「革命過程」
 『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998年)の執筆項目


【テキスト】
「労働者が最後の勝利を得るためには、……自分の階級利益を明らかに理解し、できるだけ早く独自な党的立場を占め、 一瞬間といえども民主主義的小ブルジョアの偽善的な空文句に迷わされずに、プロレタリアートの党の独立化を進めなければならない。 彼らの戦いの閧の声はこうでなければならない−永続革命、と」(『1850年3月の中央委員会の同盟員への呼びかけ』7-259)
「ひとつの社会構成は、それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、決して没落するもの ではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会の胎内で孵化されてしまうまでは、決して古いもの にとって代わることはない」(『経済学批判』序言、13-7)
「立法によって労働日を制限することは、労働者階級を精神的および肉体的に向上させ、彼らの究極の解放を達成するための第一歩である」 (『労働時間の短縮についての演説』16-553)
「たとえばイギリスでは、[自分の]政治的な力を発揮する方法は労働者階級に解放されています。平和的な扇動の方が敏速かつ確実に仕事を なしとげうるところでは、蜂起は狂気の沙汰です。フランスでは、多数の弾圧法規と諸階級間の和解しえない敵対とが、社会戦争の 暴力的解決を必然化しているように思えます。その解決の選択はその国の労働者階級の問題です」(『『ザ・ワールド』紙通信員との インタビュー』17-611)
1848年革命時の枠組みとその訂正

 永続革命 1848年の革命の時期、共産主義者同盟を率いて戦いに加わったマルクス、エンゲルスは、独自の改革路線として、永続革命を唱えた。 永続革命は、その主張として、およそ3本の柱を有した。第1には、いまだブルジョア革命を達成していない後進国ドイツにおいて、 発達した西ヨーロッパの国際的環境ならびにプロレタリア階級がすでに現存している国内的条件からして、ブルジョア革命はそれとして 完結することなく永続的性格をもち、プロレタリア革命にまで発展転化するという展望である。「ドイツのブルジョア革命はプロレタリア 革命の序曲となりうる」(4-507)。第2には、フランスでのプロレタリア革命について、徹底的な階級闘争の展開による革命の高揚の なかで、革命的行動による強行突破を介して、革命の主導権を穏健な党派からより急進的な党派へ移動させながら、最後の勝利まで革命を 永続させるという見通しである。第3として、この革命は、「全ヨーロッパ的な革命戦争」(7-17)として、資本主義世界の心臓部である イギリスをも引きこみ、ヨーロッパ諸国での連続的なプロレタリア革命として繰り広げられるという想定である。これらの柱の中で、 永続革命に固有の論理としてその中心的位置を占めるのは、第1のそれだと言えよう。

 永続革命の路線は、イギリスのチャーティスト運動やフランスの2月革命が成年男子の普通選挙権の獲得を主要課題としていたように、 前民主主義の時代にあって、後進国ドイツや中進国フランスを主要な対象として打ちだされた戦略であった。そして、階級闘争と党派 闘争のダイナミックな推進をつうじての革命権力の移動と掌握に、問題関心を絞っていた。こうした永続革命の構想は、概して暴力革命 の不可避性の強調と結びついていた。「共産主義者は、従来のすべての社会秩序を暴力的に転覆せずには彼らの目的を達成できないことを 公然と宣言する」(4-508)。また、革命の震源地と目しているフランスにおいて、マルクスはブランキを革命的共産主義者として 称揚し、共産主義者同盟はブランキ派と緊密な盟友関係をとりむすんだ。覚醒した少数精鋭分子の武装蜂起に大衆を捲きこんで革命権力を 樹立せんとするブランキ主義と相違する革命路線の独自性は、不明確であった。かてて加えて、マルクスは、資本主義社会とブルジョア 国家に対する個々の改良(闘争)と革命(闘争)、革命の戦術と戦略の関係について、前者を後者に解消してしまう誤った見地に立って いた。「すべて社会改良というものは、プロレタリア革命と封建的革命とが世界戦争で武器をとって勝敗を決するまでは、ユートピアに とどまる」(6-393)、といったように。

 恐慌と革命 1850年秋に革命幻想から醒めたマルクスは、現状認識を正すとともに、従前の革命論的展望の一つの本質的な訂正として、経済的動向と 政治的出来事との因果的関係についての、次のような洞察を新たに獲得する。経済的に好況で、資本主義経済のもとで生産力が上昇的な 発達を遂げているなかでは、プロレタリア革命の実現は問題になりえない。革命は資本主義的生産関係と生産力が矛盾に陥る時期にだけ 可能である。そして、「新しい革命は、新しい恐慌に続いてのみ起りうる。しかし、革命はまた、恐慌が確実であるように確実である」 (7-450)。

 この新たな観点から、マルクスは恐慌と革命の到来の予言を繰り返した。待望久しかった恐慌は、漸く1857〜58年に訪れた。ところが 革命に、類するような出来事は何一つ起こらなかった。以前にもまして深刻な挫折を味わったマルクスは、更なる訂正を重ねながら、 唯物論的歴史観を練磨しその公式的な提題の一つとしてテキストBの理論的見解に到達する。資本主義的生産諸関係の内部で可能な極点 にまで生産諸力が発達しきったなかでの恐慌を基礎にして、プロレタリア革命は可能になる。それとともに、資本主義社会の内部に萌芽的 に現出している、より高度の生産諸関係を新しい社会のそれへと発展的に転化させることが、プロレタリア革命には課せられる。

革命過程論の発展的展開

 新たな革命路線 西ヨーロッパでは、1860年代に、イギリスを中心に産業資本主義の隆々たる発展が現出し、1867〜71年のイギリス第2次選挙法改正、 フランス第3次共和制の発足を区切りとして、ブルジョア国家もブルジョア民主主義の体制的定着化へと漸進する新段階を迎えるに いたった。そのなかでマルクスは、円熟した理論的、実践的活動を繰り広げ、革命路線に関しても、国際労働者協会の諸文書その他に おいて、1848年革命時のそれから転換して新たな構想を提示した。

 まずは、「労働者階級の解放は、労働者階級自身の手でたたかいとらなければならない」(16-12)という大原則の明示である。 この時期には、労働組合運動は協同組合運動など、労働者階級の大衆的な組織と運動の広がりと高まりがあったし、マルクスは すでにブランキ主義的な少数者革命の強行路線から訣別しており、労働者階級自らが革命の事業について理解し、国民の多数者を 結集して国民的革命を担うべきことを説いた。「これらの国々の革命は多数者によっておこなわれるだろう。革命は一党一派によって おこなわれるものではなく、全国民によっておこなわれるものなのだ」(34-426)。それとともに、社会革命に勝利するためには 政治権力を獲得しなければならないのだから、「有産階級によってつくられたすべての旧来の党から区別され、それに対立する政党に 自分自身を組織する」(17-395)ことが不可欠であった。

 労働者階級の自発的運動に秘められている現実変革性を開発し発展させるという見地から、マルクスが特に重視し関心を注いだのは、 1848年革命の時期には厳しく批判していた労働者生産協同組合であった。労働者生産協同組合は、労働者たち自身が経営を含めて 生産を管理し、生産手段を共同所有し、「協同労働」(16-9)に従事するといった点で、来るべき社会の経済システムの基礎組織 たりうるのであり、資本主義社会の内部に生まれでているより高度な新社会の要素としての意義を有していた。

 労働者生産協同組合運動に加えて、マルクスは、10時間労働法の獲得を、労働者階級が闘いとった大きな勝利として評価した。 『資本論』第1部でも、イギリスの工場立法の歴史、その内容、成果についての詳述が折りこまれている。10時間労働問題についても、 以前には、その解決をプロレタリア革命に求めるがごとき誤謬を犯していたマルクスは、いまや、テキストCのように、 社会改良としての独自な意義を積極的に承認するようになったのである。

 他方では、イギリス、フランス、ドイツで時を同じくして、成年男子普通選挙権の導入と定着が進行し、1870年代には、 ブルジョア民主主義に対する労働者階級の闘争戦術を明らかにすることが緊要な課題となるにいたった。「普通選挙を含めて、 プロレタリアートの自由になるようなあらゆる手段で努力しなければならないこと、このことによって、普通選挙権は、これまでのような 欺瞞の用具ではなくなって解放の用具に転化すること」(19-235)。このように、ブルジョア的な自由と民主主義が与える便宜を冷静に 、かつ断固として活用して、労働者階級はたたかいを組織化し前進してゆくべきであった。

 革命と改良 協同組合運動、労働時間短縮運動や普通選挙権を行使した選挙闘争などは、労働者階級の生活の改善、地位の向上を果すとともに 彼らの主体的な力量を養成し鍛錬して、来るべき改革のために必要な諸条件を形成する。こうした改良闘争についての積極的な位置づけは、 マルクスが直接的現実の分析的考察と革命の目的論的構想を統一して、改革と改良、あるいは革命の戦略と戦術をはっきりと区別した うえで、双方を有機的に関連付けるにいたっていることを示した。それはまた、直接的な国家権力の奪取に焦点を絞っていた革命の 展望から、個々の経済的、社会的、政治的改革のつみかさねに立脚したうえでの、政治革命を不可欠の環節とする社会革命の構想への 進展であった。

 資本主義体制のもとでの諸々の改良闘争の不断にかさねながら、労働者階級の解放のための有利な諸条件と陣地を構築し、新しい 社会の諸要素の創出に努める。そして、生産諸力の発達が極点に達した地点での恐慌の襲来という情勢を迎えるや、国民的多数派の 形成に基づく労働者階級の国家権力を樹立し、それを槓杆として社会の全般的な抜本的改造を押し進める。ざっとこのような道筋で、 マルクスはプロレタリア革命の構図を描いたと言えるだろう。

 暴力革命と平和革命 革命の手段的方法についても、理論的な明確化と豊富化があった。「労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌握して、 自分自身の目的のために行使することはできない」(17-312)。とりわけ常備軍、警察、官僚制などの中央集権的な位階制に 編成された諸機関から成り、労働者階級の抑圧にあたってきた、できあいの国家機構が、労働者階級の解放のための機構たりえない ことは、明白であった。ブルジョア国家は解体され、それとは原理的に異質で性格も構造も一変した新国家が過渡的に打ち立てられ ねばならない。だが、その原則を実現する方途と過程は、それぞれの国によって多様であった。

 革命の方途と過程を、マルクスは大きく二通りに類別した。一方は、平和的な手段によって徐々に、他方は、暴力的で急激に、 である。前者には、イギリス、それにアメリカ合衆国やオランダが、後者には、フランスやドイツなどが、該当するとマルクスは みなした。各国の資本主義の発達いかんに規定された彼我の階級的力関係、ことに労働者階級自身の発達の程度によって、改革的 変革は、あるいはより人道的な形で、あるいはより血なまぐさい形で進むであろうというのであった。労働者階級の態度としては、 「可能なところでは平和的な方法で、必要あれば武器をとって」(17-622)という対応が求められた。かかる革命の多様なあり方 を踏まえ、先進的な諸国での国際的な連帯をつらぬいた連続的な革命の実現を追及すべきであった。

 今日的再評価へ 『共産党宣言』と『国際労働者協会設立宣言』という二つの綱領的宣言で描かれた革命の構図の間には、理論的断層があった。 後期マルクスは、以前の永続革命論をのりこえて、社会革命としてのプロレタリア革命の基本的諸問題に関する考察の熟成途上に あった。

 革命過程に関するマルクス、エンゲルスの理論としては、ロシアの地でのレーニンの労農民主独裁論やトロツキーの永続革命論に 摂取された、1848年革命の時期の永続的革命論と、いわくつきの歴史的文献として論争の的となってきた。晩年のエンゲルスの政治 的遺言とがよく知られてきた後期マルクスの論説は、格別の注目を浴びることなく、イギリスなどでの平和的な革命への言及が時折 着目される場合には、議会主義的に修正して解釈されるか、その反対にその後の歴史的諸条件の変化のゆえに不適切になったとして 退けられるかしてきた。しかし、ロシア革命のモデル化はもはや通用しなくなった現在、マルクスのプロレタリア革命論の全体的 構造の再吟味が求められている。
(大藪龍介)

【関連項目】革命、過渡期、プロレタリアート独裁
【参考文献】
ムーア『三つの戦術』(1963)城塚登訳、岩波書店、1964年
ハリソン『近代イギリス政治と労働運動』(1965)田口富久治監訳、未来社、1972年