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評者: | 毛利敏彦(大阪市立大学名誉教授) | 『季報唯物論研究』第96号 2006年5月 |
タイトル: | 「明治維新の歴史像 書評・大藪龍介著『明治維新の新考察−上からのブルジョア革命をめぐって−』」 |
一 著者大藪龍介氏は、『マルクス・エンゲルスの国家論』『マルクス派の革命論・再読』などの著作で知られる気鋭のネオ・マルクス主義政治学者である。 大藪氏は、本書『明治維新の新考察−上からのブルジョア革命をめぐって−』の執筆意図を、「マルクス主義理論のパラダイム転換を目指す作業の一環」として、「一九二〇年代後半からのマルクス主義者たちによる、『講座派』と『労農派』の日本資本主義論争の一焦点をかたちづくった明治維新史論……の批判的検討を踏まえ、明治維新の政治的な過程と構造の全体像について、『上からのブルジョア革命』の視点からする新たな理論的考察を試みる」(まえがき)と披瀝している。 本書は、T明治維新をめぐる諸論の批判的検証、U「上からのブルジョア革命」とは何か、V明治維新の歴史的特質、の三部構成である。 二 Tでは、まず服部之総『明治維新史』(1928年)を俎上にあげる。大藪氏は、服部の仕事を「世界史のなかで後進的な国が置かれた国際的な地位によって蒙らざるを得ない峻厳な対外的緊張関係の面から、『上から』というブルジョア革命の特異性にアプローチ」(22ページ)したとみなした。そして、マルクス主義的明治維新史研究の「最も優れた達成」(21ページ)であり、プロイセン=ドイツのブルジョア革命とのアナロジーの域を出なかったとはいえ、「稀有な傑作であり、今日なお受け継がれるべき価値ある遺産」(31ページ)だと高く評価したが、過褒であろう。 ところが、せっかくの服部の達成は生産的に受け継がれなかった。間もなく登場した「講座派」の波に呑み込まれたからだ。そこで大藪氏は、講座派学説の原型である平野義太郎、戦後になっても依然として「上からのブルジョア革命」論を否認した下山三郎・星野惇の所説を検討し、かれらがいかにマルクス主義理論を誤用したかを衝いた。さすがにネオ・マルクス主義の論客だけあって、筆鋒は鋭く的確である。 他方、「労農派」の明治維新論は、絶対主義からブルジョア革命への過程として把握した服部『明治維新史』と「基本線において共通する」が、政治過程や国家権力についての独自の解明の欠如という弱点があり、服部の達成に「遥かに及ばない」(39ページ)という。 次にUに移って、服部から触発された大藪氏は、近代的発展の後進国における政治的近代化の特質をなす「上からのブルジョア革命」とは何かを、原型であるプロイセン=ドイツに即して検討した。そして、「上からのブルジョア革命」とは、「政府が国家権力を手段として推進する保守的革命、あるいはまた国権主義的な自由主義革命、と規定しよう。それが『ブルジョア革命』であるのは、革命の目標、『自由と統一』が実現され、旧来の絶対主義的統治階級自体なしくずしにブルジョア的保守派に転進するとともに絶対君主政の諸機関も立憲制的に編みなおされたからである。そして創建された国家、ドイツ帝国が国家権力の分立と国民の権利という近代ブルジョア国家の最も基礎的な標識を、やはり特有の形姿で備えたからである」(140ページ)と結論する。 そして、「イギリス産業革命とフランス革命の二重の影響が及びきたるなかで、近代的発展の後進的な国々は、自国の存亡を賭する重みを荷って、否応なしに現行体制の変革を進めざるをえなかった。プロイセンのシュタイン=ハルデンベルクの改革、そして『上からの革命』、イタリアのリソルジメント、ロシアの農奴解放、それに一九〇五年の革命、日本の明治維新など、一連の国々で既存の国家権力が自らの存続を図りつつ近代化の変革に着手した。それらは上からの変革という共通性を有するが、それぞれの変革は、一方で世界史の局面および国際環境、他方でその国の歴史的諸条件に応じて多様であり個性的である」(148ページ)と敷衍している。 三 以上の予備的考察を経て、大藪氏は、本書中心部分のVへと議論を進めていく。ここでの大藪氏の明治維新論を要約すれば、以下の三項目に整理できる。 (1) 大藪氏の立論の大前提は、「江戸幕府の封建制が三〇〇年間の久しきにわたって停滞した」(174ページ)から、幕末期日本には「資本主義の初期的発展が存するとはいえ、自生的なブルジョア革命を可能にする諸条件はなお未成熟であった」(170ページ)という相対的後進性の認識である。 (2) ゆえに、明治維新は、「近代資本主義的発展を遂げた世界への、自生的発展段階をはるかに超える飛躍的参入を強いられた日本」(174ページ)におきた「近代世界史の抗しがたい潮流に引き込まれて外からの重圧に対応した『上からのブルジョア革命』で」(14ページ)あった。換言すれば、「明治維新は、国内での資本主義経済の発展は未だ幼弱ななか、……強大な外圧に耐えうる国家的、国民的結集を期して……ほぼ一貫して維新政府官僚の主導下で、『上から』推し進められた。国際的には後れたブルジョア革命の一つであるが、国内の経済的、社会的条件からすると、早産の革命であった」(222ページ)。 (3) ゆえに、「明治維新は、史的唯物論(唯物史観)の公式に反する革命であった。……
ネオ・マルクス主義の旗手が、史的唯物論によっては明治維新を説明できないと論断したわけだから、マルキスト陣営にとっては看過できない重大発言であろう。 四 まず大藪氏と私との間で見解が分かれるのは、明治維新論の大前提たるべき前記(1)をめぐる問題、つまり幕末期日本における経済発展程度の理解である。 大藪氏は、江戸時代は三〇〇年間停滞し「国内での資本主義経済の発展は未だ幼弱」で「自生的なブルジョア革命を可能にする諸条件はなお未成熟」だつたと、日本経済の相対的後進性を強調している。しかし、私はそうだとは思わない。後述のように私は、江戸時代社会の市場経済化=ブルジョア化は、西欧諸国とは異なる過程をたどりながらも、日本的諸条件下での自生的ブルジョア革命を可能にする寸前にまで成熟していたし、産業革命後の欧米経済との間に一定の格差があったとしても決定的ではなかった、と判断している。 後進性論をとる大藪氏は、「西欧諸国が絶対主義国家の成立からブルジョア革命を経て(初期)ブルジョア国家を創建するまで、およそ四世紀を要した過程を、日本はわずか半世紀ほどの期間で、猛烈なスピードで追いかけた」(171ページ)と述べるが、いわば無から有を生じる類の促成が果たして現実に可能だったのだろうか。いかに外圧にせきたてられ、また後発者として先行事績を学習し模倣する便宜に恵まれたにせよ、もし日本における自生的な経済的、社会的諸条件が未成熟なら、西欧諸国の数倍という超スピードで近代化を達成できたなどとは、空想上ではともかく、常識的には無理であろうし、経験則に照らしても考えにくい。近代化にはそれ相応の物心両面での素地や潜在的能力の具備が必要であり、それを欠いては、いかに「上からのブルジョア革命」に狂奔しても、社会は拒絶反応や消化不良をおこし、近代化の実現定着は困難であろう。一九世紀後半から二〇世紀前半にかけてのアジア・アフリカ諸地域での実例は、それを雄弁に物語っている。 明治維新後の日本が比較的短期間で近代化に成功したのは、やはり先行した江戸時代社会の市場経済化が、大藪氏の想定とは違って、すでに相当程度に進展し成熟していたからであろう。低い地点から追いあげたのでなく、高い地点から出発できたからこそ、当然の結果として早期に近代化が達成できたと考えるのが論理整合的ではなかろうか。現に近年の江戸時代研究なかんずく経済史研究の深化によって、江戸時代像は大きく変わっているのである。 五 江戸時代がわれわれの想像以上に活気あふれるダイナミックな経済社会であったことを示したエポック・メーキングな研究業績は、社会経済史学会編『新しい江戸時代史像を求めて―その社会経済史的接近』(東洋経済新報社、1977年)であろう。本書の記述は、かねてから私が持論とする明治維新=ブルジョア革命説の前提史実を経済学的に実証していて、共感するところが多大であった。この系統の研究成果を集大成したのが、梅村又次他編『日本経済史』全八巻(岩波書店、1988年)であり、弟一巻の速水融・宮本又郎編『経済社会の成立 一七―一八世紀』、第二巻の新保博・斎藤修編『近代成長の胎動』、さらには他の諸著作からも、幕末開港以前(いわゆる鎖国期)の江戸時代社会経済を理解するのに有用な知見を得ることができる。なお、江戸時代を「アーリィ・モダン(初期近代)」とみなす有力学説も少なくない(例えば、尾藤正英著『江戸時代とはなにか』岩波書店、1992年、岩波現代文庫版2006年)。 江戸時代日本は旺盛な人口増加社会であった。初期一六〇〇年ごろの推計全国人口一二〇〇万人は、中期一七二〇年ごろには約三一〇〇万人にまで爆発的に急増し、以降は漸増に転じて幕末には約三三〇〇万人であった。約三倍増したわけで、工業化以前の社会としては世界史的にも顕著な数値である。人口増には食料増産が不可欠だが、それは耕地面積とくに水田面積の著しい増加となって現れた。一七世紀初めから一八世紀にかけては史上にもまれな「大開墾期」で従来の山間谷地から沖積平野に新田が拡大し、農業技術の発達と相まって農業生産が大発展して、農民の手元に富が蓄積されていった。 人口増に加えて兵農分離・参勤交代などの諸政策は都市の発達とくに城下町の成立を促した。これら諸政策が実行可能だったのは貨幣経済が一定の発達度に達していたからだが、さらにこれら諸政策の実施がよりいっそうの貨幣経済進展を刺激した。一八世紀最盛期の江戸の人口は一〇〇万人、大坂は四〇万人で同時代世界有数の大都市であり、その他の城下町の人口合計も二〇〇万人を超え、京都・奈良など宗教都市、長崎・堺など港湾都市、各地の在郷町などもあって、都市人口は総人口の一割五分を上回っていた。都市住民の活発な需要に対応して商業的農業、手工業、流通業、運送業などが全国的に族生し、市場経済化をますます推し進めた。このようにして列島全域に旺盛な経済活動が花開いたのである。 ところが、経済成長の果実は主に「農」「工」「商」の手に入り、「士」の取り分は相対的に縮減したから、中期以降は幕府・諸藩の財政難が深刻になった。史的唯物論でいう生産力の向上と生産関係との矛盾が表面化したわけである。 かくて「一九世紀の徳川経済は明治維新以降に連続する成長路線に乗りはじめていた」(前掲、速水・宮本編、64ページ)。 六 江戸時代日本の市場経済化を保障し促進したのは、「徳川の平和=パクス・トクガワーナ」つまり二五〇年間に及ぶ江戸幕府の安定した全国統治であった。中世の封建的分散を克服して天下統一を成就した江戸幕府は、貨幣発行権を独占して全国的幣制を確立し、度量衡を統一し、海陸交通網を整備するなど、全国的市場の成立条件を用意し、円滑な商品流通環境を提供した。安定した取引実行に不可欠な法秩序と治安の維持に努めたのはいうまでもない(幕藩制国家=幕藩体制の構造については毛利敏彦「幕藩体制はいつ終焉したか」同著『明治維新政治外交史研究』吉川弘文館、2002年、参照)。 その意味で江戸幕府は、封建的分散を克服して国民的市場統一を目指した西欧の絶対王政(絶対主義)と基本的に共通した歴史的、社会的機能を果たしたのである。 そもそも封建制は、世界史的には局地的現象であり、ユーラシア大陸の西端(西ヨーロッパ)と東端(日本列島)において典型的に発達した。両者では生態的環境が異なり、西ヨーロッパは低温少雨な麦作牧畜併用地帯なのにたいして日本列島は高温多雨な米作地帯にもかかわらず、なぜか中世には極めて類似した形態の封建制が同時並行的に成立し発達した(その理由究明は歴史学上の最も興味あるテーマの一つであろう)。 やがて封建制社会の胎内で商品経済が成長すると、封建的秩序が弛緩し多かれ少なかれ下克上の混乱状況となった。そこで市場の安定と拡大を望む商業的利益に支持された有力領主が台頭し、多元的に分散していた領主体制を再編統合して絶対君主に成り上がり、絶対王政が成立した。以上の現象は、封建制が発達していた西欧と日本の双方で大筋において共通に生じたのである。 ゆえに私は、生育過程からみても、歴史的、社会的機能の面からみても、江戸幕府は、個別事象での差異はともあれ、広義かつ世界史的視野にたてば、中世から近代への移行期において西欧的絶対王政と並行して出現した日本的絶対王政だったとみなす(ちなみに、織豊政権を初期絶対主義と見立てた服部之総の文章があつたのを記憶している)。 七 さて大薮氏は、あれこれ寄り道しながらも最終的には、「明治維新は、まさに日本的な独自性につらぬかれたブルジョア革命であつた」(234ページ)と、至極当然な結論に到達した。まずは歓迎の意を表したい。 ただし、革命期の設定には疑問がある。大薮氏は、「明治維新については、王政復古、維新政府の成立から廃藩置県、『有司専制』と自由民権運動を経て、帝国憲法制定、帝国議会開設にいたる、一八六七(慶応三)年〜一八九〇(明治二三)年が、『革命期』と考えられる」(168ページ)としている。しかし、一八六七年王政復古から革命が始まったとは、いかにも唐突な感じがする。王政復古にいたるまでの幕末の激しい政争過程は革命期ではなかったのか。 現に大藪氏自身が、「その時期設定は、なによりも、明治維新の固有の目標、課題は何であったか、それはどのように果たされたかと不可分におこなうべきであろう」(168ページ)と提言しているではないか。そして、「維新革命の目標は、“独立と立憲政体樹立”であった。……国家的な独立と統一が第一義的な主題であり、立憲的な自由は第二義的な副題であった」(188ページ)という。目標のうちで独立を第一義的主題とみなすのは、「黒船来航を機に開国を強制された日本は、インド、中国へと苛烈な植民地的侵略を重ねてきたイギリスをはじめとする諸列強の強圧にさらされた弱小国としての厳しい位置を痛覚させられ、何はさておいても民族的、国家的独立を至上課題とせざるをえなかった」(181ページ)からであり、そこで、「欧米列強による侵略と支配の危機という死活的な対外問題の出現とともに、従来の幕藩体制を変革すべきことは、国を挙げての課題となった」(188ページ)としている。つまり独立という目標は幕藩体制変革すなわち革命という課題に直結したわけである。 以上の記述を素直に読めば、「明治維新の固有の目標、課題」は黒船来航→開国を直接のきっかけとして登場したと解されるから、大藪氏自身の提言に従えば、そこに革命期の起点を画すべきであろう。そうすることなく、中途半端な王政復古からとするのは自己矛盾ではなかろうか。 かねて私は、明治維新の始期と終期を以下のように主張している。「明治維新を外圧によって強制された幕藩制国家から近代天皇制国家への体制変革を中心内容とし、かつその変革が主導した封建制社会から資本制社会への転換過程とみるならば、その始期は、幕藩制国家滅亡の直接のきっかけをもたらした一八五三年(嘉永六)ペリー来航とすべきであり、その終期は、近代天皇制国家の形成過程が基本的に完了し、その形態と性格を国家基本法上に確定した時点、つまり、一八八九年(明治二二)大日本帝国憲法発布とするのが合理的であり、かつ首尾一貫するであろう」(毛利敏彦「明治維新論」黛弘道他編『概説日本史』有斐閣、1977年。のち毛利敏彦著『明治維新の再発見』吉川弘文館、1993年に再録)。 そのようにみなせば、明治維新全過程を史的唯物論によって合理的に説明できるであろう。 |