『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』に対する加藤哲郎、田畑稔、斎藤幸平の書評へのリプライ
『唯物論研究』第160号 2022年8月 及び第161号 2022年11月


 1、本書のモチーフ

 前世紀末のソ連「社会主義」の倒壊は、日本においてはとりわけ、マルクス主義と社会主義の凋落を一挙的に加速させた。世界的に資本主義は制度疲労を極めつつあり、前世紀末葉からの新自由主義・新保守主義の跋扈による貧富の格差の巨大化、民主主義の形骸化はあからさまになり、それらの弊害は日本でも多出している。にもかかわらず、昨今の日本では、社会主義は民衆的な地盤で嘗てなく権威を喪失し体制変革の選択肢となりえない深刻な現実がある。生成以来100年有余の歴史をもつ日本社会主義思想・運動が、今日ほど衰勢になったことはないだろう。
 日本のマルクス主義的社会主義は、1917年のロシア革命とソ連誕生の余波をうけて出立し、81年のソ連崩壊とともに決定的に低落した。その四分の三世紀の間に、近現代化の途次にあった日本資本主義とその国家は、アジア・太平洋戦争にうってでて敗北し、戦後民主主義革命を経て高度資本主主義、自由民主主義国家に転じる大変貌・変容を遂げた。資本主義体制の激変の渦中にあって、共産党、労農派=社会党左派、新左翼セクトなどのマルクス主義的社会主義は、数多の曲折を踏みつつそれなりに伸長する局面もあったが、全般の思想・運動に貫かれてきた基調は、スターリン主義でありレーニン主義であった。ソ連圏で本当は何が起こっているかは看過され、ソ連は社会主義の母国と見做されていた。
 日本マルクス主義に通底するプロ・スターリン主義的ないしプロ・レーニン主義的な性格は、世界でも際立っていた。
 1968年革命にいたっても、日本では諸党派、諸学派の如何を問わず、資本主義体制への反乱の熱気とともに社会主義が差し迫りつつあるとの幻視は強く、国(家所)有化・集権的計画経済プラス一党支配が社会主義だとする通俗的マルクス主義の自己批判的な切開には向かわなかった。マルクス主義者の総動員による大部の『マルクス=レーニン主義事典』(社会思想社、80〜82年)も刊行された。
 ソ連「社会主義」の崩壊とともに、ロシア革命とレーニン主義、スターリン主義に凭れて輝かしい未来を切り開く先陣を標榜してきたマルクス主義的諸党派や知識人の闘いは、あるいは破産をとげ、あるいは色あせてしまった。
 世界を揺るがせたソ連崩壊から既に30年を経た。だが、生産手段の国家所有化・プロレタリアート独裁・前衛党統轄を基軸とした20世紀社会主義思想・運動の破産の反省的総括は、現在にいたってもなお不明瞭であり、マルクス主義的社会主義は混迷から脱しえずにもがいている。
 私自身は1950年代後半に学生運動を通じてマルクス主義に接し、既存左翼やソ連「社会主義」を批判するニューレフトとして思想形成した。そして、左翼勢力に深く根を張った「マルクス=¬レーニン主義」の通説を打破し、マルクス主義国家論の定説とされるエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』の国家論を超克する理論研究の道に進んだ。しかし、ソ連「社会主義」の崩落に一段と厳しい反省を迫られ、20世紀マルクス主義が破綻したのは何故か、問題を根本的に究明するべく懸命に取り組んできた。
 『マルクス主義のパラダイム転換へ』は、一部を除き、最近年の研究論文の集成である。
 本書では、ソ連の崩壊の世界史的意味合いを、20世紀のマルクス主義的社会主義の党=国家中心主義的な理論・実践の帰結にとどまらない、マルクス、エンゲルスのそれをはじめとする、19世紀初葉以来の諸々の社会主義思想・運動の歴史的な限界の告示として捉えている。そうして、 “本当のマルクス”にも所在する限界や過誤を克服しレヴェルアップする解放理論の創造を提起している。
 本書の構成にそって、各篇を紹介し、枢要な論点を補足的に説明する。

 「T マルクス政治理論の転回」
 1848年の革命から71年のパリ・コミューンにかけてのマルクスの国家論、革命論の変遷を追跡して、『共産主義派宣言』に所在する諸欠陥を適示し、産業革命による資本主義経済の飛躍的発達の時代を隔てて、『フランスの内乱』において国家構造の分析も革命による新社会・国家構想も顕著な前進を遂げるにいたる過程を明らかにした。いわゆる「カール・マルクス問題」の政治理論に関する解明に該当する。また、マルクスの初期から後期にいたる国家論述の総体を概覧して、限界と空白の所在を適示した。
 マルクス理論の初期段階から後期段階への転変のポイントとして、『経済学批判』「序言」の唯物史観の定式中の社会革命論の再定義、とりわけ「一つの社会構成は、…生産諸力がすべて発展しきるまでは、決して没落するものではなく、新しい、高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会の胎内で孵化されてしまうまでは、決して古いものに取って代ることはできない」(13−7)の提題に注目した。社会革命の経済的な要件を明確化したマルクスは、ところが、政治的な要件については黙して語らない。そこで、近代政治の歴史的発展過程を振り返り、権利・自由、民主主義の伸長を社会革命の政治的条件として定立した。経済的社会構成に関する「高度の生産諸関係」の「古い社会の胎内で〔の〕孵化」と合わせて、政治的社会構成に関して旧来の階級的制限を突破する市民的、政治的自由・権利の拡充、民主主義の高進が、社会革命の要件として必須である。とりもなおさず、生産協同組織(アソシエーション)と民主主義を二本の主柱にする革命過程論の構築が課題となる。
 いま一つ、学問的巨作『資本論』は、古典派経済学批判に基づきつつその理論的達成を相続した。同じように、国家の本質論的究明も古典派政治学の成果の批判的継承に立脚しなければならない。この見地から、マルクスは着手できなかった古典派政治学の頂点ベンサム『憲法典』やミル『自由論』との格闘、ならびに19世紀後葉にかけての議会制民主主義国家の形成史の分析の不可欠性を説示した。こうした研究を欠落したマルクス主義では、近代ブルジョア政治・国家の歴史的乗り越えは不可能である。

 「U 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』をどう読むか」
 『ブリュメール18日』について、現実を忠実に描いた、唯物史観による歴史分析の「天才的な著作」(21−253)との老エンゲルスの賞賛は、20世紀マルクス主義において復唱され公定説としてすっかり普及した。しかし、今日の実証的諸研究を摂取して具体的に適示しているように、2月革命、第二共和制からボナパルトのクーデタ、第二帝制への変転過程の史実の誤認が少なくないし、政治体制の変動の歴史的意味の考察に失敗している。エンゲルスによる高評を踏襲した『ブリュメール18日』の様々な読解は、マルクス主義政治理論の低迷の象徴と言える。
 当時のマルクス、共産主義者同盟は、史観として階級闘争に偏倚し、永続革命論を唱えて改良闘争を排却していた。実践的にはドイツ3月革命に一戦闘部隊として加わったものの、フランスでは「革命の錬金術師」(7−280)と見做すブランキ(派)と「革命的共産主義者万国協会」を結成する程度しか打つ手をもたず、2月革命の現場で闘ったのではなかった。『ブリュメール18日』は、2月革命、3月革命の敗退後に共産主義者同盟が内訌に陥ったなかで、アメリカに移った同志ヴァイデマイヤーが企画した雑誌への寄稿として発表された。
 『ブリュメール18日』は、実地には居合わせなかったマルクスが仮想する革命的労働者に代わって表した革命的変革のストーリーの性格を帯びていて、その点でも『フランスの内乱』と違っていた。周知のように、ルイ・ボナパルトの統治を二番煎じの笑劇に喩えたプロローグをはじめとして、同書には文学的に秀逸な形容に飾られた歴史哲学的知見が織りこまれている。それに焦点をあてた文学的、哲学的な評価は一つの見地であり、それはそれで固有の意義を有する。しかし、エンゲルスの賛辞と20世紀マルクス主義の通説に無批判的に倣って、語り手がマルクスであるがゆえに彼の語りを真正化し史的事実に優位させてはなるまい。
 本稿は、階級論として「経済的階級と政治的階級」の区別と関連、「representation」の「表象と代表」の背反的な両義性といった角度から、『ブリュメール18日』を再審し批判した。つまるところ、マルクス後のマルクス主義の悪しき伝統、一種のマルクス物神化傾向を打破しようとする試みの一つである。
 
 「V エンゲルス国家論の地平」
 マルクス主義国家論の定説として処遇されてきた『家族、私有財産及び国家の起源』の国家論部をはじめとする後期エンゲルス国家論に対し、『マルクス、エンゲルスの国家論』(現代思潮社、1978年)「第七章 後期エンゲルスの国家論」、『近代国家の起源と構造』(論創社、1983年)第一章「第一節 エンゲルスの理論的破綻」の批判的論稿を既に発表していた。
 それらを前段にして、本稿では、原始・古代史研究の開拓的労作であるモルガン『古代社会』を全面的な拠り所にしたエンゲルス『起源』の国家論について、マルクスの遺稿「『古代社会』ノート」と『起源』国家論部を対質し全面的に検討に付して諸々の難点、過誤を抉出した。いわゆる「マルクス・エンゲルス問題」の解明の一端でもある。
 ここでは、論判の概要を記すよりも、後期エンゲルス理論への批判の徹底に努めてきた所以の一半に触れたい。
 後期のエンゲルスは『反デユーリング論』『家族、私有財産及び国家の起源』『空想から科学への社会主義の発展』『フォイエルバッハ論』などを著して、マルクス主義思想・理論の普及に大きく貢献した。爾来、これらの啓蒙的著作を手引書にして人々はマルクス主義を理解し習得してきた。
 『起源』の国家論が非マルクス的な、エンゲルスの独自的な国家理論形成であったように、後期エンゲルス理論はマルクスとの一定のずれ、相異を含んでいた。書評「カール・マルクス『経済学批判』」での歴史過程に理論展開を照応させる「歴史的・論理的」方法の解説(13−477)、革命論ではプロレタリア革命後の生産手段の社会化への過渡として「まずはじめには国家所有に転化」(20−289、19−225)の提唱、パリ・コミューンについてこれを「プロレタリアート独裁」(22−205)と呼ぶ、これらが代表的事例であった。
 マルクスの経済学の方法では、理論的な序列は歴史の系列に照応するのではなく近代ブルジョア社会諸関係の編成構造に規定されるのだった。また、革命後の経済構成に関して協同組合的な生産と所有の構想に達した後期には、生産手段の国家所有化を説くことは一度もなかったし、パリ・コミューンを「プロレタリアート独裁」とは見做さなかった。
 唯物論的な世界観を共有し比類なき協力関係で結ばれているとはいえ、知的に卓越した両人それぞれの個性的な理論開示に捩れ、食い違いが生じるのは当然であった。エンゲルス流のマルクス主義の展開はむしろマルクス主義思想・理論の多様な豊富化であるという見方もできる。
 次のような事情も勘案しなければならない。エンゲルスは1850年から69年まで、30歳から50歳までの青・壮年時代を、産業革命の中心地マンチェスターで綿工業を営む家業エルメン&エンゲルス商会の経営に従事して過ごした。そうすることで、会社経営に携わって得た財力を活かして『資本論』創造に邁進するマルクスとその家族の生活を支えたが、その間の理論的活動は軍事問題など至極僅かに限られていた。「およそ抽象的思考は僕に無縁になっている」(29−250)状態にあった。他方、この期間におけるマルクスの理論研究の発展は目覚ましかった。
 否定的な問題は、20世紀の後継者達によるマルクス、エンゲルスの理論の読み取りとそれの実現とともに顕出した。
 レーニンは『国家と革命』に明示したように、『共産主義派宣言』と『反デユーリング論』から引用して生産手段の国家所有化を革命後の経済建設の基本路線として定立し、老エンゲルスのパリ・コミューンをプロレタリアート独裁だとする発言に拠りつつコミューン型国家を革命独裁国家として構像した。彼は総じて後期エンゲルス理論に依拠してマルクス主義を系統立てた。そして、それらの理論は1917年10月革命による権力奪取と同時に物質的に制度化された。
 「マルクス=エンゲルス」と一体化し、生産手段の国家所有化とプロレタリアート独裁を基幹とする20世紀社会主義世界革命運動は、かようにしてかたちづくられた。
 前世紀末に20世紀マルクス主義の崩落を目撃し、その批判的総括に取り組むにあたって、後期エンゲルス理論に対しても厳しく論判せざるをえないのである。
 
  「W 十月革命におけるソヴェト国家体制創建の問題」
 10月革命を賛美してきた「正統」公定説も、一転してボリシェヴィキのクーデタと批判する近年の流行説も排して、パンと土地と平和を熱望する民衆(労働者、兵士、農民)革命と政治権力獲得を追求するボリシェヴィキ革命の複合とする視点から、17年2月革命から10月革命を経て18年7月の「ロシア・ソヴェト共和国憲法」制定までの激動する歴史を辿り、ソヴェト国家体制創建の問題性の究明を図った。世界史的な一大変革として未来への希望を開くと期待されたロシア革命が、ボリシェヴィキ革命による民衆革命の統轄、前衛党支配体制へ転じていったのは何故か、その闇の部分を析出した。
 本稿の独自的な論点として、上記の民衆革命とボリシェヴィキ革命の複合の視点以外に、4点を挙げる。
 @ レーニンの革命国家構想に関して、コミューン(型)国家の公安委員会型国家への改竄。
 パリ・コミューンでは、危局に陥るとジャコバン派、ブランキ派などが一切の権力を集中した公安委員会を、国際労働者協会派など少数派の反対を封じこめて設立した。それを継いで、十月革命直前『国家と革命』のレーニンは、公安委員会を再現する「同時に執行府でも立法府でもある行動的団体」(25−455)を中枢とする革命国家を描いた。コミューン型国家を称しながら、それを永年唱え続けているプロレタリアート独裁に符合する公安委員会型国家に改編した。
 A 革命政府に関して、人民委員会議は公安委員会型政府。
 10月革命により権力を奪取したレーニン、ボリシェヴィキ党は、革命政府として人民委員会議を創設した。10月30日の人民委員会議議長レーニン名の布告「法律を裁可公布する順序について」は、すべての法案は人民委員が各省をつうじ政府に提出し、政府が裁可して公布すると定めた(リード『世界をゆるがした十日間』、下、付録162頁)。人民委員会議が執行権力に加えて立法権力をも掌握するものであった。この布告は、全ロシア・ソヴェト中央執行委員会においてエスエル左派などの反対による激論、紛糾の末に僅差で可決された。
 執行権力と立法権力を一手に集中した人民委員会議は、ソヴェト中央執行委員会の上に立つ機関として、単独で次々に多様な法令を発して新体制の構築を進めた。本来は革命政府に転化するのが筋であったソヴェト中央執行委員会は、人民委員会議の監督や法令の審査にあたる第二義的な機関となり、やがて「議会」化していった。
 B 人権に関して、「勤労被搾取人民の権利宣言」の偏狭性。
 すべての革命勢力により求められてきた憲法制定会議を招集する選挙が人民委員会議のもとで実施され、エスエル右派が大勝する結果となった。厳しい現実を打開する策として、ボリシェヴィキは開会された憲法制定会議に「勤労被搾取人民の権利宣言」を提出し、これが反対多数で否決されるや、憲法制定会議を強制的に解散させた。「勤労被搾取人民の権利宣言」は全ロシア労・兵ソヴェト大会で採択され、「ソヴェト共和国憲法」にその第一篇として収められた。
 レーニンの起草でありソヴェト共和国建設の道標となる「勤労被搾取人民の権利宣言」は、しかしながら、重大な欠陥を内有していた。根本的な点を挙げると、一つには、「勤労被搾取」者の権利は、個々人の権利ではなく、集団としての人民の権利である。「勤労被搾取人民」全体とは利益、思想・行同を異にする個人、グループの権利は制限され剥奪される。権利は、集団主義的ないし全体主義的に規制され、自由や民主主義は同質集団内部のそれにすぎない。また一つには、国家と権利の関係について、前国家的権利や対国家的権利は認められず、排撃される。国家が権利に優位し、権利は国家によって与えられる。
 「勤労被搾取人民の権利宣言」は、ツアーリズム専制から漸く脱したロシアでは画期的な前進であったが、世界史的には時代遅れの人権宣言であった。にもかかわらず、それに対するマルクス主義者の批判を寡聞にして知らない。批判の欠如は、20世紀マルクス主義の歴史的な性格をよく物語る一つに数えられる。
 C 代表制と派遣制の交錯。
 労・農・兵ソヴェトとボリシェヴィキ党との関係に留目し、ボリシェヴィキ革命に統轄されていった民衆革命の限界、弱点を掴み取ろうと試みた。20世紀の社会主義は前衛政党の社会主義であったが、21世紀からの民衆自身を主体とする社会主義を思念して。
 ソヴェトには、チャーティスト運動、パリ・コミューンなど民衆革命運動の自律性を示す下からの民主主義を貫く派遣制delegational systemの精神が脈打っていた。だが、同時に職業政治家、政党が上から民衆を代意し代行する代表制representative system も流れ込んでいて、革命諸政党にソヴェト執行部に参画し指導する席が割当てられていた。
 レーニンはパリ・コミューンで実施され『フランスの内乱』にも明記されている派遣制について無理解であり、ブルジョア的代表制に換えて定立したのはプロレタリア的代表制であった。
 ロシア革命においては、国家形成にかかわる政治問題は職業政治家の専決事項であって、どのような国家を新たに打ちたてるか、民衆は革命党派のリーダー達に委ねその指導に服するだけであった。
 なお、見失われてきた原則delegational systemを発掘して派遣制と邦訳しているが、これは仮の訳である。
 本稿が10月革命の呪縛からの解放に資することを願っている。
 
 「X グラムシの国家論」
 グラムシは「ヘゲモニー(装置)」論を開発して国家論に導入し、マルクス、エンゲルスが果たしえず、レーニンに欠けていた境位を創造的に提示する功績を果たした。 
 「国家=政治社会+市民社会」のテーゼを、ファシズムのイデオローグ、ジェンティーレの国家至上主義と対決してクローチェの「倫理―政治史」論を継承し、イタリア思想界に圧倒的影響を及ぼしてきたヘーゲル法哲学を土壌にして立論した。 
 経済から倫理・政治への躍入を「カタルシス」の述語で提議したのも、国家発生論の究明の基礎視座として貴重であった。
 革命後の国家に関して、「政治社会の市民社会への再吸収」を正当に展望したが、他方で、「現代の君主」に擬した革命政党に大きな役割を与えて党を萌芽形態とする国家像を描いてレーニンの過誤を承け継いでいた。

 2、加藤哲郎「マルクス主義国家論の回顧・再論 大藪龍介『マルクス主義のパラダイム転換へ』に寄せて」に応えて

 (1)1979年の東欧革命、91年のソ連崩壊の激動に直面し、加藤さんは流動する歴史の只中で、『東欧革命と社会主義』(花伝社、1990年)、『ソ連崩壊と社会主義』(花伝社、1992年)など、ソ連・東欧「社会主義」体制崩落の世界史的意味を問い質す理論的研究の第一人者として活躍した。 
 『東欧革命と社会主義』「T 東欧民主主義革命―その理論的衝撃」「Y 永続民主主義革命の理論」において、「ソ連型社会主義」(23頁)崩壊の世界史的意味を訊ね、「国家主義的社会主義から多元主義的民主主義へ」(19頁)の銘で、ソ連・東欧に対する全面的批判と永続民主主義革命の構想として提示している。
 「ソ連型社会主義」は、思想では「マルクス・レーニン主義」の「国教としての「共産党イデオロギー」」(19頁)を国是とする。政治システムは「一党独裁・ノーメンクラトゥーラ支配」(23頁)であり、「一枚岩主義」(34頁)の「民主主義的中央集権制=軍事的集権」(36頁)を組織原理にする。経済システムは「国有化至上主義による集権的計画経済」(44頁)である。分析は的を射ている。
 「永続民主主義革命」に関しては、「労働生活における革命」(283頁)として「「生産手段の社会化」と「企業の市民的統治」」(288頁)、「自由時間における革命』として「労働時間の短縮と多数の「クラブ」「フォーラム」「円卓会議」の制度化による、「政治のための時間と空間の市民的権利」(293頁)、「世界空間における革命」として、経済や政治の国際化、情報交通の世界化のもとで、「グローバルに考え、ローカルに行動を!」(296頁)、
 「国家そのものに対する革命」として、マルクスの「国家権力の社会による再吸収」(299頁)、「あらゆる国家(的社会関係)の廃絶」(303頁)が構案されている。
 ソ連の「国家主義的社会主義」の歪みを批判するとともに、社会主義革命の課題とされてきた諸問題を永続民主主義革命の課題に置きなおす営為と言える。
 続く『ソ連崩壊と社会主義』においても、「20世紀に現実に存在したレーニン・コミンテルン型社会主義思想・運動・国家の全般的な崩壊」(14頁)について再述され、それを踏まえて「民主主義の欠如こそ現存社会主義崩壊の主要因」(12頁)と説かれている。取って代るのは、社会民主主義やアナーキズム、サンディカリズム、労働組合運動、協同組合運動、市民運動、社会運動など総結集の多元主義的民主主義運動とされる。
 更に、「今社会主義の再生について考えるのなら、19世紀前半まで戻って考えなおなくてはいけない…。初期社会主義、空想的社会主義と呼ばれるものを含めて」(265頁)。始原に立ち返っての反省的再思考の欠かせないことが示唆されている。肯綮に当たる。
 如上の所論は、内外の情報や文献をも取り込んだ論圏の広がり、多角的なアプローチ、多彩な論点において際立っており、ソ連・東欧「社会主義」を全面批判し、レーニン・コミンテルン型社会主義思想・運動と決別する先駆的な業績である。
 同時期、私はマルクス主義国家論の限界や欠陥を批判し新たな国家論の創造を求めて、『現代の国家論』(世界書院、1989年)、『国家と民主主義』(社会評論社、1992年)を著した。問題意識の重なり合う加藤さんの理論的追求に共感するとともに啓発され教示されるところは大きかった。
 (2)加藤さんと私の思想的・理論的軌跡、ならびにマルクス主義理論戦線における立ち位置は対照的に異なっていた。1980年代あたりまで、大学アカデミズムのマルクス主義理論と左翼論壇にあってソ連マルクス主義、ソ連「社会主義」に拠って立つ共産党(系)学者集団が依然として圧倒的なほどの主流を占めて、哲学、経済学、政治学、歴史学、社会主義論などを専門とする有名大学教授のお歴々が陣営を構成、『講座史的唯物論と現代』全6巻(青木書店、1979年)などを次々に送りだしていた。政治学や社会主義論のトップ・リーダーは田口福久治さん、藤田勇さんであり、同集団に加藤さんも属していた。だが、論稿「一つの国家論入門―社会科学を志す人々へ」(『日本の科学者』20巻5号、1985年)に示さるように、レーニン『国家と革命』への批判的眼差しを持しており、陣営のなかで異色であったようである。1989〜91年には、レーニン主義、ソ連「社会主義」の根底的な批判を敢行したのだった。
 他方、私はまったく単独、微小であり、1984年にやっと大学のポストを得て、マルクス主義国家論の再審を進めた。共産党(系)の理論は批判対象そのものであり、理論闘争を挑んで、ミニコミ誌に場を借り、「「正統」派国家論研究の現段階」(『現代と展望』18号、91年3月)や「藤田社会主義社会論の批判」(同36〜37号、93年12月、94年5月)を発表した(両論文はホームページ「マルクス主義理論のパラダイム転換へ」の小論文欄に収録)。
 だが、ソ連・東欧「社会主義」崩壊が勃発すると、加藤さんも私もその衝撃を真正面から受けとめ、それまでの自分の研究を見直す思想的・理論的な格闘を真摯におこなったことで共通していた。
 二人は90年代の一時期、フォーラム90’sの社会主義関係の分科会で共同活動し、共編著『社会主義像の展相』(世界書院、1993年)を公にした。
 その後は、それぞれの道を歩むことになった。加藤さんは今回の拙著書評のなかに一部再録の論文「『国家論ルネサンス』の回顧」(『社会理論研究』第7号、2006年)で、「マルクス主義国家論に限界を感じ、むしろ第一次資料を基に具体的な国家と社会を歴史的・実証的に解明する世界に入りこんだ」と記している。その歴史的実証研究として、『モスクワで粛清された日本人』(青木書店、1994年)などの成果が多産されている。私の方は、初発からのテーマであるエンゲルス、レーニンの国家論、社会主義論に対する批判や『資本論』にあたる国家本質論の創出に執念を燃やし続けながら、『マルクス社会主義像の転換』(御茶の水書房、1996年)を公刊した。
 現今の加藤さんの研究に関しては、『20世紀を超えて』(花伝社、2001年)における社会主義の再審、永続民主主義革命論の展開に止目する。
 現代の「陣地戦の時代」(17頁)への変化情況、とりわけ「情報戦の時代」(21頁)を踏まえつつ、「陣地なき時代の革命」(34頁)における「民主主義の永久革命」(32頁)が提唱される。その際、丸山真男さんの民主主義論考が摂取されている。「社会主義について永久革命を語ることは意味をなさぬ。永久革命はただ民主主義についてのみ語りうる。なぜなら民主主義とは人民の支配という永遠の逆説を内にふくんだ概念だからだ」(丸山真男『自己内対話』)。
 社会主義の思想・運動は、生産機構の歯車となった担い手達の人間性喪失、生産力の巨大な発達のもたらした環境破壊など、これら大弊害を正すと目されていた。しかし、変革をなしえずに頓挫し崩壊した。かかる結末にいたった社会主義論のオルタナティブとして、「永続民主主義革命」論は提唱されている。「永続民主主義革命」論は社会主義論に代替する資本主義体制変革の社会革命構想の意義を有している。
 私も『国家と民主主義』「第三篇 レーニンの民主主義論」、『マルクス社会主義像の転換』「後篇 マルクス、エンゲルスの民主主義論」において、レーニンの民主主義論の偏面性とソ連民主主義の疑似的性格、マルクス、エンゲルスの民主主義論の多大の限界を明らかにし、併せて社会主義革命は自由民主主議を超え出る高次民主主義革命でもなければならないと説いてきた。この立場から、「永続民主主義革命」論の彫琢を社会革命論再構築の一つとして評価する。
 (3)今回は『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』の批評をいただいた。自らのマルクス主義国家論研究を振り返り、拙著との対質がおこなわれている。
 まず、「「パラダイム転換」は、複数以上の「パラダイム」の対峙・競合のなかから相対的「真理」に近づいていく手法」と規定されている。この規定を確認したい。
 続いては、自分の研究の「導きの糸」は「国家の社会への再吸収」視角にあったことに触れ、『フランスの内乱』の「国家の社会への再吸収」テーゼを重要視する拙論への共鳴が表明されている。
 また、大藪の論の核心点を、「レーニン「国家と革命」によるコミューン型国家論の復権が、パリ・コミューンの史実を歪め、本来「協同組合型試行社会・地域自治体連合国家の構想」であるマルクスの所論を誤解して「コミューン型国家を公安委員会型国家へ改編している」」と要約されている。それとは異なるアプローチをとり、自らは前記「一つの国家論入門―社会科学を志す人々へ」で、「マルクスよりもエンゲルスにより多く依拠し」、且つ『フランスの内乱』を一面的に読解し「精神的抑圧力」を無視しているレーニンの欠陥を読みとったとされている。
 そして、「マルクス主義国家論へのアプローチの仕方と「古典」へのスタンスは違った。だが、半世紀近くを経て、共にマルクスの「国家の社会による再吸収」という国家観が最重要であるという境地に到達した」とまとめられている。同時に、「「マルクス主義国家論」も、研究者により、社会運動家により、さまざまに読まれて当然ではないか」と説かれる。然りである。
 全般的な理論の形成と展開のスタイルとして、加藤さんは時代の現況と潮流を読み解いて具体的な現実論を主軸に展開し、大藪は『資本論』に相応する国家論創出を目指し抽象的な理念論に重きをおいてきた。各々の個性的特徴を有しながら、マルクス主義国家論・革命論研究の共通点の多いことをあらためて認識する。
 二人が現在の時点で達しているマルク主義国家論研究の一致点は、視角、力点の置き所に違いがあっても、以下のように概括できよう。
 マルクスの遺した国家論研究の到達地平は、『フランスの内乱』である。その「国家の社会への再吸収」テーゼを根本視座として継受する。
 マルクス主義国家論史に関して、エンゲルス、レーニンはマルクス『フランスの内乱』における既存国家の構造分析とそれに取って代るコミューン国家の編制原則の解明を歪め、一面化して承継した。
 マルクス、エンゲルスの民主主義論は独自の分析に乏しく弱体である。
 グラムシの国家論を高く評価する。
 未来は、マルクス主義の国家論、革命論、社会主義論の再興ではなく、その超出にある。ロシア革命型、コミンテルン型とは全く別異の、社会主義と民主主義を結合した変革理論の構築である。加藤さんは永続民主主義革命の思想・運動を、大藪はマルクス政治理論をも超出する解放思想・運動を追求する。
 加藤さんは、二人について「方法論的にも政治的にも異なる出発点から「マルクス主義国家論」に取り組んだ…この半世紀の紆余曲折を経て、ほぼ同様の結論に至った」とされる。まさしくその通りである。感慨深いものがある。
 後回しにしてきたが、個別的な対立点の幾つかに触れる。
 第一点、1970〜80年代にアルチュセールやプーランザス、ジェソップなどの国家論が相次いで翻訳出版され、「ネオ・マルクス主義」として持て囃された。加藤さんによる評価も積極的だった。だが、拙見では、それらはマルクスの極めて一面的な読みこみに基づく「マルクス=レーニン主義」国家論の補整であったし、「国家=諸階級の力関係の凝縮」説は国家に関する定義の一つにすぎなかった。つまるところ、「ネオ・マルクス主義」国家論はマルクス主義国家論研究の低迷を打破しえない、むしろ混迷の所産であった。詳細な批判は、「アルチュセール国家論の再審」(『国家とは何か 議会制民主主義国家本質論綱要』御茶の水書房、2013年、「付論 第4章」)、「プーランザス『政治権力と社会階級』の挑戦」(『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』、「U」の「二」の「1」)。
 第二点、10月革命について「クーデタとしての十月革命」(『ソ連崩壊と社会主義』、64頁)と述べ、クーデタ説に与している。だが、2月革命以降の労・農・兵民衆革命運動の高揚、拡大は嘗てない規模に達したし、ボリシェヴィキはメンシェヴィキやエスエルを次第に追い落として、10月革命時の第二回全ロシア労・兵ソヴェト大会では出席代議員の大多数の支持を獲得していた。ボリシェヴィキ党の国家権力掌握は、下からの急進化する民衆運動を基盤にしていたのだった。クーデタ説は、民衆革命とボリシェヴィキ革命の絡まり合った進行過程の一局面の誇大視である。
 第三点、ソ連体制について「国家主義的社会主義」と規定する。国家主義的に歪んでいていても社会主義とする。しかし、17年のロシア革命の実態、ならびに10月革命後のレーニンによる経済的には「国家資本主義」ウクラードの優勢、政治的には「官僚主義的に歪んでいる労働者国家」という現状分析に示されるように、レーニン時代には社会主義へ向かって進む軌道を探索しそれを敷設するのに必死であった。ソ連を社会主義に到達したと宣明したのは、1929年からの「上からの革命」を経た後、1936年のスターリンの託宣であった。ところが、スターリン時代に築かれたのは社会主義への軌道から逸脱した体制に他ならなかった。
 ソ連の衰退が進行しスターリン主義が分解していくなか、1960年代から70年代にかけて、ソ連、中国、ユーゴスラヴィアなどの間で、革命後の歴史の推移に関する社会主義への過渡期、社会主義の低い段階、社会主義の高い段階=共産主義の区分をめぐる国際的な論争が交わされた。社会主義への過渡期を社会主義の低い段階と同視するのも有力な説であった。加藤さんの「国家主義的社会主義」説は、その説を基礎にしているようである。
 私について言えば、1950年代末の学生運動時以来ソ連体制を社会主義への過渡期の疎外態、似非社会主義と捉えて積極的な規定は保留してきたのだが、近年は国家資本主義説を採っている。
 最後に、我々が思索を重ねて達した地点がマルクス政治・国家理論を継承しようとする若い活動家や研究者の基礎として役立てられることを願っている。

 3、田畑稔「議論をどうクロスさせるか―大藪龍介国家論研究を読む」に応えて

 (1)田畑稔さんには『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』の批評を『コモンズ』第147号においていただいており、この度の批評は、現に取り組まれている「生活過程論」と関連づけて、『国家とは何か 議会制民主主義国家本質論綱要』の論点に関しておこなわれている。着想以来半世紀近い研究を集成した本書を取りあげて批評いただくのは有難い。
 議論のクロスを図って、田畑論文「マルクスの「生活過程」論」(伊藤誠他編『21世紀のマルクス』新泉社、2019年、所収)を主対象に、「生活過程論」、「政治的生活過程論」へのコメントから始める。
 構想されているプランの諸項目が内容展開されるにいたっていない段階の研究を評するには無理がある。各項目の内容提示を俟って批評するのが筋であるけれども、既に示されている方法的視座の幾つかをめぐって私見を述べる。
 第一点、「生活過程論」の理論的な性格、レヴェルについて。
 「全体図」として掲示されているのは、「総過程」「生命過程」「部分諸過程」「〔個人的〕生活過程」という意欲溢れる、自然科学を含む壮大な論域である。社会科学にかかわる「部分諸過程」は、「物質的生活過程」「社会的生活過程」「政治的生活過程」「精神的生活過程」に分節化されている。そのうちの「物質的生活過程」については、マルクス『経済学批判要綱』『資本論』などによって果たされている基本的解明を摂取するとしても、その他の「生活過程」に関しては開拓的研究が求められ、容易ならざる作業と思われる。
 その理論形成は、どのような性格、レヴェルで設定されているだろうか。 
 マルクス主義が華やかなりし1980年頃まで、社会科学、歴史科学の総合的研究として史的唯物論の構築が追求され、史的唯物論のいろいろの展開が論壇に溢れていた。代表作の一つ『講座 史的唯物論と現代』全6巻(青木書店、1977年)、なかでも『第2巻 理論構造と基本概念』の主要部に、田畑さんのプランの「部分諸過程」の四つの分節は重なりあっている。この巻に「上部構造論の再構成」を執筆した中野徹三さんは、『生活過程論の射程』(窓社、1989年)を著して、「生活の総体把握」として「物質的生活過程」「「政治的生活過程」「精神的生活過程」「社会的生活過程」から成る「生活過程論」を概説し、加えて「マルクス国家論の再構成と生活過程論」を展開している。田畑さんは中野書を「先駆的な仕事」と評価しているが、一昔前に第一線で活躍した論者達の史的唯物論を豊富化する論考にどのように応対するのだろうか。
 後期エンゲルスは、『資本論』と唯物史観によって社会主義は科学となったと言述した。更にその後、史的唯物論の新語を造ったが、唯物史観と史的唯物論は区別立てせず同義語として用いた。レーニンによると、「『資本論』が出現してからは…唯物史観はもう仮説ではなくて、科学的に証明済みの命題である」(『人民の友』とはなにか』、1−135)。
 スターリンは『弁証法的唯物論と史的唯物論について』において、弁証法的唯物論の諸命題を社会生活の研究に押し広げたものとして史的唯物論を位置づけた。爾来、社会科学や歴史科学を史的唯物論として説論するのが定番となった。
 中野「生活過程論」はスターリン主義色に染めあげられた史的唯物論から脱却し、それを再構成する追求であった。但し、中野「マルクス国家論の再構成と生活過程論」のマルクス国家論再構成は、通俗論と似たり寄ったりで新規性に欠けていた。
 田畑「生活過程論」は、(弁証法的)唯物論あるいは史的唯物論の新生、新構成なのだろうか。個別諸科学の総合なのだろうか。科学的哲学もしくは哲学的科学だろうか。それらとは別の理論の追求であろうか。その理論的性格を問いたい。そして、理論内容として、さしあたっては上記『理論構造と基本概念』に収められた諸論文や中野「生活過程論」の乗り越えをどのように進められるか、注視したい。
 議論を生産的にクロスさせるには、「政治的生活過程論」と『国家とは何か 議会制民主主義国家本質論要綱」の理論的性格の違いを押さえてかかる必要があろう。「政治的生活過程」論は従来の史的唯物論の新規構成にかかわり、『議会制民主主義国家本質論要綱』は、後述する近現代国家に関する本質論・歴史的段階論・現状分析論の三段階論的に分化した研究における本質論の試行である。それぞれに性格を別にする独自的な論であり、択一的なものではない。この点を押さえて、相手の論の理解の不十分さから生じる不要な齟齬を極力少なくするように心掛けたい。 
 第二点、「端初規定」をめぐって。
 「端初規定」の語句は、最初に接した時に連想した『資本論』の学的始元に関する「端初範疇」とははまったく異なり、それぞれの「生活過程」の「諸行為、諸構造、諸過程」、「行為、構造、過程の三つの層」と説明されている。そうだとすると、「行為、構造、過程」にわたるのに何故「端初」なのか、理解が難しい。より適切な別語に代える―例えば「総括規定」―の方がよいのではなかろうか。
 第三点、国家論の「端初規定」を「社会の公的総括」とすることについて。
 『マルクスと哲学』(新泉社、2004年)第9章の「マルクス国家論の端緒規定」で、『要綱』プラン中の「国家の形態での市民社会の総括」、『ドイツ・イデオロギー』での「ある時代の全市民社会が自分を総括する形態」など、関連するマルクスの諸記述を拾いあげる作業がおこなわれている。
 しかしながら、「端初規定」としての「社会の公的総括」の抽出には、幾つもの難点が所在する。
 まず、マルクスの国家論考を掴むうえで欠かせない重要な論述である青年期における「ヘーゲル国法論批判」、MEWでは「市民社会と共産主義革命」と名づけられた“国家批判プラン” 、『共産主義派宣言』での国家の二通りの概念規定、後期における『資本論』における国家に関する記述、イギリス国家への言及などは捨象されている。マルクスが生涯でおこなった国家論研究の半分程度しか取り扱われていない。文献考証的には片手落ちであろう。上記のマルクスの論述を採らない所以は、不明である。
 次に、引証され拠り所とされているマルクス、エンゲルスの言述は、その時々の理論研究のなかでの国家に関する規定、定義である。ここで、定義の意義と限界を確認する。エンゲルスの次の説明は的確であると考える。「定義というものは常に不十分なものであるから、科学上は無価値である。唯一の真実な定義は、事柄そのものを展開することにあるが、しかし、これではもう定義ということにはならない。…これに反して日常の用途のためには、最も一般的であると同時に最も著しい特徴をいわゆる定義のかたちで簡単に示すことが、時としては有益でありまた必要でさえありうる」(20−622)。
 『議会制民主主義国家本質論綱要』「序 対象と方法」で記述しているように、現実的対象には多様な側面があり特徴がある。古来ヤヌス双面神に擬えられてきた国家については、とりわけそうである。国家に関するいろいろな規定、定義は対象としての国家が備えもっている多面的な特徴のそれぞれを表す。簡明な規定、定義は、国家とは何かについて平易に説明するのに必要にして有益であるし、便宜的に活用できる。科学的意味での本質論的国家論は、これらの概念規定、定義を含みつつそれらを総合し止揚して形成される。科学的な本質的理論を形成する下向・上向の方法として見ると、概念規定、定義は対象の下向的分析過程の所産であり、それらによって明らかにされた事相は上向的総合過程の展開に組みこまれる。
 理論戦線でしばしば見受けられるのは、マルクスの国家に関する多様な規定、定義のなかの最重要視する一つを押し立てて、それを国家の本質に仕立てる俗説である。そうした安直な説論は、マルクス主義国家論研究の皮相な低水準性を示している。
 田畑さんの場合、国家論の内実展開として、「総括国家」「表現国家」「上部構造国家」「分業国家」「幻想国家」「自由主義国家」「階級国家」などが、マルクスの記述を取りだして解釈し敷衍する形で示される。つまり、マルクスが同一の国家が備えもつ多彩な特徴的側面を分析した諸々の定義を集大成して国家論は編成されている。
 かような国家論の試行に対しても、前述した定義の意義と限界が妥当しよう。
 多面、近現代国家を論じる際には欠かせない国民国家、立憲国家、権力分立国家などは登場しない。マルクスが近現代国家の歴史的特質という角度からのアプローチと解明を果たさなかったからであろうか。
 余談として上記「自由主義国家」に関しコメントすると、『資本論』第一巻第二篇第四章の労働市場に関する周知の「自由、平等、所有、ベンサム」の行を「自由主義国家」の論拠にするのはお門違いである。「自由、平等、所有」と四位一体的に「ベンサム」―ロックでもスミスでもなく―の掲出が予示するのは、自由民主主義国家である。マルクス主義研究者に通有のベンサム政治理論の無理解が見られる。
 国家論の形成には、マルクスが遺した断片的記述を踏まえつつも、現実的な対象である国家構造そのものを解析する−その対象をどう設定するかの方法が絡む―、そしてマルクスの記述をも捉え返す、こうした研究が肝心であろう。
 なお、文中で「総括国家をもってマルクス国家論の端初規定とする」と述べられている。そうであれば、「総括国家」以外の上記諸「国家」の「端初規定」との関係は不分明である。
 「マルクス国家論の端緒規定」論文が最初に発表された1993年から、かなりの年月を経ている。現在の田畑さんが立つ理論的地点を活かした新規開発的研究への前進を期待する。
 (2)『議会制民主主義国家本質論綱要」への田畑さんの批評に戻る。
 拙著は、『資本論』に学んで、典型的に19世紀中・後葉のイギリスに現出した議会制民主主義政治・国家の対象的分析を抽象化する方法をとり、「T 国家の発生根拠」「U 国家のイデオロギー的構成原理」「V 国家の担い手」「W 国家権力機構」の篇別構成で、国家を中軸にする政治体制の本質論的究明を試みている。
 ところで、資本主義経済と同様、ブルジョア国家は時代と地域により多種多様な形姿をとって実在する。その総体をどのように理論的に解明し開示するか。
 この問題で、マルクス『資本論』、ヒルファーディングやレーニンの帝国主義論、日本資本主義論争のそれぞれにおいて達成された業績を受け継ぎつつ、それらを方法論として整備して築かれた宇野経済学三段階論を摂取して、本質論、発展段階論、現状分析論を区別し関連づける国家論研究を自らの立場としている。「近代国家に関する理論自体が、本質論と現実諸形態論(初期、盛期、後期の歴史的発展段階論や各国の類型論、更に個別具体的な国家論)に分化し、多層的に構成され、多様に展開される」(『議会制民主主義国家本質論綱要』、7頁)。
 『近代国家の起源と構造』(論創社、1983年)、『議会制民主主義国家本質論綱要』は本質論の展開、『明治国家論』(社会評論社、2010年)、『日本のファシズム』(社会評論社、2020年)は現状分析論の試みである。発展段階論としての帝国主義国家論については著論のなかで関説するにとどまっている。
 如上の国家論研究は、『マルクス、エンゲルスの国家論』(現代思潮社、1978年)におけるマルクスとエンゲルスの国家論を追思惟してその達成を見極める作業を前提にしている。マルクスは『資本論』のような国家論の傑作を遺さなかったし、替わって後期エンゲルスが難点だらけの国家論を著したことを掴みとったことから、創始者達を越える国家論創造に挑戦する課題が浮上したのだった。
 田畑さんは拙著の「いくつかの空白部」を適示している。
 資本主義世界システムの「周辺国家、半周辺国家、移動国家」を対象とする作業が残っているとの指摘は、その通りである。自分の能力はたかが知れているので、国家本質論と日本国家の分析に集中して研究しているだけである。
 「歴史的発生論」の「空白」も指摘されている。国家発生論に加えて国家発生史論も課題である。私論では、国家発生史論は歴史上のブルジョア革命の研究であり、近代国家に関する三段階論的構成において歴史的発展段階論のうちの初期・自由主義段階国家論のなかに位置づけられる。50年ほど前に「イギリス革命論の諸問題」を執筆し、1843〜68年のイギリスのピューリタン革命・名誉革命の研究に取り組んだものの、力不足のために中途半端に終わった。課題として残したままである。
 「政治行為論の展開が欠けている」の指摘もなされている。
 『議会制民主主義国家本質論綱要』では、社会諸階級の対立闘争を抑えて社会秩序を確立せんとする資本家・土地所有者階級の階級支配の意識的追及を政治の始まりとし、イデオローグによる国家構成の規範的原理の形成、この本源的な政治イデオロギーに則った政治家(集団)、政党による議会選挙の組織化を通じての政府及び行政・軍事機構創設へと論歩を進めていっている。
 田畑さんの「(政治)行為論」の内容は未展示だし、批判の意味がよく掴めないでいる。
 行為論に関しては、行為であっても例えば経済行為と政治行為の位差に注目し、それぞれの固有な性質を明らかにすることが重要ではなかろうか。拙論では、政治行為は(目的)意識あるいはイデオロギーに発する特質を有する。
 他に、『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』における『ブリュメール18日』に対する厳しい論判に異議が呈され、『ブリュメール18日』は「政治行為の交錯をあつかったマルクスの代表的な本」と見做されている。該書はそれを読みとる観点次第で多様な解釈が可能であるし、その「政治行為」論の角度からする読解を見て議論したい。
 (3)現下のマルクス理論研究に求められている開拓的創造。
 田畑さんは現在のマルクス研究が向かい合っている「21世紀問題」として、「人類史的規模の課題山積の現状に対するオルタナティブの実践的構築においてマルクスから何を摂取するか、マルクスをどの方向に「開く」べきか」を問うている。妥当な問題設定と受けとめられる。
 しかし、マルクスのライフワークとして『資本論』の学問的精華が遺された経済学と卓抜な理論を築くにはいたらなかった政治学、また社会主義論とでは相異がある。国家論に絞ると、経済学研究に理論的生涯の大半を費やし『資本論』の創造に心血を注いだマルクスは、パリ・コミューンの分析によりプロレタリア革命後の国家像を開発する功績を果たしものの、近代国家の構造を解剖する本格的研究には着手することなく他界した。マルクスに立ち戻っても、近現代国家を分析的に解明するにあたり拠り所とし基準としうる本質的国家論は所在しない。ただ、推察するに、成熟したマルクスにあっても、国家の問題は若き時代には主題的に考究した論目であり、『資本論』を土台として新たに立案する国家論考が脳裏をよぎっていたであろう。
 『経済学批判』、『資本論』のごとき学問的思索に基づく科学的な国家論は遺さなかったが、マルクスの生涯には国家に関する論述はかなり多くある。遺された国家論述をめぐっての解釈は様々に可能である。そうしたあれこれの文献解釈論的研究は、20世紀マルクス主義において永年にわたり膨大に積み重ねられてきたし、今後も評論家、大学教員や教条主義的なマルクス主義者などによって際限なく続けられるだろう。
 けれども、拙著で再三説いてきたように、マルクスが遺した国家論述をいかに上手に解釈敷衍し再構成しても、それによって確たる国家論を導き出すことはできない。国家論の場合、マルクス再読、再構成では、決定的な限界がある。
 勿論、解釈学を一概に否定するものではない。文献解釈論的研究、再構成であっても、今日的に促されているのは、新たな発見をともなう解釈論、補全的な再構成である。更には、21世紀段階の歴史的な要請に応えるマルクス理論新生の重要不可欠な一環として、国家理論の創造に挑戦する苦闘が求められているのである。
 拠り所となる確固とした国家論をマルクスは遺さなかったというのは、近年では1960年代末からの国家論ルネサンスの多くの論者達の共通認識であった。だが、実はマルクス没後からの永年の暗黙裡の確認事項なのであった。だからこそ、エンゲルスがマルクスの「遺言執行」として『起源』の国家論を執筆し、レーニン『国家と革命』は『起源』の国家論部をはじめとする後期エンゲルス国家論を継承し国家論研究の原典に据えた。更に、20世紀マルクス主義の定説・通説とされたのも、エンゲルス、レーニンの国家論であった。
 20世紀マルクス主義の破綻は、伝統的な文献解釈主義研究の克服を促し、あるいは命じているのではないだろうか。『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』で提言したように、「これまでの研究者達はただマルクス、エンゲルスの政治理論を解釈してきただけである。肝心なことはそれを変革することである」(61頁)。
 解釈(論)から創造(論)へ、マルクス国家論をも超える国家論創建への四苦八苦の挑戦、これがマルクス国家論の「21世紀問題」にほかならないだろう。

 4、斎藤幸平「大藪龍介『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』―マルクス・エンゲルス・レーニンの国家論の超克」に応えて

 (1)『唯物論研究』での拙著の批評に関し、評者として加藤さん、田畑さんの名が挙がったが、加藤さんから若い世代による新鮮な書評こそ必要との提案があった。そこで『人新世の「資本論」』で脚光を浴びて大活躍中の斎藤幸平さんに書評を依頼したところ、応諾いただいた。三本の批評を特集された編集部に深謝する。
 斎藤さんの拙著批評に接してから、未読であったデビュウ作『大洪水の前に』に眼を通した。
 『大洪水の前に』は、深刻化する環境危機を前に、マルクスの環境思想とその理論的射程を物質代謝論を視軸にして、MEGAの新資料「抜粋ノート」の自然科学研究、前資本主義社会や非西欧社会の研究をも精査し、エコロジカルなマルクスを照射している。各国の諸々の文献を渉猟して検討に付しつつ、マルクス思想・理論の新たな面を開拓してエコ社会主義の生命力を呼びおこす研究となっている。国際的に高く評価されるのは、至極尤もである。
 世界の先進的な理論家達と同等に議論し論陣を張るマルクス理論研究の出現は、日本マルクス主義の悪しき伝統を突破して画期的であり、オールドマルクス主義者としては心から喜びたい。
 日本におけるマルクス主義の歴史を顧みると、共産党結成に際してのいわゆる「27年テーゼ」「32年テーゼ」をはじめ、コミンテルンを絶対的な権威として仰ぎ、その現代史認識、戦略戦術に追従する理論・実践活動が圧倒的な潮流であった。戦中の「講座派」理論はもとより、敗戦後の大学アカデミズムに蟠踞する(プロ・)スターリン主義の学者連も、ソ連や共産党の理論を再生産して存在意義を示してきた。1950年代後半を区切りとして、ソ連「社会主義」や共産党の権威失墜につれ、日本の実状に適する自前のマルクス主義を建設する動向も徐々に胎動したが、それでも、各々の潮流、研究者(集団)はソ連や欧米の先進的と目する思想・理論の移入、解釈的敷衍―脚色は施されているとしても―の励行が主旋律であった。 
 外国製の直移入思想・理論が拠り所とされ押し立てられる在り様、別言するとオリジナリティの欠如は、発祥以来の日本のマルクス主義の宿痾、弊習であった。輸入学問への依存は、後れて近現代化する日本のやむをえざる伝統であったとしても、ソ連製の理論や指針の移植をめぐって戦前は勿論戦後にも幾度となく混乱し対立を重ねたマルクス主義はその極みであり、輸入理論のマイナス面を集中的に体現していた。かかる弊習に強い不信を抱きながら、自分自身はそれを改善する力を何らもたなかった。
 このような経験を潜ってきた者からすると、『大洪水の前に』は世界水準の新たなスタイルのマルクス理論研究であり、瞠目に値する。
 1990年設立の国際マルクス/エンゲルス財団の新MEGAの編集、刊行が国際的な協力で進行し、日本の研究者達も参画している。嘗てとまるっきり異なった研究の基礎的条件が造り出されている。
 (2)斎藤さんによる拙著批評の内容は、彼の研究歴に知見がなく、『大洪水の前に』の参考文献のなかに拙著『マルクス社会主義像の転換』が含まれていたのも今回初めて知った私にとっては、思いもしなかったほど親和的であった。
 「二つの点で」「大藪の研究に大きな影響を承けてきた」とされる。一つは、マルクスの社会革命論に関して、1848年革命時の『共産党宣言』などでの、まず政治革命によって支配権力を奪取し主要生産手段を国家所有化する国家中心主義路線から、1867年の『資本論』や71年パリ・コミューン時の『フランスの内乱』での、脱資本主義の社会的生産の基本たる生産協同組合(アソシエーション)と国家そのものの死滅へ向かうコミューン(型)国家の接合への「根本的な転換」を遂げたとする点である。
 いま一つは、マルクスとエンゲルスの「方法論の差異」」に関する。「マルクスの「独自の対象の独自の論理を掴む」という方法が失われ」、エンゲルスは「「対象の独自性の捨象による一般的論理の抽象に歪めて」いる」としている点である。
 『大洪水の前に』「第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー」においては、エコロジーに関するマルクスとエンゲルスの相異が「物質代謝」論を軸にして克明に考察され解き明かされている。国家論や革命論におけるマルクスとエンゲルスの異同の究明に取り組んできた拙論との問題意識と追究方法の共通性を見いだせる。
 更に、「現在、歴史的に要請されているのは、“本当のマルクス”にも当然所在する限界や過誤を克服しレヴェルアップした解放理論の形成」だとする拙著の主張について、賛同するとされ、「「本当のマルクス」に帰ること、そして、その「本当のマルクス」の限界を指摘すること、こうした理論的作業は私自身が、エコロジーという領域でやろうとしたこととピッタリと重なる」と述べられている。
 斎藤さんによる評価は、真に有難い。黙々と頑張ってきた甲斐があったように感じている。
 批評では拙論への批判も提起されている。
 その一つ、「気候変動に代表される環境問題が、目ざされるべき「パラダイム転換」との関連で言及されることはない」。その通りであり、批判は甘受する。
 ただ、『マルクス社会主義像の転換』で、「マルクスにはエコロジー的視座が基底的に貫かれていた」(53頁)と捉え、土地所有論を検討する行において、『資本論』草稿の次の一文を注視した。「より高度な経済的社会構成体の立場からすれば、大地に対する個々人の私的所有は、ちょうど一人の人間の他の人間に対する私的所有のように、馬鹿げたものとして現れるであろう」(25−995)。未来における国家そのものの消滅の構想とともに、こうした地球史的なスケールでの展望に私はマルクス思想のこのうえない魅力を見出してきた。だが、マルクス主義国家論を専門領域にして、ほぼ40年このかた、マルクス、エンゲルス、レーニンの理論的限界・欠陥を抉出し、『資本論』に相当する国家の本質的理論の創出を試行することで精一杯だった。
 他に、気候変動の対処として「緊急事態下における国家の理論」が必要であり、「新しい国家論、主権論、統治論がマルクス主義には求められている」が、これに対応できていないとの批判もなされている。
 昨今のコロナ禍のパンデミックを踏まえて提起されているという「エコロジカル・レーニン主義」は、緊急事態に国家権力による上から統制をもって対応し中央政府に権力を極度に集中するレーニン主義の再版であろう。この後に取りあげる『人新世の「資本論」』では「気候毛沢東主義」とされるものの一種と思われる。
 そうであれば、緊急事態に際しても中央政府=国家の強権的対応を防ぎ、それを凌ぐ下からの民主主義による対処が基本であろう。経済的危機や政治的危機、更に体制危機に際しての強権主義や独裁を制御し阻止する対抗力は、市民社会の民主主義的な構造であり運動である。とは言え、大衆民主主義の脆さを、IT革命の進展との関係も加えて、どのように克服するかは難題である。
 激しく流動する最近の資本主義経済・政治・イデオロギー体制について不勉強であり、今日的に発生する「緊急事態下における国家の理論」は、これからの研究課題とせざるをえない。
 (3)『人新世の「資本論」』について論評する。
 資本主義の経済活動が地球の表面を覆いつくして地質学上の人新世の新時代に入り、眼前に迫り来る地球環境危機を乗り越える道を、晩期マルクスのエコ社会主義思想の今日的新生によって切り拓く構想が提示されている。
 欧米先進資本主義国の大量生産・大量消費型の豊かな生活スタイル「帝国的生活様式」(27頁)、経済発展のコストや負荷を後進国に押しつけている「外部化」(32頁)など、地球環境危機のメカニズムや危機打開へ進むうえでの幾つものハードルをめぐっての筋道立って展開される論は、知的刺激に溢れている。
 紙幅の関係で、そのなかの二三の論点を取りだして吟味する。
 @ 先進国の環境危機対策、SDGsを旗印とする「グリーン・ニューディール」(58頁)、「気候ケインズ主義」(59頁)の不十分さを批判し、環境危機を乗り越えて持続可能な未来のためには、「経済成長に依存しない脱成長」(99頁)、あるいは「定常型経済」(110頁)の道を選ぶほかないと説かれる。この基本線は至当である。
 それでは、「脱成長」、「定常型経済」への構造変革は、どのように進められるか。
 環境危機に対応する「四つの未来の選択肢」(112頁)として挙げられているのは、「気候ファシズム」、「野蛮状態」、「気候毛沢東主義」、それに「脱成長コミュニズム」である。そこでは、「気候ケインズ主義」はあくなき利潤追求を至上とする資本主義の本質からして「「脱成長資本主義」は存在しえない」(131頁)として片づけられている。
 しかし、「気候ケインズ主義」と「脱成長コミュニズム」の対質を介しつつ、前者を足掛かりに後者へ移行する過程こそ、解明すべき肝心の課題ではないだろうか。
 けだし、資本主義は17〜18世紀段階から19世紀段階へ、更に20世紀段階への凄まじいほどの発展的変化の歴史に明白なように、資本の本性を貫きつつ様々な状況の変化、経済的危機に適応し、システムを改変する柔軟性、弾力性を有するからである。その弾力性を生じさせるものは一体何なのか、資本と国家の関係をはじめとして、争点になる。それに、現に乗り越えるべきは、マルクスが格闘した時代の資本主義ではなく、20世紀を通して二度の世界大戦、大恐慌を乗り切り、ケインズ主義を採り社会民主主義的要素をも組みこんで変容・変形した修正資本主義だからである。
 A 「「人新世」の新しいマルクス像」(141頁)を描きだすため、最晩年におけるマルクスの思想的、理論的な関心と研究の変化を最もよく示す論稿として「ザスーリチ宛の手紙」(1881年)が考察される。この手紙でマルクスは、ロシアでは農耕共同体を活かして西欧のような資本主義的発展の時代を経ることなしにコミュニズムに移行できる可能性を認めた。それが意味するのは、ヨーロッパ中心主義の単線的な進歩史観を克服する複線的な歴史観の形成にとどまらず、農耕共同体の「経済成長をしない循環型の定常型経済」(193頁)に着目し、「定常型経済という共同体の原理を、西欧に於いて高次のレベルで、復興させようとしていた」(195頁)と読解される。
 このマルクスの新たな構想、「脱成長コミュニズム」(195頁)への到達の論決にあたっては、幾つかの問題での更なる解明を要しよう。
 マルクスは、「近代社会が、最も原古的な類型のより高次の形態である集団的な生産および領有へと復帰すること」(19−392)と、前近代農耕共同体に資本主義に越えていくものを見いだそうとした。しかし、『経済学批判要綱』では、人間社会史を人格論的観点から巨視的に、前近代共同体を「人格的依存諸関係」、近代市民社会を「事物的依存性のうえに築かれた人格的独立性」、未来共同社会は「諸個人の普遍的な発展のうえに築かれた…自由な個人性」と規定していた。この三段階的把握をも晩年の共同体研究の進展により改めたとは考え難い。ロシアの農耕共同体の集団的に共同した農耕を担っていたのは、家父長制的な個別的諸家族であった。農耕共同体への「復帰」を説くマルクスには家父長制に関する死角が存するのではなかろうか。
 「生産手段を〈コモン〉として、共同で管理・運営する」(142頁)「コミュニズム」は、近代資本主義が発展しきり、体制内部に生産協同組織や民主主義を新社会の要素として産出することを通じて可能になる、後期マルクスはこう論じ明かしていた。それを革命的変革の基本的論理としつつ、それを歴史理論として補うものを「ザスーリチ宛の手紙」は示したと解される。双方の総合による革命論の全体像の把握が求められる。
 『宣言』「ロシア語版第二版への序文」の要言では、「もし、ロシア革命が、西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者が互いに補いあうならば、現在のロシアにおける土地の共同所有はコミュニズム的発展の出発点となることができる」。この一文も引証されているが、ロシア革命の西欧革命との連関について、ソ連の一国社会主義試行の悲惨を熟知している現在では、「合図」となる点よりも「互いに補い合う」という条件の方を重要視し強調するべきだ。
 B マルクス理論の個別の論目の解釈として考慮を欠いた点も所在する。
 プルードンについて、「生産には手を付けずに流通の変革によって社会主義を実現しようとした」(292頁)。しかし、国際労働者協会に加わった、最晩年のプルードンは協同組合の連合による社会的生産、また地方分権的国家を唱えており、「マルクス・プルードン問題」の考察を要する(『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』、64頁)。
 ジョン・スチュアート・ミルによる定常状態論の提唱は、周知である。ところが、武田信照「斎藤幸平著『人新世の「資本論」』」書評(『唯物論研究』第155号)が指摘するように、マルクスはミルの定常状態論を黙殺し、『人新世の「資本論」』も一言も触れていない。これは不公正である。 
 21世紀の社会主義思想・運動の新興にあたって求められているマルクス像は、プルードやミルの理論の短所を批判して自論の正当化を図ったマルクスではなく、彼らの理論の長所を認容し包括して解放理論を一段とスケールアップするマルクスである。  
 個々に難点は所在するとしても、MEGA「抜粋ノート」を活用した晩期マルクス像の
 開発は、佐々木隆治『カール・マルクス』(ちくま新書、2016年)「第3章 資本主義とどう闘うか」などとともに、マルクス(主義)理論をめぐって再考を促し、今後の研究に影響を及ぼしていくと思われる。拙論はマルクスが『資本論』に続く国家論の研究に立ち向かわなかった理由を探ってきたが、晩年の「抜粋ノート」に示される研究諸課題に比すれば国家論研究の優先順位は低かったのである。
 述べきたったように、「人新世」の環境危機を鮮明にして、それに立ち向かうべく、最晩年のマルクスのエコロジカルな資本主義批判を発掘して「脱成長コミュニズム」の理論を構築、新時代の『資本論』を提示したのは、卓抜な功績である。その挑戦に大いに共鳴する。
 但し、「脱成長コミュニズム」の新社会主義思想・運動は、『フランスの内乱』や「ザスーリチ宛の手紙」に代表される後期から晩期にかけてのマルクスの社会革命論の解釈如何にかかわらず、21世紀現在の世界史の発展状況を現実的な根拠にして提唱されて然るべき自律的な存在意義を有している。
 21世紀初頭の現在、問われているのは、マルクス、エンゲルスではなく、20世紀マルクス主義の歴史的破綻を見聞し抜本的転換を迫られている我々自身のマルクス、エンゲルスの思想・理論への主体的な関わりである。
 『マルクス主義理論のパラダイム転換へ』「まえがき」の最後の行で、こう記した。「若い世代の志ある活動家や研究者の批判的で創造的な思考によって、マルクス理論を柱の一つとする解放理論建設の前進が果たされていくことを切望してやまない」。加藤さん、田畑さんを含め、我々の世代は程度の差はあっても20世紀マルクス主義の破れた夢から覚醒する内省作業を避けては前に進めなかった。異なる時代状況下で育った若い人達が、創造性に富むマルクス理論研究に挑んで新地平を拓くことを待望している。