『国家とは何か 議会制民主主義国家本質論綱要』について
評者:西川伸一(明治大学政治経済学部教授)『季報唯物論研究』第130号
 2015年2月
タイトル:「大藪龍介著
『国家とは何か 議会制民主主義国家本質論綱要』」


 「大藪国家論」のまさに決定版と言うべき、重厚感と緊張感に満ちた一書である。
 まず本書のタイトルとサブタイトルを解説しておく必要があろう。筆者によれば、「国家とは何か」を明らかにするためには、「近代の議会制民主主義国家」に研究対象を限定すべきだという。というのも、近代になってようやく、国家は「経済・社会から、また道徳、宗教とも分離して〔略〕それ自体として存立し自律的性格を備えるにいたった」(6頁)からである。続けていわく「当該の国家の直接的な現象姿態の底に内在する本質的な諸関係を探り出してその固有の論理を究明すること」が「科学的な国家論研究」である(同)。
 では、本質論を形成するのにふさわしい典型的な近代国家はどこか。筆者は「近代的発展の最先進国」であり、「およそ一八三〇年代から一八七〇年代にかけて形成される議会制民主主義国家」としてイギリスを、「近代国家の典型的形態」とみなし、その「政治・国家の動態や編成構造の具体的解明に踏みこ」んでゆく(10-11頁)。これを目指した、西洋政治思想史を通覧する広範な資料の読み込みと深い理論的思惟作業から析出された研究成果の綱要、つまりエッセンスこそ本書にほかならない。
 さて、近代においてなぜ国家は自律的な存在として登場するのか。資本主義社会の生成・発展がその与件となる。筆者はイギリスの史実を詳細に引きながら、国家の発生根拠を次の3要因にまとめている。@資本主義社会の共同事務の遂行、A資本家階級と労働者階級の闘争の抑制、およびB資本の世界市場創造と領土拡張主義の傾向の保障(18頁)。そして、これらの機能を果たす近代国家を筆者は「ブルジョア国家」と言い換えている(41頁)。資本家と土地所有者からなるブルジョア階級の利害を擁護する一方で、資本主義社会から自律して、個々のブルジョアの利害に反しても総ブルジョアの利害にかなう政治支配を行うとの矛盾的含意がそこにある。
 次に筆者は、ブルジョア国家のイデオロギー的構成原理の剔出に向かう。前述の「分離」と「自律」によって、近代国家は政治的国家となった。従って、国家はその正当性を自ら調達しなければならない。「労働者階級などの被支配諸階級にも正当なものとして受け入れられる政治的イデオロギーの形成が不可欠である」(52頁)。それが自由と平等を高唱する自由民主主義であった。この政治的イデオロギーは人びとに正当性を観念させる上で説得的であり、かつ、資本と労働者の支配・服従関係を隠蔽するのに好都合な「真摯な偽善」(54頁)として機能した。
 このあと筆者は、ロックの政治学説に遡り自由主義の論理をつきとめる。すなわち、「自由主義とは、身体的・財産的自由を目的的価値としてそれを保全する手段的機構として国家を設立すること」(59頁)であると。その際、自由主義国家が持ち出す国民主権説はブルジョアによる階級支配の外皮にすぎないことにも筆鋒は及ぶ。さらに、自由主義が自由民主主義へ理論的に組み替えられる過程を、筆者はベンサムに依拠して解明してゆく。「最大多数の最大幸福」を可能にする資本主義経済の繁栄を背景に、国家は「必要悪」として存在意義を認められる(76頁)。そこでの統治の種類は代表制民主主義以外にない。国家は国民的共同性を備えた階級的統治体へと高次化する。
 とすれば、上記の性格を帯びるブルジョア国家の担い手はだれなのか。政治家集団と政党がこれに当たる。19世紀イギリスでは労働者階級が台頭し、チャーチスト運動など階級闘争が激化する。ブルジョア階級とその政党はいかにそれを懐柔し、彼らを体制内に取り込むかに知恵を絞った。選挙権拡大はその一環であったし、その前提として「頭脳の支配」(102頁)が図られた。労働者階級としての階級意識を鈍磨させ、ブルジョア的な意識や思想を情報、教育、宗教、文化などを通じて注入するのである。
 1884年の第三次選挙法改正によって、選挙権はほぼ成年男子全員に行き渡った。有権者の飛躍的増大により、政治家は当選するために政党組織に依存せざるを得なくなる。「この政党の発達は、党指導部の統率下でのみ進展する」(107頁)。その過程で、ブルジョア政党が労働者階級を支持者として獲得してゆく。末端の党組織は「頭脳の支配」の最前線であった。
 ここで私が筆者に強く同意するのは、以下の記述である。「階級(支配)論に力を入れてきたマルクス主義において、階級として研究され議論されてきたのはほとんどすべて経済的階級にほかならず、政治的階級について独自に解明されることはなかった。〔略〕経済的支配(階級)と政治的支配(階級)が分化する近代の歴史的特質を捨象し、政治的支配(階級)の独自性を無視していた」(109頁)。
 実は政治家・高級官僚・将校は専門家集団として、それぞれ独自の利害に基づき政治・行政・軍事を運営している。だからこそ、経済的階級としては異なるはずの労働者階級がブルジョア階級の政党によって代表される「ねじれ」が生じる。労働者階級は政治的にはブルジョア階級と同質化され、政治的多数派であると錯認する。
 その結果、「選挙権の民主主義的拡張がもたらしたのは、ブルジョア階級の政治権力の縮減ではなく、増強であった」(129頁)。それは労働者階級を体制内化させ、ブルジョア国家の包摂性と正当性を強化する方向に働いた。自由・平等な投票で選ばれたことで、政治家は被治者に対する支配者という本質を隠蔽できたのである。彼らの集う議会は「ブルジョア国家の「幻想的な共同性」」(131頁)を体現するものとなった。そこでの討論を報じる新聞は「諸階級を国民として政治的に統合する」(138頁)、社会のイデオロギー装置であったことも見逃せない。
 このように議会は国民統合機能を果たすとともに、首相を選び内閣を組織させる。その場合、首相は多数党の党首であり、閣僚にはその幹部が充てられるのであるから、「議院内閣制は、政党内閣制でもある」(133頁)。そして、首相と閣僚からなる内閣の周囲に政府が形成される。内閣=政府こそ国家権力機構の中核部をなす。傘下には、その意思を執行する行政機構と軍事機構が配置される。産業革命の進行とともに、行政の業務は増大し、そのための機構と公務員数は増大してゆく。それらは中央集権的行政機構へと整序される。一方、資本の世界市場への進出と自国権益の維持・拡大により、軍事機構の逐次増強も必然となる。「パクス・ブリタニカ」はイギリスの抜きんでた海軍力によって達成された。
 「国家権力機構の拡大強化は、近代ブルジョア国家の歴史的発展の法則的傾向の一つである」。そして、筆者は結論する。「「最小の政府」「安価な政府」でありながら強力な政府=Aここに、この段階のイギリス国家の個性的特質が存在する。〔改行〕こうした国家こそ、近代ブルジョア国家の典型的形態と見做すのにふさわしい」(148頁)。
 加えて、次の至言を、国家論を担当科目とする私は再読三読した。「国家は、政治的なイデオロギー的な強制力としての権威authorityとともに、かつてなく大規模に組織された軍事装置の強制力として強力forceを備え、それらを権力powerとして総合統一し独占する」(149頁)。
 国家権力機構をめぐる解析はその再形成・循環過程にまで広がる。そこでは総選挙を媒介として「被治者が、政治の主人公として現れる」(156頁)。この「偽善性」(158頁)を悟られない循環過程こそが、階級支配を永続化させる。
 以上が本論のあらましである。
 4章からなる付論では、マルクス、グラムシ、そしてアルチュセールの国家論が討究される。なかでも、私が赤面しながら読んだのは、アルチュセール国家論が再審された第四章である。「斬新で簡潔犀利なカテゴリーやテーゼ」(276頁)に目を奪われて、私は授業で彼の「国家=抑圧装置+イデオロギー諸装置」論を得々と講じ、拙著『楽々政治学のススメ』(五月書房、2007年)でも無批判に取り上げていた。だが、一皮むけばそれは「スターリン主義的定説」の焼き直しにすぎなかったのだ(286頁)。不勉強を猛省した。
 精密な論理展開に加えて、慎重に吟味された的確な語彙選択も本書の完成度をこの上なく高めている。誤植もほとんどない。私が気づいたのは39頁9行目の句点の脱落と182頁13行目の「置いて」(正しくは「おいて」)だけである。また、145頁8行目と11行目の「招集」は、引用元を確かめると「召集」であった。199頁注13の邦訳対応頁は96頁となっているが、正しくは90頁である。
 裁判所と司法権力については「今後の課題」とされている(148-149頁)。その考察と併せて、「議会制民主主義国家を革命的に乗り越える新たな歴史的国家像」(300頁)が筆者によって提示されることを念願してやまない。
 研究者としての筆者の不撓不屈の歩みを綴った「あとがき」には感動した。本書の書評を担当できたことを心から光栄に思う。