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評者: | 加藤哲郎(一橋大学教授) | 『月刊フォーラム』 1992年11月号 |
タイトル: | 「レーニン神話の解体、そしてどこへ?」 |
ここ数年、「ポスト・マルクス主義」と銘打った書物が、いくつか出されている。ラクラウ=ムフ『ポスト・マルクス主義と政治』(大村書店)、根井康之『ポスト・マルクス主義の社会像』(農文協)など。欧米では、東欧革命・ソ連崩壊以前の80年代はじめから、「ネオ・マルクス主義」からの「ポスト・マルクス主義」の分岐が進行した。その標語は「マルクスがヘーゲルをのりこえたように、マルクスをのりこえよう」(F・ブロック)であった。ラクラウ=ムフの書物の原題は『ヘゲモニーと社会主義戦略──ラディカル民主主義の政治に向かって』であったが、『ニュー・レフト・レヴュー』誌上でN・ジュラスらの批判を呼びおこし「ポスト・マルクス主義論争」の基軸となった。私の『東欧革命と社会主義』(花伝社)にも、それは紹介してある。 大藪龍介氏の新著『国家と民主主義』は「ポスト・マルクスの政治論」と副題されている。大藪氏の場合は、いかに「マルクスをのりこえる」のか? そうした関心から読むと、本書は実に面白い。「プロレタリア独裁」についての理論書として読んでもよい。ロシア革命の政治史的総括として読むことも可能である。マルクス主義国家論の現代的展開としてうけとめてもよい。全体に鋭い問題提起が散りばめられた、知的刺激に満ちた書物である。「社会主義」になお関心をいだいている人であれば、おそらく読みだしたらやめられず、深く自省させられる本であろう。 10年前ならば、マルクス、レーニンの文献解釈の問題として、著書にかみつく人もいたであろう。渓内謙氏のようなレーニン・スターリン断絶説からも、異論はありうるだろう。しかし、本書の扱う問題は、文献解釈の枠を超えている。 第1編「パリ・コミューン型国家をこえるためには」は、パリ・コミューンの歴史的現実と、マルクス『フランスにおける内乱』での理論的抽象を対照しながら、著者の視座を確定するイントロダクションであり、それ自体が重要な理論的提起になっている。第2編「プロレタリアート独裁新考」と第3編「レーニンの民主主義論」はエンゲルスを経てレーニンにより増幅・骨化された「プロレタリアート独裁=プロレタリア民主主義」の20世紀的神話を、独裁とは何か、民主主義とは何かという原点にたちかえって、レーニン理論の問題点をえぐり出したものである。この問題の研究史においては、世界的にもオリジナルな論点を提起している。それぞれの内容に即して、以下、簡単にコメントしてみよう。 第1編冒頭「はじめに」で、著者は、本書の問題意識を[今日課されているのは、パリ・コミューンの経験を学びなおし、またロシア革命の教訓を生かし、レーニンからマルクスにまで立ち返ると同時にそれらを発展的に新展開して、社会主義への過渡期の国家、労働者国家について考究しなおすことである。古典的理論を甦らせるのは、それをのりこえるためにほかならない」(11頁)とする。「古典」のこのような扱いは、評者も賛成である。マルクス、エンゲルス、レーニンの解釈の枠内では、今日のソ連・東欧の崩壊、資本主義国家の現代的展開は、理論的にときえないものであるから。本書が「ポスト・マルクス」と副題された由縁でもある。 著者は、マルクスのパリ・コミューン論を「未来の予兆である傾向を抽象し、反面、過去からの旧套的な傾向を捨象した」理論的抽象として読む。(1)民兵制、(2)すべての公務員の完全な選挙制と解任制、(3)すべての公務員の金銭的特権の一掃、(4)同時に執行し立法する行動的機関、(5)政教分離、教育の無償化・非国家・非宗教化、学問の公開・自律などの機構的編成に即して「コミューン型国家」のあり方を探る。 そのうえで、マルクスにも欠けていた視点として、(1)道徳的・政治的規範、(2)民主主義的権利の位置づけ、(3)人民の自己立法、(4)政党制、(5)公安委員会の捨象、の問題点を解析する。とくに(5)のジャコバン型独裁公安委員会の捨象が、マルクスにおいては「新たな民主主義国家」構想のための、「批判の表明」であったのにたいし、レーニンにおいては、エンゲルスによる「コミューン=プロレタリア独裁」の等置を経て、「公安委員会型ソヴェト国家」がコミューン型国家と誤認された、とする。マルクスと後期エンゲルス、レーニンとの理論的断絶である。 このような機構的編成に立ち入ったコミューン型国家の分析は、歴史学と政治学の交点に位置するもので、有意義である。コミューン時のマルクスから「国家そのものにたいする革命」「国家の社会による再吸収」を基礎視座として析出するものは、評者も『東欧革命と社会主義』で試みたもので、細部についてはともあれ、基本的に共鳴する。 著者はここから「コミューン型国家論のくみかえ」に向かう。ブルジョア国家の典型は、マルクスのようにフランス第二共和政期に求めるべきではなく、イギリス議会制民主主義国家に求めるべきこと、国家権力粉砕型非先進国革命と平和的改造型先進国革命はマルクスでは区別されていたが、コミューン型はフランスにおける自由民主主義普及以前の前者の型であり、それがレーニンにより普遍化されていたことが、まず問題にされる。 そのうえで、マルクス『ゴータ綱領批判』のかの「政治上の過渡期」命題を、(1)プロレタリア革命の開始から労働者国家の創設にいたる「革命期」と、(2)その後の新しい社会と国家の発展的展開を通じての「社会主義への過渡期」に段階的に区分し、後者をも初期・盛期・後期に区分し、かつ「世界史と一国史の乖離」がオーバーラップされる。共産主義の第一・第二段階は、その先の問題とされる。ここから、本来のプロレタリア独裁は「革命期」に限定的な問題であるとする著者の積極的視点、ロシアの「革命期」は1917年2月から20年末まであり、現存したスターリン主義体制は「ロシアにおける過渡期的初期段階の社会・国家の歪曲形態」であったとする著者独自の歴史的規定(72頁)が導出される。 第2編では、マルクス本来の「プロレタリア独裁」概念は、階級独裁と個人独裁の関係、権力集中・分立の関係はあいまいなままではあったが、フランス革命期のジャコバン独裁の刻印をおびた「革命期」におけるブルジョア反革命独裁に対する対抗概念であったとする立場から、「ブルジョア独裁」概念もブルジョア国家の普遍的一般的特徴づけではなく限定的・過渡期的規定であったとして、レーニン批判の視角を設定する。そしてレーニンが、本来別個の問題である独裁と民主主義の概念的関係を「本質と形態」の問題に置き換え、「階級敵に対する独裁=階級内部の民主主義」というふりわけを行ったことが問題とされる。こうした視点から、著者は、かつて「マルクス主義の試金石」にまでもちあげられたレーニン型プロレタリア独裁概念の無効を宣言し、国家の本質をブルジョア独裁・プロレタリア独裁と規定することの不毛性を説く。 第3編では、レーニンの指導したロシア革命のプロセスに即して、レーニン民主主義の問題点をえぐりだす。マルクス、エンゲルスが生きたのは政治的自由主義の時代であり、彼らに民主主義論はなかった。1917年2月革命前のレーニンは「民主主義なしには社会主義はありえない」という考えに到達したが、「ブルジョア的な民主主義、民主共和制についての思い入れと美化の傾向」があった、という。それが2月革命後に痛烈な「ブルジョア民主主義批判」へと転じた。 それは、階級性・金権主義・形式主義・欺瞞性・寡頭主義などでのブルジョア民主主義の否定面を暴いたが、ブルジョア民主主義に含まれる国民的性格や多元主義、寛容性、個人の人権などの面は、その階級還元主義・経済還元主義的把握の欠陥が災いして、充分解明できなかった。それは、レーニンが西欧における自由主義の民主主義への展開、自由民主主義の意義を把握できなかったからだ、とする。 他方、10月革命で現実のものとなった「プロレタリア独裁」と相応不可分とされた「プロレタリア民主主義」については、(1)敵階級にたいして一連の自由を剥離し民主主義から排除するという論理、(2)国家主義的傾向、(3)民主主義の国家形態への狭隘化による対国家的権利の否認、(4)過渡期における自由の定在形態の積極的解明の欠如などの理論的欠陥をもち、それは、革命後のソヴェト政府の出版統制政策、プロレタリア独裁の共産党独裁による代位、軍事優先主義などに反映された。クロンシュタットの反乱後、経済政策のうえでは新経済政策(ネップ)が採用されたが、それに照応する「新政治政策」は、本来必要であった民主主義の拡大とは正反対の、党内分派禁止・反対政党絶滅・唯一前衛党論による「民主主義の消滅」の方向だった。晩年の官僚主義との闘争も、ソヴェト国家とボリシェビキ党への過信から労農監督部の創設や中央委員会権限の強化という自家撞着におちいった。歴史的に見れば、それは、マルクスとは異なりパリ・コミューンをジャコバン独裁の系譜の公安委員会型国家構想と誤認し、派遣制と代表制を混同してきたレーニン国家論自体に含まれる限界の露呈であった、と大藪氏はいう。 以上の簡単な要約からも、著者の主張するところは、明らかであろう。マルクス主義にとって、国家論・民主主義論は未完のアキレス腱であり、マルクスによって示唆にとどまった点をレーニンによって埋められたと誤解したところから今日の悲劇は始まった、と読める。この認識については、評者も、一般的には見解を同じくする。評者自身も、ネオ・マルクス主義者、ポスト・マルクス主義者と自称してきた。 だが、評者の「ポスト・マルクス主義」はもう一歩先に(後に?)進みつつある。そしてそれが、大藪氏への疑問となる。 その第一は、大藪氏がなお前提としている「労働者国家」「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」の概念に関わる。階級的矛盾の存在を前提としたとしても、民族的矛盾や性差の矛盾、自然・人間関係も国家と民主主義のあり方を規定するのではないか。そうだとすれば、「労働者国家」という概念が、いかなる意味で大文字のカテゴリーとして存在しうるのか?ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義という対置は、あるいは民主主義革命と社会主義革命という段階的規定は、いかなる範囲で適用可能なのか?大藪氏は、ダンコースや和田春樹氏の「複合革命」概念に賛同しながら「歴史の発展段階」説は否定せず、レーニン型「唯一前衛党」を批判しながらも「前衛の多種多様化」を唱えられる。しかしそこにも「再検討」は及ぶべきではないか? 第二は、大藪氏が「ブルジョア的代表制を止揚する」とされる「命令的委任の派遣制」に関わる。氏の代表制と派遣性の区別、代位主義と代行主義の区別の指摘自体は有意義であるが、「新時代の建設」に必要とされる民主主義は、はたして拘束委任型派遣制に一元化されうるのか? この点も、現存社会主義のみならず20世紀自由民主主義の展開と実験をも踏まえて、参加民主主義を規定に捉えつつ、ルソー=マルクス的な直接民主主義の適用限界を考えるべきではないか?R・ダールの「規模の民主主義」論やイタリアのボッビオの直接民主主義一元論批判、日本の小林直樹の「人民主義」論批判などを踏まえるならば、あるいは北欧オンブズマン制度やレミス制、男女平等のためのクォーター制などの補完システムをも視野に入れるならば、ローカルからグローバルへと広がりをもつ、開かれた民主主義の多様な代表形態・政治形態を構想すべきではないか?評者自身は、そうした視点から、『東欧革命と社会主義』で紹介したD・ヘルドの「民主主義的自律」や、F・カニンガムの「直接民主主義と代表制の接合」の構想に、むしろ共感する。 とはいえ、大藪氏の新著は、こうした議論を生産的に活性化させる刺激剤である。そして、かつて大藪氏から『現代と展望』第30号誌上で批判を受けた評者の「戦後日本のマルクス主義国家論」の歴史的総括のなかに、氏の仕事が重要な位置を占めたことは疑いない。この点は、率直に自己批判しておこう。多くの人々の熟読を望む。 |