『近代国家の起源と構造』について
評者:野上 浩輔野上『最後のマルクス主義国家論』
 三月書房 2003年3月 所載
タイトル:「大藪国家論の問題点」


 これまでマルクス主義的立場に立つ人々の間での国家論における最大の矛盾は、国家が持つと言われた「社会の共同利益」と「階級的支配」という二つのものの、互いに相反する性格であった。エンゲルスはこの二つの性格をそれぞれに主張したが永久に結合することはできなかった。六十年安保の後、国家論で売出した津田道夫も、結局、共同利益が階級的支配に転化するという論理でしかなく、レーニン国家論を越えることはできなかった。しかしこの矛盾に正面から立ち向かおうとした論者はまだしも立派である。多くの論者は、国家に共同利益と階級的性格という二者が存在し、その二者が互に矛盾しているのだと認識することさえできないのである。その最もひどい例が、国家の広義と狭義の定義と称して、広義の定義に共同利益、共同体を位置づけ、狭義の定義に階級的性格、階級支配を位置づけるやり方である。両者が互いに背反する性格を持つことを見ず、広義の共同利益が、どうして狭義では階級支配になるのか、の説明は一言もないというありさまである。

 だがここに大藪が「社会の共同事務(利益)そのものが資本家的性格を持っているのだ」という論理を以て登場する。この論理は現在の筆者の立場と基本的には同じであり、筆者は大藪から多くのものを示唆されていることを認めなければならない。

 「総ての社会には、その社会から生ずる共同の利益ないし共同の事務が存在する。…ところで一般に、階級諸社会では、諸階級の利益が分裂し対立するとともに、社会の共同利益も階級的に疎外されて、支配する階級の特殊利益と統一されその一構成部分に転化する。資本主義社会の共同利益は、……資本主義の経済的論理に貫かれて資本主義的性格を刻印され、資本家階級の特殊利益の一部を形作る。……資本主義社会の共同利益、それを達成する実務としての共同事務も、それ自身、資本家階級的性格を付与されており、それの遂行は、個々の資本家ではないが、総資本家すなわち資本家階級の支配の一契機をなすのである。そして、資本主義社会の共同事務の遂行は、以前の階級諸社会に於てとおなじく、国家によって担われる。」(注9)

 この文章を単に「階級国家論」の展開であると捉える人もあろう。共同利益が資本主義祉会では階級利益の一構成部分に転化されているだけ、とも読めるからである。しかしそれでは大藪の言わんとした意味として不十分であろう。社会の共同利益が資本家階級の特殊利益に転化された、と書いてあるのみではなく、資本家階級的<性格>を付与された、と書いてあるからである。社会の共同利益が資本家楷級的<性格>を付与されているというのは、その<性格>の内容が問題であるが、資本主義時代の<性格>を付与されているということを意味し、「階級性」が前面に出るのではなく、時代の<性格>の後ろに退いていることをも意味し得るからである。

 かくして大藪はマルクス主義国家論の最大の矛盾に突破口を見出した。国家の持つ矛盾した二つの性格<社会の共同利益>と<階級性>を何とか統一せんと努力したのである。だが結果的には<社会の共同利益>が<階級性>の後ろに隠れた、という表現にとどまっている。事実は大藪の論述とは反対に、<階級性>が<社会の共同利益>の後ろに隠れているのであり、その前面に出ている<社会の共同利益>の性格に<ブルジョア性>、或いは <ブルジョア的時代性>が刻印されているのである。しかしどちらが前か後ろかを別にして、二つの矛盾する性格を統一しようとした意図が存在する事は見逃せない。これが重要であり、これが全く新しい試みなのである。

 大藪の展開のここまでは良いことにしよう。だが「国家の形成」ということの論理展開になると問題を感ぜざるを得ない。大藪は国家が制度的に組織されるのは、階級闘争を起動因にして政治的イデオロギーが形成され、その政治の目的論的イデオロギーを実現する手段としてなされるという。そして国家形成の必然性を次のように展開する。

 「弁証法的にいえば、資本主義社会の共同事務(貨幣の度量標準の確定ならびに、鋳造、商品交換の規範の遵守、いわゆる公共事業や公共施設、それに公教育──野上) が自己更新の動力を欠いているのに対して、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争は、それ自身の中に自己更新の動力を有し、新しい自己運動を可能にする。つまり、階級闘争は、対立物の統一と闘争の社会的表現として、階級対立の矛盾を解決しはしないが、その矛盾の新たな運動を可能にする形態として、国家を作り出すのである。可能性─現実性─必然性というトリアーデを適用すれば、資本主義社会の共同事務がブルジョア国家の抽象的可能性、ブルジョアジーとプロレタリアートの闘争がその実在的可能性であり、この両階級の敵対的矛盾から生じる階級闘争を動力にして、可能性は現実性に転化する。このような論脈で、国家の必然性は説かれよう。」(注10)

 難しい論理ではあるが要は、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争が、ブルジョア国家の実在的可能性である。階級闘争を舞台にして政治的イデオロギーが形成され、その政治の目的論的イデオロギーを実現する手段的機構として国家が制度的に組織される、という。この論理は正しいであろうか。大藪は、国家を形成する支配者の「政治的イデオロギー」が、階級闘争を起動因にし、しかもその階級闘争の舞台はブルジョアジーとプロレタリアートの闘争だという。

 だがブルジョア国家の形成には、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争は本質的に関与していない。歴史的事実としてもブルジョア国家を形成したブルジョア革命は、プロレタリアートが歴史的に登場した産業革命の一時代前であり、ブルジョア革命と産業革命との問にはイギリスで百五十年、フランス・ドイツでも五十年以上の隔たりがある。ブルジョア革命と産業革命との時代的並びが逆であるのなら、産業革命によって形成されたプロレタリアートのブルジョアジーに対する階級闘争がブルジョア国家形成の起動因であるという指摘は理解できる。しかし「ブルジョア革命で近代国家が形成され、一時代を経て産業革命が始まる」という現実の歴史的過程からは説明不能なのである。

 マルクスも言っているように、ブルジョア国家はブルジョア社会に先行する。ブルジョア革命によってブルジョア国家の大枠が決められたのに比し、例えばフランスでブルジョア社会が本格的な流れを開始するのは、『フランスにおける内乱』にも明記されているように、十九世紀に入ったルイ・ボナパルト──第二帝政下においてなのである。

 大藪が支配者の「政治的イデオロギー」が形成される舞台としたイギリスのラッダイト(機械打壊し)運動やフランスの都市反乱を核とするこの時代の階級闘争は、主として産業革命の進展をその起因としており、ブルジョア革命とは時代的な距離が存在する。ところでもちろん国家の形成はブルジョア草命の結果なのであり、産業革命の結果ではない。

 ブルジョア草命の政治過程での第一義的な階級闘争は、ブルジョアジーと貴族、ないしブルジョアジーによって代表される大衆と絶対主義官僚支配の間で闘われたものであり、ブルジョアジーとプロレタリアー卜の闘争、ないし都市支配者と都市細民との闘争は、ブルジョア革命の時代に確かに存在したし激しく闘われはしたが、歴史的には第二義的意味合いしか持っていない。というのは、プロレタリアートないし都市細民は、確かに主要な革命の推進部隊ではあったが、自己とブルジョアジーとは別の階級であると自覚し得なかったし、ブルジョアジーの「政治的イデオロギー」から思想的に自立し得る独由の政治綱領を持ち得なかったため、革命の表舞台には登場し得なかったのである。これこそ革命が主としてサンキュロット・都市細民の手によって闘われたものであるにも拘らず「ブルジョア革命」と規定される所以である。

 産業革命以前の階級闘争は都市貴族(貴族+ブルジョア)と都市細民(小ブルジョア+職人+ルンプロ)との闘いであり、後代のブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争とは、明かに性格を異にしている。ブルジョア国家はブルジョア革命によって形成されたのであり、革命より五十年も百年も後に展開される<ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争>に国家形成の「実在的可能性」がある筈がない。

 ブルジョア国家はブルジョア革命、即ち、「政治革命」の結果、その革命の本質の実現形態として実在するのであって、そこにあるのはブルジョア・ヘゲモニーであり、プロレタリアートは未だ階級として本格的に存在してさえいない。したがってプロレタリアートの闘争は、ブルジョア革命の本質に何ものをも実現し得ようもないのである。

 だが、大藪氏が次のように展開する時、それは全く正しい。「資本家階級は、その階級的利益が主たる国民的利益である、国民の支配的、指導的な階級であるから、資本主義社会の共同事務は、資本家的な階級的性格を刻みこまれていながら、国民的な共同事務として現われる。そして、この資本主義社会の共同事務の遂行を発生根拠としそれを体現することによって、ブルジョア国家は諸階級への分裂と対立を超越した国民的共同体として仮現する現実的基礎を得る。この現実的基礎は、続いて政治的イデオロギーによって一面的に普遍化され、国家は共同体として幻想化されるとともに、共同体として擬制化されたブルジョア国家による資本主義社会の共同事務の執行は、社会全体の利益を確保する実務の達成として、社会的な職務の実行あるいは公共的機能として現象」(注11)する。

 ブルジョア国家の行政は、まさに「資本家的な階級的性格を刻みこまれていながら、国民的な共同事務として現われる」のだ。それは資本家階級が「国民の支配的、指導的な階級である」からなのである。このことに間違いはないのだが、筆者としてはもう一歩突っ込んでもらいたかったように思う。と言うのは、ブルジョア国家という政治的共同体において「国民」とは、諸階級の集まりなのではなくて、資本家そのものだということである。言い換えれば、<国民>そのものが、<ブルジョア的存在>なのである。

 初期フランス革命の思想的指導者、シェイエスの言葉「第三身分とは何か?それは総てである。」を持ち出すまでもなく、ブルジョア革命は<第三身分>までしか意識することが出釆なかった。そして、第一身分(僧侶)と第二身分(貴族)は、革命の過程で身分としては消滅してしまった。残ったのはブルジョアジーを指導的階級とする第三身分であり、シェイエスに言わしめれば<総て>なのである。この第三身分こそ、国家という政治的共同体の中で平等である「国民」を形成した。革命を実際に堆進した都市細民や労働者大衆は、マルクスに言わせれば、「自己の政治的<理念>の内に、彼の現実の<利害>の理念を持ち」得なかったが故に、自己をブルジョアジーとは別の階級として自立し得なかったのである。ブルジョア革命が「部分的」革命であり、「単に政治的な」革命であると言われるのは、革命の結果についてだけ言っているのではなく、「市民社会の一部が自分を解放して普遍的な支配に到達すること」即ち「ある特定の階級がその特殊な地位から社会の普遍的な解放を企てること」に基づいており、「この階級は全社会を解放しはするけれども、しかしそれは全世界がこの階級の地位に就くこと」(注12)を前提としてだけそうする、と言うのである。

 全社会の構成員がこの階級(ブルジョアジー)の地位に就くことによってのみ、政治革命は成立する。ブルジョア国家という政治的共同体の概念の中において<国民>とは、総てブルジョアなのであり、階級的差別、支配階級と被支配階級への分裂などは国家の中には含み得ない別の世界(市民社会)での出来事なのである。

 大藪はマルクス主義国家論の従来の展開の矛盾に果敢に挑戦して突破口を切開いた。ブルジョア国家の公共性それ自身がブルジョア階級的性格を持っている、と喝破したのである。そこでは既に、近代国家の公共性と階級性の二元論は止揚されている。しかし、大藪は国家の本質を形成する共同精神の内容において階級国家論の従来の構造に復帰してしまった。大藪によって開始された事業は吾々によって完成させられなければならない。その岐路は<ブルジョア国家の形成の論理>であろう。それは同時に政治革命の論理でもあるのだ。


注9 大藪龍介 『近代国家の起源と構造』 論創社 25頁
注10 大藪龍介 『マルクス、エンゲルスの国家論』 論創社 292頁
注11 大藪龍介 『近代国家の起源と構造』 論創社 28頁
注12 ME全集 『ヘーゲル法哲学批判』 大月書店 1−424頁