「トロツキー理論をめぐって」
 トロツキー研究所『トロツキー研究』第50号 2007年春


 5年前に公刊した『マルクス派の革命論・再読』に、トロツキーの永続革命論とソ連論のそれぞれについて検討した二本の論文を収めた。

 論文は、私にとって、生粋の新左翼第1年代として習得したマルクス主義理論の一構成契機をなしてきたトロツキー理論を、その後のソ連崩壊という世界史の大変動を経た地点に立って再考察するという、自己反省的な意味合いをもっていた。他方では、トロツキー研究者などとの論争による新たな論点開発への期待をこめていた。だが、残念ながら他者からの反論は寄せられなかった。

 本誌への投稿を求められたので、今号は「トロツキーと革命の論争史」の特集と予告されていることでもあり、往時にあってとりわけ高く評価していた永続革命論に絞って上記拙論の主意を略言し、トロツキー理論をめぐっての論議を促す一つの機会としたい。

 レーニンの労農民主独裁論をも凌駕する傑作としてトロツキーの名を高からしめた永続革命の所論について、次のような問題を核心として批判的に提起した。  

 第一に、永続革命は、プロレタリアート独裁に決定的に依存する。永続革命の第一の側面、ブルジョア(民主主義)革命から社会主義革命への直接的発展において然りであり、その第二の側面、社会主義革命の永続性においても然りである。ところが、民主主義的な道を経ることなく樹立されたプロレタリアート独裁は、いかにして民主主義的な諸課題を解決できるだろうか? また、プロレタリアート独裁によって、いかにして民主主義的体制へ辿り進むことができるだろうか?

 第二に、永続革命は、生産手段の国家的所有化、国家経営、国家計画という全面的な国家集権・国家主導の過渡期経済建設と連結する。だが、この国家主義的経済システムは、何時、どのようにして社会主義の方位へと転進しうるのだろうか?

 そうして、永続革命論のなかに折りこまれている諸過誤が、これらの問題の解決を不可能とすることを指摘した。

 第一に関しては、プロレタリアート独裁は、ブルジョアジーに対しては独裁であってもプロレタリアートにとっては民主主義であり、ブルジョア民主主義よりもずっと民主主義的なプロレタリア民主主義の別名だ、とする独裁と民主主義の表裏一体説である。独裁=民主主義説は、フランス革命でのジャコバン主義を継いでおり、レーニン『国家と革命』などで定式化されているが、そこで説かれる民主主義は、19世紀のイギリスなどで形成されたブルジョア民主主義=自由(主義的)民主主義の理論と体制についての誤認に基づき、近・現代民主主義としての性格を欠いていた。

 第二に関しては、主要な生産手段を国家的所有化するという、エンゲルス『反デューリング論』などから伝承されてきた過渡期経済建設の通説である。そこでは、国家的所有から社会的所有への移行の道筋は不明であり、協同組合的生産・協同組合的所有・協同組合的経営という、後期マルクスによっても打ち出されていた社会主義経済システムへの基本路線と切断されていた。

 永続革命論は、大筋として、1917年からのロシア革命のごとき苛烈な諸情況の所為でなくても、国家権力の奪取とともに、永続革命が独裁の永続化によって永続専制に転化し、政治権力のみならず経済権力を含めいっさいの権力を一手に集中するウルトラ国家主義体制へと収斂する蓋然性を秘めていた、と捉えざるをえないのである。

 21世紀においても、資本主義世界システムの諸矛盾が皺寄せされ結節する後進国で、社会主義へ向かっての永続革命への挑戦が生じるであろう。永続革命はなお今日的問題でもあり、トロツキーの永続革命論の再審はアクチュアルな意味を帯びている。

 総じてトロツキー理論に関しても、克服すべきものと継承すべきものの見極めが求められる。

 トロツキー研究所について、その頑張りは認めるが、トロツキー(理論)擁護第一の後ろ向きの姿勢が目立つのを惜しむ。トロツキー教条主義に堕すな、と呼びかけたい。

(大藪 龍介)