『マルクス・コレクションE』の『フランスの内乱』における2,3の訳語について
 2012年 5月


 『マルクス・コレクション Y』(筑摩書房)の『フランスの内乱』の2、3の訳語についてのお尋ね
 [注記 2012年5月5日に、翻訳者および編集担当者に宛てて送った手紙。回答を待っているところである。]

 時下益々御清栄の段と拝察いたします。

 さて、このたび、季報『唯物論研究』編集部で特集「マルクスを読む」が企画され、『フランスの内乱』について小生が担当執筆することになりました。テキスト『フランスの内乱』の邦訳書として、旧来の『マルクス=エンゲルス全集 第17巻』所収の村田陽一訳・大月書店版、ならびに木下半治訳・岩波文庫版の他、新たに『マルクス・コレクションE』の辰巳伸知訳・筑摩書房版も拝読しました。

 上の特集では手頃で入手可能な新しい邦訳版の紹介もおこなうことになっているのですが、辰巳訳・筑摩書房版について、マルクス理論の内容理解にかかわる2、3の基本概念の訳語に関して疑問を抱きました。

 マルクスの著作の翻訳や研究の前進を願う立場から、率直に批判的な見解を述べ、お尋ねします。 

 (1)representativeと delegate、deputyについて

 representative(s)について、代表者(たち)と訳され(21、 32 、41 、46頁)、これはこれでよいとして、delegateも、代表(33頁)で、an assembly of delegates は、代表者会議(33頁)、meetings of delegatesは、代表者会議(43頁)、the National Delegationは、 全国代表者会議(33頁)とされています。また、delegateの別表現を意味するdeputyも、代表(33頁)と訳されています。

 representativeとdelegate、それにdeputyを、原語が相違するにもかかわらず、まったく同じく代表と訳されています。

 どうしてなのか、お尋ねします。

 パリ・コミューンでは、ブルジョア国家をのりこえるまったく新しい国家の創出を志向し、その一つとして代表制を否定して、直接民主主義を理念としいわば当事者主権をつらぬくべく、すべての被選挙者を、選挙人による「命令的委任」の受任者として位置づけ、delegue、もしくはdeputeと呼びました。マルクスも、それに従って、できあいの国家のrepresentativeとコミューン(型)国家のdelegateを区別し使い分けました。

 こうした史実を無視するのでなければ、delegate、deputy、delegationについて、representativeとは相違する訳語をあてて然るべきだと考えます。

 『フランスの内乱』の先行翻訳である、木下半治訳・岩波文庫版(1952年)、村田陽一訳・大月書店版(1966年)も同じように、representative とdelegateを区別することなく同一視した訳をおこなっています。しかしながら、両版とも、一昔以上前の「マルクス=レーニン主義」時代の訳業です。

 それらとは違って、辰巳訳・筑摩書房版は、20世紀末からのマルクス(主義)理論の読み直しの時代を迎えてからの、2005年の新訳です。すでに『マルクス・カテゴリー事典』(1998年、青木書店)でも、「代表制と派遣制」の項目(執筆大藪龍介)で、ブルジョア国家の代表制representative system とパリ・コミューンなどのラディカルな民衆運動が構想する国家のdelegational system との原理的な差異について論じ、試案としてdelegateは派遣委員、deputyは代理人と訳しています。

 (2)agentについて

 『フランスの内乱』で、deputyの類義語としてagentも用いられています。

 agent(s)について、官吏(32頁)、官吏たち(33頁)と訳される一方、人々(44頁)との訳も見うけられます。

 パリ・コミューンでは実際に、delegue、deputeのほかにagent(s)の語も使われました。その用法を、上記のdelegate、deputyの語に込められている独自の意味を押さえて検討すると、agent(s)も、delegational systemにまつわるものとして理解する必要があると判断されます。

 その点で、agent(s)は、例えば代行者(たち)と訳する方が適しているのではないでしょうか。

 (3)the administrationと The executiveについて

 the administrationについて、行政機関と訳され(32頁)ていますが、別の個所では政府機関とも(48頁)なっています。これは、行政機関に統一すべきものでしょう。

 他方、The executiveについても、行政府と訳され(19 、20、 30頁)ていますし、body,executiveについて、行政の機能を果たす組織との訳に(32頁)なっています。

 ここでも、相異なる原語が、区別されることなく、同じく行政と訳されています。

 しかし、国家権力の機構や機能に関して、行政(府)と執行(府)とは区別する必要があります。

 マルクスは、すでに『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』のなかで、ExekutivgewaltとAdministrativgewalt、Militargewaltを、それぞれに使い分けて国家の権力構造について論じているし、the administrationは行政府、the executiveは執行府とするのが、マルク主義国家論の一応の了解事項と言えるでしょう。

 ブルジョア国家の中枢機関である政府は、立法府としての議会との関係では執行府ですが、その執行権力(機構)は大きく分けると、一方での行政(機構)と他方での軍事(機構)の双方にわたります。つまり、政府・執行府は行政諸機関と軍事諸機関とを統括して権力を行使し統治にあたることになります。

 木下半冶訳・岩波文庫版と村田陽一訳・大月書店版では、the administrationとThe executive とは区別して訳されています。

 先行訳と違って同じ訳語をあてられたのは、どうしてでしょう。

 ついでに触れると、political formが、同じ段落のなかで、訳が違って政府形態と政治形態になっています(36頁)。政府形態の方はミスでしょう。

 (4)国家のpowerと forceについて

 state power は、国家権力(28、29頁)、public forceは、公権力(29頁)、political forceは、政治権力(34)頁と、それぞれに訳されており、powerとforceに権力という同じ訳語があてられています。

 国家権力などが有する政治的強制力の多面的な構造・機能をどのように捉えるかは、未解明の難題であり、諸々の見解が存在しえます。

 そこで、一案を示してみます。国家権力state powerを、イデオロギー的、物理的な強制力の総体とします。そして、イデオロギー的強制力としての政治的権威political authorityと物理的強制力としての政治的強力political forceとを区別と関連において位置づけます。forceには類語としてviolenceも存在するので、forceは上にいう物理的強制力としての強力、 violenceはそれを発動した機能である暴力として区別します。

 いずれにしても、powerとforceの語の訳し分けの必要があると思うのですが。

 以上の訳語をめぐって、とりわけ(1)、(3)に関して、どのような考えをめぐらされたか、またまわりの方たちと議論を交わされたのであれば、その折どのような諸見解が出されたのかについて、教えていただければ有難く存じます。

 これからの翻訳や研究に生かすことができればと考えてお尋ねする次第です。

 御多忙のところ、宜しくお願いいたします。

    2012年5月5日

 大藪龍介