『明治国家論』について | ||
| 評者: | 毛利敏彦(大阪市立大学名誉教授) | 『季報唯物論研究』第116号 2011年8月 |
| タイトル: | 「大藪龍介『明治国家論』」 | |
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一 本書『明治国家論 近代日本政治体制の原構造』は、近・現代日本国家の原構造をかたちづくった「明治国家の全体像を光と影ともども描出し、その歴史的な位置と存在性格を明らかにする」(七ページ)ことが課題だという。 そして、執筆の直接の動機は、伝統的なマルクス主義による「講座派や労農派の明治維新・明治国家論を超克する新たなる考察の提示」であり、「ニュー・マルクス主義の立場から」の「あまりにも遅れてやってきた研究」(一四ページ)だそうである。 二 本書は二段構えで構成されている。 前半部の「第T篇 初期ブルジョア国家の諸形態」では、「明治国家の建設にあたって基準として参照されたイギリス、フランス、ドイツの初期ブルジョア国家を分析・考察」(七ページ)している。 その結果、「イギリス名誉革命体制を議会主義的君主政、フランスの第一帝政をボナパルティズムと規定する。そのボナパルティズムについては、これまで罷り通ってきたエンゲルス以来の通説を批判して退け、ボナパルティズムの原型である第一帝政の実体に即して、『カリスマ的指導者による、軍事的、官僚的国民国家を構築し、資本主義社会の発展を上から推進する、国民投票的支持に立脚した独裁的統治』と再定義する。フランス復古王政については、これを君主主義的立憲政と規定する。また、ドイツのビスマルク帝国について、ボナパルティズム国家とする通説的見解を吟味し、ボナパルティズムとしての諸特徴を備えているとは捉え難いことを明らかにする。そのうえで実体を表す新たな概念の開発を試み、『立憲政府政』と規定する」(八ページ)。あるいは政府主義的立憲政とも。 以上の第T篇を承けて、中間的繋ぎ部分とでもいうべき「第U篇 明治国家に関する諸論の批判的検討」を挟んで、後半部(本論)の「第V篇 明治国家の分析」が続く。そこでは、複合的発展、自由(主義)化と民主(主義)化の区別、政治(体制)・国家(体制)・憲法(体制)の相関関係という三つの視座を設定し、明治国家の史的展開と内的構造を分析して、日本的ブルジョア国家としての独自性解明を図っている。 つまり、「一八八九(明治二二)年に制定・公布された帝国憲法は、最大の特徴として天皇に圧倒的に強大な権力を集中し、憲法の条規によりこれを行使することを定めた。これは、君主が絶大な権力を掌握するがその権力の行使にあたっては憲法に従うという、フランス復古王政憲章、それを継受したプロイセン憲法やドイツ帝国憲法の系統に連なって、君主主義的立憲主義を基本的性格とするものであった」(一〇ページ)。 「総じて帝国憲法は、プロイセン=ドイツ型憲法を模範としつつ、それを日本固有の天皇制に合わせて一段と君権主義的に鋳直していたが、君主権力の制限、国民の権利の承認、国家権力の分立といった近代憲法が備えるべき一般的性質を、最低程度に、確保していた」(二一一ページ)。 「ドイツ帝国において、憲法上の皇帝の地位と権限が強大であるものの、実権を握って統治にあたっているのはビスマルク宰相であり宰相率いる政府であることは、隠れのない事実であり、伊藤(博文)など藩閥政治家・官僚も熟知していた。そのドイツ帝国をモデルにして、彼らは帝国憲法を定め、天皇、内閣=政府、帝国議会の相互関係を制度化した」(二七七ページ)。 ゆえに、明治国家は「総体としては、フランス復古王政よりビスマルク帝国と同型性が強かった」(三〇一ページ)とみなし、本論最終ページを、「ビスマルク帝国はボナパルティズムに傾斜した立憲政府政、明治国家は君主主義的立憲政に傾斜した立憲政府政だと言えよう」(三〇八ページ)と締めくくっている。 ここまでの論述は、史実への目配りがよく、議論の運びも手堅くて、大筋において講座派学説(戦後歴史学)の迷妄から脱却後の昨今の日本近代史学界での常識の範囲内にあり、概ね妥当な見解といえよう。 なお、明治国家の立憲制的性格を強調する所以については、必ずしも直接的に説明されていないようだが、文脈から推測すれば、一つには「絶対主義では、君主権力は全権的で無制限であった。対するに、君主主義では、国家権力の分立のなかで、議会権力が最優位する議会主義とは対極的に君主権力が最優位するのであるが、その君主権力も他の権力によっていささかなりと抑制されるとともに憲法によって制約される。それは、国家主義に偏した後進的な国に特徴的な、近代国家の権力機構的編制の一つの在り方であった」(二七五ページ)ことから、明治国家を天皇制絶対主義とみなした講座派学説が史実と論理に不適合なことを示すためであろう。 三 気になったのは、明治維新は「史的唯物論(唯物史観)の公式に反する革命」(一七一ページ)だという一節である。方法としての史的唯物論の効用に背を向けるのなら、もはやマルクス主義(ニュー・マルクス主義を含む)の立場から外れている。そもそも大藪氏は、「公式」の内容を自己流にあまりに狭く捉え過ぎている。ところが、大藪氏も言及している「政治的上部構造の相対的独立性やそれの経済的土台への作用の命題」(一七一ページ)などは、当然に公式に含まれることは、マルクスやエンゲルスの言説に照らして自明であろう。 それだけでなく、大藪氏がニュー・マルクス主義を標榜しているにもかかわらず、「史的唯物論の公式に反する」と述べた根底には、「幕末の経済的、政治的発展状態では自生的なブルジョア革命の諸条件は内熟していなかった」(一六九ページ)といった類の旧態依然たる固定観念に縛られているからでもあろう。それでは講座派の立ち位置と同じだ。 すでに私は、大藪氏の前著『明治維新の新考察』(社会評論社、二〇〇六年)への書評(『季報唯物論研究』第九六号に掲載)で、「江戸時代社会の市場経済化=ブルジョア化は、…日本的諸条件下での自生的ブルジョア革命を可能にする寸前にまで成熟していたし、産業革命後の欧米経済との間に一定の格差があったとしても決定的ではなかつた」から、「明治維新全過程を史的唯物論によって合理的に説明できる」と指摘している(「産業革命後」という舌足らずな表現が誤解を招いて、大藪氏から「機械制大工業の確立や鉄道の敷設に象徴される産業革命を経た欧米経済との間には決定的な程の格差があった」〔『明治国家論』一四六ページ〕と揚げ足を取られたが、前後の文脈からお分かりいただけるように、ここでの産業革命後とは、同時代一八世紀前後に西欧が産業革命期に入って後間もなくの状態、つまり産業革命開始後を指したつもりだ)。なお江戸時代日本の産業・科学技術水準については毛利敏彦著『幕末維新と佐賀藩』(中公新書、二〇〇八年)をも参照されたい。〔二〇一一年四月〕 |