「プロレタリアート独裁」
 『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998年)の執筆項目


【テキスト】
「プロレタリアートは、ますます革命的社会主義のまわりに、すなわちブルジョアジー自身がそれにたいしてブランキなる名称を 考えだした共産主義の周囲に結集しつつある。この社会主義は、革命の永続宣言であり、階級差異一般の廃止に……到達するための 必然的な経過点としてのプロレタリアートの階級的独裁である」(『フランスにおける階級闘争』7-86)
「コミューンの組織がいったん全国的な規模で確立されたとき、おそらくその前途になお待っている災厄は、奴隷所有者の散発的な 反乱であろう。それらの反乱は、平和な進歩の仕事をしばらく中断させはするが、社会革命の手に剣を握らせることによって、かえって運動を 促進するだけであろう」(『フランスにおける内乱』第1草稿17-517)
「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた政治上の過渡期がある。 この時期の国家は、プロレタリアートの革命的独裁以外のなにものでもありえない」(『ゴータ綱領批判』19-28〜29)
試金石としてのプロレタリアート独裁

 プロレタリアート独裁は、レーニン主義とスターリン主義によって領導された20世紀マルクス主義のキーワードの一つであった。 プロレタリアート独裁の承認をマルクス主義者であるか否かの試金石に設定したのは、レーニンであったが、爾来、プロレタリアート独裁は、 マルクス主義理論の基礎中の基礎に据えられてきた。ところが、スターリン主義時代を経て、プロレタリアート独裁は一党支配の 官僚専制国家を「マルクス=レーニン主義」的に偽装する用語となり、負の象徴に転化した。1970年代後半には、ロシア革命ならびに ソ連「社会主義」のモデル化と不可分に結びついていたプロレタリアート独裁概念は、先進資本主義諸国での革命運動の桎梏と化し、 ヨーロッパ諸国や日本などの共産党によって揃って放棄されるにいたった。だが、その転換は、内省的な理論的考察を欠いて状況に 追随した政治的御都合主義が色濃く、他方でのプロレタリアート独裁擁護の教条主義的反撥を惹き起こしもした。

 マルクスのプロレタリアート独裁についての言説は、数えるほどの僅かな回数見出されるにすぎない。しかも、それらは、1848年2月 革命当時と1871年のパリ・コミューン事件後との、二つの時期に集中していた。マルクスがプロレタリアート独裁を提唱した歴史的 意味はどこにあったのだろうか。また、マルクスのプロレタリアート独裁観念には、さらに深く考究されるべき事柄が伏在していたと 思われるが、それはどのような問題であったのか。プロレタリアート独裁をどう取り扱うかは、レーニンが述べたのとは異なった意味で、 当今のマルクス政治理論研究の試金石である。

革命的共産主義派の旗幟

 ヨーロッパ大陸諸国を激動させた1848年の諸革命に、マルクスとエンゲルスは共産主義者同盟を率いて加わり、それらの諸革命を プロレタリア革命の勝利へと高めることを目指してたたかった。マルクスがプロレタリアート独裁を立言したのは、革命闘争の敗退後、 2月革命以来の変動を論評した『フランスにおける階級闘争』においてであった。その提唱は、48年の諸革命の幾多の波乱に富んだ ブルジョア階級とプロレタリア階級の間の、軍事的戦闘を含んだ激烈な階級闘争の総括に立脚していた。

 この当時のマルクス、エンゲルスは、プロレタリア革命の時節到来という主観主義的状況認識に囚われており、マルクスによると、 2月革命の一翼を担ったプロレタリア階級が階級独自の要求を掲げて立ちあがった48年6月蜂起は、階級決戦への突入であり、 「ブルジョア秩序の存続か滅亡かのたたかい」(7-29)であった。それにたいするカヴェニャック将軍麾下の共和国軍隊による 残虐な流血弾圧によって、「ブルジョア独裁が公けに承認された」(7-31)。同時にプロレタリア階級の闘争も先鋭化せざるをえず、 大胆で革命的な闘争スローガンが出現した。「ブルジョアジーの転覆!労働者階級の独裁!」(同上)。かようにプロレタリアート独裁は、 革命の熾烈な戦闘のなかでのブルジョア反革命独裁に対抗しそれを打ち破る「革命独裁」(7-59)であった。

 19世紀前半までのフランスの革命思想の源泉と言えるルソー『社会契約論』の中に独裁制についての規定が所在するように、すでに独裁の 観念は知れわたっていたし、ジャコバン主義やバブーフ主義に列した主張として、プロレタリアート独裁の類義語も先在していた。 マルクスによるプロレタリアート独裁の提唱は、簇生する社会主義、共産主義の諸流派のなかにあって、ルイ・ブラン派やカベ派などと 明確に一線を画し、テキストAのごとく、改良主義、階級強調主義を峻拒して敵階級との徹底した闘争による革命を勝利の達成まで 永続させるという、ブランキに人格的に象徴される革命的共産主義派としての独自な所信の表明であった。マルクス、エンゲルスは、 チャーティスト左派を交え、ブランキ派と、永続革命とプロレタリアート独裁を旗印とする革命的共産主義者万国協会を結成した。

 マルクスは、諸階級の存在も諸階級間の闘争の展開も先行の理論家達によって説かれてきたことであるが、「階級闘争は必然的に プロレタリアート独裁に導く」(28-407)ことの発見は自らの思想的な独自性に属すると自認した。

プロレタリアート独裁と民主主義、過渡期国家

 コミューン国家とプロレタリアート独裁  パリ・コミューンの実践的総括に基づくコミューン国家論の形成は、プロレタリアート独裁観念にも影響を及ぼさずにはおかない。 20年の沈黙を経て、マルクスのプロレタリアート独裁考は新たな発展的転回を見せた。現実のパリ・コミューンでは、ブランキ派や ジャコバン派が主力を占めていたし、危局に陥るやジャコバン独裁にならった公安委員会の設置にさえたちいたった。しかし、 マルクスはもはやブランキ主義と訣別していたし、ジャコバン独裁の轍を踏むことにも厳しく批判的であった。

 「過去を繰り返すべきではなく未来を建設すべき」(17-259)、階級闘争が「その様々な局面を最も合理的、人道的なしかたで 経過すること」(17-517)、こうした基本的見地から、マルクスが関心の焦点としたのは、独裁ではなく、折りしもイギリスや フランスなどでブルジョア国家のもとで制度化されつつある民主主義を凌駕する、人民大衆の新たな民主主義、コミューン国家において 具体的に貫かれるべき民主主義的な諸原則であった。相関的に、『フランにおける内乱』にプロレタリアート独裁の語が存在しないように、 プロレタリアート独裁の位置づけにも変化が生じる。プロレタリア革命における「收奪者の收奪」(17-319)にあたって、ブルジョア階級が 賃金奴隷制守護の反乱を起こすことは十分にありうる。そうした場合、プロレタリアート独裁が必要になることを、マルクスはテキスト Bのように述べる。

 プロレタリアート独裁は、旧来の支配階級が多分惹き起こすであろう反革命的反乱を鎮定する手段である。その意味では、いつ いかなる場合にもなければならないものではなく、事と次第によって余儀なくせしめられるものである。また、プロレタリアート独裁は、 長期間を要して全般的には平和的に進展する過渡期の革命的変革の全過程に通貫するのではなくして、臨時的である。このように、 プロレタリアート独裁を相対化する思考を垣間見せたのであった。

 マルクス・バクーニン論争  パリ・コミューン事件の直ぐ後、フランス政府の軍隊の大量殺戮によって血の海に沈められたパリ・コミューンの遺訓として、 また、国際労働者協会内でのプルードン主義やバクーニン主義との闘争で革命的過渡期国家権力をも否認するアナーキズムにたいする 思想的独自性を明示すべく、マルクスはプロレタリアート独裁について再言した。そうしたプロレタリアート独裁規定にいかなる 諸問題が内在しているかを、論敵バクーニンの『国家制とアナーキー』についてのマルクスのノートのなかに見てみよう。

 最も核心的な論点として、革命独裁といえども、それは果たして自発的に解除されうるのか?バクーニンは批判する。 いかなる独裁も、自己の永久化以外の目的をもちえないし、独裁を堪え忍ぶ人民のなかに奴隷制をもたらすだけである。 自由は自由によってのみ生みだすことができる、と。マルクスが唱えるプロレタリアート独裁は、永久化を目論むのではもちろんない。 だが、独裁の発動は追及している本来の目的と背反的に矛盾する手段を採用することであり、目的と手段の転倒、手段の目的化、 目的の変質といった客観的な法則的傾向の作動によって、独裁の永続化に結果する可能性を秘めている。ところが、マルクスは、 自由の国への過渡において一時的に必要とされた革命独裁が目途に反して自由の抑圧体へと反転する恐るべき危険性に思いいたっていない。 従ってまた、独裁の例外的な一時性を厳守するのにいかなる諸方策を講ずべきかについても考えを及ぼしていない。

 必ずや国家権力は腐敗し独裁は永久化するとの宿命論的なペシミズムに立って国家悪を排撃するバクーニンにたいし、革命国家の 堕落、変質について夢にも思わなかったマルクスはオプティミスティックにすぎ深慮を欠くところがあった。

 『ゴータ綱領批判』の命題の難点  プロレタリアート独裁についてのマルクスの最後の言明にして公知の命題であるテキストCについても、熟慮の足りなさを指摘 せざるをえない。この命題では、マルクスは、プロレタリア革命から共産主義社会にいたるまでを、「革命的転化の時期」、 「過渡期」として簡潔に圧縮し、その時期をそっくりそのままプロレタリアート独裁と規定してしまっている。

 そのために、第1に、「長い生みの苦しみ」(19-21)の過程である過渡期の全時期を通して独裁が存続することになり、 例外的な非常事態での一時性という独裁の本義が曖昧になっている。任期を越えて長期化する独裁は専制と化すというのは、 ルソー『社会契約論』以来の確認事項であった。バブーフやブランキの革命独裁の思想でも、独裁は共産主義体制への移行過程のうち、 革命の勝利を確定する当初の局面に限定されていて、まさしく臨時的にすぎなかった。ところが、ここでの規定は独裁が極めて長期間に わたり継続することを示している。それとともに、第2に、プロレタリアート独裁は、歴史的に必然的で不可避であり、無条件的、 絶対的なことを意味することになっている。この二つの点では、テキストBの論述との間にも明らかに相違がある。更に第3には、 過渡期の全時期をプロレタリアート独裁と規定したことから、敵対する階級の民主主義的権利の剥奪も過渡期において恒常化する 結果になる。しかしながら、暫時的な一局面にとどまらず、過渡期の全時期を通じて対立階級にたいし自由を抑圧し民主主義から除外 するのであれば、史上初めて被支配階級あるいは異質的集団をも包摂して営まれる民主主義として、それなりの多元的、寛容的な性格も 備えた「ブルジョア民主主義」(草1-275)からの歴史的後退になってしまう。

 位置づけ直しへ  1870年代には、西ヨーロッパ世界は「ブルジョア民主主義」の体制的定着、階級闘争の形態変化という近代政治史の新段階を迎えつつ あった。それでも、大陸諸国は勿論、イギリスなどでも、プロレタリア革命に際し支配階級がむざむざと支配権力を譲り渡すことなく 必死に反抗し、暴力的反乱に訴える可能性は、十分にありうることであった。旧支配階級の暴力的敵対や反革命独裁に直面すれば、 それを鎮圧するのはプロレタリアート独裁以外にない。そこに、プロレタリア革命が暴力的と平和的との二通りの道のいずれをも 進もうとも、プロレタリアート独裁の位置づけを欠かせない所以があった。しかし、マルクスは、新たな歴史的諸条件を踏まえ 新しい内容を盛りこんで、2月革命当時のプロレタリアート独裁観念を再構成するにいたらなかった。また共産主義社会への過渡期の 政治的特質を規定するのに、「ブルジョア民主主義」を超える新たな民主主義をもってすることはなかった。

 マルクスのプロレタリアート独裁規定も、ポスト・「ブルジョア民主主義」の時代のプロレタリア革命によって樹立されるべき 過渡期国家の全体構造の解明と関係づけて、批判的に捉え返し位置づけ直すことを不可欠としている。
(大藪龍介)

【関連項目】アナーキズム、革命過程、過渡期、民主主義
【参考文献】
レーニン『国家と革命』(1917)
竹内芳郎『現代革命と直接民主主義』第三文明社、1976年
大藪龍介『国家と民主主義』社会評論社、1992年