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評者: | 村瀬大観(現代思想研究会) | 『季報 唯物論研究』第84号 2003年5月 |
タイトル: | 「大藪龍介『マルクス派の革命論・再読』」 |
「社会革命路線」発掘の意義と限界 マルクスにおける初期の『共産主義派宣言』に描かれた「永続革命論」が示す<少数/奇襲型>の「国家主義的革命路線」が、1850年代の「唯物史観の公式」による「社会革命論への視座転換」を経て、後期に<多数/改良と革命/協同組合論+コミュ ーン型国家>型の基本路線に到る理論的進化は、簡潔ですが内容鋭く整理されています。それは政治権力奪取に凝縮された代意=代行主義的なレーニン主義組織論を脱し、「労働者階級の解放は、労働者階級自身の手で闘いとらねばならない」という大原則の記憶を呼び戻すと共に、その根拠となる<社会革命の独自性>をマルクス自身の言説をもって論拠づけます。レーニンやトロツキー、スターリンによって『共産主義派宣言』の延長で扱われたジャコバン主義的なマルクス革命論の理解は、さまざまな変形はあれ、黒田寛一や廣松渉をはじめ新旧左翼の多くに影響を与えました。これと一線を画し、グラムシの「市民的ヘゲモニー」定式をも手掛かりに「社会革命論」者として描き直した著者のマルクス像は、より客観的な妥当性を示す意義深いものです。 著者は社会革命論の過程論的な基軸化を示すものとして「唯物史観の公式」を採り上げ、生産諸力と生産所有諸関係の矛盾を与件に階級闘争と(最終的恐慌を機に)社会革命が起き、経済的構造変革につれ政治文化的変革が急激かつ徐々に進行する、一つの社会構成は生産諸力が発展しきるまで没落せず、新しい高度の生産諸関係はその物質的存在条件が古い社会の胎内で孵化されるまで古いものと代わらない点に注目します。そしてその後のマルクスが社会革命の主要な推進実体を「労働者生産協同組合」に求め、「可能な共産主義は協同組合連合体の全国生産調整」と評価した点を押さえます。とはいえ著者の「生産諸関係が生産力に適応し矛盾を現実解決する認識はない」という指摘は重要であり、「最終的恐慌−全般的破局を機に社会革命の局面を迎える」「恐慌革命論」の甘さを突き、唯物史観の依拠する<生産力主義>と<経済決定論>の誤謬を示唆するものです。このことは最終的恐慌を前提としない、資本主義的矛盾の現実解決力に否定的に即す社会革命プログラムの仮説的深化を要請した筈です。 その意味で、「労働者生産協同組合」の自主的な経営生産管理、共同所有、協同労働、「労働日の制限」による「人間的教養、精神的発達、社会的諸機能の遂行、社交、肉体的精神的生命力の自由な営みのための時間」確保、普通選挙権の定着など、60〜70年代の経済社会政治的改良を承認した意義は大でした。それは政治革命の展望をも、労働者による国民的な多数者革命、徐々なる平和革命の可能性と独裁の必然性の否定、地域自治体連合国家による「国家の社会への吸収」、民兵制、派遣評議会制、権力分立制、などに変化させました。とはいえ、政治革命以前の社会革命のプログラムは「可能的諸条件を創出する」に止まり、深化された形跡がありません。実際、70年代の大不況期を通して協同組合生産会社の多くは株式会社へと移行し、社会革命の拠点たりえなかった限界は検討されていません(著者は『マルクス社会主義像の転換』でマルクスの株式会社批判の弱さを指摘していますが)。資本家的生産方法の株式会社的改善を上回る市場的競争力を当時の協同組合的生産が示せず、その社会経済的有用性を周辺的な領域に限定された意味をどう対象化するのか、協同組合運動自体に即した「利潤分配論争」などの総括が求められた筈です。この結果、過渡期社会論としてはともあれ、革命路線では残された国有化論の位置が相対的に高まった背景があるように思われます。 「陣地戦革命戦略」再考の行方 エンゲルスにおける「永続革命論」からの脱皮は、唯物史観的な「最終的恐慌−革命」論および「反戦−革命」論を基礎に、経済社会政治的な改良闘争の積み上げによる反体制的な対抗運動−組織の構築を根拠として「決戦」へと向かう「陣地戦戦略」にあり、軍隊や議会への甘い見通し、経済動向の分析欠如、自然主義的な社会法則論に基づく革命(理論)と改良(実践)の乖離、社会革命路線のゆらぎはありつつも、『フランスの階級闘争への「序文」』に示されたそれが「20世紀にあっても継承されるべき革命の基本路線であった」との著者の評価は、おおよそ妥当だと言えましょう。それは70〜80年代以降の政治構造の民主化−階級的力関係の変化−ドイツ社会主義労働者党の前進に対応すべく、国民的な<多数者の陣地・包囲・突撃>を主客の攻防の弁証法のうちに仮説的な政治戦略プログラムとして明示するものでした。日本新左翼はこの『序文』を批判的にすら継承することなく、暴力革命か平和革命かの二者択一に陥り、暴力主義革命に拝跪しました。とはいえ、引用される限りでは協同組合による「社会革命路線」の形跡があまり見当たらず、単なる「ゆらぎ」に止まらない印象を受けるのは私だけでしょうか。 著者は<陣地・包囲戦>での普通選挙権や国家社会組織の合法的活用を評価しま すが、「陣地戦戦略の矛盾」として挙げた軍隊や議会への甘い見通し、自然主義的な社会法則論に基づく革命(理論)と改良(実践)の乖離という厳しい指摘からは、合法的活用の限界点をめぐるエンゲルスの曖昧さを痛感させます。「強力部隊を無傷のまま保つ」として合法主義に拘りすぎれば、「封建的な遺物」のあるドイツ帝国の体制的限界と対峙したい大衆の急進的な自然成長性を摘み取り、改良主義や待機主義がはびこって党の権威主義官僚主義化を招き、「強力部隊」も錆びつきます。「戦略と戦術を区別し有機的に関連づけて、状況に応じて柔軟に適応しうる形で革命路線を構想」(七七頁)した割には、その実践的適用における有効性を「限界理論」「仮説−実験−反証」的に反省して蓋然的な選択肢を追求した形跡は見られず、戦術的具体化を経験主義的な直観に委ねる難点が存在したようです。この<理論と実践の統一>に関する方法的難点は、「陣地戦戦略」に要請される筈の多元的な政治社会運動の発展と統一を保障するヘゲモニーを現実主義的な政治力学軍事力学に止め、その知的道徳的発展を大きく制約した筈です。 その点<突撃戦>で、軍隊への革命派の国民的浸透と弱体化を前提に、「敵の出方 」だけでなく「味方の力」をも考慮しつつ、追い詰められた支配階級の無法行為の機会をとらえ、「革命の権利」という(自然法的な?)「歴史的な権利」を主張し、蜂起による市街戦を正当化したことは注目に値します。それは「決戦」を力学的な権力移動に止めず、<社会契約>的な法的正義を体現させ知的道徳的意味を与えるからですが、マルクス革命論における<人権>など法的正義をめぐる闘いの希薄さから、単なる政治力学的な<ワザ>と理解するむきが多いのは残念です。とはいえ、かかる法 (律) 的、知的道徳的ヘゲモニーを重視するなら、「恐慌−革命」論に代わって「破局的危機」の<回避か促進か>をめぐる「改良と革命の統一」のあり方が問題となり、支配権力との政策的な<対立と妥協>を媒介に労働者統制や協同組合企業の権力的成長などを通じて多元的な「社会革命」を先行させ、<陣地戦>を<突撃戦><決戦>へ媒介転化する<包囲戦>の攻防の弁証法が重視されたと思います。そこでは、民主共和制を固定化し社会主義との外在的節合を図る<二段階戦略>とは異なり、<自由民主主義>と内在的に節合する<社会的共和制>のあり方をめぐって、多様な社会主義の代替戦略が求められた筈です。 ポストマルクス主義の環は? マルクス派の革命論全体では、社会革命路線や陣地戦革命戦略など多くを継承すべきですが、今日的にはそのガンと化した「経済の最終審級」と「社会主義の必然性」を取り崩し、一九世紀的な「唯物史観」の<決定論/本質還元主義>的地平を相対化すべきです(E・ラクラウ/C・ムフ共著『ポストマルクス主義と政治』参照)。代替的には構造主義やポストモダン論議から経済・社会・政治・精神的な諸要素の「重層的決定」論を批判的に摂取し、「社会主義の蓋然性」の見地から資本家的弊害を克服する私的所有との付き合い方を学びつつ、その再定義を図るべきでしょう。この事は資本主義の自動崩壊論をテコに「千年王国」の社会主義を説くのではなく、資本主義システムの歴史的現実的な意味と価値を、被抑圧階級人民解放の視点から社会全体を重層的に構成する人間諸主体の<間主観性>において否定的=肯定的に問い直し、これを変革実践的に止揚する知的道徳的ヘゲモニーを重視するものです。それは理論と実践を統一する<仮説−実験的/限界論的><対話・対論・対質>的方法を通じ、可逆的−不可逆的な<内的−外的>時空間の境界をシフトし、内的経験とのより深い接触−自己反省を介して<現実的理想>を選択的に志向する点で、<当為と存在>の「空隙」を脱出できない社会主義に「メタモルフォーゼ(変身)」(A・メルッチ『現在に生きる遊牧民』)を求めます。 「社会革命路線」としては、恐慌や大戦争などの体制的危機を回避する現代資本主義−自由民主主義の成熟下で、環境破壊や人間疎外を促進する市場原理を統御・調整し文化的な生活変革を切り拓く、資本家階級から生活者市民への<社会的権力の移行>が焦点化しつつあります。それは資本家と労働者という二大階級への両極分解が阻害され、生活水準の向上と共に労働者階級の階層分化と「社会の個人化」が進んだ結果、<窮乏化−決戦>という政治過程に代わって、新旧中間層市民の知的道徳的ヘゲモニーが政策論議−交渉を通じて多元的な社会的諸権力を左右する力を分子的に増大させているからです。そこでは第一に、地球環境の破壊をうながした近代の<生産力主義>の反省が求められ、マルクス派も人間を「社会的諸関係の総体」に解消せず、限界的自然との<内的−外的>なエコロジー関係において再定義すると共に、生産者第一主義をのりこえ生産・流通・消費にわたる生活者主権に立つことが求められます。第二に<経済決定論>により理想主義化された「労働者」アソシエーション自身の社会学的な諸矛盾を切開し、集団主義的な閉塞をのりこえる市民的な個々人的主体性をリベラルな重層的関係において再定義し、社会的分業のうちに市場を統御し計画を調整・協議して「自立と共生」を創造する<市民的協同>の回路を明確化すべきです。 それゆえ<陣地・包囲戦>戦略としては、労働組合を中心とした「旧い社会運動」から、システム社会における社会集団の複雑化・断片化、階級的帰属性の後退を背景に、個々人の<複合的アイデンティティ>を求め拡大する「新しい社会運動・市民運動」に重点を移行すべきです。環境・エスニシティ・性差・平和・NPO等をめぐる言語−象徴行為が織りなす意味のネットワークを通じ、匿名的権力の物象的文化コードを超える相互的コミュニケーションを問い、疎外関係を前進的に転形・変移させる相互変革的な関係行為の集積は、経済・政治・法律などの制度的枠組みの<市民的=協同的>な構造変革を促進します。それは多元的な社会的諸権力を分子的に変革し、国権的な官僚主義を掘り崩す<参加民主主義>に依拠して複合的な権力移動を図りつつ、従来の<社会主義>に欠如した<リベラルな正義と寛容さ>を批判的に摂取し(井上達夫『共生の作法』参照)、市民的公共圏における<政治>の有用性有効性を高めるものです。この<包囲戦>は、グローカル(グローバルかつローカル)な視点から国際(連合)諸機関とも批判的に協力して、帝国主義ナショナリズムの暴発を制御調整しつつ、部分的な市街戦を避けられなくとも、法(律)的規範を手掛かりに市民的ガバナンスを高めることによって、様々な迂回路を模索しつつ階級的力関係をなし崩し的に逆転し、人道的な形で<決戦>を通過させる根拠を作ることともなります。 |