「「正統」派国家論研究の現段階」 |
『現代と展望』 第18号、1991年3月 |
一 一般的諸特徴 スターリン批判以後のわが層のマルクス主義国家論研究の歴史を振り返ってみると、その根本動向をなしてきたのは、レーニン国家論の再検討に端を発し後期エンゲルス国家論の批判へと遡源する方位での、従前のいっさいの定説の問い質しであり、真実の理論を求めての探索であったと言えよう。今日では、エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』を原基とする、一世紀有余のマルクス主義国家論の達成が決定的な限界を有していることは、ますますはっきりと覚識されるにいたり、マルクス主義国家論の革命が切実に要請されている。 こうしたマルクス主義国家論の根底的再生の動向に公式論の守護をもって対抗しつつ、しかし他方ではソ連やヨーロッパ諸国での新動向を後追いして、徐々に一定の理論的手直しを余儀なくされてきたのが、「正統」派の潮流であった。 現段階における日本の「正統」派国家論を特徴づけてきたたのは、なによりも、様々な立場と内容をもってする反「正統」派の論者達の新しい問題提起に異端審問をもって対処し旧来の教義を護持する、受身で後向きの姿勢であり、従ってまた、清新な理論的な発見や貢献の欠如であった。少なくとも本質的な理論のレヴェルでは、「正統」派による創造的寄与は皆無に等しい。そうした「正統」派護教論の代表作を、影山日出弥「『幻想』の国家論と国家の『幻想』論」(1969年。後に影山『憲法の原理と国家の論理』に収載)に見ることができる。この影山論文は、直接には吉本隆明『共同幻想論』に反論しながら、論争主題たる国家のイデオロギー的性格についての無理解を暴露する通俗的な「国家=機構」説を復唱するとともに、もはや修辞的な巧妙さに頼る以外どうにもならなくなっている理論的行詰りを示している。 「正統」派の理論的活力の喪失は、国家論においてもとりわけ著しい。1970年代後半に、「正統」派の法学者、政治学者を網羅して刊行された『マルクス主義法学講座』全8巻の第3巻は、当初『国家・法の一般理論』として予告されていていた。にもかかわらず、1979年に公刊されたときには、『法の一般理論』に変更されていた。その間の内部事情を知るよしもないが、「正統」派の総力をあげても、見るべき国家の一般理論をまとめあげることができなかったのだった。これは、「正統」派国家論がたちいたっている現段階的状況を示す象徴的な出来事であった。以後、今日にいたるも、「正統」派からする国家論建設に取り組んだ専門的研究書は著わされていない。 「正統」とはスターリン主義、「正統」派とはスターリン主義の嫡流の謂である。スターリン主義国家論、もしくは国家論におけるスターリン主義とは、何か。その全容の解明は別論に廻さざるをえないが、さしあたって、その根本特質として、@『資本論』の方法の抹殺に立った、歴史主義的で概念演繹主義的な方法、ならびに史的唯物論の公式の天下り的適用法、A国家一般論としての「国家=道具」説や「国家=独裁のシステムの決定的手段」説、B死滅せざる「社会主義国家」論、を挙げておこう。この場合重要なことは、Bはスターリンの新造であるが、@はエンゲルスに由来し、Aについてもレーニンゆずりの面が強いということである。すなわち、国家論においては、エンゲルスからレーニンを介してスターリンへ、非連続性とともに、かなりの連続性が存する。そこに、スターリン主義国家論の超克の至難性がある。スターリン主義国家論の超克は、レーニン国家論はもとよりエンゲルス国家論への還帰によってではなく、それらののりこえとして達成されねばならないのである。 現段階の「正統」派国家論の一般的な通念を示すものとして、不破哲三『『家族、私有財産および国家の起源』入門』(1983年)を批判することから始めよう。この書は、通俗的なマルクス主義国家論の最大の典拠とされてきたエンゲルスの著作の解説であり、その一部で国家論に関説しているにすきないけれども、マルクスとエンゲルスの理論的一体視、「起源」の聖典化など、「正統」派国家論に共通の基礎認識を表わしている。 まず、不破は、『起源』がマルクスとエンゲルス両人の共同著作だという通説を墨守している。「エンゲルスは、マルクスの覚え書に肉づけをあたえつつ、自分で蓄積してきた・・・・・・研究成果も全面的に活用し、こうして二人の仕事を有機的に統一しながら、『起源』を書きあげた・・・・・・。この意味では、『家族、私有財産および国家の起源』は、文字通り、マルクスとエンゲルスの共同の著作だということができる」(1)。しかし、ここでは国家論に絞るが、マルクス『古代社会ノート』の遺言を執行したというエンゲルスの言明にもかかわらず、マルクスのノートの問題関心とエンゲルスの『起源』の論述とのあいだには、比較対照するとかなりの隔たりがある。マルクスが遺した摘要から窺うと、彼がモルガン『古代社会』に寄せていた関心はなによりも原始・古代の歴史の実証的な分析であったし、モルガンの俗流的な政治社会論については批判的であった。国家論について言えば、その研究の全過程が示すように、マルクスが構想していたのは『資本論』に後続させて近代ブルジョア国家を理論的に解剖することであった。他方、エンゲルスはモルガン『古代社会』から原始・古代の歴史の研究を継承するにとどまらず、その政治社会論をも無批判的に取りいれて国家論を仕立てた。マルクスの遺稿をうけた原始・古代史の実証的研究、その一部面をなす古代国家発生の歴史的研究を、マルクスのそれとは異なる彼の特異な歴史主義的方法を挺子として、エンゲルスは国家とは何かについての一般理論へと横すべりさせたのであった。 『起源』の総括的な最終章において集成された国家一般論は、エンゲルス独自のもの、いわばエンゲルス主義国家論であった。マルクスとエンゲルスが生涯をつうじて比類のない親交によって結ばれ、マルクス主義の共同創始者として極めて緊密な知的協力を保ち続けたとしても、両人が悉く理論的に一体であったと決めてかかるのは、非合理的である。憶断を排し、両者の著論に内在しその論理に即して判断するほかないのだが、哲学や経済学について明らかにされているように、国家論においても、マルクスとエンゲルスのあいだには看過すべからざる相違が所在する。マルクスとエンゲルスの完全な一体性のイメージが党派的宣伝によってつくりあげられ、他ならぬエンゲルス理論に依拠しそれを基礎に取りこんだレーニン理論、またスターリン理論の絶対化に役立てられてきた。現在的に必要なのは、その反省であり、それを今なお信じこんで固守することではまったくない。 加えて、不破は『起源』の国家論と『資本論』の経済学を接木し、「エンゲルスが『資本論』の論理を」文字どおり縦横に駆使している」(2)と述べて、『起源』を『資本論』によって正当化するとともに『起源』によって『資本論』を解釈する「正統」約見解を反復している。だが、盲信するのでないかぎり、マルクス『資本論』とエンゲルス『起源』とが、方法的論理において著しく異なっていることは明らかである。『資本論』は、19世紀中葉のイギリスにおいて典型的な発達をとげた資本主義経済を対象として、「近代社会の経済的運動法則」(3)を究明した。対するに『起源』は、古代アテナイ国家の成立を「国家形成一般の特に典型的な見本」(4)として、国家一般について概論した。それは、エンゲルスの方法論的錯誤を表わすものであった。 エンゲルスには、科学的理論の成立の可能根拠についての省察が欠如している。若きマルクスが論じたことだが、前近代において分かちがたく絡みあっていた経済ないし社会と分離し、宗教や道徳とも分化して、政治的国家として自立した近代国家は、前近代の「未完成の国家」(5)に対し「完成された国家」である。『資本論』が証示しているように、国家の科学的究明も、この最も豊かな発達をとげた歴史的国家たる近代ブルジョア国家に関する研究によって可能となる。マルクスが再三言明しているように、理論的抽象も現実的対象に客観的基礎を有する唯物論的抽象でなければならない。研究対象を国家の科学的理論化を可能ならしめる物質的根拠をなすものとして捉え返しつつ、その対象の客観的構造との関係で科学的な国家論を形成するという唯物論的見地を、エンゲルスは没却している。加えて、プロレタリア階級にとって直接的所与をなすのは、ブルジョア国家だ。現前のブルジョア国家による政治的支配に直面させられて、この国家を実践的に変革するために理論的に認識せんとするプロレタリア階級の主体的立場、とりもなおさずプロレタリア階級の自己解放の理論たるべきマルクス主義の実践的立場も、エンゲルスは見失っている。 これと一体的に、エンゲルスはまた、空間性と時間性の統一をなす対象そのものの存在構造に規定された場所的・過程的弁証法をたんなる過程的弁証法に歪めている。彼はマルクスの経済学の方法について、「論理的取扱い〔は〕、実際は、歴史的形態と撹乱的な偶然事を除き去った歴史的取扱いにほかならない。この歴史が始まるところから、同じく思考の過程も始まらなければならない」(6)と、解説した。が、これは『資本論』において集大成されて貫かれるマルクスの論理的・歴史的方法を曲解し、歴史主義的に捻じ曲げげたものであった。かかる歴史の過程に理論の展開を直接的に照応させる方法に基づいて、エンゲルスは国家論の研究対象を歴史的に大昔の原始・古代の時代へと遡行させ、古代アテナイ国家の成立過程を分析して、その歴史的研究を国家一般の論理へ抽象し純化したのであった(なお、説明不足の点もあるので、詳しくは拙著『マルクス、エンゲルスの国家論』第7章後期エンゲルスの国家論の第2−3節の参照を願う)。 エンゲルスの非唯物論的、非実践的で歴史主義的な方法はレーニンにも引き継がれたが、それがマルクス主義の本来の方法としてすりかえられ固定化されたのは、1920年代末からのスターリン主義の全一的支配の時代の到来と時を同じくしてであった。スターリン主義のあらゆる面にわたる確立の一環として、社会科学方法論の面ではマルクス『資本論』の論理は抹殺され、エンゲルス『起源』のそれが教義化されていったのであった。不破は、エンゲルスの方法論的過誤を押し隠すとともに、1920年代末からのソ連における『資本論』型から『起源』型への転換を土台として確立したスターリン主義の方法論に忠実に服属しているのである。 ほぼ1970年代以来、西ヨーロッパ諸国でもわが国でも、スターリン主義国家論批判を突き詰め、『起源』を代表作とする後期エンゲルス国家論から訣別した国家論新建設の追求が興起してきた。すでに後光の消えかかっている『起源』の訓話学の範圏にひたりきることによって、相も変らず批判的、創造的思考とは無縁なことを「正統」派の論者達はさらけだしているのである。 二 藤田国家論説のスターリン主義的性格 「正統」派の数多くの国家論稿のなかで、最も理論的な形をとっているのは、藤田勇「国家概念について」(1969年)、同「国家論の基礎的カテゴリーについて」(1974年)ということになろう。反「正統」派の国家論研究に抗しうる纏まった国家論を築きえない政治学者に代って、法学者藤田がその精力的な理論活動の一環として、国家論に関しても第一人者として「正統」派を牽引してきた。その藤田の1970年代前半頃の国家論説が、今なお「正統」派国家論研究の最高の到達でありつづけているのである。このこと自体が、「正統」派国家論の停滞と窮状を如実に示している。しかるに、藤田論文は仲間うちではこぞって口々に褒め千切られている。田口富久治は「国家論の基礎的カテゴリーについて」を「戦後日本のマルクス主義国家論の最高の達成」と礼讃し、加藤哲郎は藤田の所説をプーランザスなどと肩を並べる世界のマルクス主義国家論の最高水準に持ちあげる。党派主義的仲間褒めの宿弊の極みである。 右の両論文で提示されている藤田の国家論説を、どのように評すべきであろうか。その基本的性格は、現段階におけるスターリン主義国家論の日本的移植版である。その所以を、以下順を追って明らかにしていこう。 まず、方法上の根本問題として、「国家概念について」、「国家論の基礎的カテゴリーについて」なる論文題名がすでに示しているが、「国家にかんする基本的な諸々の概念・カテゴリーの連関の吟味をつうじて全体としての国家の概念的把握にいたる道をあらためて考えてみる」(7)という、概念、カテゴリーの解釈主義的な接ぎ合わせによる概念演繹主義的な理論編成である。こうした理論スタイルは、スターリン「マルクス主義と言語学の諸問題」(1950年)発表後大流行し、現在にいたっても跡を絶たない史的唯物論の基礎的諸カテゴリーについてのスコラ的論議が象徴しているように、また『マルクス=レーニン主義 国家・法の一般理論』(1970年)第5章など、ソ連における政治学教科書が実例をなしているように、スターリン主義のもとでパターン化した。 スターリン主義者はエンゲルス『起源』を教典化するが、原典を倭小化するのはエピゴーネンの常である。エンゲルスは『起源』の最終章において、国家の発生、国家の特徴的諸標識、国家の歴史的諸類型などについて概述し、国家一般論を展開した。非唯物論的で歴史主義的に倒錯した方法によるにせよ、その国家一般の概論は、それに先行して数章を費したギリシア、ローマ、ドイツのそれぞれにおける国家の生成過程の実証的分析に基づいており、豊富な歴史的研究の所産であった。従ってまた、アテナイ国家を典型として設定する手続も経ていた。ところが、スターリン主義国家論は、結果として与えられている国家一般の概論から出発して、その解釈、敷衍に自己充足する。自らは歴史の実証的研究に骨を折ることなく、また歴史の研究の新規の開拓のなかでエンゲルスの所論を捉え直すこともなく、エンゲルスの国家一般論の基本的諸概念を解釈し連関づけ整序して、教科書的に編成することに終始する。このような論法はまた、スターリン哲学体系において定型化された唯物弁証法から史的唯物論へ、史的唯物論から社会書諸科学への天下り的適用法と結びつきあい、史的唯物論の公式的命題やカテゴリーを尺度にした国家論のきりもりと重なりあっている。 晩年のエンゲルスは、史的唯物論の適用をめぐって多発する機械的あてはめの偏向を厳しく戒めなければならなかった。「われわれの史観は、なによりもまず研究に際しての手引きなのであって、決してヘーゲル主義者流の構成ではありません」(8)。そうしたヘーゲル主義的傾向は当のエンゲルス自身の方法論に胚胎していたが、エンゲルス国家一般論のヘーゲル主義的構成が、スターリン主義国家論の核心部をかたちづくる。スターリン主義国家論の方法的立場は、歴史の研究に取り組まない歴史主義であり、それゆえにもっぱら概念演繹主義として立ち現われるのである。 かような概念演繹的国家論の展開は、勿論、エンゲルス『起源』において国家の本質的構造についての探究がすでに成就され、マルクス主義の国家論は確立済みであるとする錯認を前提としている。藤田の国家論説は、そのスターリン主義国家論をまったく忠実に継いで、ソ連製の政治学教科書に依存しその解釈的追構成を趣意とすることで成り立っている。エンゲルス国家一般論の結果解釈主義として整備されたスターリン主義の教説の後塵を拝しているにすぎない。 如上の方法に相応する内容上の根本問題として、国家一般の抽象的規定を見よう。藤田の論説によると、「社会の政治的編成において決定的地位を占めるものは、支配階級の独裁のシステム(国家装置、政党、独占諸団体、右翼的諸団体)であり、この独裁のシステムの基本環をなすものが国家装置=機構である」(9)。こうした国家の一般的、抽象的規定は、紛う方なく、次のようなスターリン主義政治学教科書の定説の言い換えである。スターリン時代の『国家と法の理論』(1949年)では、「広義の、言葉の広い意味での国家機構と、言葉のより厳密な、狭い意味での国家機構とを区別しなければならない。・・・・・・これらの社会諸組織(政党および政治的連合、生産的および文化的団体、教会等)は、言葉の完全な、直接的な、厳密な意味では国家組織ではないが、にもかかわらず、それによって階級の政治的支配、その独裁が事実上実現されるところの機構に接合している。したがって広義の国家機構とは、階級の独裁の機構である。・・・・・・この機構における主要かつ決定的な地位は、本来の意味における国家装置に帰属する」(10)。ブレジネフ時代の『マルクス=レーニン主義 国家・法の一般理論』では、「国家のメカニズムは、支配階級の独裁の決定的な、主要な実現手段ではあるが、唯一の実現手段ではない。社会における支配階級(諸階級)は一連の機関や組織を媒介して、自らの独裁、自己の権力を実現する。それらの機関の一部は総体として国家メカニズムを構成し、他の部分は支配階級のいわゆる社会組織(企業家団体、政党、任意団体等々)を構成するのである。支配階級がそれを媒介として自己の権力を実現し、自己の利益を保障する一切の国家機関・社会組織の総体が、階級独裁の体系とよばれる」(11)。 また、藤田は言う。「階級のディクタトゥラ・・・・・・この規定が通常国家の本質として語られるものである」(12)。これも、同様で、右の二つの教科書によれば、「それぞれの国家は、その階級的本質において独裁・・・・・・である」(13)。「このもっとも重要な〔=国家の類型〕カテゴリーのプリズムをとおして考察される国家は、・・・・・・通例、経済的に支配する階級の独裁としてあらわれる」(14)。 周知のように、レーニンは『革命と国家』において、「ブルジョア国家の形態は多種多様であるが、その本質は一つである。これらの国家はみな、形態はどうあろうとも、結局のところ、かならずブルジョアジーの独裁なのである。資本主義から共産主義への移行は、もちろん、きわめて多種多様な政治形態をもたらさざるをえないが、しかしそのさい、本質は不可避的にただ一つ、プロレタリアートの独裁であろう」(15)と述べ、マルクス主義国家論の心髄として、独裁をあらゆる国家の本質と規定した。国家一般の本質を独裁と規定するのは、このレーニンに始まった。しかし、それが、1918年末の『プロレタリア革命と背教者カウツキー』や『国家と革命』第二版においてのことであったことを、看過してはならない。先に引用した『国家と革命』の一文も、第二版において追補された第2章第3節に属する。つまり、革命ロシアが内戦と干渉戦によって存亡の危地に立たされるなかで、カウツキーなどによる批判をきりかえし、ロシアにおけるプロレタリアート独裁を擁護し正当化する論戦において、レーニンは非常事態に際しての一時性、臨時性を本義とする独裁の時間的限定性を取り払い、すべての国家に通貫する本質として独裁を普遍化したのであった。独裁の規範的契機と暴力的契機、独裁と民主主義の相互関係、ジャコバン独裁の評価、ブルジョアジー独裁と異なるプロレタリアート独裁の歴史的独自性、等々、多くの点で一面的に偏していたレーニンの独裁論の検討は、別稿に譲るが、本来は非常時の国家に限定すべき独裁を、ありとあらゆる国家の本質として一般化したことについて言えば、独裁概念の過剰な拡大適用であった。 レーニンはそれでも1918年末になって、一連の経過的諸事情のなかで、ア・ポステリオリな結語として独裁を国家一般の本質と規定した。スターリンは − 当初から一貫してレーニンよりも格段に独裁愛好であった − その一面を固定的に継承して、ア・プリオリな緒言として独裁を国家の本質として確定しつつ、『レーニン主義の諸問題によせて』(1926年)では、「国家=独裁のシステムの決定的手段」説の祖型として、国家機構とそれに結びついている労働組合、協同組合、青年同盟など、そしてそれらを伝導ベルトとしてプロレタリアートを指導する党を、プロレタリアート独裁の体系として定型化した。爾来、独裁概念を歴史上のそれぞれの国家類型・形態にあてはめた、悪い意味において余りにも単純明解な命題が教説として流布されてきた。「奴隷所有的社会の国家は、奴隷に対する奴隷所有者の独裁以外の何ものでもありえなかった。封建社会の国家は、農奴に対する領主=農奴主の独裁であった。資本主義社会の国家は、ブルジョアジーの独裁である」(16)、というように。但し、これは、『国家と革命』でも引用されていたエンゲルス『起源』の次のような記述の変形でもあった。「古代国家は、なによりもまず奴隷を抑圧するための奴隷所有者の国家であった。同じように、封建国家は、農奴的民と隷農を抑圧するための貴族の機関であったし、近代の代議制国家は、資本が賃労働を搾取するための道具である」(17)。 独裁を国家の本質として一般化したことは、国家を支配階級が思いのままに操作しうる支配の道具と容易に見做すことにつながり、「国家=道具」説を支配的にした。スターリンは、例えば、「国家は、自分の階級敵の反抗を抑圧するために、支配階級の手中にある機関である。この点では、プロレタリアートの独裁は、本質的にあらゆる他の階雛の独裁と少しも違ってはいない」(18)と説いた。狭く支配階級の手中にある道具として把握される国家は、他方では、広く非国家的な社会諸組織との連関のなかでは階級独裁のシステムの決定的な環節として位置づけられた。上掲の新旧二つの政治学教科書からの引用文が証示するように、「国家=道具」説が狭義の国家概念であるのにたいし、「国家=独裁のシステムの決定的手段」説は広義の国家概念であった。そしてまた、新旧の政治学教科書を対比すると、右のスターリンの規定のごとき単純至極で機械的な「国家=道具」説から離脱して複雑なメカニズムとしての多面性を顧慮した「国家=機構」説へ復帰し、あわせて「国家=独裁のシステムの決定的手段」説を発展的に改修し拡充することが、新たな方向となっている。 内容的にも根本において、藤田の国家論説のスターリン主義的性格は明らかである。スターリン主義国家論の教義に習い、その現段階的動向に従いながら、その国家概念は規定されているのである。 批判を続けよう。藤由は論説を進め、「特定の歴史的タイプの国家の本質規定をより具体化しつつこれを形態論につなぐカテゴリーとして、国家の内容というカテゴリーを検討」(19)する。この「内容」カテゴリーの導入によって国家概念の充実を図っているのが、「国家概念について」論文からの「国家論の基礎的カテゴリー」論文の発展の試みでもある。が、この論点も、スターリン主義の教説の襲用である。上記の『マルクス=レーニン主義 国家・法の一般理論』では、国家の概念の章の国家の類型・形態を扱う節で、「本質」と「内容」の関係について従前よりも立入って考察し、「本質」に比してより具体的でより広い「内容」のカテゴリーに「類型」と「形態」を媒介する位置を与えているのである。 哲学的カテゴリーのあてはめによるヘーゲル主義的構成に陥っているのであるが、ここでは、カテゴリー論ないし概念論と本質論との論理学的関係を問題にしてみたい。「国家の概念」や「国家論の基促的カテゴリー」という論題、その冒頭部での「国家の抽象的・一般的規定(「本質」規定)」(20)、そして「本質論・タイプ論・内容論」(21) − 更に形態論 − の区分を踏まえた具体化、こうした構成から判るように、藤田の所説では、カテゴリー論、概念論の一部位に本質論は位置せしめられている。「正統」派の代表的な哲学者か、「概念論が最高の立場であり、有論と本質論はここへいたるまでのプロセスである」(22)と解釈しているように、これは、「正統」派に共通の論理学的見地に沿っている。 しかしながら、概念論を最高としそれに本質論を下属させるのは、ヘーゲル論理学の無批判的継受であり、ヘーゲル論理学を唯物論的に改作したレーニン『哲学ノート』の成果の抹殺である。ヘーゲルの論理学は有論・本質論・概念論から成っており、概念は有および本質の真理であり、有としての概念が本質としての概念へと自己発展するとする。これを唯物論的に転倒して、レーニンは次のような見地を打ちだした。「概念はまだ最高の概念ではない。更に高いのは理念=概念と実在との統一である」(23)。「概念(認識)は有のうちに(直接的な諸現象のうちに)、本質(因果律、同一性、区別、等々)をあばきだす − これが総じてあらゆる人間的認識(あらゆる科学)の真に一般的な歩みである」(24)。「本質と法則とは、現象、世界等々の人間の認識の深化を表現するところの、……同一程度の概念である」(25)。概念論は対象的現実についての本質の認識へ深まる過程的段階での実体の認識であり、本質論は実体論としその概念論を含みつつかつ止揚して法則を発見し定立する。この問題では、レーニンの業績からスターリン主義哲学は完全に退転し背理している。スターリン主義国家論が概念、カテゴリーの解釈論議に熱をあげるのは、かかる概念論ないしカテゴリー論と本質論についての逆転した理解にも支えられている。 さて、今度は、スターリン批判以後の現段階の国家論研究の論争の的となってきた論目の幾つかについて、藤田の所説を検討しよう。 最初に、国家のイデオロギー的性格について、どのように論じているだろうか。藤田は、「支配階級の独裁のシステム」の成立に先立つ「支配(政治的支配)をめぐる目的意識的行動をつうじての政治的諸関係・諸過程の創出」(26)に言及し、政治的諸組織、国家の形成が目的意識、イデオロギーによって媒介される点を認めている。そのかぎり、政治的イデオロギーによる媒介過程抜きに直接に国家の装置としての成立を説く「国家=機構」説からの脱却を進めている。また、「幻想的共同体」という国家の規定も取り入れている。だが、一定の手直しにとどまっていて、機構としての国家に法のイデオロギー性を付加し法のイデオロギー性をもって国家のイデオロギー性にすりかえる俗説を踏みこえていない。幾つも媒介的カテゴリーの導入を重ねてカテゴリーの連関づけを緻密にするとともに理論に柔軟なふくらみをもたせ、硬盾化した旧説の補正を進めているのが、「マルクス=レーニン主義 国家・法の一般型論」とともに、藤田国家論説の特徴的傾向なのだが、政治的な意識、目的、イデオロギー、規範についての独立した扱いは、依然として存在しない。本質と現象、内容と形態といった哲学的カテゴリーのあてはめに躍起となっていながら、スターリン主義政治学教科書がそうであるように、目的と手段という国家論には不可欠のカテゴリーについてはこれを欠落していること、更に言えば、レーニン『哲学ノート』におけるヘーゲル目的論の唯物論的改作についてもスターリン主義哲学は一貫して無視していることに、これは対応する。 次に、論理的なものと歴史的なものとの方法的関係について取りあげると、エンゲルス以来の伝統的な歴史主義的方法から離脱し、論理的方法と歴史的方法の相互関係をめぐって細部では未解決の問題を残しながら、マルクス的方法に回帰している。藤田の主著に属する『法と経済の一般理論』(1974年)は、従来どおり一般理論の名称に従いながら、内実としては資本主義社会における法と経済の関係を主要な対象として論を進めている。「どのような歴史的社会構成体を対象とするのかという点では、資本主義社会ということでよいだろう。そのいかなる発展段階かという点については、資本主義の成熟した段階、資本主義がそれ自身の基礎の上に発展する段階……としておく」(27)。この問題に関するかぎり、スターリン主義の教説の限度を踏みこえている。それでも、藤田はエンゲルスの歴史主義的方法については批判せず、それの弁護(28)にまわる。それに加えて、マルクス『資本論』型の方法とエンゲルス『起源』型の方法を、ブルジョア国家を対象とする狭義の国家論と諸々の歴史的類型の国家を対象とする広義の国家論の、それぞれにありうべき方法として両立させ共存させることを示唆している(29)。これは、後述のように藤田もまた、マルクスとエンゲルス、またレーニンの国家論の一体性という伝説を護りとおそうとしていることによっており、自らも追従してきたエンゲルス=レーニン=スターリンの歴史主義的誤謬の非マルクス(主義)性を糊塗する弥縫策と言うべきである。 『弁証法的唯物論と史的唯物論』(1938年)のスターリン哲学体系が日本に紹介されたのは、戦後になってからであった。それとともに、日本の唯物論においても、スターリン哲学の全面的支配が築かれ、歴史主義的方法が正続にして正当なものとして浸透させられた。しかし、スターリン哲学に汚染されていなかった戦前日本の唯物論は、一様に、マルクス『経済学批判要綱』序説や『資本論』の弁証法を受け継いでいた。戸坂潤『科学論』(1935年)、三木清『社会科学概論』(1932年)、加古祐二郎『近代法の形態性に就て」(1934年。後に『近代法の基礎構造』に所収)、梯明秀「資本発生の弁証法」(1935年。後に『資本論の弁証法的根拠』に所収)、等のいずれもが、歴史主義的方法とは反する学問的方法を採用している。歴史主義的方法の横行は、戦後日本の唯物論のスターリン主義的堕落の紋章の一つであった。他方での概念演繹主義の堅持ともあわせて、藤田の方法的転換の中途半端性を批判せざるをえないゆえんである。 更に、等号でつながれ続けてきたマルクス、エンゲルス、レーニンの国家論を根底的に再審して、三者それぞれのあいだでの重大な理論的相連の厳存を明らかにし、ひいてはマルクス主義における確固たる国家論の不在を浮かびあがらせてきた、反「正統」派の論者達の研究について、藤田はこれを排撃している。「レーニンの国家論をマルクス、エンゲルスのそれに対置(さらには、エンゲルスの国家論もマルクスのそれに対置)する傾向もあらわれてきている。ここでは、議論は、解釈の正当性を争うという次元を『超え』たものとなっている」(30)。理解の範囲をこえるイデオロギッシュな主張として撥ねつけるのであるが、そうした藤田の拒絶反応自体が、マルクス、エンゲルス、レーニンの理論的一体性の信奉のうえで唱えられてきた、特定のイデオロギーへの偏執を表明している。 いま一つ、いわゆる国家の二重機能の問題について、藤田は次のように説いている。 国家は、この『秩序』(階級的支配=従属関係の社会的編成)の維持のために、そしてそのかきりでのみ、この維持機能の一環として『共同的=社会的機能』を果たす(道路・水利事業、衛生事業、貨幣の鋳造・発行等の経済的機能、支配階級の成員をもふくむ諸個人による秩序侵害の排除等)」(31)。国家の機能に関して、レーニンは社会的=公共的機能を無視して階級的=抑圧的機能に一面化し、スターリン主義派はそれを承けて教義とした。ジェルラターナ「マルクス主義国家論と社会主義へのイタリアの道」(1956年)をはじめとする新説は、その偏面性を批判して国家の二重機能を取りあげたが、社会的=公共的機能を超階級化する逆の偏向に陥った。双方の説をともに退けた藤田の所説は、(問題の一応な解決であり、「正統」派の統一見解ともなっている。ところで、マルクス主義国家論の歴史のうえで見ると、藤田説は半世紀前のブハーリン説への還帰である。ブハーリン『過渡期経済論』は、以下のように説いている。「国家権力のいわゆる公共的機能の存在 − 鉄道や病院の建設、工場立法、保険の制定など − ……。国家権力のこれらの機能は決してその純階級的な性格を排除しているものでもない・・・・・・。『公共的』機能は、搾取過程の必要条件以外のものでない」(32)。国家の二重機能をめぐる現段階での論議そのものが、『マルクスの歴史・社会・国家理論』において社会的、公共的機能を階級的、抑圧的機能に対置したクノウと右のブハーリンのあいだの論戦にまで立ち返って捉えると、20世紀のマルクス主義国家論の停迷の徴証としての意味を有するわけである。藤田のこの説が誤っているのではないが、この論点についても国家一般の概論のレヴェルでのとりまとめにとどまってはならないということが、肝心なのである。 藤田の国家論説は、スターリン時代の教説を補修しソフト化したスターリン主義国家論の現段階的形態の日本版である。旧来の教義に比して多面的で豊富であり、或る部面での転換を含むとはいえ、スターリン主義国家論を根本のところでは後継している。他の「正統」派の論説よりも確かに理論的であるにちがいないが、その理論性は、ネオ・スターリン主義国家論としてのそれであって、近代ブルジョア国家の政治的運動法則の究明をなによりの課題とする、本来のマルクス(主義)国家論とははるかに懸け離れている。但し、藤田にとって国家論は副次的な研究テーマにすぎない。その多産的な業績の中心をなす法理論、社会主義論については、別個の独立した批判的検討をおこなわなければならない。 三 田口の最新の所説に関して 田口富久治の最新著『政治学の基礎知識』(1990年)のなかの国家論説の特徴的一相面について、簡単に触れておきたい。この書の「第3章 国家」や「第4章 資本主義国家」などで、田口はこの問題についての今日的な自説を述べている。 驚かされることに、田口は「マルクス主義の国家の一般論のレベルにおける重要なカテゴリーを、今日の研究水準を代表すると思われる藤田勇教授の所説にほぼしたがって解説」(33)し、旧態依然として、前節で批判した1974年時の藤田の国家論説をそっくり受け売りしている。かつて、田口は共著『政治の科学』(1973年)の「政治学の基礎概念」において、やはり国家論の基礎力テゴリーについて解説した。その解説は、@『デューリング論』や『フォイエルバッハ論』らにおけるエンゲルスの国家発生についての二段階論的説明の継承、A狭義の国家と広義の国家の区別立てへの無批判的追随、B「国家=機構」説の保守、C「社会主義国家」論の是認、および一国社会主義論を前提にしたプロレタリア独裁の対外面からする社会主義段階までの存続説の追認、D概念規定、カテゴリー解釈をもってする科学の僭称、等の謬説に満ちており、全体としてエンゲルス=レーニン=スターリン主義国家論の解釈主義的追構成であった。だが、この十数年来、公知のように、田口は西ヨーロッパで興隆したマルクス主義国家論の新動向を紹介し批評する著論を矢継ぎ早に発表し、代表的諸論作の翻訳とあわせて、”国家論ルネサンス”のわが国への移入の最先頭に立って大活躍してきた。それにもかかわらず、自説をとりまとめる段になると、かつての解説を修正してはいるが、西欧マルクス主義国家論とは異質のエンゲルス=レーニン=スターリン主義国家論の日本的嫡流である藤田の所説にやはり範を仰ぐのである。 前稿「国家論ルネサンスの移入をめぐって」(本誌前号)では、田口および加藤哲郎の研究にたいし、輸入理論の横ながしをもって自前の理論建設に代位するものだと批判した。田口の旧説固執は、”国家論ルネサンス”の最良の諸著に通底するマルクス主義国家論新構築の批判的、創造的な意欲と根本的な考究を共有することなく、目新しい論点を手あたりしだい摘み食いしてきたにすぎないことを、まざまざと示しているのではないか。田口の国家論説は、一方での西ヨーロッパ製の新しいマルクス主義国家論の紹介、移植への旺勢な取り組みと、他方でのソ連製のスターリン主義の教説に依拠した自説の細やかな提示とを矛盾的に統一しているが、ずばりこう言ってよい。スターリン主義の地金を西欧マルクス主義で包装している、と。 あわせて、党派主義的態度も相い変らずである。レーニン『国家と革命』のマルクス国家論との継承性に閲し、「レーニンがマルクスの『国家学説の革命的精髄』をどこまで正確に把握しているかは、また別問題である」(34)と、田口は述べている。そうした事柄は、1970年代初め以来、わが国の反「正統」派の国家論研究において提唱され、再三再四にわたり確認されてきた。ところが、田口は続けて言う。「この論点については、加藤哲郎「社会主義と国家の140年 − 分水嶺としてのレーニン『国家と革命』」・・・参照」(35)。その加藤論文はやっと今日にいたって先駆的な論者達の後を追い、レーニン主義国家論批判の論陣に加わったものにすぎない。それでも田口は、先行の業績については黙殺し、恥ずかしげもなく身内だけを持ちあげるのである。他面で、通説的なマルクス主義国家論に関して、田口は次のような問題点を記している。「@国家起源論から国家本質論ないし歴史的諸国家の構造や機能をかなりストレートに導出するという論理的誤りを冒していること(とくにエンゲルス『起源』の問題点)、Aこのようにして導出された国家本質論……を、階級社会の『継起的』発展段階に結びつけて、歴史的諸国家の性格をしばしば演繹していること・・・・・・(とくにエンゲルス『起源』とレーニンの「国家について」の問題点)〔長くなるのでBは略〕」(36)。これは、後期エンゲルス国家論の根本的難点を明らかにしてきた反「正統」派国家論研究の取り入れである。そのこと自体は理論的に一歩前進であり歓迎すべきだが、この場合には参考文献は挙げない。いわば密輸入である。 こうした見事なまでの党派主義に染まりきっている点でも、いかにもスターリン主義の末流にふさわしい。この期間に新たに取りこんだ多元主義的民主主義を外にむかって説いていても、自らのマルクス主義国家論研究においては閉鎖主義的セクト主義の陋習を改めようとはいっこうにしないのである。なお、後期エンゲルス国家論批判の受認を藤田国家論説の賞揚とどう折り合いをつけていくかも、今後の見物の一つである。 スターリン批判によるスターリン主義の崩壊の始まりから昨今のソ連、東欧での革命によるその最後的崩壊までの三〇数年間、日本の「正統」派国家論研究は、「社会主義」国としてのスターリン主義体制に凭れ、スターリン主義的に教本化されたエンゲルス主義国家論の教義学的思惟にとらわれて、その枠内で進化を図るあれこれの解釈主義的再構成に明け暮れてきた。その諸論説は、生まれかわるために新しい生命力を青くむのではなく、遺産を食いつぶしながら、生き永らえるべく老衰した力をふりしぼってきたのであった。歴史の審判に耐え、日本の「正統」派国家論研究が独自に創りだし積みあげた理論的成果として今後に残るものが、果して存在するであろうか?
大藪龍介 |