「共和主義」
 『新マルクス学事典』(弘文堂、2000年)の執筆項目


 ヘーゲル左派に属していた頃のマルクスには、「自由人、それは共和主義者であるべき」(「『独仏年誌』からの手紙」、1:374)といった言説が見られる。共和主義は、歴史的には君主主義を否定して登場した概念であった。当時のマルクスにとって、共和主義とはドイツではなお有力な君主主義を乗り越えて前進していこうとする立場の表明であり、民主主義とも同義的であったといえよう。

 共和主義の古典的な伝統を復活させ近代へ伝達したのは、ルネッサンス期フィレンツェのマキアヴェッリであった。ヘーゲル左派から離脱する途上で、マルクスはクロイツナハ・ノートで『君主論』についても学修した。だが、彼はマキャヴェッリの著作への関心を一貫してマキャヴェリズムに注いでおり、『ローマ史論』の共和主義理論に留目することは別になかったようである。イギリスで共和主義を唱道したハリントン『オシアナ共和国』についても、マルクスの言及は見られない。

 マルクスが緊切なテーマとして共和主義の問題に実践的に当面したのは、1848年革命、とりわけフランス二月革命に際してであった。二月革命では、「ナシオナル」派として知られた、ラマルティーヌなどの「ブルジョア共和派」(『階級闘争』、7:33)や、「レフォルム」派と通称された、ルドリュ=ロランなどの「小ブルジョア共和派」(同)、それに社会経済的にはアソシアシオニスムだが政治的には民主共和制を掲げた、ルイ・ブランに代表される社会主義派も加わって、共和主義の思想・運動が歴史の表舞台に躍り出て勝利を収め、そこに第二共和制が樹立されるにいたった。これらの共和派が、王統王朝派とオルレアン派から成り王統主義に立つ秩序党、また新興のボナパルト派などと三つ巴、四つ巴の党派戦争、階級闘争として第二共和制をめぐる攻防を繰り広げた。目ぐるましく複雑な変転過程を、マルクスは『階級闘争』、『ブリュメール18日』において論評した。そのなかで彼は、「ブルジョア共和主義」(同)について「純粋共和主義的」(『ブリュメール18日』、8:118)、つまり単に政治的な性格に過ぎないものとして、また「小ブルジョア共和派」と社会主義派が合体して「社会=民主主義的共和制、すなわち赤色共和制」(『階級闘争』、7:81)を志向する社会・民主党の社会=共和主義については階級強調主義的で議会主義的だとして、それぞれに断罪した。そうした共和主義批判は、原則的ではあったが、しかし、マルクス自身、現状認識と展望においてプロレタリア革命の時機到来という主観主義的な錯誤を犯していたから、独断的で偏った性格を免れなかった。

 時を隔てて、マルクスは南北戦争を軸にしてアメリカ合衆国について分析的に研究した機会に、建国期の共和主義にも心を寄せた。そして、「偉大な共和国の思想が初めて生まれた土地」(アメリカ合衆国大統領エーブラハム・リンカンへ、16:16)、アメリカ合衆国の独立戦争の父祖としての「ワシントン、ジェファソン、アダムズたちの憲法」(「イギリスにおけるアメリカ問題」、15:289)に、またジェファソンの『ヴァージニア覚書』に、積極的な評価を与えた。ほかに、アメリカ人を独立と共和主義へ向かわせるうえで大きな役割を果たしたペインに関して、『人間の権利』に言及しているが、ペインはその書のなかで、民主制に優る共和制の意義を顕揚していた。マルクスは1860年代の思想的、理論的躍進過程で、アメリカ独立革命の共和主義の存在価値について会得することがあったのだった。

 その後、1871年のパリ・コミューンの経験に学んで、円熟したマルクスはあらたな社会・国家像に関して、アソシアシオン型社会にコミューン型国家を接合する構想に到達した。社会的な運動にならないかぎり、共和主義運動は真剣な力になりえない。この根本見地の具体化として、生産協同組合など諸々の協同組織のネットワークとして編成される社会に有機的に結合される、地域自治体が連合し真の民主主義に貫かれた共和政国家を、彼は描き出した。協和主義について、フランス二月革命やアメリカ独立革命の共和主義を解体的に摂取して、コミューン国家の共和制へと止揚したのであった。

 独自の政治学批判、国家論建設の課題を遂行できなかったマルクスは、共和主義についてもわずかな論及を行ったに過ぎない。自由主義が個人の自由や権利を重視するのに対し、共和主義は何にもまして公共善という価値に力点をおく。こうした自由主義との、あるいはまた民主主義との区別、関連を含め、共和主義についての立ち入った理論的考察をマルクスの論稿から汲みとることは不可能と言わざるをえない。

(大藪龍介)