「マルクス国家論新構制の一階梯 − 書評 鎌倉孝夫『国家論のプロブレマティク』」
 フォーラム90’s『月刊フォーラム』 ,1993年1月


 政治理論、とりわけ国家論はマルクス主義の大きな弱点をなしてきた。近・現代世界の中枢諸国に存立するブルジョア議会制民主主義国家の理論的解剖さえ、いまなお果たしえていない。後期エンゲルス国家論を原型とした一世紀有余の定説を超克する、国家論の革命が待望されている。

 本書は、宇野理論に立脚しながら宇野派国家論を突破して、ブルジョア国家の原理論的解明を追究しようとする。そしてそのことによってマルクス主義国家論の今日的新構築という歴史の要請にも応えようとする、意欲的な力作である。あわせて、まさしく大書である。全部で十六章が、四編に分けて配置されている。「第一編 現代国家論の批判的検討」は、現今の西欧マルクス主義者の諸業績、ヒルシュ等の「国家導出」論、プーランツァスの「国家=力関係の物質的凝縮」論、その他を、「第二編 マルクス・レーニン国家論の検討」は、マルクス、エンゲルス、レーニンの国家論上の達成を、それぞれに精査して、マルクス主義国家論の現在的到達地平を見極める。「第三編資本主義と市民法体系 − 宇野方法論による国家論」は、著者(鎌倉)が属する宇野派の国家諸論説を批判的に総括する。これらを踏まえて、「第四編 実践的権力・機構としての国家 − 国家論構築への試論」は、国家論再構築へむけての自論の提示である。

 マルクス主義国家論研究に決定的に求められているのは、文献解釈主義的追構成ではない。新たな理論的創造である。本書の論域は広汎多岐にわたるが、第三編、第四編を中心に、著者によって展開された積極的な論点を取りあげて、批評に努める。

資本論と国家論

 著者は、国家論研究の出発点的な方法的立場を一段と明確に定めている。まず、「国家論の学的構成の基準は経済学の原理論以外に求めることはできない」(2頁)。国家論研究の本来の対象と課題は、ブルジョア国家の科学的究明であり、それを遂行するには『資本論』を前提的基礎としなければならない。これは、マルクスの見地に立てば、至極当然の原則である。

 しかるに、このイロハ的原則すら、後期エンゲルス以来のマルクス主義国家論は見失ってきた。後期エンゲルス国家論は、ソ連では依然として正統的教典としての地位を占め、わが国でもそれを踏襲している論者は、不破哲三『『家族・私有財産および国家の起源』入門(1983年)など、なお数多い。エンゲルス主義国家論の迷妄から解放されることは、マルクス主義国家論再生のために必須の第一条件である。

 次には、しかし、『資本論』を基礎にして国家について論じなければならないということは、「『資本論』の論理の延長線上に、国家を説くという意味ではない」(165頁)。「国家の論理的展開は、経済の論理と異質であり、次元を異にするものである」(166頁)。これもあたりまえの原則である。

 ところが、エンゲルス主義国家論を斥け『資本論』を基準にして国家論へアプローチした論者たちは、『資本論』の論理からの連続的な演繹的展開として国家に論及するにとどまり、総じて経済主義的国家論に落ちこんできた。この類の研究も、法理論におけるパシュカーニス『法の一般理論とマルクス主義』(1924年)を嚆矢として、少なくない。当今の”国家論ルネサンス”の代表作の一つ、ヒルシュ他『唯物論的国家論の諸問題』(1973年)は、その到達限界を示している。わが国では、原田三郎編『資本主義と国家』(1975年)第一編の諸論文がある。『資本論』の論理の拡張線上で国家論を思い描く錯誤からの解放も、マルクス主義国家論創り直しのための必須条件である。

 ところで、1970年代以来次第に台頭して一つの有力な潮流をかたちづくってきた宇野派国家論も、これまで、経済学原理論の論理を延長して国家や法について推断してきた。著者の問題意識は、宇野派国家論の内側からの、のりこえに凝縮する。

 一方で、経済学原理諭のなかで国家を扱いブルジョア国家の原理的解明の不要、不可能を説く降旗節雄『解体する宇野学派』(1983年)や、そのヴァリエィションである山本哲三『資本論と国家』(1983年)の論説、他方では『資本論』の「法」や階級闘争に関する記述に着目してそこから法治国を導出する岩田弘『資本主義と階級闘争』(1972年)など。これら宇野派国家論の二類型は、いずれも、国家の論理は経済の論理とは異質であり次元を異にすることを没却している。「いわゆる宇野派国家論の試みは、資本主義における法治的特徴は説いたけれども、法治国家の解明にまでは行きついていない」(359頁)。

 この批判は、肯綮に当たる。評者(大薮)のみるところ、従前の宇野派国家論は、方法的にはパシュカーニス法理論の亜流であり、内容的には同じ亜流としてもヒルシュ等の国家導出論に及ばない。

 資本主義社会において経済構造が自立し自律するのに、そのうえになぜ国家が不可欠なのか。これこそ、国家の理論的解明の基本課題であり、「経済領域とその運動がそれ自身自立=自律しながら、なぜ上部構造 − 国家が成立するのか、という問いは、ブルジョア国家成立についての「原理」的解明を要請する」(296頁)。

 そして、資本主義経済の論理が完結性をもつことによって、かえって、それとは異質、異次元のブルジョア国家の固有の論理が明らかにされる。こう、著者は繰り返し力説する。

 資本主義経済の自立性と国家の必然性をめぐって評者には少し異議をさしはさみたい点があるが、純粋資本主義論としての宇野経済学原理論に立脚しつつブルジョア国家の原理論的解明の必要性と可能性を説き明かして、当を得ている。

 宇野の言述に凭れて、国家論には原理論が成立しえないと復唱するだけの議論よりも、はるかに説得性を有する。19世紀中葉のイギリスで典型的に発達した資本主義経済の純粋化傾向も、ブルジョア国家を不要としたのではまったくなかった。それに、「固有の対象の固有の論理を掴む」(『ヘーゲル国法論批判』)というのは、マルクスが終生堅持した立場だったのではないか。

宇野派国家論をめぐって

 宇野派国家論の新段階を切り開こうとする著者の論考にたいし、宇野派内部からの反批判が期待されるが、論争を生産的たらしめるには、二つのことが必要だろう。

 一つは、宇野教条主義からの脱皮である。宇野の断片的な言説を基準にして国家論、法理論を裁断するのは、唯物史観の公式でもって経済学をきりもりする俗流マルクス主義者と同じ誤りを犯すことだ。宇野の国家や法に関する見解も、一つのイデオロギー的仮説にすぎず、逆に国家や法の科学的理論によってその当否を判定されるべきである。理論的思考の基準は、宇野の言述にあっているかどうかではない。客観的対象であるブルジョア国家の存在構造の科学的究明にどこまで迫れるかである。

 いま一つは、国家の原理的解明か段階論的解明か、どちらの見地をとるにせよ、その原理論あるいは段階論の内容を積極的に提出すべきである。さもないと、論議は堂々巡りで 新たな地点へと開かれていかないだろう。この面では、本書では挙げられていないが、大間知啓輔『資本主義国家と財政』(1988年)が踏みこんだ展開を示している。

 宇野派内論争をくぐりぬけて、著者は、ブルジョア国家の成立の根拠に論点を絞って原理論的解明に乗りだす。国家の必然性を、どのように究明するか。この大難題に立ちむかって、著者は苦心を重ねる。この新たな創造的開拓のための四苦八苦に、本書の何よりも貴重な意義が認められる。とはいえ、その理論的展開は成功を収めていない。

 著者は、国家成立の根拠をイデオロギー領域に求める。「資本主義はその物神性のゆえに、たんに商品経済的=市民的イデオロギー − 法(レヒト)によるだけではイデオロギー支配を完成しえないのであり、内部に包摂した人間実体的領域から生じる(理論的には可能的、実践的には必然的)反・非市民的イデオロギーに対し、前者のイデオロギーの”公的”権力的統合、支配を不可欠とすること、そこに国家形成の根拠がある」(3頁)。

 資本主義が商品経済的包摂の限界として生みださざるをえない市民的にたいする反・非市民的のイデオロギー的対抗に基づき、「市民的イデオロギー − 法(レヒト)」の強制権力として、国家は成立する。「日常的な労働・生活実践上、その[反・非市民的]イデオロギーはいわば不断に形成されうるし、状況・条件によっては体制の秩序を揺がすことにもなる。だからこそ、「法」の遵守の強制、しかも「法」の守り手としての国家の体制維持機能、とりわけイデオロギー的統合機能(当然暴力をも伴う)が、積極的に発動されることになる」(320頁)。

 しかしながら、市民的イデオロギーと異なるイデオロギーの発生とイデオロギー的抗争は、国家成立の過程的な一根拠ではあるが、唯一の根拠でも最も主要な根拠でもない。第一に、発達をとげた資本主義社会は、反・非市民的イデオロギーをも民主主義的に許容し包摂する。国家権力によって強制的に排除しない。反・非市民的イデオロギーに対処しイデオロギー的統合・支配にあたるのは、まずもってブルジョア政党、言論・出版・報道の諸機関、政会・私立学校・大学などの非国家的な諸組織である。

 これらの扱いが、著者の論には欠漏している。イデオロギー的対立は、公的権力による統合、支配を必ずしも必要としないのである。

 したがって第二に、政党やイデオロギー装置によるそれとは相違する国家による統合、支配の特質が不明確である。「体制の秩序を揺がす」のは、反・非市民的イデオロギー自体ではなく、それに基づく実践的闘争である。

 その実践的闘争にたいするイデオロギーによるのみならず公的暴力による統合、支配が、たんにイデオロギー的統合に随伴してにとどまらず最後の切札として不可避となるとき、国家はヤヌス的相貌を備えて出現する。

 この点では、レーニン以来の階級闘争主義的で暴力装置偏重の国家論への反撥のあまり、その裏返しに陥っている。あるいは、経済還元主義からイデオロギー還元主義へと、その国家論説は流れている。

レヒトとゲセッツ

 加えて、その「市民的イデオロギー − 法(レヒト)」論も、突っ込みがたりず混乱している。近年、宇野派国家論のなかで、レヒト論なるものが流行している。最近では拙著『現代の国家論』のなかで述べたように、『資本論』のマルクスがRecht-Staat-Gesetzの上向的連繋のなかでGesetzと峻別して用いたRechtは、直接にはヘーゲル『法の哲学』の批判的改作にちなんだ概念で、近代自然法学が論じてきた自然法にかかわり、捉え返せば、道徳(的権利・規範)を表わしている。そのRechtは、ドイツのいわゆるRechtsstaat法治国家の法では決してない。

 ところが、前記の山本や大間知の所説は、RechtとGesetzを法=法律として同視したパシュカーニス以来の誤訳を共有しつつ法律学では『資本論』のような原理論が可能とした宇野派説にとらわれて、正体不明のレヒトに仕立てている。

 そこには、重大な過誤が存する。(1)結局はRechtをGesetzに帰着させ、道徳を法として混同する。(2)従って、道徳の問題をすっぽり抜け落とす。道徳と政治、道徳と法といった古典政治学が考究を重ねてきた事項は、あたかも存在しないかのごとくに。(3)近代法は国家制定法であるという明白な根本的事実を無視する。

 著者は、山本説について、「「法規範(レヒト)」と国家による実定法(ゲゼッツ)が同一視され、「法」規範の「社会的規範」としての性格が逆に曖昧にされている」(326頁)と批判を放つ。

 だが、その「社会的規範」とは道徳的規範なのか、政治規範なのか、はたまたそれら以外の規範なのか、定かにしていない。また、「商品経済的=市民的イデオロギー」を延長して、経済とは質的にも次元的にも異なる国家の論理にそのまま移し入れており、ここでは政治的イデオロギーの問題を欠落している。

 評者(大薮)の論では、商品交換の意志的契機から発達し市民社会の秩序原理として成立した道徳規範は、政治的イデオロギーの地盤ともなり、資本主義社会と政治的国家の間に介在して双方の世界を接続するのである。

 かくして、著者は次のように説くにいたる。「国家成立の根拠は、何より第一に、市民法 − その直接の根拠としての市民的イデオロギー − にあるが、たんなるイデオロギー、あるいはその形式化、規範化としての法Rechtによって根拠づけられるだけではなく、法律(制定法Gesetz)を根拠にせざるをえない。法律に根拠をもつことが、国家の正統性≠フ根拠をなす」(417頁)。社会的規範としてのRechtを国家による制定なしに法律にしてしまい、法律を国家の根拠に組み入れるのである。

 これでは、法律が国家制定法であることは抹消され、また合法性が正統性にすりかえられる。Gesetzとは区別されたRechtに注目してこれを取りあげた意義 − 商品交換の規範的論理に立地し適応することによって国家が体現する道徳的、政治的イデオロギー性ないし正統性の確置 − も失われてしまうのである。

宇野理論をはるかにこえて

 マルクス主義の創始者たちは、適切に理論化できなかったけれども、国家の発生根拠に関して、社会の共同利益の遂行や階級対立、階級闘争の抑制、さらには外敵からの防禦などを列挙していた。問題は、それらの諸要因を『資本論』を基礎にブルジョア国家に即して論じなおし、複合的な諸契機がつくりなす国家発生の過程的構造を、包括的に序列づけて解き明かすことである。著者の試論は、それらをいわばイデオロギー的な対立と闘争の一面に局限している。

 こうした理論的偏面性は、すでに指摘した道徳の他にも、政治、政党という国家の発生論的展開に欠かせない基本的諸事象か、考察の対象から抜け落ちていることとしても現われている。

 それはまた、経済学原理論からの演繹的展開に頼っていて、国家の原理論的抽象を可能にする経験的対象の帰納的分析を失念してしまっていることに関連するだろう。経済学原理論に随伴した国家論説から国家の原理論的考察という本格的な論圏へと転換するためには、マルクス『資本論』がそうであったように、典型的に発達したブルジョア国家 − 評者の論では、19世紀後葉のイギリスの議会制民主主義国家 − そのものと切りむすぶことが不可欠である。

 著者がすでに取り組んでいる政治学批判ももちろん、重要な課題である。しかし、カントの国家論を古典政治学の頂点として評価するなど、著者の政治学史研究は的を射ていない。もし古典政治学の正統的発展をロック−スミス−ベンサムに求めて、その批判的摂取に努めたなら、「法(レヒト)」論を含めて国家の成立根拠論の展開は、かなり異ったものになったであろう。

 国家の必然性の理論的究明への挑戦は不成功に終っているとしても、本書は鋭い問題設定と綿密な考察によって、国家論構築へと辿り進むべき歴史的階梯の一つを確実に築いでいる。

 著者が重心をおいている宇野沢内の論争に関して再言すると、宇野派にありながら宇野派国家論の枠組を破って前進せんとする姿勢は、大いに共感を呼ぶ。国家の原理論的解明を達成するには、宇野自身の国家や法についての言説をものりこえることが必要だろう。

 だが、それは、宇野の批判と創造にあふれた学問的精神に背くことではなくして、それを継ぐことであるにちがいない。国家論の創造的建設へ、いっさいの既成理論へののっかかりを排し、党派も学派もこえて、刻苦勉励すべきときである。

 大薮龍介