復刊『マルクス、エンゲルスの国家論』について
評者:隅田聡一郎(大阪経済大学経済学部専任講師/社会思想史)
タイトル:大藪龍介著『マルクス、エンゲルスの国家論』(社会評論社、2024年)


著者の大藪龍介は、マルクス主義政治理論に関する数々の優れた著作を発表してきたことで知られる。本書は、大藪の初の単著がおよそ半世紀のもの時を経て再刊されたものである。冒頭に添えられた「再刊にあたって」では、大藪が新左翼党派の活動に区切りをつけて大学院を修了した後、1970年代にマルクス、エンゲルスのテクスト・クリティークをおこない、マルクス主義国家論の定説をどのように克服してきたかが語られている。それまでのマルクス主義国家研究は、後期エンゲルスの国家論(『反デューリング論』や『家族、私的所有および国家の起源』など)、そしてレーニンの『国家の革命』に大きく依拠したものであったが、大藪は、『資本論』に相当するような『国家論』の不在、そしてマルクスとエンゲルスの一体説を克服する必要性を先駆的に指摘していた。本書は、「社会主義」体制が崩壊して21世紀に資本主義がさまざまな危機をうみだすなかで、「マルクス主義と対面する若い世代の活動家や研究者」に向けて再刊されたという。評者は、2010年頃に大学院に進学して以来マルクスを本格的に研究するようになったが、とりわけ大藪の「アソシエーション革命」に関する研究には大きな影響を受けてきた。また、評者の博士論文は「マルクスの国家論」をテーマにしたものであり、その成果は『国家に抗するマルクス』(堀之内出版)として昨年刊行されたが、大藪の一連の研究成果なしには構想しえなかったといっても過言ではない。

本書は7つの論文から構成されており論点は多岐に渡るので、評者がとくに重要だと思われるポイントを中心に、大きく前半部「マルクス国家観の転回と形成」(第1章から第3章まで)と後半部「マルクスおよびエンゲルスの国家分析」(第4章から第7章まで)に分けて内容を要約しておこう。

前半部では、若きマルクスの国家批判が、エンゲルスとの共同作業を経て『資本論』の経済学批判にどのような足跡を残しているのか、そして『資本論』に後続する予定であった『国家論』の創造的地平とは何だったのか、が論じられる。大藪の文献解釈は、従来のマルクス主義国家論研究で取り上げられてきた主要著作のみを対象とするものではない。当時は未刊行であったMEGA第W部第2巻所収の抜粋「クロイツナッハ・ノート」にいち早く着目し、若きマルクスのヘーゲル法哲学批判が、フランスの近代国家形成史などの「経験的・現実的歴史」、そしてモンテスキュー『法の精神』やマキャヴェッリ『ディスコルシ』といった政治思想の研究に依拠することを明らかにしている。これは当時の研究水準を考慮すると卓見であったと言えよう。また、マルクスの政治(学)批判としての国家批判は、「国家批判プラン」の覚書(1844年)に見られるように、経済学研究と密接に関係するものであり、経済学批判の深化とともに変容していくことが本書ではつとに強調されている。例えば、「経済学・哲学手稿」の執筆過程で執筆された「論文『プロイセン国王と社会改革。一プロイセン人』にたいする批判的論評」では、理論的な土台であったルソーの『社会契約論』やヘーゲルの『法哲学』からマルクス自身が離脱していったこと、「ドイツ・イデオロギー諸草稿」における(ヘーゲル「有用性」論を介した)シュティルナー批判では、ベンサムの功利主義理論の受容と批判が後の経済学批判と政治学批判の基準となったこと、が論じられている。じじつ、『資本論』の経済学批判には、若きマルクスにおける「ベンサムとヘーゲルの問題」(イギリス産業資本主義を土台に体系化された功利主義理論と、ドイツ絶対主義国家に由来する「法Recht」の体系)がなおモチーフとなっていると大藪は主張する。「自由・平等・所有、ベンサム」というブルジョワ社会における法規範の考察や、「領有法則の転回」という所有イデオロギー批判は、マルクスのベンサム主義(リカードはもちろん、私見ではオウエンら共産主義・社会主義も含む)批判の地平においてこそ把握されねばならないというのだ。この斬新なテーゼは、21世紀のマルクス研究においても未開拓のテーマに属するものと言えないか。

従来のマルクス主義国家論研究では、後期エンゲルスやレーニンの国家論に由来する「マルクス主義国家論」体系が所与の前提となっていた。だが大藪によれば、とりわけ後期エンゲルスは、その国家発生論において、マルクスも「ドイツ・イデオロギー諸草稿」や『資本論』で論じた「社会の共同利益」とい問題を超歴史化・超階級化してしまったという。つまり、エンゲルスはマルクスの経済学批判がそうしたように、資本主義社会の形態規定性からブルジョワ国家の固有性を分析することができなかったのだ。だが、マルクスが『資本論』の完成を優先させたことで、国家批判が完全なプラン倒れになったという事実は極めて重要である。マルクスの国家論は、例えば『資本論』の草稿研究などと異なり、マルクスが残した作品群から再構成することはできない。

大藪は、以上の立場から、本書の後半部で、具体的な時代と場所で展開したブルジョワ国家について、マルクスが(エンゲルスとともに)どのような情勢分析をおこなったかを論じている。イギリス国家の現状分析については、産業資本主義の発展にともなって、イギリスでは1850年代後半から60年代前半にかけて議院内閣制という独自の権力機構が成立していたことに注意を促す(このことは後に大藪自身が展開していくテーマだが、すでに本書でバジョットの『イギリスの国家構造』が高く評価されている点は興味深い)。さらに、フランス国家の現状分析については、従来のマルクス主義国家論者がもっぱら若きマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』から第二帝政・ボナパルティズム研究を発展させてきたことを批判し、1860年代以降の著作である『フランスの内乱』がむしろ基本テクストとなるべきだと指摘する。というのも、50年代前半のフランスでは産業資本主義とブルジョワ国家が未成熟であり、マルクス自身も経済学研究を深化させていなかったからだ。また、国家論もさることながら、国家の情勢分析についても、マルクスとエンゲルスは意見を大きく異にしていた。例えば、これまでボナパルティズム研究においては後期エンゲルスの「階級均衡論」や「例外国家論」が大きな影響力をもってきたが、ドイツにボナパルティズム論を応用しようとしたのはエンゲルスだけであった。マルクス主義政治理論家に今なお見られる傾向だが、ブルジョワ国家と区別される権威主義国家を規定するものとして、ボナパルティズムを一般化することには禁欲的でなければならない。

最後に、現代の研究成果をふまえて、評者の疑問点を二点ほど提示しておきたい。

第一に、大藪国家論の集大成として刊行された『国家とは何か』(御茶の水書房、2013年)でさらに展開されるが、イギリスのブルジョワ国家を典型する大藪の方法論についてである。評者が『国家に抗するマルクス』の第5章で詳述したように、1970年代以降の欧米で展開された「マルクス主義国家論争」においても、資本主義国家の特定の形態、すなわち西洋産業社会におけるブルジョワ国家が所与の前提とされ、特に普通選挙権や権力分立をともなう議会制デモクラシー国家が資本主義国家の典型形態とされていた。大藪も、イングランドを資本主義社会の典型とする『資本論』にしたがって、資本主義国家の典型として、イングランドで発展したブルジョワ国家を理解している。だが、こうしたアナロジーでは、西洋産業社会以外の「開発独裁」体制や「国家資本主義」といった、ブルジョワ国家と区別される資本主義国家をうまく把握できないのではないだろうか。

第二に、これまた「国家論ルネサンス」を総括するために刊行された『現代の国家論』(世界書院、1989年)で詳述されるが、パシュカーニス法理論の解釈についてである(ちなみに大藪は、パシュカーニスが法Rechtと法律Gesetzを区別していないと主張するが、パシュカーニスの法律カテゴリーは実定法・制定法に先立つ「法的関係」の意味でしばしば用いられる)。本書で大藪は、法学カテゴリーjuristischを法律カテゴリーから正しく区別するものの、ただ法イデオロギー(つまりは上部構造)として理解している。だが、マルクスの法学カテゴリーは、経済的領域と政治的領域の両者を連続的に把握するためのキー概念であるし、この点を強調したパシュカーニスの法形態Rechtsform論は、「土台・上部構造論」を所与の前提としてきたマルクス主義国家論を超克するうえで、再評価されるべきだと思われる。