなす「20世紀はいかなる時代であったか」をめぐって批評しよう。

 20世紀の世界史的把握に関し、著者は、1917年のロシア革命を起点とした「<資本主義から共産主義への全世界史的な大移行期>」という20年前の著書『現代社会主義再考』(社会評論社、1978年、上、p.16.必要に応じてこの書との異同についてふれるので、以下前著と略称)での説を、幾分手直ししながら踏襲する。すなわち、「現代史の第一起点は第一次大戦ではなく」「ソヴィエト・ロシア革命の勝利」、「第二起点は第二次大戦ではなく」「中国植民地革命の勝利」(上、p.66)としていた説を、近年の世界史の劇的な構造変動を踏まえて、第一の起点にアメリカの参戦、第二の起点には西側陣営の結成を付加しつつ、「<戦争と革命の時代>」(p.258)、フルネームでは「<帝国主義世界戦争と評議会プロレタリア世界革命の時代>」(p.440)と再規定する。

 しかしながら、ソ連の体制倒壊という世紀末の衝撃的出来事は、20世紀の世界史をなによりもプロレタリア革命の全世界への進捗としてとして捉えてきたマルクス主義的定説の再検討を迫っていよう。著者自身、最近は『アプレ・フォーディズムとグラムシの時代』(御茶の水書房、1991年)などで、以前には欠けていた新たな研究として、ヘゲモニー国家アメリカのフォード主義的、ケインズ主義的体制に関心を注ぎ成果を挙げてきていた。本書では、ホブズボーム『極端な時代』に関説して、「『短い20世紀』の歴史的核心は<社会主義>と<アメリカニズム>の興亡史」(p.137)とも言う。そうであれば、アメリカニズムを頂点とする資本主義社会システムに再吸収される<社会主義>を主軸にして20世紀世界史を規定すべきではあるまい。

 20世紀<社会主義>の誇大評価は、1930年代に形成されたスターリンシナチについての「国家社会主義体制」(p.401他)という把握にも表明されている。社会主義建設の完了を宣言したスターリン主義体制はいったい何であったかという重大問題に関して、前著での著者は、「ソ連圏に代表される現代社会主義」(上、p.17)の表現に窺えるように、スターリン主義批判のスタンスをとりながらも、ソ連「社会主義」に批判性の甚だ薄弱な俗説に与していた。それに比べれば、「国家社会主義体制」説は一歩前進ではあろう。だが、本書では1929年からの「上からの革命=逆革命」によるソ連体制の「完全な変質」(p596)についても指摘しているのだから、「国家社会主義体制」説の主張は自己矛盾とも言える。また、「国家社会主義体制」説の取り入れは、トロツキーが遺した業績として絶対的に欠かすことのできないソ連=「堕落した労働者国家」説を継承せず斥けることを意味している。本著の著者はスターリン(主義)に対するトロツキー(主義)の闘争に高い評価を与えるのだが、いわゆるソ連論についてはそうではないのである。ソ連=「国家社会主義体制」という腐っても鯛は鯛式の把握には、かつてはソ連を輝かしい社会主義の国として称えていた時代のスターリン主義者としての母斑を看て取ることができよう。

 他方、本書では、「過剰」をキー・ワードにして、資本の過飽和的発展、多国籍企業、過剰開発、大量生産・大量消費・大量廃棄、過剰富裕化、等、当今の資本主義世界の臨界状況にも論及されている。むしろ、そうした現代資本主義システムについての把握が、万年危機論的な色合いを帯びながらも、鋭い視点を含んでいる。

 次に、本書の主題である「20世紀<社会主義>の歴史的総括」についての、その「焦点=切り口」(p.596)として設定された「レーニンの最後の闘争」にかかわる問題を取り上げよう。著者は、20世紀社会主義の命運を決した歴史的焦点として、「レーニンの最後の闘争が潜在的に持っていた世界史的意味」、「レーニン=トロツキーの再同盟が持っていた未来展望における決定的意義」(p.903)を説明することに、多くのページをあてる。ソヴェト・ロシア史のスターリン主義的公式見解を、レーニンやトロツキーの所説を再掘しそれに取って替える理論的営みは、この数十年来、スターリン主義の軛からの離脱がグループ的に広がる度毎に繰り得され、順次豊かにされてきた。その営為の再々敢行である。

 しかし、スターリン主義の呪縛からの解放が開始された40年昔の当時は別として、現在の時点での新左翼的通説の復唱には、自己のアイデンティティの確認以外に、いかほどの意味が存するのだろうか?昨今では、これまでは気付かれることなく隠れていたソヴェト・マルクス主義の構造的な欠陥についての新たな切り込みこそ求められているのではないのか。反スターリン主義の立場を取る論者達が考えた──評者の私も以前にはそうであった──ように、レーニンやトロツキーの闘争の勝利的貫徹によってソ連は別コースを拓き、20世紀社会主義は異なった歴史を辿ることになった、と想定されるだろうか。

 第一に、本書で引証されているレーニンやトロツキーの発言にも明瞭なように、この時期の彼らの闘争は、勿論スターリンに対するかぎりでは正当性を有したが、一方でのプロレタリアート独裁、他方での生産手段の全面的な国家的所有化を、つまり総じての国家主導主義路線を大前提としていたのであった。ソ連の歴史的な曲折と帰趨は、その体制の根幹をなしていて、これまでは自明視されてきたレーニン以来の、主観的には社会主義熱烈志向だが客観的には国家主義に帰結せざるをえない、そうした過渡期建設路線への抜本的な反省をも迫っているにちがいない。かりにレーニン主義(=トロツキー主義)の路線が実施されることになったとしても、違った仕方でのソ連の体制的破綻は避けられなかっただろう。換言すると、レーニン主義とスターリン主義の関係について、断絶面にだけ注目して連続面を看過すべきではないのである。

 第二に、別の機会に論じたが、労働者・兵士の革命を基軸に農民革命、民族革命を複合してなったロシア革命は、三つの根本的な矛盾を内包していた。(1)労働者・兵士の革命とボリシェヴィキ革命の矛盾、(2)労働者革命と農民革命の矛盾、(3)ロシア民族と他の諸民族の間の矛盾、である。レーニンが最後の闘争において取り組んだのは、このうちの一部、すなわち(3)に関して、ロシアと周辺諸国の民族的矛盾の拡大深化をいかに食い止め解決するかであった。(1)に関しては、レーニン自身がボリシェビキによる労働者大衆の代意・代行、プロレタリアート独裁の党独裁への転化を容認するにいたっていたし、(2)に関しても、レーニンが認識したよりもはるかに深刻で解決困難な対立が伏在していた。レヴィンの書以来わが国でも極めて高い評価が定着したレーニンの最後の闘争が有していた射程、意義は、革命ロシアが直面していた過酷な問題状況全体を新たな視点から捉え返し、そのなかに置き直してみると、著しく限られたものにすぎなかった。

 本書のモチーフは、エポック・メイキングなロシア革命によって成立したソ連が全面崩壊するにいたったのは「いかなる理由・いかなる経過をもって」であるかを解明すること(p.351)にある。その最重要機因を、筆者は、ソ連が過渡期建設に踏みだした地点でのレーニン(主義)の敗北に求めているわけである。けれども、この説明は、ソ連が逸脱し変質したことについては有効でありえても、トロツキーが唱えたようなソ連体制の内部変革はいっこうに不可能なまま体制崩壊が避けられなかったことについては説得性に乏しい。結局のところソ連は自壊してはてたという現実を抑えて歴史の真実相に迫るには、著者が従前どおりの議論を繰り返しているロシア革命とレーニン主義そのものについての批判的再検討に踏み込まねばなるまい。

 論点をレーニン主義に移そう。著者によると、「ボリシェヴィズム=レーニン主義」は「<マルクス主義的共産主義>の20世紀的復権」(p.595)として位置づけられる。前著で未だ用いていた「マルクス=レーニン主義」の俗称を、著者は本書ではスターリン主義の偽装名称として批判し排却している。が、マルクス共産主義論の20世紀現代的展開としてレーニン主義を捉えその正統性と正当性を主張することでは変わりない。「ロシア革命とレーニン主義[を]『後進国革命』の偏倚な一変種として規定する[のは]いかにも一知半解」(下,p.212)という前著の立場性は一貫している。しかし、最近年マルクスのアソシエーション論の新たな開発によって明らかにされてきたように、『フランスにおける内乱』のマルクスの協同組合を生産と所有の基礎単位としたアソシエーション型社会、対応して地域自治体の連合による過渡的なコミューン型国家という未来社会構想と、『国家と革命』のレーニンの超大規模の単一体へと人々を組織した一国一工場型社会、対応して過渡的に中央集権的で独裁的な公安委員会型国家という未来社会構想とのあいだには、歴然たる相違が所在していた。

 上の見地で、著者は、生産手段の全般的な国家的所有化については取りたてて事挙げせず確認するにとどめておいて、「『プロレタリアート独裁』にかんするレーニン的概念の全面性を復権させる」(p.1015)ことに力を注いでいる。その主張には、評者(大藪)が、『国家と民主主義』(社会評論社、1992年)で試行したレーニンのプロレタリアート独裁論の解体に対する反駁などの意図が込められているのだろう。だが、レーニンのプロレタリアート独裁論やそれの一体的半面をなすプロレタリア民主主義論の構造的諸欠陥には目も呉れず、プロレタリアート独裁の今日的復権によってこれを政治主義的に放棄したユーロ・ジャポネ・コミューニズムに優位し、マルクスの原則にも忠実でありうると考えるのは、時代錯誤であろう。ただ、レーニンやトロツキーも免れなかった過誤に大胆な批判のメスを加えることは、スターリン主義からの脱却で精一杯であった世代には酷な注文なのだろう。

 ソヴェト・ロシアの革命と建設、およびそれを牽引したレーニン主義のモデル化、他方でメンシェヴィキやエス・エル、あるいは社会民主主義に対する型にはまった断罪、そうした意味でのボリシェヴィキ史観は随所に見うけられる。

 本書をつらぬく思想的基調は、レーニン主義ないしボリシェヴィズムへの郷愁である。前著で「レーニンの驥尾に付して」(上,p.15)と明言していた著者は、今度は「マルクスの極東の門人」、「マルクス的共産主義者」(p.368)を名乗っているけれども、依然としてレーニンの門下生である。

 本書のエピローグで、著者は、いっさいの政策の拠点であり前進のための保塁であるソヴェト国家の堅守こそが社会主義への向っての最転進を可能にする保障だというレーニン、トロツキーの強い信念にもかかわらず、「はたしてそのような『保障』がどこに・どのようにありうるか、という再審的問いかけ」(p.1051-2)を発している。この問いをプロローグにした20世紀社会主義の歴史的総括こそ、現在求められているにちがいない。

 「レーニンの最後の闘争」を「焦点」として、レーニン主義、それと同盟したトロツキー主義を価値基準としてソ連史の興亡を評定する本書は、スターリン主義の罪業にソ連の堕落、変質を帰せしめる裏切り史観に傾斜せざるをえない。「レーニンが手塩にかけて育て上げたボリシェヴィキ(共産党)、第三インターナショナルは、レーニンの死後、共産主義の大義を裏切って自滅したのである」(p.1000)。かかる歴史の見方は、あまりにも安直であり、もはや通用すまい。

 「時代のバスに乗りおくれまいと右往左往する逆行症知識人」(p.257)への批判は、それはそれでよい。だが、そうした時流便乗者をも含めて、激しく移り変わる歴史の現実に押し流されつつ、走りゆく時代の後を追っかけてきたのが、とりわけ日本のマルクス主義陣営ではないか。わが国のマルクス主義理論研究で先陣をきっていると見做され顕著な影響を揮った諸説のほとんどが、ロシア革命の栄光とレーニン主義の権威にすがった、実は時代遅れの議論だったのであり、ソ連の崩壊とともにあるいは破産をとげあるいは色褪せてしまった。1960-70年代にはわが国の新左翼的人士に広く共有された理論に依拠して1989-91年の歴史の大転換に抗せんとする本書も、時代の後追い解釈をしてきたマルクス主義知識人の悲哀を再現しているように思われる。

 なお、本書にふれて、的場昭弘が自著の論点をそっくり引用しながらその旨をなんら付記してないと、「アカデミズムの成果を無断で失敬する態度」を批判している(『週間読書人』1998年4月3日号)。同じミスは、別の研究者の論点についても犯されていよう。本書のなかでは、一方で、引用の典拠を明示しており、そのうちの幾つかのケースでは過剰な賛辞を呈している。他方では、無断借用である。双方を分っているのは、著者の恣意的な選別でしかありえない。こうした態度も、根本的にはわが国のマルクス主義的左翼の陋習たる党派主義に根ざす仲間ぼめと異質者の排斥の伝統の引き摺りであり、克服されて然るべきのもだろう。

 「われは語った。わが魂を救うために!」(p.367)。理想に燃えたつ志念やいかなる苦難にもめげぬ実践とは逆方向に歴史が移り進んだ時代を生きてきたマルクス主義者の心情は了解に難くない。しかし、最新の知見を取りこんでいても、立脚している思想的、理論的な基本線は旧態依然のレーニン主義である──それゆえにかえって、かなりの読者の共鳴を得るかもしれない──ことに、評者のわたしとしては大いなる不満を抱く。日本のマルクス主義的左翼はソヴェト・マルクス主義の超克を抜きさしならない自己批判的課題としてつきつけられていると考えているからである。より若い諸世代が20世紀社会主義についてもっと新たな視角からラディカルに思考して歴史に肉迫し、自説をのりこえて進むことを促している。大作から伝わってくる著者の懸命の思いを、こう受けとめたい。

(大藪 龍介)