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評者: | 木村英亮(二松学舎大学教授) | 『社会主義理論学会会報』第49号 2002年9月 |
タイトル: | 「大藪龍介著『マルクス派の革命論・再読』」 |
全体は大きく、第1部 マルクス、エンゲルスの革命論再考、第2部 トロツキーの革命論と問題構制、の2部からなり、エピローグ・20世紀社会主義の挑戦と破綻、で結ぶ。 第1部は、1848年の『共産主義派宣言』は、1917年のレーニン『国家と革命』によって解釈されてきたが、1860−70年代の永続革命論から脱却し、新しい社会革命論、1895年のエンゲルスの陣地戦の革命路線に続くものと理解されなければならない、という内容である。 まず、ドイツにおける2つの革命の永続的発展、フランスにおけるプロレタリア革命、世界革命という構造からなるマルクス、エンゲルスの永続革命論は、プロレタリアート独裁と中央集権的国家観を特徴とするが、そこでは革命と改良とを切り離していた。 しかしマルクスは、1950年以降、政治革命に偏っていた革命論から、経済的・社会的変革の考察に、国家的所有から協同組合的生産と所有に、中央集権的国家から地方分権的自治体の追及に重点を移している。パリ・コミューン後、古い社会のなかの新しい要素の解放、中間階級の結集、コミューン国家という考え方に到達したが、これはレーニンの理解と異なる。「ドラマティックな大国事劇としての革命というより、徐々に進化する革命を集大成する全社会的な大改造としての革命である」(52頁)。 第2部は、トロツキーの永続革命論をとりあげる。ここには、ブルジョア革命から社会主義革命への段階的連続性、社会主義革命そのものの永続性、国際革命の永続性、の3側面がある。この理論の難点は、プロレタリアート独裁、中央集権的国家権力への依存である。この点はスターリンと共通であり、「社会主義とは反対の国家主義への道を辿ることが避けられない」(116頁)。また、農民革命の政治的自立性の否認、プロレタリアートの主導性の強調、土地社会化批判も大きい問題である。また先進国の革命が続かない場合は、永続革命論の有力な前提が崩れる。 ロシア革命が、中間的段階を飛び越えて、世界最新の諸要素と自国の旧来の諸要素の独特の結合による複合的発展を遂げるというかれの理論には、次のような欠陥がある。すなわち、中世的な農耕技術の共同体に拠った農民革命は、農業革命を困難にし、東洋的専制政治の自然発生的基礎となる。共同体が社会的再生の拠点となるというマルクスの所見は、史実の誤認と論理的欠陥のうえに組み立てられていたからである。 次に、1936年の『裏切られた革命』を取りあげる。ここで、ソ連を堕落した労働者国家とし、それを依然として、資本主義から社会主義への過渡的な体制であるとしているが、ここにはソ連論の限界がある。それはかれが、労働者国家的所有を社会主義的所有への過渡的形態としていること、所有関係によって国家の本質が規定されると考えているからである。この点でもスターリンと共通である。 党内分派の禁止を批判するのであれば、他の諸政党の禁止も批判しなくてはならない。1929年からの農業集団化を基本的には支持し、批判は速度と方法に集中している。 官僚の支配集団としての歴史的、社会的な独自性をソ連体制の構造的特質との関連で析出することが肝心である。特権層として批判するが、国家的所有の守り手としてはプロレタリアート独裁の道具としている。これでは、官僚支配を倒せない。国家の最大限の強化を通じて社会主義へという道は、「全体主義体制」への道であった。 エピローグでは、ロシア革命は、ボリシェビキ革命、農民革命と労働者革命の矛盾、民族革命とロシアとの矛盾などを抱えていた。「スターリン主義体制は、世界史的な資本主義の爛熟と国家化の時代における国家による社会の組織化の一形態として位置づけられ、ロシア的後進性を特質とする、社会主義への過渡期初期段階の社会の国家主義的変(質形)態と規定される」(266頁)。「20世紀社会主義の実践的経験は、生産手段の国家的所有化を基本路線としない社会主義への道を切り拓かなければならないことを示唆している」(232頁)と結ぶ。 大藪は、本書で国家、政治的にはプロレタリアート独裁、経済的には国家的所有を問題として取りあげている。第1部については多くを学んだが、マルクス、エンゲルスにあたっていないので、紹介のみとしたい。第2部のトロツキーについては、いまソ連について考えるさいの参考として読む場合と、トロツキー自体を評価しようとする場合とは食い違うところもでてくるのではないかと思う。かれの主張はそのときのソ連国民にあてた政治的メッセージなので、まったく突き放した議論ではアッピールしないからである。 問題意識、見解とも、全体として賛成であるが、以下ソ連史の立場から若干の感想を述べたい。 戦後、ソ連は全人民の国家となったとされ、中ソ論争のなかで中国側から論難された。1986年の党綱領にも、「全人民の国家のもとでの民主主義の発展」と規定されている。実際、ペレストロイカというかたちで、民主化が始まっていた。20世紀の条件のなかでは、どのような独裁であれ、広範な人民の支持なしには長続きできないであろう。プロレタリアート独裁にしろ、党の指導にしろ、広範な人民の支持なしには成り立たないし、続かない。これは、ソ連の歴史の教訓の一つである。 集団化については、工業を含めた国民経済全体のなかで考えることも必要で、農業だけを切り離して論ずることには限界があり、国家権力でしか「解決」できなかった。これは一国社会主義最大の矛盾である。ルソーのいう全体意思をどのようなかたちで実現するか、各地域、共同体の利益と全体の利益をいかに調整するかの問題で、現代では地球的な南北問題にも通ずる全体的構造の改革の問題であろう。 著者は、国家的所有にかえて協同組合的所有、アソシエーションを主張されている。この問題については、別稿で論じられており、ここでは立ち入らないが、国家が全人民のものになれば、国家的所有の内容も変わっていき、協同組合的所有に近づくのではないだろうか。ソ連では農業経営体として、生産協同組合(コルホーズ)と国有農業(ソフホーズ)があったが、コルホーズは、協同組合といっても実質的には国家農場であった。末期には、両者は接近してきており、コルホーズの理念も見直されてきていたのではないであろうか。 来年はスターリンが没してちょうど50年である。私はスターリン無きあとのソ連・ロシア史を細かくみる必要があると考えている。この50年、スターリンの呪縛は強かったとはいえ、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフらはそれなりに努力し、ソ連は大きく変わってきた。この50年は、アメリカとの軍備競争のために、軍事費の重圧は大きく、また情報戦争に対応するために、秘密主義もまったく根拠が無いものではなかった。しかし、グラースノスチ(情報公開、言論の自由)がなかったことは、決定的であった。現在IT革命の下で、情報の統制は不可能になっているように思われるが、恐ろしいのは、情報の氾濫のなかでの、その大規模な操作である。 思いつくままの感想を記した。構成、内容とも明快で読みやすい本であり、直接手に取られるように期待したい。 |