「マルクス主義国家論の新形成の道をひらくか? − 書評 B・ジェソップ『国家理論』」
 フォーラム90’s『月刊フォーラム』 1995年4月号


広汎多岐な理論を論評

 わが国でもすでに『資本主義国家』と『フーランザスを読む』が翻訳され、国家論研究者として注目されているB・ジェソップの"STATE THEORY,1990"の訳書である。1977年から90年にわたって書かれた12本の論文が4部に編集され、前の2書をさらに上まわる大部の著作としてまとめられている。

 本書『国家理論』の何よりの特徴は、取りあげられ論評の対象とされている理論の広汎多岐性であろう。最近年の欧米で名高い諸理論が、プーランザス国家論や国家導出論からはじまって、コーポラティズム論、フーコーの権力論、スコチポルなどの国家論、ラクラウとムッフェの言説理論、レギュレーション理論、ルーマンのオートポイエシス理論等まで、次々にその特質、長所と問題点について吟味され、批判的評価を与えられている。本書のメリットも、まずは、これら最新の有力な理論的諸動向についての丹念な批評から得られる豊富な知見にあると言えよう。

 ジェソップが構築を図っている国家論は、マルクス主義としてはかなりきわどい。しかし、マルクス主義国家論研究に不可欠の根本的な再考に、良くも悪くも、大きな刺激を与える。そればかりか、そのきわどさのなかに、時に、認識を豊かにする新たな要素が所在している。一例として、彼はラクラウなどとともに、マルクス主義国家論の根本命題である国家の階級性について異を唱える。ところが、それは従前の階級還元主義への批判の徹底としてであり、諸階級関係によってのみならず、官吏と人民の関係、民族・人種関係、男女の性差、生産者と消費者の対立などの非階級関係によっても国家形態は規定されるという、理論的ふくらみをもたらす洞察がそこにはある。つまり、いっさいの既成観念のラディカルな再審の機縁を得ることができる。これも、本書のメリットである。

 他方で、デメリットも少なくない。なんといっても、読解に容易ではない。『資本主義国家』が「読むに困難な著書」(398頁)だったことは、ジェソップも自ら認めているが、『国家理論』も同列である。彼の論述は諸々の理論家たちの所論 − それぞれに簡単には理解しがたい − の矢継ぎ早の批判的論評によって運ばれていて、煩雑であるうえ、彼自身の積極的な論は明確に展開されるにいたっていない。そうした特有の理論的スタイルに難解さは由来すると、ここでは述べておこう。

国家論ルネサンスとその後

 本書について、幾通りかの角度からの批評が可能であるが、1960年代末から70年代にかけて隆盛し、わが国で国家論ルネサンスとして喧伝された西欧マルクス主義国家論研究が、その後どのような軌跡を辿っているかという観点から嘱目しよう。

 現在の時点においても、「現実には、説得的で、すぐにでも受容可能なマルクス主義の資本主義国象の理論が存在しているわけではない」(362頁)。こうした把握は、穏和的にすぎると思うが、誰しもに首肯されよう。そこでジェソップは、70年代までのマルクス主義国家論研究の二大潮流であった「資本−理論」アプローチと、「階級−理論」アプローチの双方を超えるべく、「戦略−関係論的国家アプローチ」(404頁)を掲げている。

 ジェソップは、国家論ルネサンスを牽引した第一人者格であったプーランザスの最後期の「国家=力関係の凝縮」説の継承をもって任じている。だが、『プーランザスを読む』においてすでに、プーランザスが蹉跌しつつもなお課題としていた資本主義国家の一般理論についてこれを成立不能と断じ、また国家の相対的自律性についてこれを誤りとして放棄するなど、「プーランザスを超えて」(同書、425頁)いた。そして、ポスト・プーランザス段階において、ジェソップは、その基本的な特徴を抽出するなら、現代資本主義国家の現実的・具体的問題状況と、多元的諸決定の複合的総合として、社会的諸関係との関係に焦点をおいて分析することに理論的課題をしぼりこみ、相関的に、土台・上部構造、国家の相対的自律性の図式から訣別して、諸制度の自律、オートポイエシス・システムとしての国家の構図へと、基本的立脚点を移動させている。

 本書のなかの早期の諸論文は既刊の二著と論点が重複しているので、「国家に関する私の思考の現状を示す」(402頁)とされる第四部の3つの章に限って、ジェソップの国家論研究の今日的段階を窺おう。

ジェソップ国家論の今日的段階

 最初の章では、久しく国家を研究対象から除外してきたアメリカ政治学においてこの期間に登場した、反マルクス主義の立場にあるスコチポルなど「国家中心」理論家たちの国家復権論、他方では言説理論を展開したラクラウ、ムッフェの脱マルクス主義の国家解体論という、対照的な二つの理論が扱われる。ジェソップは、前者の「国家中心」アプローチ、国家主義を批判し、後者とも「国家」の不可能性という含意にあることで一線を画するが、国家の自律性の強調、あるいは本質主義、還元主義の峻拒を汲み取ることに努め、「方法は異なれ、救済可能なものである」(445頁)という見地を示す。

 続く章でも、レギュレーション理論とオートポイエシス理論という、相互にそりのあわない二つの理論的潮流が検討に付されその批判的摂取が試みられる。

 「経済的・社会的動態の時間的・空間的可変性」(ポワイエ)の解明を核心的課題とするレギュレーション理論の政治経済アプローチと「戦略−関係論」的アプローチの間には、ジェソップが説くように、顕著な近似性が存在する。レギュレーション理論には国家論が乏しいというのが定評であるが、ジェソップはレギュレーション・アプローチを導入して自らの国家論考の発展的拡充を図る。「戦略−関係論」的アプローチは、ひとつの社会関係である、換言すると諸勢力のバランスの凝縮である国家を政治的戦略の結晶として扱う。かかる政治戦略としての国家に調整(レギュレーション)による秩序形成というレギュレーション・アプローチを適用すると、国家は調整の主体であるとともに調整の対象としても捉えられる。

 しかしながら、国家を社会関係全体の「凝縮の要素」として位置づけたプーランザスを継いでいるジェソップは、国家についてこう論じている。「国家は、とりわけ、より広範な社会の統合と凝集の維持という責任を負っている」(515頁)。ところが、レギュレーション学派における国家の位置づけは、はるかに控え目である。レギュレーション理論は、国家による競合や規制ではなく、調整メカニズムを中心において制度諸形熊の相互的自律性を説く。国家は調整機能を果たす制度的語形熊の一つにすぎない。レギュレーション理論との接合は、ジェソップの持説の自己調整を必要とするのではないのだろうか。

 ジェソップの作業は、オートポイエシス理論の影響も強くうけている。「政治システムの根本的自律性、政治システムの自己決定としての国家の性格、こういったテーマについての独創性」(404頁)に関心を寄せて、彼は「マルクス主義のアプローチとオートポイエシスの理論の総合の可能性」(494頁)を示唆する。

 ここでも疑問は避けられない。現存する政治システムの秩序・安定性・その自動的自己制御のメカニズムを理論的に弁証するオートポイエティズムとマルクス主義を首尾よく総合できるのだろうか。オートポイエシス理論などの取りこみに頼らなければ、経済決定論その他の宿痾をマルクス主義は克服できないのか。また、政治の自律性の尊重とは別の基準 − 例えば、民主主義の問題 − を設定すれば、ルーマンの政治システム論の評価は違ったものにならざるをえまい。そもそも、続出する新手の諸理論の批判的研究はそれとして、創始者たち以来のマルクス主義国家論の歴史の内部革命をつきつめて自己創造的(オートポイエティク)へと転じる道はないのだろうか。

新たな国家論は築かれたか

 最終章では、「戦略−関係論的国家アプローチ」の概観が提示される。その冒頭に、「国家とは何か?」(504頁)という論目が置かれている。これを見るや、おやおやと思わざるをえない。資本主義国家の一般理論の成立不可能の再三の主張の反面で、後期エンゲルス以来の国家一般論、それにスターリン主義のもとで重用されるようになった国家の定義が開陳されるからである。その一般論と定義の内容は、今日的に刷新されているのではあるが。次の論目、「国家は資本主義的であるのか」(526頁)でも、後期エンゲルスによる国家についての三点の特徴づけ以降の通説の枠組みを相続して、「資本主義国家類型の三つの主な制度的特色」(529頁)が記述される。国家の一般論や一般的定義を整序して「諸概念のハイラーキィ」(511頁)を構成し、それを「一応のフレイムワーク」(516頁)として資本主義国家類型のより具体的な特徴づけをおこない − これは、勿論、近代的特殊から一般へというマルクスの方法と逆である −、それらを介して、歴史的、個別的状況にある現実的、具体的国家を分析するというわけだが、その方法的論理は、ソ連製教科書などで馴染みのスタイルの襲用である。それに、そこで説かれるメタ理論は、紙数の制約からその内容に立ち入ることはできないが、総じてありきたりの城を超えでていない。この章では、ジェソップの親スターリン主義的傾向が垣間見られる。

 旧套的一面を引き摺りながらも、『国家理論』は、数多くの新しい概念をまじえた新規の理論創出の模索の表明であり、それによって旧いドグマの大胆な聞い直しに力を発揮している。けれども、マルクス主義のスタンスを貫こうと志向している著論としては、新たな国家論建設の道を着実に開拓して進んでいるとは見なしがたい。かつて『現代の国家論』(世界書院)第六章において、国家論ルネサンスの意義を評価しながらもその大いなる限界を指摘し、ジェソップ理論については特に批判的であった評者(大藪)からすれば、国家論ルネサンスの拡散の過程である。

 だがしかし、マルクス主義、とりわけその国家論の停滞は、あまりにも深くあまりにも長期にわたってきた。ジェソップの国家論的営為がそうした歴史のうえにどのような業績を刻みこむか、いましばらく注視が必要であろう。

(大藪 龍介)