『明治国家論』について
評者:北山峻(旧「建党協」会員)『唯物論研究』第117号 2011年12月
タイトル:「『明治国家論』の新機軸」


一、「明治国家論」の要点

 大藪氏は新左翼としての独自の立場から長年にわたってマルクス主義の国家論の分野で業績をあげてこられましたが、この十数年その国家論での理論的研鑽を武器にして、日本のブルジョア革命である明治維新とその結果成立した明治国家について、戦前の日本資本主義論争以来の論争の渦中に勇躍して飛び込み、2006年3月に「明治維新の新考察」(社会評論社刊)を発刊されたのに続き昨年(2010年)10月、新著「明治国家論」(社会評論社刊)を上梓し、「20世紀社会主義」が全面的に崩壊した後の理論的な到達点に立って新たな「明治維新論」を展開されています。

 「明治国家論」は、第T篇:初期ブルジョア国家の諸形態(4章で構成)、第U編:明治国家に関する緒論の批判的検討(2章と2つの補論で構成)、第V篇:明治国家の分析(5章で構成)の三篇から成っています。

 第T篇で氏は、イギリス、フランス、ドイツの初期ブルジョア国家の存在諸形態を検討し、@イギリス名誉革命体制を議会主義的君主政、Aフランス第一帝政をボナパルティズム、Bフランス王政復古を君主主義的立憲政、そして今回大藪氏が創出した新概念としてCドイツ・ビスマルク帝国を立憲政府政と規定しています。

 第一篇で特筆すべきは、第一にナポレオンの甥で1852年~70年のフランス第二帝政の皇帝であったナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)に由来するボナパルティズムという概念を、エンゲルスの「階級均衡論」や「例外国家論」を批判して再定義し、第二帝政ではなく歴史を半世紀もさかのぼらせてナポレオン1世の第一帝政に対応させた事、第二に従来はボナパルティズム国家と考えられてきたドイツ・ビスマルク帝政が、実際にはそれとは別のドイツ伝来の官僚主義と強力な軍事力の結合による新しい型のブルジョア国家(=これは同時に明治国家の模範でもあった)であって、これに対し立憲政府政という新概念を創出した事でしょう。

 第二篇では、コミンテルンのいわゆる「32年テーゼ」とこれに追従した「講座派」の諸論点を検討し、講座派が唱えた絶対主義天皇制論の多くの誤りを指摘しています。

 氏に依れば絶対主義天皇制論は、@「上からの革命」である明治維新を革命ではなく「改革」とし、A封建的要素を強調するあまり1930年代の日本の「ファシズム」を絶対主義と誤認し、B大正デモクラシー時代の自由化・民主化などの歴史の発展的変動を無視して、明治維新から敗戦までの日本近代史を専制的支配の一色で塗りつぶす一面的把握に陥り、C1930年台の日本を、帝政ロシアとの類比で位置づけたため20世紀初頭の帝政ロシアを遥かにしのいで発達している日本の独自の位相が捉えられず、封建的性格をことさらに強調するなどの誤りを犯しているとされています。

 さらに氏は、「32年テーゼ」の革命論の誤りとして、@天皇制が仮に絶対天皇制だとしてもその打倒の方針は「極左的偏向」であり、「天皇制の民主化」こそがとられるべき正しい方針だったとし、さらにこのテーゼを貫く最も根本的な欠陥としてA一国一前衛党主義、政治革命主義、プロ独裁下での生産手段の国有化と「計画経済による社会主義建設」等からなるコミンテルンの「党・国家中心主義革命路線」が貫徹している事をあげています。

 第V篇は、「分析の方法的視座」と銘打った第1章において、@複合的発展、A自由主義(化)と民主主義(化)の区別、B政治(体制)・国家(体制)・憲法(体制)について、いわば大藪歴史学の方法論を簡潔にまとめています。

 複合的発展の理論は表立って表記されてはいませんがトロツキーの複合的発展の理論を取り入れたことを公然と表明したものといえるでしょうし、さらにこれとの関連で史的唯物論についてのいくつかの重要な解釈が展開されています。

 この章で展開されている重要な論点の一つはブルジョア革命をめぐる自由主義と民主主義の問題でしょう。氏に依れば、初期ブルジョア国家は民主主義ではなく自由主義を基本的性格とするのであって、ブルジョア国家が民主主義をその政治的な目標にするのは例えばイギリスにおいては1840年代のチャーチスト運動以降、フランスでは1848年の2月革命以降であったように本格的なブルジョア社会が成立した後の事であるというのです。この理論的解明に基づいて氏は、「ブルジョア革命は民主主義革命である」というコミンテルンの革命路線・ボルシェヴィキ史観=それゆえに自由民権運動でさえも自由主義運動ではなく民主主義運動であるとしてしまう講座派の誤りを指摘しています。

 また明治憲法体制にはない「法外的機構」である「元勲・元老」が明治政府の中で大きな力を持ち実際政治を動かしていったことなどの例をあげて、いかなる国家でもその現状分析においては、政治・国家・憲法の相互関係を考慮して総合的に分析するべきであると警鐘を鳴らしてもいます。 

 第V篇の第二章から四章では、明治国家をそれぞれ立憲国家・国民国家・天皇制国家の側面から分析していますが、その中でもとりわけ第二篇の革命路線の問題とあわせて、天皇制をどのように理解しまたこれとどのように闘うべきかについて展開しています。

 大藪氏は、倒幕派は討幕運動の過程では天皇を徳川幕府に代わる政治的求心力を持つ文字通り「錦の御旗」として活用したばかりか、維新後は、欧米でキリスト教が果たしているような「民心収攬」をはかる国民統合のシンボルとして天皇を最大限に活用したというのです。

 新政府の為政者たちは天皇を国民統合の不動のシンボルとするために、「万世一系」の天皇制を民衆信仰として人気のあった「伊勢参り」や「家にあっての祖先信仰・村にあっての鎮守・産土・氏神などの小神社信仰」と結びつけ、さらに「家父長的農業経営における父子関係」を「天皇と臣民の関係」に擬し、さらに日清・日露の戦争を勝利に導いた大元帥としてのイメージを扶植する事によって最低辺の庶民の中にも根を張った強固なナショナル・シンボル=「現人神」とするのに成功したというのです。

二 、今後更に論議を深めるべき課題

 「明治国家論」を読んで更に論議を深めるべきと考えた点を何点か提起します。

 第一に「革命」とは何かということ、さらに「上からの革命」は何かということについてです。

 大藪氏はエンゲルスにならって、ビスマルクの革命とともに明治維新をも「上からの革命」とし、さらにそこで成立した初期ブルジョア国家の政治体制を「立憲政府政」と定義し、そのことによって明治維新を「上からの革命」→「立憲政府政」として一つの完結した形で描き出しましたが、ここでいう「上からの革命」、つまり「権力者がその権力を利用して上から強力に社会を変革する事」は果たして「革命」なのかという問題があります。なぜならば、従来の「マルクス=レーニン主義」の公式見解によれば、革命とは「国家権力がある階級から他の階級に移行したり(政治革命)」、「経済的社会構成体(生産関係)が大転換をしたりする(社会革命)こと」(「社会科学総合辞典」新日本出版社刊など)ですから、「マルクス=レーニン主義」においては、権力の階級移動がないビスマルク帝国の成立を革命とすることはありえないでしょう。

 しかしエンゲルスは、1866年の普墺戦争と1870年の普仏戦争の勝利を通じてビスマルクが達成した「全ドイツの統一とドイツ帝国の創建、成年男子普通選挙権に基づく国会の開設」を、「革命的手段によって遂行された完全な革命」(マル・エン全集21巻・p434「歴史における暴力の役割」)と言い、「ドイツ帝国は革命の産物である。確かに独特の革命であるが、それだからといって革命であることに変わりはない。ある人がやってよいことは、別の人がやってもよいのだ。プロイセンの王権がやろうと、鋳掛け屋がやろうと、革命は革命である。」(全集21巻・p207「『ケルン賠償法廷に立つカール・マルクス』への序文」)と断じて、ビスマルクを「革命家である」としたのでした。

 さらに、「上からの革命」についていえば、かつて多くのソ連研究者は、1928年から開始され、29年4月の党大会で修正されたソ連邦のスターリンによる第一次5カ年計画とそれに基づく農業集団化と「社会主義的工業化」を指して「上からの革命」と呼びましたが(例えば、渓内謙著「スターリン政治体制の成立」第三部、岩波書店刊など)、しかし、1991年にそのソ連邦が崩壊し、さらにまたアメリカの4倍の人口を持ち、アヘン戦争までは2000年以上にわたって世界最大の帝国であり続けた中国が、今ではGDPで日本の2倍を超える経済大国となり、さらに10年内外でアメリカをも追い抜く資本主義大国として台頭してきた中で、かつては「社会主義革命」とか「プロレタリア革命」とか言われていた1917年のロシア革命や1949年の中国革命が、実はそのようなものでは全くなくて、帝国主義列強の包囲の下で達成された後進国の大規模なブルジョア革命であった事、そしてレーニンや毛沢東の政権は、「上から」強権的に資本を蓄積して産業革命を実行し、国家的規模で巨大な機械制大工業を移植した開発独裁政権の先駆であったことが今日ではますます明らかになってきています。

 1983年、国連大学で5日間にわたって行われた明治維新についてのシンポジュウムで、エンサイクロペディア・ブリタニカの編集長であったフランク・ギブニーは、18世紀末から現代までの近代世界の五大革命として、1776年のアメリカ独立革命、1789年のフランス革命、1917年のロシア革命、1911年~49年の中国革命と並べて1868年の明治維新を挙げていますが、彼の認識の中ではこれらはすべてがブルジョア世界革命の一環であったのです。(永井道雄/M・ウルティア編「明治維新」東大出版会刊;p128)だから、ロシア革命や中国革命やキューバ革命、ベトナム革命などを加えるならば、ブルジョア世界革命にとっては「上からの革命」はごく普通の正常な革命の形態であると言えるのではないでしょうか。

 第二は時代規定の問題です。

 『極端な時代』として「二〇世紀の歴史」を描いた(1996年;三省堂刊)エリック・ボブズボームをはじめとした世界中の多くの歴史家は、1917年のロシア革命以来の世界史を、「資本主義から社会主義への過渡期」として描き出してきましたが、しかし百年にわたって世界最強の帝国主義国として世界に覇を唱えてきたアメリカが急速に没落し、ヨーロッパや日本も停滞し、それに代わってかつて長期にわたって世界の超大国であった中国やインドやイスラムなどが、強力に民族性を主張しながら、先進的な科学技術と機械制大工業を獲得して世界経済の中心地となり、さらにブラジルやアセアン諸国や南アフリカ共和国などのアジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国が陸続と世界の政治・経済に進出してくるのを見るとき、少なくともあと50年〜100年は依然として世界はブルジョア世界革命の時代の中にあるのではないかと思うのです。

 第三はマルクス主義を再生する上での基本的な態度についてです。

 マルクスやエンゲルスが、イギリスによる中国侵略であったアヘン戦争や、インドへの侵略戦争であった反英大戦争(セポイの反乱)、アメリカによるメキシコ侵略戦争で、一貫してイギリスやアメリカを支持していたように、近代共産主義の創始者といわれているマルクスやエンゲルスは、一面では欧米の資本主義的帝国主義の最大の賛美者でありその侵略拡張政策の熱烈な支持者でありました。

 我々は今こそ、レーニンや・トロツキーや毛沢東ばかりでなくマルクスやエンゲルスに対しても、盲目的に信仰し行動する宗教の信者としてではなく、すべてを疑い、すべてを理性の光で検証する科学者として対処しなければならないでしょう。そしてそれだけがマルクスを甦らせ、世界を前進させることができる唯一の方法なのではないでしょうか。

三、「明治国家論」の画期的意味

 最後に、大藪氏の新著が、20世紀を席巻した「マルクス・レーニン主義(講座派)」の明治維新論と真っ向から対決し、@権力の階級移動なき革命(上からの革命)の提起や、Aボナパルティズムの再定義とナポレオン1世への適用、Bビスマルク帝国(明治国家も同じ)の分析と新概念=立憲政府政の創出、C天皇制の廃絶ではなくその民主化の提起、D「党・国家中心主義革命路線=レーニン主義」に対する根本的批判の提起などの諸点において「ソ連邦」と「20世紀社会主義」の世界的規模での大崩壊という新時代を反映し、明治維新研究史上でも新時代の到来を告げる、文字通りエポック・メーキングな一冊となっていると言えるでしょう。

 ただ様々な誤りがあったとはいえ、戦前の「共産主義者たち」が唱えた「天皇制打倒」のスローガンは日本やアジアの民衆の腹からの叫びであり、やはり正しかったのではないかと私は思います。この点を含めて、この新著を契機に日本や世界の革命について、更にマルクス主義やレーニン主義について実りある論議が起こることを祈念して筆を擱きます。