「権力分立」
 『マルクスカテゴリー事典』(青木書店、1998年)の執筆項目


【テキスト】
「たとえば王権と貴族とブルジョアジーが支配を争いあい、したがって支配が割れているような時代と国においては、支配的な思想として 権力分立の学説が現われ、それがいまや『永遠の法則』だと称される」(『ドイツ・イデオロギー』廣-66)
「『自由な政府』の条件は、権力の分割ではなくて権力の統一である。政治機構はどんなに単純であっても単純すぎるということはない」 (『1848年11月4日に採択されたフランス共和国憲法』7-506)
「イギリスの議会とフランスの立法院とのあいだには、どれだけの違いがまだ残っているのか?フランスではそれは少なくとも、 あえて国民に成り代わろうとすると同時にそういう横奪にともなういっさいの危険に公然と立ちむかう国民的英雄の推定相続人 [ルイ・ボナパルト]である。しかしイギリスでは、それは二流の代弁者であり、……いわゆる内閣の匿名のとるにたりぬ手合いであり、 この[パーマストン]内閣は、議会の愚鈍な知力と匿名新聞の人をまどわせる放言をたよりにして、音もたてずに、なんの危険も おかさずに、無答責の権力へ静かに忍び寄っていく」(『イギリスの政治』10-11〜12)
権力分立の歴史的意味

 国家論研究の中心テーマ 若きマルクスは、思想的理論的自己形成の出立地点で、ヘーゲル『法の哲学』の「国家」論部を逐条的に注釈し、政治的国家の 内部体制を構成する君主権力、統治権力、立法権力のそれぞれについて仔細に解析する。翌々年にフランス政治史研究に基づいて 記した政治学プランのなかでも、ブルジョア国家の内部構造に関して、「権力の分立。立法権力と執行権力」(3-596)などの項目を 列挙する。マルクスは良かれ悪しかれ、国家を政治的構造全体の中軸におく政治学の歴史的伝統の従いつつ、近代国家の考察においては 権力の分立を中心的なテーマに設定している。しかしながら、彼は近代ブルジョア国家論の創造を課題として抱き続けたにもかかわらず、 終にそれを果たすことがなかった。国家権力分立についての彼の研究も、独自の優れた論点を含みながらも、理論的には端緒的で 流動的な状態にとどまり、解明に及んでいないところが少なくなかった。

 幾つかの論点 テキストAは18世紀イギリスの名誉革命体制を模範視したモンテスキュー『法の精神』に代表的な、三権力の抑制と均衡という 理論を、三つの支配諸勢力間の対抗と妥協という社会諸関係から説明する。支配的な思想は支配的な物質諸関係の観念的表現以上の なにでもないという、唯物論的歴史観の基礎視座の例証として述べられており、国家権力分立のあり方もそれを映現する理論も、 時代と国によって変化することを示唆している。テキストBは、1848年のフランス共和国憲法の一条文「権力の分立は自由な政府の 第1条件である」に対する評注であるである。マルクスは、最小の政府や安価な政府として標語化されているブルジョア国家の 理念像に照らしつつ、権力の分割を第一義的に重視することへの批判的見解を表明している。あるいはまた、フランスの強大な 中央集権的な国家権力機構の「工場式に分業をおこない、仕事を集中した国家権力の整然たる設計図」(8-193)のありさまに注目し、 内部的な分割という点よりも一個の統一的全体をなすという点に近代国家権力の特色を見いだしている。エンゲルスも、 「権力の分立は、根本においては、単純化と監督を目的として、世俗的な産業上の分業を国家機構に適用したものにほかならない」 (5-189)と論じる。

 国家権力の分立をめぐってマルクス、エンゲルスは、これを社会階級的基盤からとらえ返したり、産業上の分業とのアナロジーで 位置づけたりしている。それはそれなりに有意義であるが、しかし、国家権力分立を固有のテーマにして独自の考察に踏み込んでは いない。そして、そこには一つの大きな盲点が存している。近代ブルジョア国家権力の分立には、ロック『統治二論』による唱道以来、 権力の独占的集中に不可避的にともなう権力者の腐敗、権力の濫用を厳しく警戒し防止する狙いが核心としてこめられているのを 見失っていることである。若き日に検討したフランス革命の人権宣言にも謳われているように、国家権力の分立の確保は、権利の 保障に加えて、ブルジョア国家の心髄をなすものであったが、この自由主義の歴史的長所をマルクスは掴み取ることができなかった。

権力分立の諸相

 フランス国家 フランス国家の歴史的変動を扱った三部作やイギリスを対象にした1850年代の時局評論のなかに、マルクスの国家権力分立に関する 分析がちりばめられている。「近代ブルジョア国家[の]二つの大きな機関、議会と政府」(17-561)、また立法権力と執行権力の 相互関係に焦点を絞り、権力分立の諸相をまずフランス国家について、三部作のなかでも総括的な到達点を示す『フランスにおける内乱』 に拠って摘録しよう。

 資本主義経済とブルジョア社会の発達に照応して、国家権力の性格も変化した。特に産業革命の進行とそれが惹起するプロレタリア階級の 闘争の激化につれて、国家権力は「封建制度を打ち砕く手段」(17-512)から「労働に対する資本の全国的権力、社会的奴隷化のために 組織化された公的権力、階級専制の道具」(17-313)へと転化した。国家権力の機構的編成も転換した。復古王政、7月王政の時期には、 「政府は議会の統制のもとに──すなわち有産階級の直接の統制のもとに──置かれ」(17-313)た。議会の政府に対するこの優越は、 成年男子普通選挙権が導入された第2共和制で頂点に達した。第2共和制は「議会の全能」(17-561)によって特徴づけられた。しかし、 ルイ・ボナパルトのクーデタを介して第2帝政は産業資本主義の確立、ブルジョア社会の成熟に対応したが、そこでは、「政府権力の 絶対的支配」(17-512)が築かれ「議会制度は単なる茶番劇であったし、最も粗野な形態をとった専制の単なる添え物であった」 (17-514)。第2共和制から第2帝政へかけて、激しい階級闘争によって政治諸形態が鮮烈な輪郭をとって次々に交替する特質を 示しながら、議会権力の完成から政府権力の完成への過程が進展したのだった。

 マルクスの分析は、とりわけ第2帝政ボナパルティズム国家について、専制的帝政と自由帝政の両面のうちの前者のみへの着目、 国家権力の「終局の形態」(17-315)という歴史的位置づけ、「フランスでは議会制度は死んだ」(17-514)との判断などの誤認を 含みながらも、大筋としてはフランス国家の権力機構の歴史的推移を鋭く描き出している。一つの理論的問題を付言すると、執行権力を 行政権力に解消し軍事に関わる事柄を隠蔽ないし軽視するブルジョア政治学とは異なり、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』 を注意深く検討すると、マルクスは軍事権力Militargewaltにも固有の然るべき位置を与え、軍事権力と行政権力Administrativgewalt とを合わせて執行権力Exekutivgewaltと規定している。したがってまた、執行府としての政府の機構は大別して行政機構と 軍事機構の二大部門から成るととらえられる。

 イギリス国家 マルクスは1850年代にイギリスの経済のみならず政治の現状と歴史に関する小論を数多く記した。それらのなかから掘り起こそう。 国家権力について「王権が議会に屈服したことは、ある階級の支配に王権が屈服したということ」(7-216)であった。ブルジョア革命後の 一時期には、ブルジョア階級とその議会の統制のもとで執行権力を担掌し内閣を主宰した国王の権力は、漸次的に縮小する過程を たどった。他方、「内閣とは何であるか?議会的多数派の手先である」(11-134)。当初は国王と議会の連結管であった内閣は、 国王権力の弱体化に反比例して権限を強めていって自立化し、議会的多数派の領袖が首相として内閣を組織し議会に対して責任を負う 議院内閣制が形成され定着した。ほぼ19世紀初葉までは、議会の優越の時代であった。こうした国家権力機構は、産業革命による 経済的、社会的地殻変動に基礎づけられて、トーリ、ウィッグの朋党factionの保守党、自由党への発展的再編と並行しながら、 漸進的に変化した。「王権は単なる名目上の権力」(9-252)と化すが、イデオロギー的機関として社会のうえに君臨し、国内外の国家的 統合の象徴として重要な役割をになうようになった。「[経済的]支配階級と決して一致しない[政治的]統治者層」(11-42) として土地貴族がなお統治の首座を占めつづけたが、経済的には決定的な支配力を有し全国民的利益を代表する産業資本家階級の 要求にそった政策・法を、国家は次々に制定し実施した。きわめて重要なのは、パーマストン内閣(第1次:1855〜58年、第2次:1859 〜65年)時代に、議会と内閣=政府の関係に生じた変化であった。「議会がパーマストン卿に30年のあいだ、宣戦、講和、課税の権利を 簒奪することを許した」(15-9)。戦争や外交を機に内閣の専行、それの議会による追認という事態が相次いで、「内閣の無答責性」 (同上)、「議会の……隷属的伝統」(15-10)が現出し、内閣の議会に対する優越がかたちづくられていた。

 議会の優越から政府の優越へ国家権力の機構的編成の転変は、フランスでも実現していた。「1848年から1858年にいたるヨーロッパ の歴史を書かなければならない未来の歴史家は、1851年にボナパルトがフランスに対しておこなった訴えと1857年にパーマストンが おこなった連合王国に対する訴えとの相似性に驚かされることであろう」(12-148)。  テキストCは、その「皇帝の権力横奪と……内閣の権力横奪」(15-12)の本質的な同一性と形態的な差異性を説明する。 これらは、マルクスならではの犀利で卓抜な分析といえよう。

 権力分立の規範と事実 マルクスは、ヘーゲル国家論の評注のなかで、「立法権力のあるべき姿と現実の姿」(1-292)の背反、憲法制定権力と憲法上の権力の 矛盾について摘示し、また1848年のフランス共和国憲法をめぐって、「初めから終わりまで、最も不誠実な企図を背後に隠した、 美しい言葉の寄せ集めにすぎない」(7-511)との批判を放っている。唯物論的歴史観にいう政治的上部構造としての国家の本質的 属性たるイデオロギー性、そしてそれを糊塗する憲法や法律の輪をかけたイデオローギッシュな性格の剔出は、マルクスの研究の優れた 長所をかたちづくる。この国家、憲法のイデオロギー性批判の視座を保ちつつ、近代の初期段階にとまらず盛期の国家についても、 議会の優越を御定まりとして唱え、ブルジョア国家を議会(中心)主義的に飾りたてる支配的学説批判として、マルクスは、フランス 国家とイギリス国家の歴史の分析的な研究により、規範から背離して進行する事実として政府の優越の発展傾向を折出しているのである。 ブルジョア国家権力機構は、初期段階の議会の優越、議会中心主義から、産業革命、産業資本主義の確立による経済的、社会的大変動に 適応して、盛期段階には政府の優越、政府中心主義へ改造される。では、こうした改編が歴史的に必然化するのは、何故か? これについては、マルクスは理論的解答を明示してはいないがヒントは与えているとだけ述べておく。

 残されている論点 国家権力の分立について、立法、執行、司法等の機能的分立と議会、政府、裁判所等の機構的分立が区別される。近代初期段階には、 例えば立法権力と議会権力は等置可能であり、機能と機関を一対一的に照応させることができた。ところが、盛期段階になると、 機能と期間の一対一的照応関係は消失した。フランス第2帝政では、政府権力を手中にした皇帝は執行権力を統括するのはもとより 法律の発議、裁定、布告の権限を有して立法権力の重要な部分をも掌握した。イギリスでも、ほぼ第1次選挙改正以降から、 従前の議員立法に代わって内閣提出法案による立法がおこなわれるようになり、それが常則となっていった。委任立法も始まり 増加していった。マルクスは1860年代以後のイギリスの政治過程について論評することがなかったが、『資本論』第1部と同年に 公刊されたバジョット『イギリスの国家構造』は、立法が内閣の指導権下に移行したことを証言するとともに、立法権力と 執行権力を結合している内閣を国家の最強力団体と規定した。

 かくして、各機能は一機関にのみ帰属し各機関は一機能のみを担掌するのではなく、同一機能に諸機関が参与し同一機関が諸機能を 担当するという国家権力の分立の態様を理論化することが必要である。そうすると、盛期ブルジョア国家として19世紀後葉に姿を 整える議会制民主主義国家の権力機構的構造はどのように論定されるのか?マルクスは基本的な視覚と幾つかの貴重な解明を遺し、 後続者がさらに究明し集成すべき課題を投げかけている。
(大藪龍介)

【関連項目】権力、国家
【参考文献】
尾形典男「議会内閣制度の検討」日本公法学界『公法研究』7号、有斐閣、1952年
大藪龍介『マルクス、エンゲルスの国家論』現代思潮社、1978年