『社会主義像の転換』の「まえがき」
 1996年7月


 わが国のマルクス主義理論研究では、「マルクス=レーニン主義」、ないしソヴェト・マルクス主義がほぼ全一的な影響力を揮ってきた。その反動として、世界の耳目を聳動させた東欧諸国とソ連の体制倒壊後の昨今では、マルクス主義理論からの離反が圧倒的な時流である。かつては、体制批判派としての確たる社会的な地位を占めていた左翼勢力が、スターリン主義を信奉しソ連「社会主義」を称えてやまなかった一時代が厳然として存在した。その後、スターリン主義とソ連「社会主義」を弾劾し、マルクス主義の再興を旗印として登場した新左翼もまた、ソヴェト・マルクス主義の枠組に囚われてきた。そうした歴史的な伝統を省みるならば、わが国でのマルクス主義理論の見る影もない凋落は、起こるべくして起こった。

 この一大変動の時期にあって、わたしとしてはマルクス主義の自己革命を標榜してきた。理論上のこととしては、焦眉の課題としてレーニン主義をはじめとしたソヴェト・マルクス主義の超克、ひいては20世紀マルクス主義の基調として伝承されてきた後期エンゲルス理論ののりこえ、更にはマルクスの『資本論』構築の業績に匹敵するような、国家論など未確立の理論的諸分野での創造的建設のための学問的苦闘──これら一連の思想的、理論的作業によって、マルクス主義理論研究の新しい地平を拓くべきことの提唱である。

 ソ連崩壊の衝撃とともに、いっさいのタブーは消失している。「マルクス=レーニン主義」 やソヴェト・マルクス主義を問い質し、また、「マルクス、エンゲルス問題」を考慮に入れ後期エンゲルスによる通俗的解説からも解放されて、囚われない眼でマルクスを読み直すことが可能になっている。旧来の通念を排し、まったく異なった光のなかで考察することによって、新しいマルクス像が浮かびあがってくるにちがいない。

 とはいえ、真のマルクスの再発見によって当面する難題に答えうるような地点を、歴史はすでに通り越しているだろう。マルクスの思想、理論も、マルクス的な透徹した批判的精神によってあらゆる面から吟味されなければならないし、マルクスの本質的な理論的達成を見極め、継承すべき成果を継承しつつ、マルクスを内在的に超え出てゆく問題設定が求められよう。マルクスを今日的に甦えらせ生かすことができるのは、そのような接し方によってであろう。

 本書は、マルクスおよびエンゲルスの理論に関して、社会主義への過渡期に焦点を絞って未来社会像を扱う前篇と、民主主義の問題を取りあげる後篇から成る。いわゆる社会主義論も、民主主義論も、ともに大テーマでありながら、マルクス、エンゲルスによる研究の展開は、多くの制約と限界を免れなかった。双方のテーマについて、マルクス、エンゲルスの所論を討究し、諸多の点で従前の通説を破る論点開示に努めた。だが、それについては本文での詳述に委ねて重複する説明を避け、ここでは、書名をめぐって若干の言葉を費やすにとどめよう。

 本書の論題は社会主義への過渡期社会像と民主主義の二つに分かれているが、マルクス、エンゲルスのいわゆる社会主義論に関する俗論の抜本的一新を第一の基本的な課題としていること、加えて民主主義論についても社会主義への過渡期の民主主義国家の究明に重点を置いていることから、敢えて社会主義を題辞として掲出した。

 マルクス社会主義像の転換とは、幾重もの意味内容を有する。

 なによりもまず第一に、マルクスの未来社会像自体が、マルクス理論の全体的な成熟につれて、根本的な諸点での変更を含む変遷過程を辿った。『共産主義派宣言』と1848年諸革命の当時のマルクスの新社会構想には未だ空白が多く、未来の協同社会への過渡的綱領は国家集権的に偏倚していた。しかし、1860年代以降、国際労働者協会の活動に携わり、パリ・コミューンの経験を踏まえ『フランスにおける内乱』を著わした段階のマルクスは、来るべき社会を協同組合型社会として明確化するとともに、それにいたる過渡期をも協同組合型志向社会と地域自治体国家の接合として具体化し、以前の国家集権的偏倚を払拭した新たな構想に到達した。このマルクス本人の未来社会像の初期段階から後期段階へかけての転換である。

 ソヴェト・マルクス主義のみならず、後期エンゲルスも、その後期段階にいたって全体的に輪郭を結ぶにいたったマルクスの原像を見失い、社会主義社会(共産主義社会の第一段階)への過渡期社会を、生産手段の国家所有化、それにプロレタリアート独裁を基柱として国家集権(主義)的に改編して構想した。20世紀において定説化され、やがてスターリン主義の支配のもとでマルクス主義社会主義論のモデルとして広く流布されてきたのは、後期エンゲルスに端を発し、レーニンによって格段に増幅されて造型された国家集権(主義)的な過渡期社会像である。この後期マルクスから後期エンゲルスヘ、更にレーニンヘの理論史的転変が、マルクス社会主義像の転換の第二の意味である。

 第三は、次の第四とともに現在的に要請される研究の基本的姿勢にかかわるが、一方で、マルクスと同時代の多様な社会主義、共産主義の諸流派との思想的、理論的関係の洗い直し、他方では、近時クローズアップされている諸問題で明白に露呈しているマルクス理論の限界の摘出に基づいての、マルクスの未来社会像の歴史的な相対化への転換である。言い換えると、あらゆる方面からのマルクスの未来社会像の発展的豊富化のための諸可能性の探索、開かれた理論追究の構えである。諸他の思潮をユートピア的として却け、自説を自己充足的な科学的社会主義と称する独断的な態度はとらない。

 第四には、社会主義社会、共産主義社会の青写真を描くことにもまして、それへの過渡期社会像の解明をより一層重要視することへの転換である。これは、一つには、共産主義をすぐれて現実の状態を止揚する実践的運動と規定し、いま現に存立する社会の内部に新たな社会の諸要素を見いだしそれを解放せんとするマルクスの方法的立場の受けとめとしてである。また一つには、20世紀の後進諸国での社会主義への挑戦は、社会主義社会建設以前にそれへの過渡期社会の国家主義的変質を生んで破綻に帰したが、その経験の反省としてである。近未来の世界史において社会主義が再浮上する場合にあっでも、当面するのは現代資本主義世界からの長期に及ぶであろう移行過程の諸問題である。当代において求められているのは、過渡期社会像の再・新構想を中心環とした、未来社会構想の段階を追ってのスケール・アップというアプローチであろう。

 叙上のようなパラダイム転換の志向は、これを、マルクス社会主義論のレーニン主義的な、後進国的な再構成から、西欧マルクス主義の流れを汲んだ、先進国的な新構成への転換の追求とも表明できよう。そしてまた、そこで描き出されるのは、社会主義像に関して、完結していて一枚岩的で、かつエンゲルスとも一心のマルクスではなくて、流動的な前進途上にあって矛盾を内包し、エンゲルスとは従来指摘されてきた以上に別の位相にあるマルクスである。

 本書に収めた諸論文は、1992年後半からのおよそ4年間に執筆した。専攻してきた国家論とは別の社会主義論を中心的主題としていることでもあり、書き急ぎであることは否定しえない。だが、今日、あらためてその全体像の掌握を求めて、新しいマルクス像形成の動向がわが国でも様々な形で伏流しつつあるように思われる。マルクス主義理論研究の新時代へと移り進むうえで、本書が踏み台の一つとなることを願うばかりである。

 自らを振り返ると、生粋の新左翼として出発し、理論活動に転じてからも、スターリン主義的、プロ・スターリン主義的左翼が講座制を握って蟠踞する大学アカデミズムに反逆し、独立独歩で、後期エンゲルス以来のマルクス主義の定説ののりこえを目指した国家論研究に取り組んできた。それでも、1989−91年の大事件に直面して、新左翼も旧左翼と共有してきた重大な過誤についての深い反省を迫られざるをえなかった。また同じ項からは、わが国のマルクス主義理論研究の悪習である党派や学派によるセクト主義的な排他的分断の打破、古い壁を越えた協同に心掛けて、多方面の方達との理論的交流に恵まれることになった。本書は、従前とは随分異なった諸条件下での研究の所産である。

 21世紀にはマルクス主義理論研究もまた新世紀を迎えることを希求しつつ、マルクス主義の思想的、理論的自己革命のためになお微力を尽したいと思う。

 最後に、世評では地に墜ちた感のあるマルクス理論を直接の対象とした研究の公刊をためらわずに引き受けていただいた、御茶の水書房橋本盛作社長に御礼を申しあげる。

 1996年7月初め

老母の介護で日参する病院で荒波の時代を懸命に生き
てきたお年寄達の悲惨の一端を実見する日々にあって 
大藪 龍介