『エンゲルスと現代』について
評者:内田弘(専修大学教授)『経済理論学会年報』34号
 1996年11月
タイトル:「杉原四郎・降旗節雄・大藪龍介編『エンゲルスと現代』」


 浩澣の本書は、ソ連崩壊後いま、エンゲルスの業績を総合的に考察しようとするものである。15名の執筆者がそれぞれ独自な立場から、哲学・経済学・社会主義論・農業論・歴史分析・国家論・研究史の分野におけるエンゲルスを論じている。

 杉原四郎は巻末の「エンゲルス研究の現在」と「エンゲルス文献目録」を担当しているが、「マルクスとエンゲルスの思想的異質性を峻別し強調するあまり、両者の基本的共通性までも否定乃至軽視する傾向が見られる現在」、エンゲルスの業績を総合的に解明することは意義があるという。本書では、多様な研究と資料が活用されて、マルクスとエンゲルスとの相違点と共通点が指摘されている。

 中野徹三は「エンゲルスの哲学とマルクスの哲学」で、『ドイツ・イデオロギー』における「史的事実と生産力的側面」はエンゲルスにより、「交通(生産)諸関係、意識の生産とその役割、大衆の行動」の側面はエンゲルスによるものであるが、そのちがいは「生涯にわたるふたりのエートスの差」をよくしめしているし、マルクスは人間活動の自立化=疎外の主体的弁証法を学位論文のときから基本視座としているという。T.カーヴァーの『マルクスとエンゲルスの知的関係』を援用しつつ、特に後期エンゲルスは、自然および歴史を貫徹する客観的弁証法を追求したという。両者のこの相違点は、清眞人の「『フォイエルバッハ論』と『フォイエルバッハ・テーゼ』とのあいだ」や、C.シュタルケの『フォイエルバッハ論』とエンゲルスの『フォイエルバッハ論』を克明に対比した田畑稔の論考でも力説されている。田畑が引用しているビュルガーズのマルクス宛ての書簡は『ドイツ・イデオロギー』執筆当時のマルクスとエンゲルスの関係のある側面を示唆していて興味深い。

 降旗節雄は「エンゲルスの経済学」で、マルクスの『資本論』形成史が純粋資本主義の理論的解明にあったのにたいして、エンゲルスは『資本論』を資本主義の歴史的発生・発展・没落の過程を記述したものとして理解しようとしたという。桜井毅は「マルクス主義およびその経済学の形成とエンゲルスの役割」で論理と歴史の関係などについてエンゲルスをやや擁護する論調をふくませながらも、カーヴァーの所説を援用しつつ、マルクスの経済学批判が「エンゲルスにとってもはや簡単に理解できるものではなくなっている」という。江夏美千穂は「『資本論』と絶対的窮乏化論」で、初版『資本論』などにはエンゲルスの絶対的窮乏化論の影響がみられるが、ふらんす語訳『資本論』では、相対的窮乏化論への「転身の萌し」があるという。江夏は、長年の『資本論』の文献史研究をふまえてエンゲルス編『資本論』の第4版の問題点を詳細に指摘している。

 マルクスは将来社会像を本格的にのべることは慎重に避けたのにたいし、エンゲルスは社会主義社会像について積極的に展開した。鎌倉孝夫の「エンゲルスの社会主義論」で、エンゲルスの社会主義論には、主体形成論・社会組織論・分配原理=人間の必要論の3点が欠如していたという。山口勇は「『一国一工場構想』とエンゲルス」で、マルクスの「一国一工場構想なるもの」はマルクス誤読による虚構であり、むしろそれはエンゲルスやレーニンによるマルクスの通俗化から生じたものであると指摘している。大藪龍介は「エンゲルス国家論の地平」で、「後期エンゲルスの国家論は科学以前のレヴェルにとどまり」、マルクスも国家論では「確たる著述を遺さなかった」という。青木孝平は「家族理論におけるエンゲルスとマルクス」で、エンゲルスは婚姻による男女の性的結合の発展をたどったのにたいし、マルクスは資本制生産のなかに家族を位置づけ、根源的共同性の回復を探求したという。

 マルクスはイギリスを資本制生産様式の研究の「典型的な場」としたが、古賀秀男は、「エンゲルスのイギリス論と歴史認識」で、安定した支配装置、恐慌=革命論、プロレタリアートのブルジョア化、イギリスの衰退=労働者の窮乏というエンゲルスのイギリス像の変化を追跡している。

 エンゲルス擁護論もある。福富正実は「老エンゲルスの新しい農民論への道と現代」で、エンゲルスは集団農場・国有農場で農民を賃金労働者に転化させないために、生産手段の「共同占有」を確保することの重要性を力説したという。山内昶は「『起源・序文』の人類学的考察」で、歴史の究極的規定要因としての「生活資料の生産と人間そのものの生産」というエンゲルスの「謎の難文」に最近までの親族研究を活用してとりくみ、未開社会の親族が結婚・居住・現存労働力の流通・配置・未来労働力の所属などを決定し、生産物の交換・消費過程を制御していることを明らかにして、エンゲルス命題が基本的に擁護できることを示している。山内論文は本書の白眉である。なお、河西勝の「エンゲルスとヒットラー」は表題と執筆内容が一致せず、本書での位置が不明である。編集上問題がなかっただろうか。