「マルクスの政治理論」
 中谷・足立編『概説西洋政治思想史』、ミネルヴァ書房 1994年4月


1 マルクスと資本主義社会批判

現代への巨大な影響  過去の世紀に属する理論家で、カール・マルクス(Karl Marx,1818-83)ほど、今世紀の世界を動かした人物はいまい。マルクスとその理論が現代の歴史の進行に及ぼした影響の大きさは、イエスとキリスト教が後世に与えてきたそれにたとえられるほどであった。実際、数多くの国でマルクスの後継者達の思想と運動は、良かれ悪しかれ、現代世界を揺るがしてきた。
 マルクスがフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels,1820-95)と共同して形成したマルクス主義の思想的、理論的卓抜性は、どういうところにあったのだろうか。

学説の基本  マルクスの生国ドイツでは19世紀になると、ヘーゲルが社会理論を取りこんだ観念的哲学体系を築きあげて、近代の諸科学と哲学の綜合の1つの頂点に達していた。ヘーゲル左派から出立したマルクスは、ヘーゲル法哲学の批判的克服の過程において同時にイギリスやフランスの巨匠達の諸学問を摂取し、社会と歴史のいっさいの事象を実践的な唯物論の見地から統一的に把握する世界観を形成した。この新しい世界観は、唯物史観もしくは史的唯物論と呼ばれている。唯物史観は、歴史的現実の進展に呼応しつつ、個別諸科学の研究を導くとともにその研究諸成果によって豊富化されて発展していく、全体化理論としての性格をもっていた。
 また、マルクスは、近代資本主義世界の変革を目指して社会主義思想の新段階を拓いた。19世紀中ごろのヨーロッパでは、資本主義経済の本格的発展にともなって貧富の懸隔があらわとなり、労働者大衆がおかれている貧窮、隷従からの解放を希求して、数多の社会主義、共産主義の思潮が抬頭してきた。他方では、イギリスのチャーティスト運動やフランスの1848年六月暴動など、労働者大衆の独自な闘争が盛んになっていた。新天地パリに移って青年革命家となり、革命的社会主義としての共産主義を掲げるにいたったマルクスは、それまでの社会主義、共産主義の諸思想をのりこえ、労働者階級を主体とした社会主義社会の実現を、歴史の必然的な発展として展望した。
 加えて、マルクスは、偉大な学問的探求者でもあった。1848年の諸革命後、ロンドンに亡命し実践活動から理論活動に比重を移したマルクスは、折りしもイギリスにおいて空前の繁栄を迎えた資本主義経済を眼前にして、それを綿密に調査分析するとともに、古典経済学の豊かな諸達成を徹底して学びとる研究に打ちこんだ。大変な生活苦のなかで、およそ15年間にわたる研鑽を重ねて、近代資本主義社会の経済的運動法則を究明した『資本論』は、マルクスの不滅の理論的業績であり、経済学史上の金字塔といえる。この『資本論』によって、唯物史観と社会主義とは有力な科学的根拠を得ることになった。

未展開の政治理論  ところが、政治理論に関しては、経済学での『資本論』に匹敵するような傑作をマルクスは残さなかった。かれは、経済学につづく政治学の著述という若い時代からの計画を、終生抱いていた。しかし、『資本論』さえ4巻編成の構想の第1巻を完成させえたにすぎず、政治理論研究に本格的に取り組む時間的余裕が終になかった。
 マルクスが著わした政治理論の代表作には、19世紀のヨーロッパにあって諸階級の間の闘争に最も重要な舞台となったフランスにおける二月革命やパリ・コミューン事件について論評した三部作『フランスにおける闘争』(1850)、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852)、『フランスにおける内乱』(1871)がある。だが、これらは、一連の諸事件に関する論評の性格が強く、理論的に磨きあげられた作品ではなかった。
 そこで、マルクスの没後、エンゲルスが『家族、私有財産および国家の起源』(1884)を執筆し、この国家論部がマルクス主義の定説として広く普及することになった。

人間マルクス  マルクスは、1818年、ドイツのラインラントのトリーアに生まれた。父は教養ある弁護士であり、家庭は比較的裕福で自由な雰囲気であった。ボン、ベルリン両大学で法学、哲学を学び、大学教師を志望したが、反動的な政府のもとにあって職を得られず、ジャーナリストとして出発した。そして、1840年代の中頃、パリに移住し、エンゲルスと親交を結ぶなかで、哲学、経済学、社会主義思想などにわたる独自の理論的体系を構築し、いわゆるマルクス主義を創設したのであった。
 「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会」、これは、エンゲルスとの共著『共産党宣言』(1848)のなかの、かれらの根本理念を表わす一句である。マルクスは、人間が全面的に解放される真の自由の国を求めて、苦難な実践的闘争、各国の政府・支配権力による迫害、ドイツからフランス、ベルギー、イギリスへと転々とした亡命生活、国際労働者協会──労働者階級の最初の国際的組織で、第一インターナショナルの名で知られる──の指導、そして貧苦のなかでのひたすらな学問的研究の生涯を送った。時代を経て、彼は世界史上の巨人の地位に登ったが、娘の問いに答えたかれの「告白」から、人間マルクスを窺い知ることができる。
 あなたの主な特徴──目標への没頭
 あなたの幸福感──たたかうこと
 好きな仕事──本の虫
 好きな格言──人間的なもので私に無縁なものはない
 好きなモットー──すべてを疑え

2 マルクス国家論の特徴

フランスの経験  マルクスの政治理論の主著にあたるのは、フランス三部作の最後に位置する『フランスにおける内乱』(以下『内乱』)である。
 1871年、フランスでは、プロイセンとの戦争に敗北して第二帝制が崩壊し、第三共和制が成立する途上で、パリの民衆が反乱を起こして市政府を掌握した。ここに、民衆自身の政治権力たるパリ・コミューンが樹立された。この事件は、1789年の大革命以来相次いだ民衆の反乱の頂点であった。しかし、パリ・コミューンは、わずか72日間で、当時ヴェルサイユに移動していたティエール率いるフランス政府によって無残に圧殺された。すぐさま、マルクスは、国際労働者協会の政治宣言として『内乱』を発表し、反乱の歴史的背景や経緯について分析するとともに、パリ・コミューンが労働者階級解放闘争のうえでもつ世界史的な意義を称えた。
 唯物史観では、社会の総体的仕組を、建造物にたとえると、経済を土台、政治や国家、法、道徳、宗教、芸術等を土台のうえに聳える上部構造として捉える。この見地に立って、マルクスは、なによりもまず、近代世界の土台としての経済構造、つまり資本主義経済の研究に力を注いだのであった、その際マルクスは、『資本論』という題名が示すように、資本を資本主義経済の決定的支配力として把握したが、政治的上部構造の考察にあたっては、政治的支配の中軸をなす国家に焦点をあてた。また、国家については、その構力機構を最も重視した。『共産党宣言』その他の書で、かれはブルジョア国家を資本家や土地所有者のブルジョワ階級がその私有財産を守り被支配所階級を抑えつけておく統治機構、しかもすぐれて暴力的な抑圧機構として論じていた。

国家権力機構の発達 『内乱』においてマルクスが関心を集中したのは、フランスのブルジョワ国家権力機構の歴史的変遷であった。
 常備軍、警察、官僚、聖職者、裁判官という、いたるところにゆきわたった諸機関──体系的で階統制的な分業の方式にしたがってつくりあげられた諸機関──をもつ中央集権的な国家権力は、絶対君主制の時代に始まる。
 この中央集権的国家権力機構は、大革命による封建的残滓の一掃のなかで強化され、第一帝制のもとで近代的な国家構築物として築きあげられた。その後、資本主義経済が発展するにつれて、国家権力は労働にたいする資本の全国的権力という性格をおびるようになった。1830年に七月革命、つづいて1848年に二月革命が起こり、労働者階級の闘争が一前進段階を画するたびに、国家権力の中央集権性と抑圧性は、いよいよ強まっていった。
 第二帝制になると、商工業が飛躍的に発達し、ブルジョア社会は成熟をとげ腐敗した様相を呈するにいたった。恐るべき規模に肥大化した軍事的、官僚的機構を全国いたるところに張りめぐらせ、すべての階級を惹きつける言辞を弄し、あらゆる階級のうえに立つかのような政策を掲げつつ、ルイ・ボナパルトが統治した帝制──いわゆるボナパルティズム──は、国家権力の最もけがれた、同時に終局の姿を示している。そのことは、社会から分離し独立した国家が、社会に寄生し、社会の公僕であるかわりに社会の主人となり、今や余計な物となっていることを意味する。こう、マルクスは分析した。
 ブルジョア国家の二大権力機関である議会と政府の相互関係も変化した。復古王制から七月王制にかけては、財産に基づく制限選挙制によってブルジョア階級に独占されていた議会のもとに政府はおかれていた。だが、労働者階級が決起して普通選挙権をかちとった第二共和制にいたると、諸階級間の激しい闘争への対応のなかで、議会から政府へと国家権力機構の中心は移動していった。第二帝制においては、権力を集中した政府の絶対的優位が機構的に確立し、議会は欺瞞的な添え物になってしまった。普通選挙制も、帝制体制に国民大衆を引き入れ統合していくまたとない装置として作動した。
 そこで、マルクスは、俗に民主主義の証とみなされ、革命的変革の手段としても大いに期待されている普通選挙制に関して、痛烈に批判した。
 普通選挙権は、支配階級のどの成員が人民のにせ代表となるべきかを、三年ないし六年に一度決める。

国家の消滅を目指して  『内乱』の新生面はブルジョア国家を革命により打倒した後に建設すべき国家像の提示にあった。プラトンやアリストテレス以来の長い歴史を誇る政治理論の一貫した中心テーマは、理想国家の探求にあった。だが、近代社会主義思想の成長につれ、国家そのものをなくすことが理想とされるようになった。マルクスも、将来社会では私的所有が廃止され、階級と階級対立が除去されるとともに国家も消滅すると、言明していた。
 政治的抑圧体としての国家を廃絶するという高遠な目標に、いかに接近していくか。人びとが真に自由で階級も国家も存在しない社会、すなわち社会主義・共産主義の社会に到達するには、いっさいの社会的諸関係と人間を根本的につくりかえる、長期にわたる過程を経なければならない。労働者階級は、革命に勝利しても、なお過渡的に国家を必要とする。では、国家そのものの廃絶の過渡に位置する国家は、どのようなものであるべきか。この長年の課題への貴重な解答を、マルクスは前述のパリ・コミューンのなかに発見した。
 マルクスは、パリ・コミューンに所在している未来創造的な諸傾向を抽出して、新しい国家の輪郭を描いた。
 常備軍を廃止し、それを武装した人民とおきかえること。市の各区での普通選挙によって選出された市会議員[は]、[選挙人にたいして]責任を負い、即座に解任することができた。警察は、これまでのように中央政府の手先ではなくなり、・・・・・・いつでも解任できるコミューンの吏員に代えられた。行政府の他のあらゆる部門の吏員も同様であった。コミューンの議員をはじめとして、公務は労働者なみの賃金で果されなければならなかった。国家の高官達の既得権や交際費は、高官達そのものとともに姿を消した。
 職業的軍隊にかわる民兵の制度、警察の民警への切りかえ、すべての公務員の完全な選挙制と解任制、選挙民の命令的委任による議員の拘束、すべての公務員の普通労働者なみの賃金、ならびに金銭的特権の一掃、これらの原則のどれをとってみても、従来の国家にたいする一大革命であった。その他、国家と教会の分離、教育の無償化・非国家化・非宗教化、学問の公開と自立も、原則とされた。第二帝制国家はむろんのこと、いかなる議会制民主主義国家をもはるかにしのぐ、全面的で徹底的な民主主義が、そこでは実現されるべきであった。
 かかる国家は、人民大衆の社会生活を人民大衆の手で人民大衆のために回復する政治形態であった。そうであってこそ、社会の力を吸い取り社会の上に立って被支配諸階級を抑圧してきた国家権力を、社会に再吸収して、国家を消滅させる道が開かれるのだった。このような社会主義社会への過渡期の国家像の提示によって、マルクスは政治理論の新しい一頁を開いたのである。
 労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌撞して、自分自身の目的のために行使することはできない。

革命の道  「できあいの国家機構」は、軍隊、警察、官僚制、裁判所などの中央集権主義的諸機関はもとより、支配エリートが国民の代表の名において国民に君臨する巧妙なシステムである代表制議会も、労働者階級を隷属させる政治的用具であって、労働者階級の解放のための政治的用具ではありえなかった。問題の核心は、政治的抑圧体として最高度の発達をとげたブルジョワ国家を、上記のごときコミューン国家、自己消滅の論理を体現する国家に変革しなければならないということだった。
 それには、大別して二通りの道が存在するとマルクスは考えていた。一方は、フランスをはじめとするヨーロッパ大陸諸国での、一挙に、暴力的手段によってブルジョワ国家を打ち砕く、急進的な革命の道である。他方は、最先進国イギリスその他の国が挙げられたが、徐々に、平和的に目的を達成する漸進的な革命の道である。
 マルクスの政治理論は、ブルジョワ階級の国家的支配の構造の分析的解明に加えて、プロレタリア革命の展望、過渡的な国家の構想から成っており、すぐれて”国家と革命”の理論であった。

エンゲルスの貢献  マルクスに代わってエンゲルスが政治理論の建設に取り組んだ。なかでも、マルクスが死去した翌年、マルクスの遺言執行の形をとってエンゲルスが著述した『家族、私有財産および国家の起源』(以下『起源』)の国家論部が、その代表作といえる。
 エンゲルスは、当時の原始・古代史研究の最新成果であるモーガン『古代社会』を唯物史観の立場から再構成することをつうじて、原始時代から古代への移行のうちに、父権制的な家族、私有財産、国家の軌を一にした始まりを明らかにした。その国家論部では、私有財産の発展と社会的分業の展開を基礎に、原始的な氏族共同体が掘り崩されて古代奴隷制が成立し、階級社会が出現するとともに国家が起こってくる経緯を、ギリシア、ローマ、ケルト、ドイツそれぞれの民族を実例にとって、克明に研究した。そして、アテナイの都市国家の事例を典型的な見本に位置づけ、その歴史的生成過程の分析を論理的に要約し一般化し、国家とは何かについて論じた。

国家とは何か  国家は、自由人と奴隷、搾取する富者と搾取される貧者という相対立する諸階級への社会の分裂、そしてその階級対立の非和解性であった。
 相争う経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会を消耗させることのないようにするため、外見上社会の上に立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』の枠内に引きとめておく権力が必要になった。そして、社会から生まれながら社会の上に立ち、社会にたいしてみずからをますます疎外していくこの権力が、国家である。
 発生した国家は、氏族組織とくらべると、三つの特徴的標識をもっていた。まず、氏族が血縁の紐帯によって結束したのにたいし、国民を定住した地域によって組織する。次に、住民自身が武装するのではなく、軍隊、警察、監獄等の強制装置を公的暴力として備える。更に、公権力を維持するための費用分担として、国民から租税を徴収する。
 国家は、超階級的に装って階級的本位を覆い隠すが、経済的に支配する階級が支配される階級を抑圧し服従させる機構にほかならない。経済的に支配する階級は、国家を用具として政治的にも支配する。そのようなものとして、古代国家の後に、中世の封建国家、近代のブルジョワ国家がつづき、国家は階級社会とともに数千年の歴史を歩んできた。
 しかし、国家は永遠の存在ではない。国家が存在しなかった時代がかつてあった。今度は、社会の歴史のきわめて高度な発達段階で、財産が私的にではなく社会的に所有されるようになり、人びとが支配する階級と支配される階級に分裂して闘争しあう必要がなくなり、国家が再び消失する時代が到来するにちがいない。
 今われわれは、これらの階級の存在が必要でなくなるばかりか、かえってはっきり生産の障害となるような、そういう生産の発展段階に急歩調で近づいている。・・・・・・これらの階級が消滅するとともに、国家も不可避的に消滅する。生産者の自由で平等な協同団体を基礎にして生産を組織しかえる社会は、国家機構全体を、それがそのとき当然所属すべき場所に移すであろう、──すなわち、糸車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ。
 このように、エンゲルスは、人間社会の歴史の大きな広がりのなかで、巨視的に国家について考察し、その発生、発展、消滅について概観した。ここに、マルクス主義からする国家についての一つのまとまった理論的説明が与えられることになった。

3 マルクスとエンゲルスの提起したもの 

第二帝制・ボナパルティズム論  『内乱』において、マルクスのフランス国家の歴史と現状の分析は、随分適確になった。第二帝制・ボナパルティズムの階級的性格という最も基本的な一点に絞って指摘しておこう。
 以前の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、プロレタリア革命の間近な到来という幻想から抜けきれていなかったマルクスは、第二帝制の誕生を目撃して、二月革命以来の労働者階級との攻防で追いつめられたブルジョワ支配権力を、ルイ・ボナパルトが軍事クーデターによって滅亡させ、分割地農民を社会階級的基柱としそれを代表して、一時的に権力を纂奪した、と把握した。ところが、それから20年近くもつづいた第二帝制のもとで、資本主義経済は未曽有の発達をとげたのだった。今ではマルクスも、”産業帝国”を築きあげたルイ・ボナパルト構力のブルジョワ的性格を認め、分割地農民については、受動的な支持階級に位置づけなおした。
 しかし、マルクスが到達した第二帝制・ボナパルティズム論でさえ、幾つかの難点を含んでいた。イギリスにくらべると後進的でブルジョワ階級が弱体なフランスでは、産業化にあたっても国家がイニシアティヴを揮わねばならなかったが、そうしたフランスの産業資本主義建設の特質をマルクスは解明するにいたらなかった。そのため、マルクスの場合、ルイ・ボナパルト権力の開発性、革新性を無視し、権威帝制と自由帝制という第二帝制の双面的性格についても、もっばら前者の側面を誇張することになった。
 また、第二帝制国家がブルジョワ社会からの独立性を著しく強めたことについても、マルクスは、大公共事業をはじめとする、ルイ・ボナパルト権力による上からの国民的改革の先導との関連で捉え返すことなく、一般的な国家の寄生性、しかも腐朽佐に解消した。そこから第二帝制を国家権力の終局形態と見なすことにもなった。だが、第二帝制後の第三共和制を迎えて、フランスのブルジョワ国家は更に全面にわたる発達をとげるのである。マルクスの所論には、ブルジョワ国家が内有する柔軟な発展能力についての過小評価がつきまとっていた。

過渡期国家論  『内乱』においてひときわ精彩を放っているのは、プロレタリア革命後過渡的に必要とされる国家像の描写であった。それでも、パリ・コミューンは、まったくの短命であったうえに全国から孤立した都市革命にすぎなかったから、そのなかに見出した未来の曙光は限られていた。マルクスが描いたのも、新国家の機構的編成の若干の断面にとどまった。かれが論じなかった重要な事柄を少しばかり補ってみよう。
 第一に、マルクスは、政治的党派について言及せず、政党のあり方について空白にしていた。パリ・コミューンの権力中枢である評議会の議員達は、発つかの党派的グループに分かれていた。マルクスも、労働者階級が革命に勝利し階級と国家の廃絶という目標に向かって進むには、独自の政党が不可欠なことを承認していた。が、階級と政党、そして国家の関係について踏みこんだ説明をしなかった。
 第二に、立法に関して、評議会への立法権力の集中を当然視しているところがあった。しかしながら、民主主義を全面的、徹底的で人民大衆みずからのものにするには、人民による直接立法のできるかぎり広範な導入が欠かせないだろう。
 第三は、民主主義的権利の問題である。パリ・コミューンでは、市民的、政治的自由の宣言が町中いたるところに溢れかえっていた。だが、ヴェルサイユ軍との戦端が開かれると、ティエール政府による市民的、政治的権利の暴力的抑圧に対抗して、コミューンに敵対する勢力の権利を剥奪した。マルクスは、その対抗措置を擁護したが、その際、敵対勢力の権利の剥奪が革命の存亡を賭けた軍事的戦闘という非常事態下でのやむをえざる、一時的な措置である旨を、明示していなかった。革命以後、社会主義への過波期において、対立階級に属する人びとにも民主主義的権利をどのように保障するか。これについて、かれは考えをめぐらせていなかった。
 その他にも、ブルジョワ革命において独裁が必要とされたように、プロレタリア革命を達成して階級と国家の存在しない社会に到達するには労働者階級の独裁を通過しなければならない、とマルクスは唱えつづけていた。そのプロレタリアート独裁とパリ・コミューン型国家との関係、つまるところ過渡的な国家における独裁と民主主義との関係も、明確でなかった。
 マルクスは、深く考察されるべき多くの問題を残し、それらの解決を新しい社会と国家の全体像を描きうる歴史的条件に恵まれる後世に託したといえよう。

「マルクス、エンゲルス問題」  さて、エンゲルスは、政治理論の構築という課題を首尾よく遂行したであろうか。『起源』その他でエンゲルスが提示した国家論は、亡友が果たすことのできなくなった仕事の代用物という主張にもかかわらず、かれ独自のものであった。
 ここに、「マルクス、エンゲルス問題」が生じる。マルクスとエンゲルスはあらゆる面で稀にみるほど緊密な協力関係で結ばれてはいたが、思想上理論上それぞれ独特の面を有していた。しかるに、両者が完全に一体視されたうえで、エンゲルスの理論が定説として扱われるようになり、20世紀マルクス主義の展開に濃い影をおとすことになる。この問題を視野に入れながら、後期エンゲルス国家論の主要な特徴と問題点を見ていこう。
 国家について論じるに際し、エンゲルスは、はるか大昔の原始・古代の時代に遡り、古代国家成立史の研究に立脚した。歴史の始まるところから理論的考察も始め、歴史の進行に論理の展開を照応させるという、かれ特有の、歴史的思考を偏重した方法を貫いたのである。これは、歴史の現在的到達地点であり、最も豊かな発達をとげた近代ブルジョワ社会やその国家を対象に、それを論理的かつ歴史的に考察してこそ、科学的な理論が可能だとするマルクスの方法、『資本論』に具現された科学的方法とは差異する。
 それに、エンゲルスがアテナイ都市国家の歴史的分析を概括して組み立てたのは、古代から近代までのすべての時代の国家につうじる国家一般の論理であった。マルクスの示唆では、近代ブルジョワ国家を手始めに、それぞれの時代の国家の歴史的な独自性を解明することこそが眼目であったが、エンゲルスの国家一般論は、逆にそれらの歴史的独自性を消し去っていた。エンゲルスは、最も肝要なブルジョワ国家に関する理論的研究も国家一般論のなかに解消したのである。そのため、かれによるブルジョワ国家の理論的考察は、貧弱で低い水準にとどまり、優れた成果を生まなかった。
 エンゲルスはまた、モーガン 『古代社会』にならって、原始的な氏族制度を万人が自由で平等であり、国家の存在しなかった、共産主義的共同体として捉え、失われた過去を未来において高次復活するという歴史図式で、国家の死滅を展望した。こうした構図は、過去の原始社会を観念的に美化したうえで、過去とのアナロジーによって未来を空想しており、現実的な根拠を欠いている。マルクスによれば、現に存在するブルジョワ社会、ブルジョワ国家の胎内に階級なき社会、国家の消滅のための諸要素が孕まれているのを発見しえなければ、いっさいの変革の試みは非現実的であった。

マルクス、エンゲルスの政治理論の地平  マルクス、エンゲルスは、国家論において、国家をなによりも階級的支配、抑圧の機構として捉え、その階級的性格を強調した。それとともに、階級的支配の維持にあたって、国家が社会の共同利益を執行することについてしばしば説いた。他面では、国家を「幻想的な共同態」、あるいは「最初のイデオロギー的権力」と規定して、国家が有する幻想的な共同性、イデオロギー性にも強い関心を払った。かれらは、国家の構造や機能の相反的な多面的性格、更には国家的支配の複雑で巧妙な仕組について、個々には重要な指摘をおこなった。また、かれらによる国家そのものの消滅へ向かっての構想は、その理想主義的追求において魅力に富んでいた。それらは、国家についての批判的考察として出色のものであった。にもかかわらず、理論的に練りあげられるにいたらなかったし、科学的な国家論の創造という見地からすると、多くの限界を免れなかったのである。
 マルクスの国家論や革命論の基礎となったのは、パリ・コミューン事件までのフランスの歴史的経験であった。同じフランスでも、ブルジョワ国家が一段と成熟し民主主義的議会共和制がはじめて定着した第三共和制や、それにもまして重要な、イギリスで19世紀後葉に築かれた議会制民主主義国家──近代ブルジョワ国家の典型的見本であり、先進資本主義諸国に次第に広がっていった──を対象として政治理論を建設する機会を、マルクスは得られなかった。このことからしても、マルクスの政治理論は、大きな歴史的限界を背負っていた。
 後期のエンゲルスが展開した国家論は、平明で解りやすい利点をもち、啓発のうえで有益であったが、理論的には難点が多かった。それは、マルクスの論考の限界を補うことができなかった。
 総じて、マルクスもエンゲルスも、政治理論については、賞讃に値する独創的な業績を達成したとはいい難い。むしろ、政治理論は、古典マルクス主義の弱点とみなしてよいだろう。

研究と文献
 20世紀を迎えると、マルクス主義は、各国で高まる社会主義運動、更にはロシアなどでの社会主義革命と過渡期社会・国家建設の指導理論として、影響力を飛躍的に増大させ、それとともに幾つもの潮流に分岐し多様な展開を示すことになった。政治理論の研究は、その一環をかたちづくった。
 古典マルクス主義を20世紀現代へ伝承したのは、ドイツ社会民主党を中心にした第二インターナショナルであった。
 20世紀マルクス主義の圧倒的に支配的な潮流となったのは、1917年のロシアにおいて史上初めてのプロレタリア革命を実現し、その栄光に飾られたソヴェト・マルクス主義であった。なかでも、最高指導者レーニンの理論は、特別の位置を占めた。だが、他方では、多くの分野でマルクス主義の創造的発展を期した理論的追求があった。ソヴェト・ロシアがスターリン指導下で「社会主義」建設を進め、その勝利を誇った1930年代以降、ソヴェト・マルクス主義は批判的、創造的思考を喪失して、レーニン=スターリンの教義解釈論に堕し、官許のイデオロギーに転化した。
 他方、西欧諸国では、レーニン主義、スターリン主義の主流に一定の批判的スタンスをとった論者達が、孤立的に、先進資本主義国でのマルクス主義の開発に努めた。西欧マルクス主義は、1960年代からマルクス復権の時代を迎え活性化した。すでにソ連「社会主義」の問題性があらわになっていて、ソヴェト・マルクス主義と決裂することによって、ネオ・マルクス主義が台頭してきた。特に、”国家論ルネサンス”において意欲的な著作が続出し、マルクス主義国家論研究の再出発が画されることになった。
 わが国でも、1960年代以来、マルクス主義国家論研究の新展開が企てられてきた。
 現在、欧米や日本では、マルクス主義政治理論の研究は、新たな進展の途上にある。
 【参考文献】
(1)K.カウツキー『権力への道』(世界大思想全集14)河出書房、1955年。第二インター・マルクス主義の理論的第一人者の代表作であり、国家を階級支配の道具として規定しつつ、議会制民主主義の道をつうじてのプロレタリア革命を唱える。
(2)B.И.レーニン『国家と革命』国民文庫、1952年。ロシア革命の渦中にあって、マルクス、エンゲルスの国家論と革命論を再構成し、国家一般論からブルジョワ国家論、プロレタリア革命論、パリ・コミユーン型国家論、国家死滅論までを体系だてて展開。国家の暴力的抑圧装置の強調、暴力革命路線の絶対化、独裁の民主主義にたいする優位の確定などの点では、後進国ロシアの特殊性を表現している。
(3)E.Б.パシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』日本評論社、1958年。マルクス主義法理論の創造を志向し、『資本論』の方法と論理に依拠して、商品交換との内在的聯閑でブルジョワ法の解明を企てる。
(4)ソ同盟科学アカデミー法研究所編『国家と法の理論』厳松堂書店、1954年。
(5)ソ連邦科学アカデミー国家・法研究所『マルクス=レーニン主義 国家・法の一般理論』日本評論社、1973年。(4)はスターリン時代、(5)はプレジネフ時代に教科書的に編纂された、スターリン主義の国家と法の理論体系である。
(6)R.ルクセンブルク『ロシア革命論』論創社、1985年。ロシア革命とレーニン主義の歴史的意義を認めながらも、そこに欠けている社会主義的民主主義の原則を高唱する。
(7)A.グラムシ『獄中ノート』三一書房、1978年。国家的強制にもまして、支配階級が政党、労働組合、学校、教会等をつうじて繰り広げる道徳的、政治的、文化的な指導=ヘゲモニーに、支配制度の強固さの謎を解く鍵を見出す。また、対抗ヘゲモニーの形成によって国家を包囲し攻略するという革命路線を提起する。
(8)N.プーランザス『資本主義国家の構造』未来社、1978年。資本主義国家の内的統一性と相対的自律性を、支配階級の力関係の凝縮として捉え、構造主義の論理を使って解明する。
(9)R.ミリバンド『現代資本主義国家論』未来社、1970年。先進資本主義社会の政治権力体系の階級的な性格と役割を、豊富な経験的証拠を挙げて明らかにする。
(10)J.ヒルシュ他『資本と国家』御茶の水害房、1983年。「資本論」の再生産論から上向して国家範疇を導出し、資本の蓄積過程とそれへの国家の関与との歴史的形態変化について論じる。(8)、(9)、(10)は”国家論ルネサンス”の代表作。
(11)M.カーノイ『国家と政治理論』御茶の水書房、1992年。マルクス、エンゲルスから“国家論ルネサンス”までの諸論著を、アメリカ政治理論の動向なども加えて、包括的に論評する。
(12)津田道夫『国家と革命の理論』青木書店、1961年。レーニンとスターリンの所論を批判的に再検討し、国家論、革命論の新解釈に踏みだす。
(13)柴田高好『マルクス国家論入門』現代評論社、1973年。マルクスとエンゲルス、レーニンの相違を視軸にして、三者の国家論述を追構成する。
(14)加藤哲郎『国家論のルネサンス』青木書店、1986年。今日の世界各地での国家論や革命論の様々な動向、諸論題について幅広く紹介し考察する。
(15)鎌倉孝夫『国家論のプログレマティク』社会評論社、1991年。マルクス国家論から現代国家論にいたるまでを全体的に検討し、国家論新構築を図る。
(16)大藪龍介『国家と民主主義』社会評論社、1992年。コミューン型国家、プロレタリアート独裁、民主主義をめぐって、理論的再構築を試みる。

(大藪 龍介)