『検証 日本の社会主義思想・運動1』について
評者:石川捷治(政治史研究者・九州大学名誉教授/ヨーロッパ政治史・統一戦線論)
タイトル:大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』


敗戦・戦後の80年において社会主義に関する評価と言説が最も低下し、闘うこと自体を冷笑する傾向のある今、社会主義の思想・運動にどのように接近するのかは大変興味深い。これまで主として国家論、マルクス主義原理論の分野で健筆をふるってきた大藪龍介氏が日本の社会主義の思想・運動史の分野に切り込んだ著作である(以下全て敬称略)。今回の対象は山川均と向坂逸郎と言う二人のキーパースンである。続いて、徳田球一、宮本顕治、不破哲三、宇野弘蔵、さらに安部磯雄、賀川豊彦などを取り上げるとの予告がなされているから、日本社会主義史研究の壮大なプロジェクトといえる。そこには、日本「社会主義」運動の敗退した歴史的過程の分析から、思想・運動上の根拠を探りたいという問題意識がある。 

本書は2つの部分から構成されている。1部は、「山川イズム 日本におけるマルクス主義創世の苦闘」である。 

論者(大藪)は、副題の「マルクス主義創世の苦闘」にあらわれているように、山川を左派「社会民主主義」の立場とは見ない。第二次共産党(1926年の再建以降)系列とは別種の日本の条件に適応した「コミュニズム」の追求者であり、戦後は自らの「コミュニズム」を前面にたてた「社会主義労働者党」創立を試行したと評価する。戦後社会党に身をおいて活動したのは10年に満たなかったが、その場合も「社会民主主義者」に「立場」を転じたのではまったくなかった(108頁)という。論者のいうソ連マルクス主義(スターリン主義、レーニン主義)と一線を画して、日本に根差した自主的なマルクス主義的社会主義思想・運動を探求する苦闘に志操を貫いた(114頁)、コミンテルンやソ連に反旗を翻し、独自に自主的な社会主義を追究した、タタールのスルタンガリエフ、ドイツのカール・コルシュ、ユーゴスラィァのチトーなどと比すべき人物(115頁)と見做す。

論者の山川再評価論のポイントは、(1)戦前の無産政党創設、労働組合強化の闘争を、第二次共産党の天皇制打倒に「武装決起」する「機動戦」に対抗する「陣地戦」として見る観点からの評価、(2)1949〜50年の時点でソ連を「国家資本主義」と厳しく批判出来た先見性、(3)社会党、共産党に替わる革命政党創設への挑戦、である。問題ははその観点が実践運動にどのように活かされたのかであろう。山川の特異な共同戦線論と天皇制論について少し詳しく見てみたい。

論者は山川の「天皇制に関する議論は極めて乏しい」としつつ、天皇制議論回避は「防衛措置」であり、戦前のファシズム体制のなかで「昭和天皇の果たした軍事的役割」を等閑視(69頁)したことを批判する(本当は後述するように天皇個人の政治的関与の問題ではないのだが)。しかし、「共産党・講座派の『絶対主義天皇制』論は、天皇(家)を最強国家権力に位置づけ、そのうえにレーニンの『国家=機構』論を継承して国家のイデオロギー的側面の解明を欠く、軍事的天皇制の一面的強調であった」(69頁)とし、「第二次共産党や51年末〜54年の極左冒険主義の共産党は、天皇制のイデオロギー性、民衆に定着している天皇崇敬の心情を無視して天皇制打倒を掲げ、武装闘争を繰り広げて、大衆から遊離し、警察権力の弾圧に解体的な危機に瀕せざるをえなかった」(69頁)とする。

山川は、「天皇制」について現状分析として、ブルジョア権力(資本主義ならば当然)の一部分であるから、天皇制官僚がブルジョジーに同化されたと考え、「天皇制」が前近代的な支配機構とイデオロギーをもった独自の権力機構であることを認めようとしなかった。そこから、「天皇制」が全体として人民の権利をいつでも制限できる弾圧の体系であることの過小評価、逆にいえば、帝国憲法の枠内における自由とデモクラシーに対する過大評価が生まれたのではないだろうか。「天皇制」や大日本帝国憲法と対決して積極的にデモクラシーを確立する方向をとったのだろうか、そうではなく、帝国憲法の枠内における合法主義的な考え方があったために、「反共」と「天皇主義」を免罪符とする日本型社民主義とも癒着する可能性の余地があったと見るのは酷すぎるだろうか。「民主主義的変革の一環として、国家による人心統御の機軸である天皇制を社会的に掘り崩す闘争こそ、当座の課題であっただろう」(69頁)との指摘はそのとおりだと思うが、山川の「陣地戦」にどこまで、ヘゲモニー装置に対抗する陣地を構築する長期的展望が認識され、実践されたのかは説明不足の感がある。

山川の共同戦線党論については、「大衆のなかへ」という時代状況において、群を抜くユニークな論であったが、果たして日本の状況に適合的だったといえるのか。評者はスターリン主義に固定化される以前のコミンテルンの内部論争を調べているのだが、その当時の統一戦線論争のなかに山川をおいてみると、コミンテルンの統一戦線論とは異質な、中核の希薄な共同戦線・無産政党にならざるをえないものであった。そのため、統一を守ろうとすれば改良主義の横暴を許し、他方階級性を打ち出そうとすれば分裂の危険性をはらむ無産政党論にならざるをえない構造になってしまった。最も大きな問題は「無産階級」や労働組合の自然成長性に対する過剰な期待・オプチミズムにあったと思われる。大衆の意識は山川のいうように「純白」なのではなく、(論者も認めるように)前近代的な天皇制的・家族主義的なイデオロギーによって強くとらえられていたのであった。さらに、山川の革命論には帝国主義宗主国としての日本の地位・侵略戦争と植民地の革命の関係、あるいは東アジアのなかでの日本の革命という観点は希薄なような気がする。山川のプロ独論、デリゲート(代表制)論についての論者の指摘は新鮮だった。それらも含めて論者のいう山川イズムが「様々の方面において未来形である」(121頁)という評価に同意しつつも、今日の革命論の踏み台になるという見解には、まだいくつかの補足が必要な気がする。

U部は、「向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。副題にあるように「功罪」が問題とされる。論者は、向坂のマルクス経済学者にして三池闘争に関与した著名な筋金入りの社会主義者というイメージを再検討する。まずマルクス経済学者であることに関して、著作『経済学方法論』―理論的原点、『資本主義的蓄積の一般的法則』―窮乏化論、社会主義革命論、社会主義社会論、などをつぶさに検討したうえで、日本資本主義分析に「特段の問題提起をした業績とは評価し難い」(129頁)とその「俗学性」を明らかにする。そのきたる要因として、「正しいと信ずる学説の紹介に力める」とする向坂の学的姿勢にあるとする。とくにソ連「社会主義」の手放しの称揚ぶりに徹底的なメスを入れる。

しかし他方で論者は、向坂の神髄は「理論でなく実践である」(213頁)とする。 向坂は労働者教育に心血を注いだ。山川の弱点を補う方向性であるといえよう。向坂といえば三池闘争が想起されるが、「三池大闘争は”総資本対総労働“と表現された。労働陣営は現地支援オルグ延べ30万人、資金カンパ20億円と言われ、三池労組・総評・炭労が築いた闘争体制は日本労働運動史上最大規模であった。全国から現地に馳せ参じ闘いに参加して数多くの教訓を学び労働者としての自覚を高め、活動家として成長した労働者は多かった。闘争の大きな拡がりや労働組合運動の闘争力の向上に、向坂・社会主義協会や社青同は先陣を切って力を尽くした。その功績は評価される」とする。ただ、向坂個人の楽観主義から「過度に駆り立てる趨向に嵌まりこんだ」ともいう。(171頁)

社会主義協会については、1958年3月山川が逝去し、向坂主導の協会活動が始まった。向坂・社会主義協会は社会党の強化の方針をとったが、社会党の停滞低落の傾向が続いた。70年代初めに、向坂派社会主義協会は太田派協会の分裂の痛手から立ち直り、最盛期を迎えたが、ここで「労農派マルクス主義」から転換し、「マルクス・レーニン主義」に立脚すると宣明し、「親スターリン主義的性格」を濃化したとする。論者はここに自壊の原因を見る。日本型マルクス主義を目指した山川イズム(コミンテルンからの自立)がその後継者と目される向坂になって逆に、ソ連一辺倒になってしまったのは歴史の皮肉というべきだろう。

また、山川と向坂の通常の一体視にたいし、論者は思想・運動上の相違についても抉り出している。目指す社会主義や社会主義革命の基本路線において決定的な相違がある(216頁)とした。

1989〜91年にソ連・東欧「社会主義」体制が崩壊し、ソ連共産党主導の20世紀社会主義思想・運動の破産は誰の目にも明らかになった。「親ソ性」を特質とする日本の社会主義陣営は決定的な打撃をうけたのである。戦後左翼陣営の代表的存在であった社会党が消滅するに至った要因の1つがここにあると指摘する。多様な視角からの再検討を進める論者の次回作が待ち遠しい。(2025年3月31日)